尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2019年11月

奈良県橿原市  橿原神宮
「親謁の儀」に訪れる天皇、皇后両陛下を一目見ようとかみさんとお祖母ちゃん二人が訪れた。
おやじは会社、置き去りである。
とは言え、lineで送られて来た写真からこれを書いている。

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初代天皇とされる神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、神武天皇が即位した橿原宮があったと云われるこの地に、明治天皇により、1890年(明治23)に官幣大社として創建されたのが橿原神宮。
なので伽藍自体は新しい。
一ノ鳥居から参道の眺め、観光客は少ない。
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翌日(27日)に初代天皇とする神武天皇陵に天皇、皇后両陛下の参拝、即位の礼と大嘗祭が終わったことを報告する「親謁の儀」に向け境内は特別な雰囲気が漂う。
警備も厳しくなり、ツアーは多分に避けた様に思われます。
とは言え女二人、「今日は参拝してもいいんですかぁ?」とか言いながらササッと
怪しいおやじ一人だときっと対応が違うのかも知れない?
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外拝殿
そんなタイミングだからなのか送られた来た絵には人の写り込みのない物ばかり。
普通は避けるこのタイミング、意外と有りなのか?
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外拝殿から内拝殿
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橿原神宮の北に接し、畝傍山の北東の麓にあたる神武天皇陵。
初代天皇とされる神武天皇(在位/前660年~前585年)は、日向地方から瀬戸内海を東に進んで難波に上陸したとされます。
その際、生駒の豪族に阻まれ、南下して熊野に進路を変えました、そこで3本足の「八咫烏」と出会い、カラスに導かれ、吉野の険しい山を越えて大和に入り、大和地方を平定しました。
その後の紀元前660年に橿原宮で即位、初代の天皇になりました。
27日に天皇、皇后両陛下が初代天皇の神武天皇に、即位に伴う一連の儀式が終わったことを報告する「親謁の儀」に訪れます。

儀式前日、陵の前には幕が張られ、準備に余念がありません。
神武天皇陵は周囲約100㍍、高さ5.5㍍の広い植え込みと、幅約16㍍の周濠をめぐらせた円丘。
厳重に警備されているかと思っていたが、さほどではなさそう。

こちらで参拝の後、橿原駅方向に到着される陛下を一目見ようと沿道に向かったようです。
TVで見る祝賀パレードの様子など、すごい人垣を想像しますが、警官により沿道の列も2列程度に整えられ「陛下の姿もよく見る事が出来た」そうな。
待ちの時間は誘導の警官が面白おかしく場をつないでくれたり、陛下が通られる際には後列に廻るなど気を使ってくれたそうです。
かみさんから先導の車に貼られる謎の表示も聞いて良くわかった。
Aが付いた車が通ると15分前、Bは10分前、3が3分前、1が1分前と見る物らしい。
それ以外に0が付いた車両が存在します、「0」が通り過ぎるまではその場から動いてはいけない様です。
それが終わると警官が国旗を回収してくれるようです。
もちろん持ち帰りもOK。
土産に持ち帰ってきてもらいました。


以前からの素朴な疑問
お迎えの時に振る手旗はどうやって手に入れる?
日本国旗協会のボランティアが配布しているようで、稀に日本会議の配布もある様です。
我が家から国旗がなくなって何十年、頂戴した手旗は祝日に掲げて見ようか?
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橿原神宮御朱印帳 simpleで好感が持てます。
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御朱印
橿原神宮
創建 /  1890年(明治23年)
祭神 /  神武天皇、媛蹈鞴五十鈴媛命
住所 /  ​奈良県橿原市久米町934
アクセス /   近鉄名古屋・大阪線 名古屋⇒大和八木⇒樫原神宮前⇒徒歩10分(橿原神宮)

