日進市竹ノ山のTHREE LITTLE PIGS
west coastにある様な店舗外観はその昔の若い頃、自慢の愛車で集った、ダイニングバーでありカフェの趣です。
しかしここは店名そのもの、豚。
豚骨ベースのラーメンが売りのお店、所謂ラーメン屋のイメージとはかけ離れた洒落たお店。
ペットokとある。
テラス席のみペット同伴可の様です、動物が苦手な方にとっては躾の出来ていないペットと遭遇すると
不愉快に感じるかもしれません。
入口に飾られたツリーはとてもラーメン屋とは思えない。
若かりし頃こうした店に夜な夜な屯った事はありませんか?
店舗カウンターに案内されました。
カウンターにもTHREE LITTLE PIGS
店自体が女性を意識した造りなので店内のお客は女性が多く、年齢層は比較的若い印象を受けます。
店内はBGMが流れ、照明も少し落とし落ち着いたバーの雰囲気。
昔は若かったおっさんとおばさんがカウンターでラーメンを頂く、多少の違和感を感じる。
酒が並ぶカウンターに餃子のたれ。
ここのシステムは良くわかりませんが、ラーメンを頼むと水餃子とカリフォルニアロールorタコライスが
付いてくる様です。
このたれは水餃子のたれの様です。
おやじは濃厚海老ラーメン+タコライス+水餃子のプレート、かみさんはゴルゴンゾーラチーズラーメン+カリフォルニアロール+水餃子をお願いしました。
オーダーしてから後悔した、豚押しのお店で海老はないだろうと。
間もなくプレートに乗ったラーメンとタコライス、水餃子のお出ましです。
チャーラーの乗りですね。海老もいるねー。
ちぢれ麵で喉越しが良く、豚骨ベースのスープに海老の風味が漂い、チャーシューはとろっとして美味しかったです。
濃厚なのかというとそれ程でもないような。5点評価で2.8でどうだろうか。
タコライスも水餃子もおいしく頂きました、結構ボリュームがあり満足できます。
この二点は濃い味付けを好むおやじの評価で2.3点かな。
店の雰囲気を加味して総合3点。
かみさんオーダーのゴルゴンゾーラチーズラーメン+カリフォルニアロール+水餃子。
見た目も女性を意識しているのできれいですね。
お味の方はかみさん曰く、「チーズラーメン」のコメントでした。
もっと濃厚なチーズのイメージが強かったようです。
年代物のアメ車にボードを乗せて訪れたい、そんなオシャレで美味しいラーメン屋さんです。
この雰囲気で酒が飲めないのは運転手としてはつらいところです。
THREE LITTLE PIGS
住所 / 愛知県日進市竹ノ山1-1706
公共交通機関アクセス / 愛知高速交通東部丘陵線リニモ「杁ケ池公園」下車南へ徒歩約30分
2019年12月
「随心山浄土寺」
新町「金刀比羅神社」の西隣に立派な山門が印象的な寺「随心山浄土寺」は鎮座します。
先に訪れた「龍詣山遍照院見海寺」はこちらの末寺にあたる。
通りに沿う様に石垣が高く積まれ、庫裏が建っているので、道筋から山門以外の伽藍は良く見えません。
東西に続く道筋から真っ直ぐに山門をくぐり境内に続く訳ではなく、山門が東を向いて立てられているので、参道は山門前から右に曲がります。すんなりと入れさせない?城の様な雰囲気が漂う。
金刀比羅神社から見下ろす浄土寺が伽藍を見るには一番のビュースポットかも知れません。
この立派な山門を持つ浄土寺の創建は定かではありません、末寺の見海寺が1660年の創建である事からそれ以前の創建と思われます。
しかしながら、浄土寺は1946年(昭和21)に火災で山門を除き焼失してしまったようです。
火災の難を逃れた山門が伽藍の中では一番古い物のようです。
入母屋瓦葺の屋根、その大棟の両脇に乗せられた鯱瓦に目が行きます。
鯱は火災の際には口から水を吹き出し火除けとされます。
1946年の火災で山門が被害を免れたのも鯱のお陰かも知れません。
山門は二層になっていて、上層を鐘楼としたこの造りはこの辺りでは珍しいもののようです。
下げられるた梵鐘には、時の住職三誉(團仲)の知る限りの寺の歴史が銘文として刻まれているそうです。
当然ながらいくら仰ぎ見ても見れる訳もなく。
山門の木鼻の装飾は獅子でしょうか、それ以外に各所に施された透かし彫など、なかなかのものです。
隅棟の大きな鬼飾り、デザインは良くわかりませんが、早朝の空を背景にシルエットは像の鼻のようにも見えてきます。
山門から境内の眺め
浄土寺はこの地方の浄土系寺院の中でも古い起源をもつ浄土宗の寺院。
