尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2020年01月

知多郡南知多町豊浜鳥居
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 海岸線に伸びる国道247号線沿いに目立つ「とら薬師」の立て看板と白い幟が目に止まり立ち寄ってみる、まだしばらくはお迎え要請はないだろう。
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 国道沿いから南を向いて豊浜漁港を見据えるように光明寺は鎮座します。 
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 二層の小ぶりな瓦葺山門の外観は海を間近にすることから、さながら竜宮城のように見えないでもない。
無理があるかねぇ。
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 生垣で周囲を囲み、中央に龍宮の門が建っています。
四脚二層の門は梵鐘が吊るされた鐘楼門なのかと云えば、そうではなさそう。
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 山号額「成道山」と書かれています、小ぶりな門に対しこの額の大きさは印象に残ります。
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この門の建立がいつ頃なのか、残念ですが分かりませんでした。
この寺の伽藍の中では最も古いのではないだろうか?
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山門から境内の眺め。
正面に本堂、右に庫裏、左手前は手水舎、本堂左に薬師寺という伽藍です。
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 手水鉢のタコ口。
龍ではなく、タイやヒラメでもない、蛸が清水を注いでいます。
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 今もそうですが、古くから豊かな海の恵みの恩恵を受け賑わってきたこの地、その様子は尾張名所図会にも描かれています。
日間賀島のタコは良く知られるし、近年は河豚の好漁場としても知られる。
なぜ蛸になったのか経緯は知る由もありませんが、この地にあって蛸が清水を注いでも不思議ではない、豊な海の恵みに対する畏敬の念が蛸に現れているような気がします。
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 寄棟瓦葺の本堂。
この辺りは須佐と名が付きますが、この寺の由来は715年、須佐の漁師の網に仏像がかかったと云われ、漁師は小さな草庵を建て仏像を安置したと云われ、やがて堂宇を建立し善光庵と称し善導大師像として祀られたそうです。この像は後に愛知郡東郷町に鎮座する祐福寺で安置されています。
1469年(文明元年)虎得上人が寺を再興し光明寺と改称されたようです。
本尊は阿弥陀如来像。  
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 本堂左の薬師堂。
本堂よりもこちらに視線が行きます、こちらも寄棟瓦葺です。
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 山門左に複数の石仏が纏められています。
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 左からお釈迦様、如意輪観音、三猿神、青面金剛童子。
右は1660年(万治3)頃の江戸吉原で遊郭を営み、吉原を牛耳ったと云われる地元の富豪松本清十郎家の墓碑。
1681年(延宝9)にこちらの薬師堂の再建に尽力したそうです。
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その薬師堂がこちら。
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薬師堂に安置される薬師如来は行基の作と云われ、三河の鳳来寺、大井医王寺の薬師仏と共に一本の木から彫られた一木三体の像で、寅年の時に開帳されることから「寅薬師」と云われるそうです。
それが通りにあった「とら薬師」はこれを指すようです。

堂内は撮影は禁止という事なので写真で紹介できませんが、内陣中央には薬師如来と左右に日光菩薩、月光菩薩が安置され、外陣には複数の蛸が描かれた絵馬や、格子天井に描かれた色彩は今も鮮やかに残り見事なものです。