龍泉寺表参道弘法堂
名古屋市東区の大曽根から春日井市の高蔵寺を結ぶ新交通システムゆとりーとライン
専用高架上を定速走行でストレスなく走って来たバスもここ小幡緑地からは地上に戻り県道15号線、通称龍泉寺街道に合流します。
龍泉寺表参道弘法堂へは「龍泉寺口」バス停で降りると便利。1
目の前の龍泉寺街道は、ほんの少し前の昭和初期には未舗装のくねくね道が尾根に続き、七曲りの坂とも云われた頃もありました。
移動手段の移り変わりや車の性能向上もあり、現在は片側2車線に整備され、道路は直線的に尾根を越えていきます。
弘法堂へはバス停で降り、尾張四観音「龍泉寺」に向かう参道左側になります。
その前にバス停の先に寄り道。
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龍泉寺街道沿いを走ると車窓から見える四体の地蔵らしきものが見えます、「何だろう?」ずっと気になっていました。
間近に見る石像は南を向いて祀られた、五鈷杵を持つ弘法大師像。
台座には「八十三番」、「八十四番」と彫られています。
疑問もスッキリしたところでバス停方向に戻り、弘法堂のある参道へ向かう事にします。
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龍泉寺街道の左に続く龍泉寺の参道。
右側には大きく「尾張四観音 松洞山 龍泉寺」と彫られた石標があります。
この参道を上っていきます。
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左に曲がって直ぐに「弘法堂」が現れます。
右手に小さな覆屋もあります。
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弘法堂正面全景
寄棟瓦葺で四方の壁は白と黒壁、さいころの様に四角い堂です。
手水鉢は堂の右奥に置かれています。
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石の六角香炉は1924年(大正13)に奉納と刻まれています。
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堂内
中央に黄金色の五鈷杵を持つ弘法大師像が安置。
手前に前掛けが掛けられた石像があるけれど、それが何か写真からでは分かりません。

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堂の右の覆屋には三体の大師像
この他に弘法堂の左にも複数の石像が安置されています。
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これがその石像群
七体の石像があり、中央の蓮華台の上に安置された大きな像は「親子地蔵」とある。
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こちらを見つめる、子の眼差しが妙に印象に残ります。

ここ龍泉寺一帯にはこうした石像群が多数安置されています。
さながら​日泰寺​周辺に点在する八十八ケ所巡りを想像させるものです。
弘法堂から、参道を少し上がった左にある御嶽神社周辺の鬱蒼とした山の中や、大きなサークルとしては​龍泉寺​の仁王門周辺や龍泉寺街道を南に渡った、小幡緑地公園本園の北側等に点在しています。

この一帯は御花弘法八十八ヶ所霊場と呼ばれています。
もともと弘法大師と龍泉寺は所縁があり、江戸時代から「御花弘法」として霊場が存在していた様です。
1916年(大正5)に御花弘法八十八ヶ所として発願され、その後は発願者の家族や有志が志を受け継ぎ原形を整えた様です。
それも戦争により各所に散在していた札所は荒廃の道を辿り、戦後、今の形に集約された様です。

そもそもは現在の名古屋鉄道の前進の一つで、大正から昭和初期、大曽根から瀬戸を結んでいた瀬戸電気鉄道の頃、現在の小幡駅から龍泉寺への鉄道敷設の計画が持ちあがったようです。
白沢公園から龍泉寺一帯を観光地化したかった様で、地元は当然盛り上がります。
小幡緑地公園の北外れの高台には「尾張三大弘法」の一番、「御花弘法大師」の座像も立てらます。
「御花弘法大師」の座像や霊場巡りはその目玉となる目論見だったようで、その頃は巡礼も盛んだった様です。
結局その案は頓挫、やがて霊場巡りも流行らなくなり、弘法大師像も龍泉寺の管理から離れ、現在は荒廃が進んでいます。

とは言え、ここ龍泉寺参道の「弘法堂」を訪れた当日、幟の片付け、境内の手入れをされる信徒の方も見え、今も守られているようです。
この弘法堂がいつからあるのか、家で追っかけて見ましたがわかりませんでした。
当日出逢った方とは挨拶を交わし、道を尋ねただけでそのあたりを伺わなかったことを今は後悔。

