尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2020年01月

名古屋市千種区赤坂町「弁天公園」


かつての田代村と鍋谷上野村が一つになった東山村で、茶屋ヶ坂の集落から南の東部丘陵地にあたります。
かつて赤土だらけの山野だったことから赤坂の地名がつけられたともいわれます。
千種区鍋屋上野町の一部が1943年に同区赤坂町と名を変え、山野だったこの地は閑静な住宅地に変貌していきます。
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 現在の弁天公園。
公園の名の由来は当時このあたりにあった農業用の溜池弁天池から来ていて、宅地開発により池は埋められ、後の1944年に弁天池跡に作られたのがこの公園。
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この地に縁のある自分、物心ついた頃には既にここに池はなく、公園に整備されていた。
よく此処で遊んだ記憶があります。
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 当時、この公園の北側の一角の小高い場所に小さな社があった事だけは覚えています。
変なものがあるな程度の頃です。
当時のイメージは上の写真のような感じ。

ばあさんに連れられ、ここにお参りに来るようになり、帰りに駄菓子を買ってもらえるお得感から、子供ながらにここは特別な場所という印象が芽生えた。
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 純粋な頃のお子ちゃまも、今や煩悩まみれのおやじになった今、かつてのこの地を訪れると当時あった怪しい建物が無くなっていることに気づく。
ずっと「あれ」はどうなったのか?記憶が違っているのか?気になっていました。
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 周囲の景色は当時とはかけ離れていますが、公園の北角のこんもりした一画は今も残っています。
そんなある日、ここの社と出会うことになりました。
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ここから西にある​永弘院​を訪れた際、境内で見かけた弁天様がそれでした。
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 社の下で見かけた縁起の石板。
そこに書かれていたのは「約500年近く弁天池の水神として農民から崇められてきたが、宅地化により見守る池は公園となり、1981年(昭和56)にこちら移設」とあった。
子供の頃の記憶は間違いなかった、そして気になっていた社は廃社の道を辿ることなく、ここで出会えた事に懐かしいものを覚えました。
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 弁天池の畔も今はなく、子供たちの遊び場となり、桜の時期には美しい場所です。
社があった小高い場所はテーブルとベンチが置かれ御覧の通り。
古くからここに住む者以外は想像できないことかもしれません。

ここの社は西の永弘院へ引っ越して行きましたが、社は故郷の弁天池を向いて祀られています。
「弁天公園」
住所 /  ​名古屋市千種区赤坂町
公共交通機関アクセス /   市営地下鉄名城線「茶屋ヶ坂」下車南に徒歩5分

若狭彦神社(上社)から県道35号線を東小浜市方向へ車で5分も走れば若狭國一之宮『若狭姫神社(下社)』に到着です。
県道沿いに少ないながら駐車可能なスペースが確保され、私達が訪れた時は空いていたので苦も無く駐車ができました。
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 駐車場と神社の間には細い水路があり、社頭左に社号標と灯篭一対。
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 社頭の灯篭は1774年(安永3)。
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この辺りは多田ヶ岳の北嶺、小浜から続く平野の南外れに位置し、若狭彦神社に比べ周囲は住宅が多い。
住宅の少ない上社とは違い、下社は人と神社が身近につながる環境。

鳥居前から住宅が並ぶ東の眺め。
良く見れば、その先に石造りの鳥居が見えます、一ノ鳥居です。

後で知ったことですが、この鳥居の脇には社号標と一対の狛犬設置されています。
その狛犬は容姿も個性的で古びたもの、またニノ鳥居に向かう途中にも稲荷社と小さな神社があったようです。一旦戻って一ノ鳥居から境内に進むべきでした。
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 県道から神社全景。
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 社頭右の由緒。
「名称 若狭国一宮、若狭彦神社下社又、若狭姫神社、遠敷神社と称し、上社を併せて若狭彦神社とも上下宮とも称される。延喜式名神大社。
祭神 龍宮伝説で知られる豊玉姫命を若狭姫大神と称祀。
所在地 福井県若狭国遠敷郡遠敷村遠敷、昭和26年町村合併に伴い小浜市遠敷となる。
創建 奈良時代養老5年辛酉2月10日、昭和58年より1262年前
祭日 下社 3月10日、上社 10月10日」