江戸時代に田辺藩政に関わる有力な寺として位置付けられていたそうです。
残念ながら火災により焼失し、現在の本堂は近代的な姿に生まれ変わっています。
境内をひと回りしたいところですが時間も早いのでここまでとします。
こちらの寺院も舞鶴百選の一つ、有志により語り継ぎたい地元のスポットとして解説板が設置されていました。
「この地方の浄土系寺院の中でも古い起源を持つ浄土宗の寺院。
江戸時代に田辺藩政に関わる有力な寺として位置づけられていた。
昭和21年の火災で、山門だけを残し本堂等は焼失したが、今に残る山門(鐘楼門)は二層の楼門につくり、上層を鐘楼としておりこの地方ではめずらしいもので、鐘楼に下げられている鐘には、時の住職三誉(團仲)上人が、記憶にある限りの寺の歴史を鐘銘にとどめている。城下町倶楽部」
焼けてしまい趣がなくなったとは言え、歴史が無くなる訳でもなく、この山門を守る鯱と語り継ぎたい歴史的建造物がある事は素晴らしい事です。
我が町にこれ程の情熱を持って語り継ぎたいものは・・・・・
そろそろかみさんも目覚める時間です、車に戻る事にします。
「随心山浄土寺」
山号 / 随心山
宗派 / 浄土宗
本尊 / 阿弥陀観音地蔵
住所 / 京都府舞鶴市字新103
京都府舞鶴西「新町金刀比羅神社」
京都府舞鶴西「新町金刀比羅神社」
玉岡稲荷神社/龍詣山見海寺から東に向かって街道筋を2~3分程歩いて行きます。
この道筋にあたる新町、西町はその昔は旅籠町とも呼ばれていたそうで、旅籠やが軒を連ねていたと云います。
今は旅籠屋から民家に変わっていますが、道筋には当時の雰囲気が漂っています。
南には愛宕山が迫り、妙に狭くて入り組んだ道筋は東の田辺城へと続きます。
歩き始めて直ぐ、右手に「長久山 妙法寺」の寺号標とその先に赤い山門が見えてきます。
ここは立ち寄りたいけれど先に進むことにします。
この道筋には寺社が多く、時間の制約がある放浪者にとっては悩むところ。
妙法寺を通り過ぎ、道筋の右側に浄土寺の寺号標とその先に赤い鳥居が見えて来ます。
昨晩、晩御飯を求め彷徨い、通りすがりにこの前を通り、自由時間には行きたいと思っていた場所、目的地「新町金刀比羅神社」です。
浄土寺と隣り合う様に鎮座しています。
「新町金刀比羅神社」全景
石の明神鳥居(1921年)、参道の正面に社、参道脇に二社が祀られ、鳥居前には金刀比羅神社と刻まれた石燈籠(1932年)が建てられています。
道筋から見る境内、境内は二段になっています。
道筋から鳥居をくぐると、左に手水舎、その先に赤い鳥居が二つ並ぶ社、右手に流造の社。
参道の石段を登ると金刀比羅神社の社。
鳥居をくぐり境内へ。
左の赤い社、詳細は分かりませんが伏見稲荷から勧請したものでしょうかね。
右の社は弁財天。
日本三大弁財天(竹生島の都久夫須麻神社、宮島の厳島神社、江の島の江島神社)の江の島から勧請された様です。
小さな社ですが木鼻には彫が施され、中には美しいふくよかな弁天像が祀られているようです。
この金刀比羅神社は新町構いで、その始まりは江戸時代にまで遡ると云われています。
讃岐国(現在の香川県)金刀比羅宮を本宮とする金刀比羅信仰は、江戸時代に非常に盛んになり、海運救助、商売の守護神として全国に勧請されました。
嵐に翻弄され、あわや船が沈むその時、金刀比羅さんの御幣が降ってきて助けて頂けると信じられていたそうです。金刀比羅神社の玉垣の寄進者に吉原町の漁師達の名が多く刻まれ、厚く信仰されていた事が分かります。
1896年(明治29)の山崩れで社殿が被災、1931年(昭和6)に再建されたのが今の社殿です。
石段下から社殿を見上げると、山肌はすぐ後ろに迫っている事が良くわかります。
金刀比羅神社扁額
社殿から苔生した境内を振り返る、左右の赤い鳥居と石造りの鳥居、その前の道筋は旅籠屋が軒を連ねた街道筋。ここから眺める鳥居の笠木と島木が描く反りは美しいものがあると思います。
社殿から西にはお隣の浄土寺山門が一望できます。
石燈籠(1932年)は再建後に建てられた様ですが、道筋に建つこの燈籠は古い街道の趣を感じさせてくれます。
新町「金刀比羅神社」
創建 / 不明(再建1931年)
祭神 / 大物主神
境内社 / 弁天社、稲荷社
住所 / 京都府舞鶴市新町小字新町
御器所東城跡
上は御器所東城跡に向かう、曲がりっぱなから御所屋敷跡(写真中央の杜)の通りを振り返る。
右に向かって歩き出す、相変らず緩やかに上りつつ、東に傾斜しています。