その他にも県指定文化財の「算額」や町指定文化財の「地蔵菩薩」などが安置されています。
解説によれば「算額は1752年(宝暦2)内海中之郷村の榎本犀助章清、大岩久次郎則重が、「小佐の薬師堂」と呼ばれ近隣のから厚く信仰されていた東方寺(現浄土寺)へ奉納したものだとされ、1873年(明治6)に薬師堂は光明寺境内に移築の際に合わせてこちらに移されたとあります。」
境内にある解説には移築は明治6とあるけれど、南知多の指定文化財HPの算額の解説には移築は昭和6とあり食い違っているので、ここでは境内解説の明治6で記載しています。
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 本殿左のごめんなさい地蔵。
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この手のお地蔵様、何とも言えない愛らしい表情をしています。
以前名古屋市内で見かけた「ごめんなさい地蔵」もいい表情をしていました。
「ごめんなさい」と言葉に表し、「手を合わせる子供はすばらしい大人になる」
素直さを忘れたおやじ、言葉や態度で表すことは難しいものです。
こんな表情ができれば・・・・・それはそれで不気味か?
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かわいい表情の地蔵の左に素直さを忘れたおやじの姿がある。
烏枢沙摩明王像(うす様明王)
トイレの神様としてお祀りされているのを見かけると思います。
こちらの明王は独立して祀られています。
手前の柄杓で水をかけて自分の汚れを水で洗い流す、さながら「水かけ明王」とでもいえばいいのかな?
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向拝の火炎は全ての汚れを焼き尽くし浄化してしまう強烈な力の持ち主。
汚れを嫌うだけに像はとても綺麗、手水鉢にさり気なく置かれたタワシは像を磨いて自らの汚れを落としてくださいという事でしょう。
それにより「ごめんなさい地蔵」の様に素直で汚れなきおやじに戻れる?……磨きが足りないようです。
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 烏枢沙摩明王像の後方の地蔵堂。
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ふく供養塔。
伊勢湾や三河湾のとらふぐは今では認知度が高いけれど、漁業対象となったのは1975年と意外に新しいようです、今では篠島や日間賀島を始め代名詞のようになり、本家の下関と競う程の漁獲を誇るそうです。恵みに感謝し建てられたようです。
なんでもそうですが、最初に「食べれるかも?」とチャレンジした人は勇気があるものです。
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ふぐの右には魚天観世音菩薩。
魚供養塔ですね、菩薩の足元には鰯のレリーフが置かれています、スズキだ、ヒラメだと言っても彼らがいてこそ。
生態系の頂点に立ち糧を得るものとして、食物連鎖の過程に存在する生きものに感謝しましょうという事なのでしょうね。「いた~だきます」です。
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素木のシックな龍宮城の門をもう一度見上げて光明寺を後にします。
今頃かみさんはどこを歩いているのかナ? 
2020/1/18

山号 / 成道山
寺号 / 光明寺
宗派 / 西山浄土宗
本尊 / 阿弥陀如来
創建 / 715年(霊亀元年)
住所 / 知多郡南知多町豊浜鳥居37-2
車アクセス  / 知多自動車道​「南知多」ICから内海方向国道247号線経由20分程
南知多三十三観音・18番札所

名古屋市東区筒井3丁目31-21
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市営地下鉄東山線「千種」からJR中央線沿いに北へ歩く。
正月3が日ということもあり、普段は交通量が多く、喧騒に包まれる錦通りも閑散として静まりかえり、JRのアナウンスだけが今日はやけに大きく聞こえる。
人波を縫うように歩いたり、喧騒に溢れた街より、静まり返った街を歩くのは結構好きだったりします。
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物部神社は、桜通りに面した赤萩交差点角、ここも普段は交通量が多いけれど、行き交う車の少ない事、正にひっそりと佇んでいます。
人や車の映り込みのない写真はなかなか撮れないものです。

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直接こちらを訪れるのであれば地下鉄桜通線「車道」で下車、地上に出れば街中の杜が視界に入ります。
さぞかし初詣に訪れる参拝客で賑わっているかと思いきや、意外に少ない。
写真は境内西側の鳥居と参道、大きな由緒書きが掲げられています。
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上の絵は明治26年(左)と現在の比較として掲載します。
ひと昔前の1893年の地図には物部神社は記されておらず、ここから東は東部丘陵地にかけ田畑が広がり村が点在しています。

ここに神社が記されるのは大正に入った1920年からです。

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玉垣が続く桜通りに沿いの歩道を東に向かいます。
表も裏も気にすることはないでしょうが、こちらの鳥居は二つあり、個人的に鳥居の先に拝殿が見える側から境内に入ることにしています。