目を引いたのは由緒の下に書かれていた「安全運転の誓い」で以下の様に書かれていた。
「自動車は、車体、タイヤの原材料である鉱物、植物、加えてガソリンという天地自然の恩恵、人の尊い勤労で生み出された「神霊の宿る生きもの」、車を買ったらお祓いを受け若狭路を走りましょう」

車をお祓いする意味にはこうした意味合いもあるようです。 
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 石橋から境内の眺め。
鳥居、髄神門、本殿が一直線に並びます。
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 参道に入った左手に手水舎。
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 右に社務所。
神職は常駐なので、こちらで上社の御朱印も頂けます。
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 社務所の向かいに北前船の模型が展示され、この地が古くから日本海の交易で栄え、鯖街道の起点となった事を伝えています。
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 髄神門。
上社のものと造りは同じ様です、屋根は全面檜皮が現れています。
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 下社の門も上社同様に左右に四体の随神像が狭い空間に肩並べおさめられています。
祭神のSP、眷属八人を表しています。
文化元年に掲げられた遠敷神社額は黒漆の地に金箔を施したものだったらしい、今は漆も金箔も剥げ落ちています。
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 門前から望む神門、菊の紋が入った紫の神社幕。
乙姫?と所縁があるせいでしょうか女性の参拝客が多いようです。
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 社殿全景。
上社同様の神々しい空気が漂います。
本殿左の御神木「千年杉」幹の太さと樹高の高さ、自然の営みの凄さたるや。
人はこうした自然に何かを感じ、神格化し崇め守り伝えてきています。
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 神門前のこの空間、ここに関して解説はなかったので何とも言えないけれど、過去に拝殿があったのかな?
この灯篭は1692年(元禄5)寄進のもの。
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 板敷回廊で囲まれた四脚門も上社を踏襲しているようです。
苔むした屋根と板敷回廊、落ち着いた外観です。
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 苔の緑が鮮やかな神門から本殿の眺め。
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 参拝を終え、中を窺う、正面に鏡が鈍く輝いています。
創建 / 721年(養老5)
祭神 / 豊玉姫命
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 本殿左方向から流造の本殿。
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 大棟の彫飾りと鬼紋は金色の菊紋。
外観では唯一煌びやかな部分。
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 境内右手の神楽殿。
建立された時期は調べきれませんでした。
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 松と竹が描かれているようですが、三面吹き抜けでは退色するのもしかたがないか。
オリジナルに修復された彩りを見てみたいものです。
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 本殿右の玉守社。
杉林の中にポツンと祀られています。
祭神 / 玉守神
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 本殿左、中宮神社。
祭神 / 玉依姫の命(豊玉姫の妹)
神徳 / 子育て守護、福徳円満
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 境内の一番左に夢彦神社、夢姫神社
夢を司る神としては全国でここだけだそうです。
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 上
招霊の木
京都御所から明治時代に拝受したもので、祭祀の際に神霊の招請に用いるそうな。

夢彦神社、夢姫神社の左に男根陽石
陰石、子種石、陽石の三種で想像力が豊かな方にだけイメージできるものなのかも。
地上に露出したものか、どこからか運ばれたものか詳細は分かりません。

