尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

COVID-19の影が見え始めた2020年2月20.21日、悩んだ末に東京遠征に出かけた。
あれから随分時間も経過し訳も分からなかった頃に比べ付き合い方も分かってきたような。

ずっと控えてきたけれど、今更感満載ですが東京の写真を纏める事にします。
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JR上野駅、出張の時には良く降りた駅、そうした時はつい〃人込みが嫌いなこともあり、出不精になり何処に行っても全く周辺散策せずさっさと名古屋に戻ってきていた。
今回は観光という事でまさにお上りさん、かみさんにお任せだ。
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 目指すはキンキンキラキラの上野東照宮(赤丸)へ拝みに行きます。
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 上野駅の西が上野東照宮が鎮座する上野恩賜公園。
チラホラ咲き始めた桜、本来の上野公園はきっと春を待ちわびた人が集う場所。
今年は異様な光景、歩道沿いは規制線が貼られ例年とは違う様相を見せていた。
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 公園に入るとすぐ左手に「おばけ燈籠」が見えてくる。
佐久間勝之が1631年(寛永8)に創建後間もない東照宮に寄進したもの。
その大きさは高さ約6㍍、燈籠の上にある笠石は周囲3.6㍍とまさにお化け灯籠と呼ぶに相応しいもの。
勝之が寄進した南禅寺、熱田神宮の大灯篭と共に「日本三大燈籠」に数えられるそうだ。
ここで忖度しておけば悪い方には転がらないか、この先数えきれないほどの燈籠が現れます。
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 「石大鳥居」
西尾市出身の酒井忠世が1633年(寛永10)に奉納したもので、備前の御影石が使用され、関東大震災でも傾く事のない程の精度で施工された。
鳥居の先に見えるのは「水舎門」。
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 「水舎門」
四脚の切妻の門はどことなく手水舎の上屋に見えますが、元は1651年(慶安4)、東照宮の造営奉行の阿部重次が奉納した手水舎そのもので、現在社殿の右にある手水舎の上屋だけを1964年(昭和34)に門として移築したようです。
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 「水舎門」
軒下や内部の斗組は手水舎の上屋には見えないほど手が掛けられています。
天井の垂木には無数の千社札が貼られています、過去のものなのか定かではないけれど、貼っていいものなのか?
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水舎門から先の参道には燈籠が立ち並ぶ。年号を見ていたら進めなくなります。 
燈籠の数は200基以上あるとも云われるようですが、大半は今の社殿が建築された1651年(慶安4年)頃の全国の大名から奉納されたものだという。
参道右手に重要文化財の旧寛永寺五重塔が聳える。
建立は1631年(寛永8)で焼失により1639年(寛永16)に再建されたもの、相輪までの高さは約36㍍という木造建築。
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 正面に金ぴかの唐門と社殿が見える。
唐門と社殿は恰も一体になって見える。
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この時期(2月)境内にはソメイヨシノに先立ちピンク色も艶やかな河津桜が彩りを与えてくれる。
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 参道右の「神楽殿」
入母屋造りの三面吹き抜けで1874年(明治7)に建立されたものと云われ、お花見の頃には神楽が奉納される。
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 手水舎は参道右と左に二つ、上は左の手水舎。
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 右の手水舎。
この上屋が水舎門として移築されという、手水鉢に清水は張られていなかったけれど、上から吊るされた巨大な鈴に視線が行く。この先の立派な狛犬を作った酒井八右衛門が寄贈したものというけれど、なぜ鈴だったのか謂れはよく分かりません。
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1914年(大正3)に建立された酒井八右衛門作の狛犬。
胸板は厚く、頭は小さめで胸を突き出した容姿は個人的には好きな。
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 上
振り返ると狛犬の先に東京スカイツリーが望める。

唐門右に銅燈籠が連なる、その数は50基、各地方大名より奉納されたもので、竿には奉納者、官職名、奉納年、虎など彫られていて、同じ様に見えるけれど宝珠や火袋など其々特徴のあるものです。
見て行くだけでも面白い。重要文化財。
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 唐門両側の銅燈籠は、内側より紀伊、水戸、尾張の徳川御三家より寄進されたものです。
手前の銅燈籠群に対し一段と手の込んだ作りが施されています。
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 「唐門」
唐破風付きの四脚門、1651年(慶安4)の造営で重要文化財に指定される煌びやかな門。
柱内外の四額面には左甚五郎の手による昇り龍、降り龍の彫が施されています。
この龍は毎夜〃不忍池の水を飲みに蠢くという言い伝えが残ります、それ程の仕上がりという事です。
下を向いている方が昇り龍と呼ばれます。

