尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2020年04月

宝生寺​の北を流れる赤津川(矢田川)を渡り、右岸の堤防道路を上流に向け進んで行きます。
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 堤から見る赤津川、河原は意外に広いけれど水面は意外に高いところを流れています。
長年の土砂の堆積で川底は結構上がっているようです。
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 堤を進むと水無瀬川という小さな支流が現れます。
堤はそこから水無瀬川沿いに続いていきます。
次の目的地美濃池町の「八王子神社」は正面に見える橋を左に入ってすぐです。
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 左を見れば右手に社号標と鳥居が目に入ると思います。
参拝駐車場としてはありませんでした、車は堤防沿いに置いて徒歩で向かいました。
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 社頭全景。
周囲は住宅が立ち並び、鳥居の幅に合わせ参道が奥に伸びています。
その奥は境内が広がり、拝殿が見えています。
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 美濃池町八王子神社境内。
左に参集殿が建ち、正面に大きな木々に包まれて社殿が佇んでいます。
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 参道左の由緒が建てられ、この神社の歴史を伝えています。
「八王子神社」
天照大御神と須佐之男命が行った誓約の際、十拳剣から生まれた三姉妹の女神、多紀理毘売命・多岐都比売命・市寸島比売命と五百箇の御統の珠から生まれた五柱の男神、正膳吾勝々速日天忍耳命・天穂日命・天津日子根命・ 活津日子根命・熊野久須毘命を祀ります。
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 拝殿左の手水鉢と石灯篭(明治19)、右にご神木。
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シャープな外観の拝殿は瀬戸市の案内には銅板葺で大正6年に建替と記載があったけれど、それ以降に建て替えられているように見えるほど綺麗。
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 八王子神社全景。
小ぶりな狛犬の先に石垣が高く積まれ、周囲を塀で囲まれた中に流れ造りの本殿が見える。
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 八王子神社の狛犬、細部に彩色が施された小さいけれどお洒落な面々。
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 本殿域
外周からは見えなかったけれど、本殿両脇に板宮造りの小さな社が二つ祀られています。詳細は分かりません。流造の本殿には五男・三女が祀られます。
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 境内の右に複数の石碑が並んでいます。
右のとんがり石は、霊神碑、中央の大きいものは御嶽山大権現、その左が金毘羅大権現、その左が痔塚神社。
痔塚神社?、名東区香坂の個人の庭に同じ社名の神社があるけれど同じということだろうか。
長久手の合戦に所縁があるのだろうか、単にあちらの神様なのだろうか?気になる。
一番右の碑はアップを撮ったつもりが残っておらず、忘れてしまいました。
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 本殿北側は公園になっており、この一画に土地改良碑が建ち、土地改良の苦労が刻まれている。
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 八王子神社の創建は1394~1427年(応永年間)の創建とされ。
今村城主松平広長の重臣稲垣広茂が1573~1592年(天正年間)にこの地に土着し、この社を氏神として崇敬した事が始まりとされる。
これまで幾度か改築再建が繰り返され、明治後期には熱田神宮の末社を譲り受け社殿としたとある。
1913年(大正2)に社拝殿、神殿周囲の塀や神門が新改築されますが、伊勢湾台風で被害を受け、1963年(昭和38)に社拝殿が再建。
その後も参集殿や鳥居等、氏子の方々の支援により現在の姿を維持している。
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 境内から社頭の眺め。
環境も変わり、周囲は静かな住宅地が広がります。
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 周囲は随分変貌したけれど、氏子に囲まれて鎮座する姿は正に美濃池町の氏神だ。

美濃池町『八王子神社』
建立 / 1394~1427年(応永年間)
祭神 / 多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命、正膳吾勝々速日天忍耳命、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命
例祭  /  10月15日直前の日曜日
住所 / 愛知県瀬戸市美濃池町127
アクセス / 八幡社⇒本地城⇒本地大塚古墳⇒宝生寺⇒『秋葉三尺坊大権現・御嶽社・笠松と権道路』⇒​大黒社⇒八王子神社​​​(大黒社から車で5分程)