若狭國一之宮『若狭姫神社(下社)』
千年杉の自然の力強さと神秘さが満ち、自然への畏敬の念を感じる特別な空間です。
住所 / ​福井県小浜市遠敷65-41
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知多郡南知多町内海小桝
知多半島の西海岸線を走る国道247号線、内海千鳥ヶ浜海水浴場から車で5分程の海岸に「礫ヶ浦鳥居」はあります。
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 国道沿いのパーキングで車を止め海岸線に向かいます。
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 堤防では無数のカモメが人を怖がることなく一休み。
このあたりのカモメは人からおやつを頂戴しているようなのか、手から直接与えることができるほど人の動きに合わせ近寄ってきます。
だが、残念ながら菓子は無い。
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 国道沿いに歩くと写真の様な案内板があるので、この看板を目印に海岸に出るとわかりやすい。
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 海岸は堤防を挟んで砂浜と岩礁帯に見事に別れていて、堤防があるとはいえ別世界の様相。
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 海岸線を歩いて見つけた道標。鳥居の材料も伊勢神宮からおさがり
「京道」「丹波街道」と彫られているようですが、なんというかおおざっぱな道標だと思う。
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 訪れたのは1月18日、当日は風が強く、暖冬とは言え海岸線を吹き抜ける塩交じりの風はとても寒い。
先の海岸に小さく鳥居が見えてきました。
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 礫ヶ浦鳥居に到着です。
岩盤の上に神明鳥居が建ち、右側に大きな黒い岩がポツンと不自然に転がっています。
鳥居の先は伊勢神宮に続きます。
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 礫ヶ浦鳥居の正面にある由来。
「この海岸は約1,500万年前の地層、火山活動・海底地震が生み出した大津波のエネルギー海底の大きな岩を運びこんでが作り出した。
波打ち際の黒い石は礫岩と呼ばれる片麻岩で、その下は泥岩である。
この礫ヶ浦の石は対岸の三重県伊勢市の岩の組成と同じもりだと云われます、
伝説によれば天照大神を始め、伊勢の神様達が景色のいい南知多内海の海岸を目掛け石の投げ比べを行った。
その中でこの地に届いたとものが礫ヶ浦だと云われる。
大きな石は東の山、伊勢山(高峯山・標高128㍍)となり、小さな丸みのある黒い岩は礫岩となり海岸に散在する。
この鳥居の正面は伊勢神宮、地元の人からは伊勢遥拝所としてここからお詣りしている。
鳥居の部材は、20年毎に行われる伊勢神宮遷宮の際に出る古材を譲り受け、建立された」

俄かに信じがたいものが残る・・・・・と言うのが夢のないおやじの感想。
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 鳥居は伊勢神宮の鳥居と対面しているとされ、元旦には対岸の伊勢を向いてお参りする場所。
こうして見える対岸の先が伊勢神宮と云われるとそうなのかもしれない。
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 礫ヶ浦に鳥居が建てられたのはいつ頃だろう?、調べてみたけれどそれは定かにはなりませんでした。
言えるのは、こうした黒い岩礁帯はここから師崎、日間賀島にかけて続いている事くらい。

一風変わった土地の様相は神の戯れにより生まれたもの。

礫ヶ浦鳥居
住所 / ​知多郡南知多町大字内海小桝96

名古屋市千種区上野にある臨済宗妙心寺派のお寺。
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 交通のアクセスも良く、基幹バス「谷口」で降車、南に歩いて二~三分程。
永弘院は近年補修が行われ、寺の西側から見る印象は子供の頃から比較すると綺麗なっている。
何より大きな変貌を遂げたのは、写真左の駐車場。

以前は小さな公園があり、そこには赤い社の八坂社が南を向いて鎮座していた。
現在この八坂社は姿を消し、ここから東の上野天満宮の晴明殿(2017年造営)に合祀されたと聞く。

ここから東に弁天公園がありますが、以前は公園北角の小高い場所に小さな祠があった、いつしか社もなくなっていました。
推測になりますが、こちらも恐らくは上野天満宮で合祀されているのではないかと。
当たり前の様にそこにあったものが、ある時気付けば姿がなくなっていると妙に寂しい思いに駆られる。
ここ数年、近隣の長養寺なども含め改修ブームの様です。
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 山門を構える南側からの伽藍全景。
永弘院の南に小学校があるけれど、一帯はかつて上野城(1532年~廃城時期不明)があった辺り。
城の遺構はなく、境内に城址の碑が立つのみ。
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 山門。
造営時期等は定かにならないけれど、伽藍の中では鐘楼と並び古いものです。
右に「上野山 永弘院」の寺号標。
子供の頃は「えいこういん」と教えられてきましたが、因みに「ようこういん」と読みます。
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 木造瓦葺の切妻の四脚門。
門から窺う境内、手前に百度石、敷石の先に夕陽を浴びて赤く染まる本堂。