間違いを認め謝罪の行動すらできないどこぞの人達、賢い人ほど頭を垂れるものです、原稿を読むだけに下を向くのとは訳が違う、少しは見習ったらどうだろう。
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 破風の下には錦鶏、銀鶏鳥の手の込んだ透彫が施され、色彩も鮮やかで美しい。
装飾は木鼻、蟇股等に留まることなく細部まで施されています。
単に黄金色に輝く色合いだけではありません。
創建当時の匠の技を集大成したのが上野東照宮なのかも知れません。
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 唐門の左の御神木。
樹齢600年以上と云われる枝振りが見事な楠木。
幹の太さは8m以上、高さは25㍍を超すとされ、上野公園にあって最大とされ、上野の祖木といわれる御神木です。
上野東照宮が建立される以前からこの地に根を降ろし、この地を見続けている大樹。
まだまだ衰える事無く聳えています。
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 御神木から透塀沿いに石畳を奥に向かいます。
社殿を取り囲む様に「透塀」が施され、菱形の格子の先に社殿が見通せます。
塀の上側には緻密に描かれた植物や動物、下側に海や川の動物が刻まれ、その数は両面で200枚を上回目るともいわれます。 全てが色鮮やかに彩色されています。
それもそのはず平成21年~25年にかけ保存修復工事が行われ、金箔で覆った後でその上から岩絵の具で彩色が施されているそうです。
この透塀も1651年(慶安4)の建立のもので、国の重要文化財に指定されています。
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 透塀の先に赤い鳥居、その先の社は「栄誉権現社」
親しみを込め御狸様とも呼ばれ、江戸時代に大奥などに安置され先々で災いをもたらしたとされ、 大正に入り上野東照宮に寄贈以降は災いがなくなったといわれます。
「悪行狸他を抜く」という縁起の良さから、強運開祖、受験、就職、必勝にご利益があるとされ、受験シーズンになると合格祈願に訪れる受験生で賑わうそうです。縁起のいい日は5の日だそうです。
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 社全景、内部に照明で照らされ、上を見上げた姿の狸が祀られています。
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 透塀沿いの扉が開けられ、石段から社殿域に入ります。
今年の干支「子」の彫飾りへ導く案内板、それに導かれる様に左に進むことにします。
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とはいえ、目の前に遮るもののない黄金色の社殿が現れる、どうしてもそちらに視線は釘付けとなります。
権現造の金ぴかの社殿、左のこの部分が本殿で、右に幣殿、拝殿と連なります。
1651年(慶安4)造営のもので、国の重要文化財に指定されています、こうして見てくると上野東照宮は戦災や震災の難を免れて今があるようです。
戦時中の空襲で近くに爆弾が投下されたそうですが、不発に終わり難を逃れたとも。
何かを持っているのかもしれない。
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 上野東照宮は1627年(寛永4)に上野公園に創建された神社で、徳川家康(東照大権現)を神様として祀った神社。
良く知られる日光や久能山東照宮以外にも全国各地に数多く東照宮があります。
天下統一を成し遂げ長きにわたる江戸幕府の生みの親家康にちなみ、出世、勝利、健康長寿に御利益があるとされ信仰されているという。
訪れた者の目を奪う金ピカの社殿は豪華そのもの、江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されるのも当然の事でしょう。
始まりは1616年(元和2)、危篤の徳川家康の枕元に天海僧正と藤堂高虎が呼ばれ、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と家康から遺言を伝えられたとされ、天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった現在の上野公園の敷地に東叡山寛永寺を開山した事から始まります。
境内の多くの伽藍や子院に加え、1627年(寛永4)に創建した神社「東照社」が上野東照宮の起源とされます。
現在の社殿は1651年(慶安4)に三代将軍の徳川家光が造営替えをしたもので、当時容易に日光までお参りに行くことができない江戸の人々に日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したものと言われています。
参道に立ち並ぶ燈籠はこの造営替えの時に各大名が競って寄贈したもの。
御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
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 透塀に戻り今年の干支を探しに行く、ここまで親切に表示されると探す手間もありません。
透かし彫りのアケビ?の実を背景に、今年の干支の子はすぐに見つけられます。
保存修復工事のおかげで鮮やかな色彩の生き生きした子の姿を見ることができます。
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 社殿域の透塀。
下段にもびっしりと彫が施されています。
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参道からは唐門と一体となって見えていた拝殿全景。
金色殿とも呼ばれるように黄金色に輝いています。
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社殿外壁はこれでもかと云わんばかりに豪華な彫刻と彩色が施されている。
家康の遺言に「遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に「小堂」を建て勧請せよ、関八州の鎮守になろう」とあるけれど、日光東照宮はじめキンピカ派手派手の東照宮のイメージはきっと家康の趣味ではないのか知れない。
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拝殿の彫飾り、鷹も、鳩も、鶴もいる、想像の生きもの鳳凰もいる。
葵の紋もキンピカですね。
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社殿域から唐門の眺め、こうして見ると四脚なのがよく分かる。
内側の透彫に太鼓の周りに尾長鶏のような姿が彫られていますが、諫鼓鳥と呼ぶらしい。
中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたという。
それも善政のため打たれることは無かったことから、「太鼓に鶏が住みつくほど」と言う話に倣い、 天下泰平の願いを込めて彫られたとも云われているそうです。