推測ですが香炉の奉納年と発願された時期が近い事から大正初期ではないかと思われます。


龍泉寺表参道弘法堂
住所 / 名古屋市守山区竜泉寺1-826
アクセス / ゆとりーとライン「龍泉寺口」下車、徒歩2~3分程​

駐車場 / 龍泉寺に参拝者駐車場があります
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2019/11/21
龍泉寺境内の紅葉はまだまだでした。

白山神社の別当寺を務めた​日輪寺から道路を隔た南側に、広大な広さの二子山公園があります。
園内には三つの古墳があり、白山神社は公園北側の白山神社古墳にあります。
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二ノ鳥居から一ノ鳥居方向の眺め
参道脇は住居が立ち並び、はるか先の一ノ鳥居の前を南北に県道102号線が横切っています。
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二ノ鳥居から境内の眺め
長い参道が真っ直ぐに続き、その先に三ノ鳥居、その先はこんもりとした杜が見えます。

県営名古屋空港への着陸態勢に入った航空機が上空からかすめるように降りていきます。
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鳥居脇の白山神社由緒書き
白山神社はその名の通り、岐阜、福井、石川の三県にまたがり聳える霊峰白山。
そこに鎮座する白山比咩神社は、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮である。
ここ白山神社はその分霊を祀る神社。
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 二ノ鳥居の守護を担当する狛犬
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二子山公園は、国指定の史跡である「二子山古墳」を初め、白山神社古墳、御旅所古墳の3つの古墳がある歴史公園です。
 公園内には三つの古墳が残り、そのうちの一つ白山神社古墳が公園の北端にあります。
一帯は古墳が点在する味美古墳群と呼ばれ、古くから人が生活を営んでいました
そうした場所には、その地を統治した権力者を埋葬する古墳が造られていきます。
 白山神社はそうした古墳の上に建てられています。
 古墳は全長約90㍍におよぶ前方後円墳で5世紀末から6世紀初めのものと云われます。
こうした古墳の上に建つ神社は珍しいものではありません。
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ニノ鳥居を過ぎ左側に竹で作られた冠木門を持った碑がある
遠目には御嶽神社の趣きですが「頌徳碑」とあります。
丹羽新次郎政栄は味鋺原新田の庄屋で、この地の発展に多大な業績を残した事からそれを伝えるため、1887年(明治20)に建てられたもの。
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ニノ鳥居から境内へ続く参道、左に進んで道路を渡ると別当寺を務めた日輪寺へと続きます。
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御神木
和合の木と呼ばれ、奈良県の橿原神宮より皇紀2600年(西暦1940)を記念し御下賜された樫という。
もとはふたつの別々の樫が成長に伴い幹が寄り添う様に一つになったもの。
樫の木は堅くて丈夫な木であることから、男女の縁や、家族の縁など、人生で巡り合う様々な縁の「固い結び付き」を祈願し赤い結布を結ぶもの。
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二ノ鳥居から三ノ鳥居の眺め、大きな常夜灯とその前に狛犬、右に手水舎が見える。
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鳥居左の鎮魂碑
大正、昭和における戦争で出征し家族を守るために亡くなられた方々の慰霊のため建立されました。
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三ノ鳥居の狛犬。
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三ノ鳥居右の社務所。
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手水舎と手水鉢の龍、絶え間なく清水を注いでいます。
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神橋の先に狛犬が一対、その先は小高く盛られた高みに続きます。
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明るく照らし出された境内、石段の先は蕃堀があり、拝殿は見えません。
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石段前の狛犬
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石段左に参道が続き、その先は厳島社。
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石段の中ほどから見下ろす厳島社、辨天池に浮かぶ小島の奥に本殿が祀られているのが良く見えます。
祭神は弁天様として知られる市杵島比売命。
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石段の正面に建つ蕃塀
石造りには無い木の温もりを感じさせるもので、浮いた感じがなく、伽藍の中に溶け込んでいます。
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境内右隅の撫で牛から見た社殿。
正面に切妻瓦葺の吹き抜け拝殿と本殿。
燈籠の前に立つ大きな定規は「背比べ石」、子の成長を願い、感謝する目的で新たに作られた様です。
氏神様に見守られながら、成長の過程を収め、その記録を子にプレゼントするなんていいものです。
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拝殿左の三社
右から秋葉社、天神社、津島社が祀られています。
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1659年(万治2)に味鋺原新田の味鋺村(現在の名古屋市北区楠味鋺)にあった白山藪古墳に祀られていた白山社が周辺開拓に伴い現在地に遷座されたものと伝わります。
この際にすぐ隣の二子山古墳に祀られていた物部神社を合祀して建立されたと伝わります。
1918年(大正7)には春日山古墳にあった春日社も合祀されました。
今年は遷座から360年を迎え、味美地区の氏神様としてだけでなく、味鋺地区の崇敬社として親しまれ、近隣や県外からも参拝客の訪れるようです。
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拝殿前の狛犬
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拝殿正面の鈴の前に彫られた龍は良く見ていくと手の込んだもので、手先不器用な者から見ると見事なものです。