東海四十九薬師霊場28番札所。
東海四十九薬師霊場とは三重県名張市の勝宝院福就寺を一番札所とし三重、愛知、岐阜の薬師如来巡礼するもの。
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 木造の山門に土塀の白が冴えています。
永弘院は幾度も焼失を繰り返して、都度再建されて来た、先の戦争でも空襲に見舞われ、山門、鐘楼を除き焼失。
延焼を免れた山門、鐘楼には当時の火の勢いを示す焼け跡が残っています。
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 山門をくぐり境内へ。
綺麗に手入れされた庭の先に、正面に本堂、右手に石塔と庫裏、寺務所。
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 境内右手の手前の鐘楼と奥の事務所。
以前はこの右手に地蔵堂があったけれど、老朽化によりこちらに安置されていた地蔵は新たに新築した観音堂に遷座されています。
現在は空の建屋のみです。
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 四足の瓦葺り鐘楼。
瓦には山号と寺紋の三階菱が施されています。
梵鐘は戦時中に供出される憂き目にあうも、戦後に再び鋳造されたものです。
除夜の鐘を突くことができ、毎年それを楽しみに訪れる方も多いようです。
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 山門左の放生池、右は観音堂。
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 観音堂。
境内西に建ち、2019年に三十三観音、馬頭地蔵などがここに纏めらました。
地蔵堂から遷座の際、像は水洗いされ永年の汚れを落とし、こちらに安置されました。
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 放生池の袂に弁財天の碑。
石橋の先に、東を向いて石の祠の弁財天が祀られています。
ここで初めて分かったことがありました。

この弁財天は先に書いた弁天公園に祀られていたものです。
縁起によると、約500年近く弁天池の水神として農民から崇められてきたが、宅地化により見守る池は公園となり、1981年(昭和56)にこちら移設したらしい。12
 本堂。
本尊は薬師如来。
創建は1538年(天文7)とされる。
信州小笠原家後裔の下方氏一族の下方貞清が開山。

上野城の北東にあった藥師堂に祀られていた薬師如来を本尊として建立されました。
本能寺の変以降、下方氏一族は荒廃、それと共に永弘院も衰退していきます。
当時上野村と呼ばれ、村人、檀家の支えにより、村の禅寺として伽藍は整えられていきます。
以降も幾度となく災害に見舞われますが、都度再建され現在の姿に至ります。
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 境内西の水子地蔵尊。
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その右に二体の石像が安置されていますが、詳細は不明。
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 境内で見られる子供の石像。
印象に残る表情のものしか掲載しませんが、ほかにも複数安置されています。
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 山門をくぐった境内右隅に建つ上野城址の碑。
築城年1532年(天文元)頃の、二重堀を持った平山城だったと云われる。
現在は城の名残はなく、この碑がそれを伝える。

永弘院(ようこういん)
宗派 / 臨済宗妙心寺派
山号 / 上野山
創建 / 1538年(天文7)
本尊 / 薬師如来。

住所 / 名古屋市千種区上野1丁目4-18
公共交通機関アクセス / ​基幹バス2「谷口」降車、南に数分

福井県小浜市龍前
2019/11/16
小浜市の南東にある若狭國一之宮『若狭彦神社(上社)』を訪れました。
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 多田ヶ岳の麓に鎮座する古社、上社と下社の2社を総称し若狭彦神社や上下宮とも呼ばれ、パワースポットらしい。
上社の若狭彦神社。
社頭に2~3台の駐車スペースしかなく、運良く一台分の空きがありスムーズに駐車できました。
運が悪いとしばらく待つことにになるやも。
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若狭彦神社鳥居前から参道の全景。
杉の大木が参道を包み込むように大きな杜を形作っています。
薄曇りのとは言え、参道は真昼間でも薄暗く、神聖な空気が漂う空間は奥へと続きます。
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 「若狭彦神社」社号標。
冒頭記載したように若狭彦神社は上社と下社の2社の総称。
ここは上社ですが宮司不在で境内に社務所はなく、御朱印は下社(北に1.5㌔先に鎮座)で頂くことになります。
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 日本神話に残る海幸彦と山幸彦の兄弟のお話は御存じかと、ここは海幸彦(火火出見尊)を若狭彦大神として祀る神社。
なので古来より、海上安全、海幸大漁の守護神として、若狭國一之宮として崇敬されています。
下社の祭神は海幸彦のパートナー女豊玉姫を祀ります。5
 鳥居前を守護する狛犬、小顔で肉付きの良い勇猛果敢な凛々しい容姿です。