マスクの方の官邸前に太鼓が置かれたとしたら、鳴り止む事はないのかも?
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豪華絢爛な社殿、その出口に朽ちた1本の木がある、「きささげの木」、社殿の雷除けとして植えられたものらしいが、樹齢は350年以上。
その樹皮は梓白皮と呼ばれ生薬としても使われるそうです。
災いから守られてきたその立役者は意外にこの樹のおかげなのかも。
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上野東照宮
創建 / 1627年(寛永4)
御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
境内社 / 栄誉権現社
住所 / 東京都台東区上野公園9-88
公共交通機関アクセス / JR山手線​「上野」下車西に徒歩10分程​ 
関連記事 /  久能山東照宮​ 

守山区瀬古東の『小社』
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 矢田川堤の右岸を下流に向かい進む。
矢田川に架かる下街道の三階橋を超え徒歩5分程歩きます。
堤から見る矢田川河川敷は若い緑が鮮やかで、流れもとても穏やかな表情をしている。
風も心地よく絶好の散歩日和。
堤の右手の法面の下にこんもりと茂った森は高牟神社の杜、石山寺も目と鼻の先です。
今回の目的地は高牟神社の手前の矢田川右岸堤防の法面に鎮座する小さな社。
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 矢田川堤から上流の眺め、右手の橋が三階橋。
堤は結構車の往来があり、遊歩道の感覚で歩いているとまずい。

目的地の社は上の写真の左、法面の途中に桜?が植えられ、社はその樹の下に鎮座しています。
堤から小さな階段があり法面に北側に降りれるようになっています。
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 法面の中ほどから社の眺め。
板宮造りの小さな社、台座は手作りかもしれない。
しっかりと高く積み上げその上に社が祀られている。
こういう手のかかったものはいいもんです、そこに住む人と社の結び付きの強さの様なものを感じます。
何でも金で片付けなくたって、やれることはあるはずです。
守山の天王社の赤もどう見てもDIYです、プロの仕事なら台座に塗装は付かないはず。
どこの社も周辺に塗装が付着しています。見た目がどうこう言う方もあるでしょうが、個人的にこうした護られ方の社にとても魅かれる。
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お供えの榊も新しく、まめに社の面倒を見てくれる方、或いは神社当番なんてのが残っているのかもしれない。
恐らくはこの北側の瀬古東の方々でしょう。
この社について詳細は不明、神札も見ることができないので社名すらわかりません。
いつからここに祀られているのか、現在は瀬古東ですが、現在の町割り以前の話かもしれません。
石山寺あたりで伺うと社名くらいは分かるのかもしれません。
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 矢田川の堤の下から堤の先の矢田川に睨みを利かせるように佇む社。
その姿は、水の災い除けに祀られのではないかと勝手に想像したくなる。
断固としてこの町に災いを及ぼすことはまかりならぬ、そんな雰囲気で見えぬ川面を見据えている。

守山区瀬古東の小社
創建 / 創建不明
祭神 /   不明
住所 / ​名古屋市守山区瀬古東1-1202

神領銅鐸出土地のある貴船神社から北西方向へ徒歩で10分、道すがらに神領銅鐸を保管するという瑞雲寺、その先の高御堂古墳を左に見ながら「堀ノ内町表」の交差点へ。
交差点を右折し県道75号線を道なりに進むと左手に石鳥居と赤い鳥居が見えてきます。
春日井市堀ノ内町の「神明神社」が今回の目的地。
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 県道75号線沿いに鎮座し、境内はぐるりと玉垣で囲われています。
この神社の立地は北に内津川、南に庄内川が流れ、その間に神社が鎮座します。
豊かな土壌を生かし古くから人が居住し田畑が広がる農村地帯でしたが、今は田畑は減少し周囲は住宅地に変貌しています。
現座の町名「堀ノ内」は、嘗て豪族が堀で囲った中に館を構え住んでいたそうです。
やがて集落ができ堀ノ内と呼ぶようになったらしい。
「堀ノ内町表」の交差点角に高御堂古墳がありますが、一説には古墳が堀で周囲を囲われていたから「堀ノ内」になったともいわれるようです。