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本殿
周囲に杜が迫り、全景が良くわからないけれど、入母屋造りの前殿と切妻の後殿が一つになっているのか、権現造りのような屋根。
ピカピカ輝く飾り金具のない落ち着いた佇まい。
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白山神社祭神
菊理比咩命/総本宮白山比咩神社ご祭神
伊邪那岐命、伊邪那美命、/この世のすべてのものを創った夫婦神
可美真手命 / 物部氏の祖神
天児屋根命 / 春日大社分霊

本宮末社
神明社、御嶽社、国府宮社、熱田社、金比羅社

その他、お隣の御旅所古墳には白山神社「相宮」が祀られ、毎年10月には例大祭が行われます。
この儀式は古くからの形式を受け継いだものと云われ、氏神は大木や大石、幟などを目印に降りると考え、山の頂きや森の中で儀式を行い、決まった社殿は無かったようです。
いつからか社殿が建てられ、社殿に降りた神を相宮へ招く現在の形になった様です。
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一番小振りながら本殿前を守護する狛犬。
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拝殿から振り返った境内の眺め
左に撫で牛、注連縄がかけられた切株が御神木、蕃堀、授与所と並ぶ。
古墳の頂きにあるとは思えない程、境内は意外に広々としています。
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参拝を終え、拝殿から社殿の全景
古墳の上に西向きに鎮座する白山神社。
社殿を包み込むように聳える木々の間から社殿を照らす陽光は、ここが神聖な空間である事を感じさせる。
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境内から陽光に照らされた三つの鳥居と真っ直ぐ伸びる参道の眺め。
現実の世界と神域の境目の様にも見えなくもない。


味美 『白山神社』
創建 /   不明、1659年(万治2)この地に遷座、今年遷座360年を迎える
祭神 /   菊理比咩命、伊邪那岐命、伊邪那美命、可美真手命、天児屋根命
境内社 /    神明社、国府宮社、秋葉社、金比羅社、御嶽社、御嶽社、津島社、熱田社、厳島社
住所 /   愛知県春日井市二子町2丁目11-3
アクセス /    ​名鉄小牧線味鋺駅から徒歩10分​、日輪寺の南