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東の鳥居から境内の眺め。
神社幟と門松、提灯も吊るされ最高にドレスアップした光景でしょうか。
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東側の鳥居に掲げられた物部神社扁額。
千種駅周辺は古くは物部郷古井村などとも称され、豪族物部氏一族の尾張の拠点があったとされるところ、かつて尾張や美濃には多くの物部神社が存在したらしいけれど、それらは合祀の道を辿り、尾張国の物部神社としてはここ1社、美濃国には岐阜市中西郷と岐阜県本巣市上真桑本郷の2社が残ります。

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境内右の手水舎。
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手水鉢の龍も清水を注ぐのにフル稼働。
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庭火が焚かれる境内の右に南を向いて二つの鳥居。
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右は物部天神社。
左に黒光りした撫で牛、幟や提灯には梅の紋が入れそれを物語ります。
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左の鳥居の先の四社はかつての屋根神だと云われます。
詳細は分かりませんが熱田社、秋葉社、津島社だろうか。
屋根神様を探しに歩きたいと思ってはいるものの、思っているだけで行けていない。
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屋根神様の左の東を向いて祀られた社と大国主之命を祀ります。
ここの狛犬はよく見かける白い花崗岩ではなく、色合いは茶を帯びた石が使われ落ち着いた印象を受けます。
目つきや耳の垂れた顔立ちもなかなか個性的。
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参道は二手に分かれ左にも鳥居があります。
奥には狛犬が二対と覆屋の先に一つの社。
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正面の社には神紋の橘の神社幕と物部神社の提灯が吊られています。
阿形の右には物部白龍社の幟が建ち、細い参道があり先へ進むと物部白龍社へ続く。
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物部神社の提灯が吊られているけれど詳細はよく分からない。
この社の前の一之狛犬、この黒ずみ方は風貌に貫録を与えている。
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その先にニノ狛犬、彩色が施された小さなものです、余程の暴れん坊なのか檻の中です。
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拝所から社殿を眺める。
神域には神馬と手前に…蛙か?
風化により原型をとどめていないけれど、これでも立派な狛犬。
石から彫り出したものではなく、素材が土の様です。
正面に社殿、左右にキノコのような小さな灯篭建つ。
この特別な祀り方はなんだろう、物部神社の本殿はここだという話を耳にした事があるけれど、本当なのかも知れない。
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阿形の狛犬から先に進むと大きな御神木を挟むように南を向いて二つの社の物部白龍社が祀られています。桜通りの歩道から良く見ることができます。
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正面から撮るには近すぎるので、一旦歩道に出て玉垣の間からの全景です。
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境内の名古屋市教育委員会解説板と由緒書き。
「この宮は延喜式神名帳(905)尾張愛知郡の部に物部神社御祭神宇摩志麻遅命と記帳され、また国内神名帳(1707)に従三位物部天神と記されている。
天神とは天津神と申し上げ、称号です。尾張府詩には神霊は一魂の大石で神武天皇が当國の凶魁を討たれた時、この石を国の鎮めとなされたため要石と称され、この古事によって石神の名が起り、この様な大石は世に根なし石とも伝えられ、全国には水戸、鹿島の三か所に存すると言う。
元禄年間(1688~1703)藩主徳川綱誠(三代)は社殿の重修遷宮され、俗に石神堂山神と称して近くの人はもとより、遠くの人々まで厚く信仰されています。
明治元年式内社に治定、昭和28年本殿・拝殿造営遷座。昭和30年斎館が作られ現在に至る。境内には加藤博庸撰の祠文碑天明7年(1787)があります。例大祭 10月7日」