個人的には二つの川に挟まれた土地柄こそ、堀の内側の様に感じてしまいます。
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 県道脇の右手に社号標、石の神明鳥居があり、その先で右手に折れ赤い明神鳥居へ続きます。
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 神明神社、ニノ鳥居から境内の眺め。
石畳は真っすぐに拝殿へ続いていきます。
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ニノ鳥居をくぐった右側に手水鉢、年号は見忘れましたが、そこそこ年期が入っていそうです。
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 立派な灯篭の先に狛犬が守護する拝殿、境内右奥に小さな覆屋があるようです。
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 拝殿前の狛犬は1937年(昭和12)のもの、なかなか凛々しい姿です。
今回は奉納年度を悉く見忘れ、神社創建を知る手がかりとなるものは少ない。
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 神明神社全景、ほぼ玉垣で囲われています。

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 拝殿の軒先瓦には五三の桐紋が入り、止め蓋に逆立ちした獅子、棟瓦には神明社とある。
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シンプルな瓦葺の切妻造りの四方吹き抜けの拝殿ですが、其処彼処に彫飾りが施されています。
腕の見せ所と云わんばかりに梁には手の込んだ馬と龍が飾られています。
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こちらは松、その枝の下に象の鼻の様にうねった長い物は何だろう、苦手なやつか?
木鼻には今にも飛び掛からんとする獅子?が彫られています。
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 拝殿内から幣殿の眺め、拝殿の額も神明社とある、その先には狛狐がお見えの様です。
参拝を済ませ境内をひと回りします。
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 玉垣の中の彼らに近寄る事はできませんが、痩せた狐は悲壮感が漂うけれど、彼らはそうではなさそうです、健康的なフォルムをしています。
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 幣殿と本殿は神明造の様です、共に在来工法のもので年月が経っていないのか綺麗な外観をしています。
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 本殿後方から拝殿方向を眺める。
棟には内削ぎの千木と6本の鰹木が施されています。
堀ノ内町「神明神社」の創建がいつ頃なのかは定かではありません。
祭神は天照大御神。
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 神社のある堀ノ内周辺の移り変わり。
右がほぼ現在、左が1891年頃、この頃の地図に神明神社の鳥居は記されています。
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 実際に見てはいないけれど、棟札に1602年(慶長7)に再建の棟札があるそうで、「この社、堀ノ内村にあり」と記されているといいます。
上の写真は手水鉢の右に建てられた幟立てらしき石柱、そこに1799年(寛政11)と記されていることからも祭祀形態はともかく、結構古くから鎮座している様です。
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 本殿右に御嶽大神が祀られ、霊神碑や左手に霊神像が見て取れます。
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 隣接して石碑が並んでいます。
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 左から山神、中央に廿二夜塔(特定の月齢の月夜に講の信者が集まり、飲む的な)、右が読み取れない。
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 後方に御嶽大神の解説。
もともとは「堀ノ内町表」の交差点角の古墳の頂に祀られていたようだ。
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 本殿右の立派な鞘殿。
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 津島神社の神札が納められています。
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 鞘殿の右に脇参道があり境内の外れにも小さな鞘殿。
この一社のみ北方向に向いて祀られています、中には赤い社が。
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 周辺の宅地化にともないここに祀られた天王社だろうか。
立派な鞘殿の中で扉の開けられた赤い社、中には津島神社の神札が見られます。
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 伽藍は新しいけれど、「神明神社」は堀ノ内町の氏神様として古くからここに鎮座しているようです。

堀ノ内町「神明神社」
創建 / 不明
祭神 / 天照大御神
境内社
   津島神社、天王社 / 牛頭天王 、須佐之男命
   稲荷社、御嶽大神、廿二夜塔、山神
住所 / 春日井市堀ノ内町2丁目(​神領貴船神社から徒歩10分程​)
公共交通機関アクセス / JR中央線​「神領」から南へ徒歩10分
関連記事 / ​春日井市神領「貴船神社」

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