苗木城址
岐阜県中津川市の木曽川右岸に建っていた山城です。

中津川IC料金所から、国道257号線を経由、県道410号線でゆっくり走っても20分の所です。
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 苗木遠山資料館
苗木城や苗木藩に関する資料が展示され、ガイドによる城跡の案内受付、クマ出没情報の提供も行っています。
ここの駐車場が一般的で、ここから城址まではゆっくり歩いても20分はかからないでしょう。
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 資料館から更に奥に駐車場があり、ここが一番近いのですがそれ程大きなものではありません。
ダメ元で行ってみても損はないかも。
高森神社に行かれる場合、そこから下に降りていく事になります。
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 一番上の駐車場から直ぐのところに苗木城跡の標柱が建ち、左右には石垣が積まれています。
苗木城の石垣は多様な技法が取り入れられ、積み方を見ていくと面白いところです。
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 標柱から先にはこうした石垣が積まれ天守まで続きます。
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 駐車場から2~3分で視界が開け、右に広い空間のある「龍王院跡」に着きます。
かつての足軽長屋の南側に位置し、龍王院と言う真言宗の寺院があった場所。
明治政府の行った廃仏毀釈により神職が取り仕切る事となった。
遠山藩はそうした意味では忠実に従い、領地の寺院は廃寺にしていったそうです。
現在は分かりませんが、これによりこの辺りの葬式は神式で行われるのが一般的だったそうです。
文明開化の神風が吹きよせる時代、この政策も必要だったのかもしれない。
けれど、仏教伝来以降永い時を経てきた歴史的資産を崩壊させた点に於いて、これは大きな汚点だったと常々感じるところ。
高森神社もそうした波に揉まれていった一つです。
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 南に開けた「龍王院跡」からは、午前中は逆光になりますが、遠く恵那山と手前に苗木城跡の復元された木組みのシルエットが良く見えます。
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 「龍王院跡」から本丸へは石垣と石畳の続く尾根道を歩きます。
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やがて緩やかな坂が現れ、左手に自然石の巨岩の上に何層にも積まれた石垣が現れます。
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ここにはかつて風吹門と呼ばれた門があり、その痕跡が残っています。
大手門と呼ばれた二層の門は、城下と三の丸への出入りを隔てる位置関係。
昼夜問わず門番が立ち厳重にチェックしたそうです。
左手の石垣は、ここ風吹門の防御のために設けられた「大矢倉跡」。
苗木城最大の櫓は三階建てで、一階は物置だった様です。
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 大矢倉石垣
手前の自然石を生かし、その上に切り出してきた石が積まれ基礎となっています。
ここから見るだけでも左と右では積み方が違うのが分かります。
セメントが使われた訳でもなく、ただ単に石を積んだだけですが今もずれる事無くそこにあります。
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 大矢倉や風吹門もそうですが、場内の遺構にはこうした解説板が設けられています。
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 大矢倉から見下ろす位置に広がる三の丸、ここでは乗馬の練習も行ったようです。
右側には天守に続く大門があったので、真剣に馬を走らせるほどの広さは無い。
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 左手に行くと本丸の石垣で昼でも付す暗い場所に牢屋跡、駈門跡を経て四十八回りに続きます。
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 大門右に苗木城址の碑
本丸で遮られていた朝陽が三の丸、二の丸にも差し込みます。
苗木城址は岐阜県中津川市苗木の高森山(432㍍)の頂にあった山城で霞ヶ城とも呼ばれた。
中津川を二分し流れる木曽川、その右岸から周囲を見渡す様に聳えていた。
鎌倉時代初期に岩村城を拠点に恵那郡を収めた遠山氏の遠山正廉により、1532年~1555年(天文年間)に築城され、幾度か城主が変わりますが、1600年(慶長5)遠山友政により再び遠山氏の手中となり、1871年(明治4)廃城まで遠山家の支配となる。
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 大門の右手下に遠山家の住居や家臣が集う部屋があった二の丸が見える。
石垣もさることながら、飛び石の様に礎石が並び、そこに構造物を建てた事に人のパワーを感じます。
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この辺りから見上げる天守は、巨大な自然石の上に柱穴を削りだし柱を建て形造られています。
人のパワーを表す象徴的なものが天守櫓。
左の石垣は大矢倉で見かけた組み方とはまた違うものです。
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 直下から見上げる本丸はこんな感じです。
自然を生かし、人の知恵とパワーが加わって出来たのが苗木城といっても過言ではないのかも。
それが可能だつたのもこの辺りから石が獲れ、遠路から運搬する必要がなかったという事でしょう。
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 大門からしばらく行くと、坂下門で左に道は続き、そこからは本丸の石垣を右廻りで進むように高度を上げていきます。日陰に入ると一気に気温は下がっていきます。
正面は菱櫓門跡、右手の石垣も表情が違うものです。
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この辺りから下を見渡すと一足先に朝陽を受けた大矢倉が一望できます。
その姿はアンデスの遺跡にも通じるものがあります。
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この石垣が現れれば天守も間もなく、石垣の下にある建物は「千石井戸」。
山城は守るには絶好の条件が整っています、そうは言っても水は絶対に必要となります。