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 鳥居をくぐり境内へ。
参道を包み込むように杉の巨木が杜を形作っています。
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 苔むした参道。
無人でありながら、参道に枯れ葉が積もる事もなく日々手入れがされているのがよく分かります。
参道はここから先で右に曲がっていきます。
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 参道途中の二本の杉の巨木「夫婦杉」。
実は根本は一本で途中からこのように別れたもので、パワースポットとされます。
右の杉が過去、左の杉が将来、その杉の間の空間が現在を表すそうです。
この二本の巨木の間から空を眺め、過去を思い、将来の運命・運勢・幸運などを願うのだそうです。
また、夫婦和合、良縁成就にご利益があるパワースポットらしい。
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 参道を進むと正面に表れる素木造りのシックな門は「髄神門」。
江戸時代に造営されたと云われる入母屋造りの一層の八脚門。
奥には神門が見えています。
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 髄神門。
派手な彩色や飾り金具を敢えて避けたようなシックな門です。
屋根は金属材で葺かれているようです。
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 門をくぐり始めて髄神が祀られていることに初めて気が付く。
髄神と云えば正面を向いているものだと思っていたけれど、こちらの髄神は通り過ぎるものを見据えるように通路に対して対面して祀られています。
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 左右に夫々に4体、計8体の髄神が祀られているのも珍しいのでは。
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 門の中も外観同様派手さはないけれど、桐や菊の紋がさり気なく彫られています。
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 若狭彦神社由緒
上社・若狭彦神社の祭神は「彦火火出見尊」を祀る。
遠敷郡下根来村白石の里に表れた彦火火出見尊、その姿は唐人のようであったという。
次いで女豊玉姫が現れた事から、714年(和銅7)に両神が降臨した白石に仮社殿を営んだのが始まり。
今の地に遷座したのは715年(霊亀元年)と云われ、白石の前鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社が残っています。

女豊玉姫を祀る下社の若狭姫神社は、721年(養老5)に上社より分祀して創建されたもの。
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 無人ということからでしょうか由緒や解説が掲げられ、初めて訪れた者にはありがたいものです。
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 髄神門から神門の眺め。
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 神門と本殿の全景。
静寂の杜に包まれ佇む若狭彦神社は趣のあるものです。

周囲は板敷回廊で囲われ、檜皮葺き流造の高い屋根を持つ本殿は、10本の鰹木と内研ぎの千木が施されています。
右手に小社が祀られています。

手前の四角い一画、以前の拝殿跡で昭和40年に台風により倒壊してしまったようです。
入母屋の拝殿だったようですが、今は6個の礎石が残るのみです。
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 境内左に宮山の湧水が注がれる手水。
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 神門。
1830年(天保元年)に造営された桧皮葺の切妻造りの四脚門。
彩色はなく素木の落ち着いた印象を受けるものです。
手前の灯篭には1692年(元禄5)と刻まれています。
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 菊の紋の入った神社幕、その前に吊るされた大きな鈴を鳴らして上社参拝です。
静かな境内に鈴の音だけが響き渡ります。 
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1905年寄進の立派な鈴です。
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 本殿。
檜皮葺の流造りで1813年(文化10)造営、本殿も素木造。
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 屋根の曲線を見るため神門右から本殿を撮ってみました。
一周する事は出来そうなので、流造の優美な曲線がよく見れる場所があるかと思います。
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 本殿右の小社は若宮社。
鵜葺草葺不合命を祀る。

ここから本殿を一周できそうな気もするが、やめておこう。
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 神門から見る髄神門、苔が一面に広がる拝殿跡の礎石。
こちらから見ると髄神門の屋根は檜皮が現れています。

下界の喧騒とは全く無縁で、鬱蒼とした杜に囲まれた若狭彦神社は、自然が持つパワーを感じることができる別世界かも知れません。
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 薄暗い境内参道から鳥居の眺め、俗世界に戻り下社・若狭姫神社に向かいます。
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 鳥居付近で見かけた案内板
上社・若狭彦神社、下社・若狭姫神社の2社からなる「若狭彦神社」
下社も参拝しない訳にはいかないでしょう。
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若狭國一之宮 上社・若狭彦神社
創建 / 715年(霊亀元年)
祭神 / 彦火火出見尊

住所 / ​福井県小浜市龍前28-7

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