止みそうで止まない雨、傘を持って出れば良かった。
右側に2段に積まれた古い石垣とその上に大きな神木が聳える一画。
その枝は小さな境内を覆う様に伸びています、後方に見える御器所八幡宮の杜と遜色のない立派な神木です。
ここは御器所東城跡と云われるようですが、こうした史跡には教育委員会の解説板がありそうなもんですが不思議にそれはない。
周囲がこれほど変貌してしまうと城の遺構らしき痕跡は皆無、唯一雰囲気が残るのは公民館側から見た石垣だろうか。
御器所東城の築城は服部将監、二重堀を巡らせた城だったと云われます。
東があれば西もあり、御器所西城は佐久間家勝の築城で、尾陽神社の鎮座地がそれにあたり、神社北側には急峻な崖に積まれた石垣を見る事も出来ます。
南側から見た境内全景。
境内の前を東西に伸びる道路を左に進めば御器所八幡宮、更に西へ進むと尾陽神社も近い。
角の取れた丸い石が積まれ雰囲気は御嶽神社の佇まい。
いぼ神様の上り口の右側に、門番のように山岳信仰の修験道の開祖される役行者像があります。
大きな神木が社の前で立ち塞がるかのように聳え、境内から三社の様子を窺う事は出来ません。
境内から道路に出る事で、いぼ神様と右の板宮造りの津島神社を窺う事が出来ます。
いぼ神様の社は石積みの台座、津島神社と秋葉神社の二社はブロックの台で作られ、社後方の道路から見ると擁壁の上にそそり立つように祀られています。
御器所村当時からここに鎮座すると云われ、「いぼとり」に霊験あらたかと云われ、現在も「いぼとり」祈願のために訪れる参拝客もみえるそうです。
毎年6月には御器所八幡神社の宮司さんによる例祭が行われるようです。
御神木の左から板宮造りの秋葉神社と神明造りのいぼ神様、内研ぎの千木と5本の鰹木も飾られています。
いぼ神様、秋葉神社、津島神社/御器所東城跡
創建 / 祭神共に不明
住所 / 名古屋市昭和区御器所3-32
アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「荒畑」下車南へ、八大龍王、御所屋敷跡、経由で徒歩10分程
「御所屋敷趾・小社」
名古屋市昭和区御器所3丁目
八大龍王社から徒歩で南に5分程歩きます
グーグル先生曰くほぼ平坦と仰るが、龍神様の池があった場所です、平坦な訳がない。
緩やかに下り、そして緩やかに上り御器所八幡宮方向に続きます。
緩やかな登り、その先は写真の様な三差路となります。
「止まれ」の標識の左に小さな社が視界に入るはずです。
「御所屋敷趾」到着です。
車で訪れると駐車場に困る場所かもしれません。
境内と言っていいのか分かりませんが、歩道から板宮造りの社がとても良く見えます。
三差路から御所屋敷趾の全景
玉垣はなく、代わりにブロックが積まれ敷地を取り囲んでいます。
屋敷跡の道路脇に名古屋市教育委員会の解説板。
『秀吉の母、大政所は従一位まで叙せられていながら、その素性がはっきりしない。いつごろから御器所の人だと云われ始めた分からないが、天野信景の随筆「塩尻」には「尾州愛知郡御器所村の人也」とある。また、この後天保年間(1830~44)尾張藩がまとめた「尾張志」には「この御器所村の古老伝説に、太閤秀吉母堂はこの御器所屋敷に住んで秀吉を生み、そこで御所屋敷というようになった」とある。
秀吉の母が持萩中納言の娘との伝説と、中納言の屋敷があったとの伝説が結び付いたものと云われている』
尾張史の記述については、これと符合する裏付けが定かではないようです。
大政所(仲)1516年(永正13)~ - 1592年(天正20)
屋敷趾には基礎の跡とか、それを語るような遺構はありません。
それと知らなければ、ここはどなたが祀られた神社でしょうね、という趣です。
天下人秀吉の母(仲)の在所だったとして、屋敷きにしてはこの区画はあまりにも小さく、当時の規模がどの程度のものなのか、知る術はありません。
周囲は住宅街に生まれ変わり、この一画だけがポッンと残っている事が不思議なくらいです。
入口左の「御所屋敷趾」石標(大正12年)。
ここが残っていられたのは、奥に祀られた社のお陰もあるのかも。
社の主は分かりません。恐らくですがこの御所屋敷趾に後から祀られたものでしょう。
御所屋敷趾に祀られた社は良くわからなかったけれど、この御所屋敷趾は史跡として、社の神域としてこの住宅街に残って行くだろう。
御所屋敷趾
住所 / 名古屋市昭和区御器所3丁目32