岩村城​もそうでしたが、山の頂に井戸が掘られ、それらはいまも水が湧き出ている事に驚きます。
天守の南斜面に「清水門跡」がありますが、この辺りでは石垣の下から清水が湧きだしています。
このとんがり頭の頂きのどこに水源があるのか不思議です。
この下には龍神でもいるのだろうか?
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「天守展望台」北側から見た全景
現在は復元された櫓の上に展望台が乗せられ、そこからは下に木曽川、その先に恵那山の眺望が広がります。
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 東側からの眺め、遺構として残っていた柱穴を元に再現されているもので、観光用に特別に手を加えたものではないようです。
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この上に三層の天守が建っていたのですが、一階は4㍍×5㍍、三階部分は9㍍×11㍍と上に行くほど大きくなっていったそうです。
清水や日龍峯寺​の舞台造りにも通じるものがあります。
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 展望台からの眺望は眼下に木曽川、恵那山の眺望が広がります。
木曽川に架かる橋は、廃線となった北恵那鉄道の橋梁です。
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 天守南側の「馬洗岩」
名の由来は城攻めに逢い、水切りされた際にこの岩の上に馬を乗せ、米で馬を洗い「水には困っていない」様に見せかけた事から来ているそうな。・・・・・ホンマかいな?
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馬洗岩から西に進むと再び玄関口に戻ります。
南側から見る天守櫓、巨岩と一体になっています。
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 一旦、千石井戸方向の的場跡に戻り、左続く細い道を進み高度を下げていきます。
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この辺りは天守の南斜面に辺り、本丸から二の丸に続く南側の道。
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ここから天守方向を見上げてみても、もはや天守は見えません。
目の前は間近に迫る巨岩の壁と上には青い空と飛び交う鳶のみ。
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その巨岩の組み合う隙間の前に木造の明神鳥居が建つ「八大龍王大神」。
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 遠山家の守護神である大龍王が祀られ、明治時代にこの場所に祀られたもの。
創建など詳細は不明。
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更に高度を下げていくと二の丸に到着です。
南側は急峻な崖が続き、そうした場所にも石が積まれています。
上は「不明門跡」、開かずの門と云われた二層の門があった。
下は二の丸の「的場」、鉄砲の練習や槍等の稽古が行われていた場所。
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 二の丸から天守の眺め。
郁恵にも石垣が積まれているのが良くわかります。
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 二の丸を進むと大門に戻ります、同じ高さから見る大矢倉は巨大な石の塊にも見えます。
「日本100岩城」の一つに数えられる苗木城址、石積みの巧みさやそれを作った人のエネルギーを感じる場所です。
2019/11/01