御神体は要石と呼ばれる石の様です。
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橘の紋が入った提灯をくぐり拝殿に向かい参拝することにします。
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切妻瓦葺の妻入拝殿。
由緒には昭和28年本殿・拝殿造営遷座とあり御神体は神武天皇がこの地を平定した際に見つけた大石「要石」。
過去の地図で鳥居の表記が現れるのは1920年以降、明治に至っては表記もない。
由緒に「石神堂山神とも称される」とある様に、それ以前は神社の形態をイメージしてはいけないのか?
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尾張名所図会を見てみます。
距離の描写はアドリブでしょうが、手前の立派な伽藍の高牟神社の先、右上に物部神社は小さく描かれています。
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物部神社を拡大してみます。
田畑が広がる中にポツンと小高い場所があり、その頂に四方を玉垣で囲われ、南に鳥居と拝殿?らしきものが描かれています。このこんもり感はなんでしょうか?
尾張名所図会は江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行されたとされます、当時からそれなりの伽藍を持っていた事がわかるだけに、なぜ地図に鳥居がないのか・・・・・

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顔馴染みの拝殿前の狛犬。
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拝所から拝殿内。
創建 / 垂仁天皇の御代
祭神 / 宇摩志遅命(物部氏の祖神とされる)
要石は本殿の下の土中にあると云われます。
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拝殿扁額。
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切妻瓦葺の妻入り拝殿全景。
後方に本殿らしきものがあるようですが見通せません。
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拝殿左の西参道脇に六角笠の灯篭と社号標。
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その先を進むと社務所を経て西の鳥居に至ります。

田畑はビルや住宅が広がり街の中にあって、物部神社のこの杜は喧騒を忘れさせてくれる貴重な存在です。

『物部神社』
創建 / 垂仁天皇の御代
祭神 / 宇摩志遅命
住所 / ​名古屋市東区筒井3丁目31-21
公共交通機関アクセス / 名古屋市営地下鉄桜通線「車道」駅よりすぐ

さてと、初売りで人の溢れる電気屋さんに行くかぁ

知多郡南知多町山海天神西
南知多道南知多ICから内海を経由し、堤防が続く海岸線の国道247号線を15分程走る。
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 小高い丘の麓、国道左に白く輝く神明鳥居が視界に入り立ち寄ってみました。
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 『天神社』
堤防を背にして神社全景を一枚。
広い境内は鳥居の先は石灯篭と社殿、右に手水舎ととてもすっきりした印象。
狛犬は見当たりません。
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スリムな印象の手水舎。
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 拝殿正面全景。
安定感のある一対の灯篭と切妻瓦葺の平入拝殿は温かみを感じる木張り。
天神社ということなので、梅紋や撫で牛を探してみたけれど見かけなかった。
大きなガラス引き戸がある拝所から参拝。
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 拝殿から本殿。
創建が新しいのか、建て替えたばかりなのか分からないけれど、伽藍全体はとても新しく感じます。
少し調べてみるも2015年に法人格を取得したところまでです。
社号標が一番古びていましたが、年号を見忘れました、鳥居には1934年(昭和9)とありました。

神社が鎮座する山海天神西は古くは内海を中心に、江戸や大坂に結ぶ海上交通の要所として栄えていたそうです。
1889年以前は久村、大泊、岩谷寺の三つの村があったようで、その後に山海村、内海町、南知多町と遍歴を重ねてきたようです。
現在、天神西と東の地名がありますが、この神社を境に分かれているのかもしれません。
創建は明治から大正末期ではないかと思われます。

天神社
創建 / 不明
祭神 / 菅原道真
御神徳 / 学問・受験の神、雷神、立身出世・農業の神
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 拝殿と本殿を繋ぐ渡廊で見つけた狛犬。
ここにいたか。
後ろ姿しか見えていないけれど、随分と色白で肉付きの良い、頭でっかちかな?
ここなら潮交じりの海風は避けられ、居心地はいいだろう。
2000年(平成12)生まれ、ミレニアム狛犬という事です。
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 拝殿から鳥居方向の眺め。
鳥居の先の堤防、その先は伊勢湾が広がっています、お伊勢さん方向になるのかな。
潮騒と潮の香漂う海岸に鎮座する神社は山海の学問の神『天神社』でした。