「苗木城址」
住所  / 岐阜県中津川市苗木
アクセス / ​中央自動車道「中津川」ICから国道257号線経由20分程

春日井市二子町
名鉄小牧線「味鋺」駅から高架沿いに二子山公園方向に北へ徒歩10分程
道は高架の下をくくる交差点となり、左に曲がると白山神社の北側に回り込みます
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その道を西に進むと右側に赤い山門と鐘楼のある寺が「天台宗光雲山日輪寺」になります
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白山神社とは道路を挟んだ北向いになります
日輪寺と白山神社の位置関係は何かしらの係わりがあるの?思うのは自然な事で
事実この寺は神仏分離までは白山神社の別当寺を務めていたそうです
なので白山神社を訪れる前に日輪寺を最初に訪れる事にします
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県営名古屋空港も近い事もあり、普段見かける豆粒の様な航空機
ここでは空気を揺らす様な爆音と共に、有りえない距離感で頭上を飛び交います
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日綸寺全景
切妻瓦葺の山門の赤が特徴的で、手前の常夜灯は古くは山門から白山神社に続く参道に建っていた江戸時代末期のもので天照皇大神宮と記されています
参道を横切るように車道が整備される際に、現在の山門前に移設されたものらしい
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山門の左に寺号標、右に小さな堂が建ち、左右に赤い「地蔵菩薩」の幟が風になびいています
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赤い山門から本堂の眺め
参道正面に寄棟瓦葺の本堂と左に鐘楼と大師堂、右手が手水舎と庫裏の伽藍
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手水舎と後方の庫裏
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左手の入母屋造りの鐘楼
今は周囲が開けているけれど、その昔は山門から白山神社に続く参道が伸びていたそうです
参道脇には松並木が続き、木々の間から僅かに差し込む陽光が、鐘楼や境内を照らす程に松に包まれていたようです
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当時のこの周辺は古くから人が住み、一帯には多くの古墳が点在する小高い丘陵地と、その下に荒地が広がっていたそうで味鋺原とも呼ばれ、1879年(明治12)木津用水の一期工事以降漸く開墾され新田に生まれ変わります
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長閑な田園風景の中、日綸寺の鐘の音は響き渡っていたようです
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現在の本堂は、1891年の濃尾大地震で被災後に再建された様です
その後も伊勢湾台風等で甚大な被害を受けるも、都度修復の手が加えられ今の姿を伝えています
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手挟に彫られた水波などシックな彫が見られます
こうした彫が施されるのはアクセントのみならず、思いが込められています
例えば、波や雲のデザインは火の災いから免れる様にであったり、動物や自然をモチーフに施される
木鼻に獅子や獏など施すのも意図があり、職人の腕の見せ所でもある
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「光雲山」山号額
日輪寺は1660年(万治3)、味鋺村にあった満願寺を移転し、小田井村の天台宗願王寺から山号を承け光雲山日輪寺と称したそうです
「栄秀」阿闍梨が寺を開き、当時は願王寺の末寺
栄秀和尚は味鋺原の粟や稗しか育たない土地から新田開発に尽力されたようです
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本堂の眺め
本尊は地蔵菩薩
1672年(寛文12)の栄盛和尚の代に、洪水で朝宮に流れ着いた地蔵菩薩像を勧請し本尊としたと云われますが諸説ある様です
1804年(文化元)の真純和尚の代に、現在の春日井市熊野町にある​密蔵院​の末寺になった様ですが
1952年(昭和27)、​比叡山延暦寺​の末寺となり現在に至っています
今も白山神社と深い繋がりがあるようです
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本堂西側に建つ切妻瓦葺の堂
正式な呼称は分かりませんのでここでは「大師堂」としておきます
1891年の濃尾大地震で本堂被災時に仮堂を設けたようです、それがこの建物かもしれません
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堂には弘法大師の事跡を巡礼する「西国三十三巡礼記念」の額が掲げられています
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堂内の大師像と鬼の夫婦を従えた役行像が安置されています
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本堂から南の赤い山門の眺め、道路の先は白山神社境内へ続いていきます


「日輪寺」
開基 / 1660年(万治3)
宗派 /   天台宗
山号 /   光雲山
本尊 /   地蔵菩薩
住所 /   春日井市二子町2丁目12-3
アクセス /   ​名鉄小牧線味鋺駅から徒歩10分

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