住所 / 知多郡南知多町山海天神西2
車アクセス / 南知多道南知多ICから​内海経由で国道247号線を南へ15分程​    

名古屋市昭和区広路通5丁目の三体石仏堂
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 昭和警察署の向かいに建つ小さな瓦葺のお堂があります
上の写真は2018年に掲載した時のものです、当時から瓦の破損、梁などの木材の腐食が目立ち、車窓から眺めていても寂しい限りでした。
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 最近前を通りがかって建て替えられた事に気付く。
黒い瓦葺の外観は周囲に溶け込み、存在感に乏しかった堂、今風のハイカラな外観に変貌していました。
劇的ビフォーアフターとでも言いましょうか。
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なんという事でしょう。
それまでの暗くて切妻の重い瓦屋根から金属板の横葺屋根に変貌。
三方吹き抜けだった暗い色調の木壁、今や素木の木目も鮮やかな明るい外観に生まれ変わりました。
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 生まれ変わった新たな我が家にさぞかし住民の三体石仏も喜んで・・・・・ん?
1、2、3・・・・・4、ついに数も数えられらくなったか?
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世帯主の大師像、お変わりないようで。
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 首をかしげ「半跏思惟像」ポーズの如意輪観音は「何か悩みでも?言ってみい」とばかりに問いかけてくる。
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 生まれ変わった新居に観音様も笑みがこぼれているような。
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 新たな住人。
どこかでお見かけしたような気がするが、あなた道路1本北に住まわれていた​「馬頭」​さんじゃないですか?
「いえ〃私は・・・・・モジモジ」
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あなたのお顔は飯田街道でお逢いしてますって、人違いですかね?
「実はその通り、話せば長くなるのであれなんですが諸事情がありましてねェ、丁度弘法さん家がリフォームされると聞いて、暗い一軒家に一人より新しくて明るい家にいい条件でシェアさせてもらった方が何かと・・・・・」
そうっすか、大勢でワイワイガヤガヤ楽しいじゃないですか?。
「そうなんです、目の前が警察署で治安はいいんですけど車の音がねぇ、慣れるまで大変ですワ」
まあ、良かったじゃないですか、いつまでもお変わりなく。
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 新築のお堂の中に令和2年と記されていました、通りにあって存在感を感じる住居ではないですか。
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 馬頭観音が新たな加わり、三体から四体となり道行く人や車の往来を静かに見守っています。
さて帰って馬頭さんの引っ越し先を修正するか。

「川名の4体石仏堂」
住所 / 名古屋市昭和区広路通5丁目15-2

「あのおやじやっといなくなったねェ、ところで今晩仕事終わったらさぁ、馬頭さんの歓迎会で一杯やらない?」
「いいねえ、私コンビニで仕入れてくるわ」
「あん?またやんの?別にいいけど」
「アザッス」

かみさんの知多四国八十八ヶ所霊場を巡る送迎で知多郡南知多町山海を訪れました。
今頃は弘法大師を訪ね、微妙なアップダウンが続く道筋を歩いているはず。
運転手のおやじは、国道247号線沿線の山海に来ています。
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 山海漁港から北の小高い山の頂、そこに建つ赤い鳥居が視界に入り向かってみました。
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 鳥居を目標に車を走らせる。
山裾に巨大な「荒熊神社」の看板が、神社へは結構な上りが続くようです。
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 駐車場は海岸の国道247号線から一本北に入った所に参拝者駐車場がありそちらへ駐車。
駐車場には看板が整備され参拝口はそこから2~3分程。
小高い山の裾野に写真の看板が建っています。
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そこから舗装された参道が頂に向かい続いています。
入口の杖に嫌な予感もします。
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 参道は右に続き、登り始めると山海の街並みとその先に伊勢湾が視界に広がります。
ここからは眺望を眺めながらの「石段」が続きます。
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 石段を数えながら登るも、奉納鳥居が連なる辺りで「あれ?何段だっけ?・・・・・」もう忘れた。
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 石段の数は分からなくなったけれど、奉納鳥居を少し登った参道左に二体のお地蔵様が祀られていました。
右のお地蔵様は「おきょうさま」と呼ばれる地蔵、以下のような由来が掲げられています。
「昔、山海高座におきょうさまと呼ばれるお坊様がおられました。この方は山海の家々をまわられ病気や災難を除かれて、村人を助けながら千体の経文を石に書かれて世を去りその後に、土浪地蔵尊とともに祀られました。時代の変化とともに忘れられ六十八年も土の中に埋まっていました。今回、世に出すことができ、神社に祀ることになりました。一心に水と線香を供えてお参りください。病気平癒に不思議なご利益を頂けます。」

左は土浪地蔵尊
「水子や十歳にもならない幼子をお守りくださる地蔵尊です」

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お地蔵様から少し先に「荒熊神社」大きな看板、麓から見えていたものです。
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この辺りから南の眺望、陽光に輝く伊勢湾が広がり、遠く紀伊半島、神島、渥美半島が眺められます。
手前に山海漁港、山海の街並みと参拝駐車場が眼下に見えます。
普段街中の短い距離に慣れてしまった目には、こうして遠景を眺めるのも時には必要なのかもしれません。見える景色が妙に新鮮なものに感じます。
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 視線を近くに戻し頂の境内を目指します。
赤い鳥居を三回程くぐり石段を上がっていきます。
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最後の鳥居をくぐった先に赤い建物が見えてきます、これで石段も終わり。
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 見えていた赤い建物は手水舎、山の頂にありながら龍口から清水が注がれていました。
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 石段突き当りに社務所がありますが、常駐ではないようです。
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 社務所から参道は右に、朱も鮮やかな鳥居とその先に拝殿。
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 拝殿全景。
「荒熊大神」の額が掛けられています。
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 拝殿内に上がって参拝ができるようです。
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 拝殿内全景
荒熊神社
「由来 荒熊大神は​伏見稲荷大社​奥の宮の熊鷹池に鎮座する熊鷹大神の霊場で修行を積み、人は因縁、自我、霊の災いなどによって苦しみ、悩むものが多く、それに哀れみを思い大正5年に修験者に着いて90年余り助け、救おうと現れた神。 祈願目、縁結び、家内安全、病気平癒、交通安全、大漁、進学成就。」

ぽっくり弘法大師
「年代は古くて定かではないが、お大師様を信仰していたお年寄りたちが、苦しみもなく楽往生したことが人づてに伝えられて、それが名の由来。」
こちらのお守りを身に着けると、苦しむことなく寿命を全うできるとして参拝に訪れる方は多いようです。
麓の弘法大師館でお守り、御朱印を頂けるようです。

不動明王
「不動明王は、厳しいけれども心を入れ替え精進する者に対して、救済の手を差し伸べる慈愛に満ちた明王です。(ご利益)交通安全・家内安全・商売繁盛・病気平癒など。」

本殿祭神 / 荒熊大神、熊鷹大神、長者合槌命
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 山の頂ということもあり境内は広いとは言えませんが、限られたスペースに社殿と別社が建てられています。
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 拝殿右の「縁を結ぶ椿」
「心をこめ鈴を鳴らし祈願することで縁は結ばれる」ようで、おみくじ掛けには無数のおみくじが結ばれていました。
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 本殿右の傾斜地に三社が祀られ、神域は赤い玉垣が囲います。
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 手前に霊神社と記されています。
左と右手前の社は表記が読み取れず祭神は不明。
右奥の社の祭神は弘安霊神、仲見大神、御興津彦大神、 御式大神、弘明之命。
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 拝殿左に山神。
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 拝殿左奥にも社。祭神は翁大神、緒畑大神。

山海の山の頂から伊勢湾を望み、自然に囲まれた静寂な空間は清々しいものを感じさせてくれます。
せっかく登ってきたのです、ベンチに腰掛け目の前の伊勢湾の眺めと青い空を楽しんでから下山することにしました。
2020/1/18

「荒熊神社」
創建 / 不明 (明治末期~大正初期)
祭神 / 荒熊大神、熊鷹大神、長者合槌命
住所 /    知多郡南知多町山海高座1 
車・アクセス /    ​知多半島道路「南知多IC」から内海経由20分程

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