吉備津彦神社

​から中山を車で​5分程​走り、西の麓に回り込むだけで、備中国一ノ宮「吉備津神社」到着です。
二つの国の一ノ宮が中山を境に背中合わせで鎮座する形になります。
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 売店の前の駐車場に車を停め、右方向に歩けば「吉備津神社」の社頭です。
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 売店の前の道路を挟み、向かいに手水舎、手水鉢が見えています。
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その右手に苔むした石がありますが「矢置岩」というそうです。
矢置岩の由来
「社伝によれば、当社の西北8㌔の新山に温羅という鬼神あり、凶暴にして庶民を苦しむ。
大吉備津彦命は「吉備の中山」に陣取り、鬼神と互いに弓矢射るに両方の矢、空中に衝突して落つ。
そこに矢喰宮あり。また中山の主神は鬼神の矢を空中に奪取す。
当社本殿の中に祀る矢取明神はすなはちそれなり。この戦いのとき大吉備津彦命その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶ と。旧記によれば中古より箭祭の神事あり。願主は櫻羽矢または白羽の矢を献る。神官その矢を岩上に立てて交通の安全を祈る。のちその矢を御蔵矢神社に納むる例なりき と。
この神事いつしか中絶せしが昭和35年岡山県弓道連盟の奉仕により復活され、毎年正月3日ここに矢立の神事を斎行することとなれり。」

ここから北西の鬼の城跡に鬼の陣があり、中山に陣を取った桃太郎がこの岩に矢を置き壮絶な戦いを演じたと、戦いで放たれた矢同士が衝突し落ちた所に矢喰宮ができ、鬼が放った矢を奪いそれを祀ったのが矢取明神。ということの様で、どちらも脅威の飛距離と精度があったようです。
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 矢置岩の右の注連縄鳥居の先に緩やかな石段が伸び、その先に赤い髄神門が見えています。
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この石段を登り切ると重要文化財の「北随神門」のある境内となります。
入母屋檜皮葺で朱と壁の白のコントラストが印象的なこの門は室町時代中期に再建されたとされる。
この門をくぐると目の前に拝殿へ続く石段があります。
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 石段の先は拝殿へと続く、視線の先に「吉備津宮」の額と菊紋の入った赤い提灯が見える。
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 拝殿前から北随神門を眺める、間近にある檜皮葺の屋根が眼下に見える程、石段の傾斜はきつい。
提灯の裏側は桐紋。
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 拝殿の「平賊安民」の額。
賊(鬼)を退治し、民に平安をもたらすということでいいのか。
勝てば官軍、負ければ賊軍。負けた温羅は伝説の鬼になった。
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 大きな額が掲げられ、拝殿内には白と緑の御幣が見える。
主祭神は大吉備津彦命を祀り、相殿神に御友別命、仲彦命、千々速比売命、倭迹迹日百襲姫命、日子刺肩別命、倭迹迹日稚屋媛命、彦寤間命、若日子建吉備津日子命が祀られる。
神社の創建は仁徳天皇が命じたとか、大吉備津彦命の子孫の加夜臣奈留美命が創建したのではとか諸説あり不明の様ですが、備中国一ノ宮に相応しい長い歴史を持った神社である事に間違いはない。
参拝。
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 上
拝殿の右から本殿と沿うように山の起伏のままに「廻廊」が伸びる。

その途中の「南随神門」から廻廊の眺め、こちらの門は北随神門の姿に似ており、屋根が瓦葺。
1357年(延文2)の再建で吉備津彦神社の伽藍の中では最古の建造物。
廻廊の屋根があり、門の全景を撮り忘れてしまったようです。
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 廻廊を下に進みます、左手の斜面に複数の社が建てられています。
「吉備津えびす宮」
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明治時代に一度は荒廃に陥ったそうですが、後に崇敬者によりこの場所に新築されたもの。
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 廻廊の右側の神池の小島に建つ赤い社は「宇賀神社」。
商売の神で吉備国最古の吉備神が祀られているという。
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 「岩山宮」
廻廊から鳥居をくぐり、吉備の中山の山腹に続く石段の先に鎮座する。
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 入母屋瓦葺の向拝が付けられた小さな社です、吉備国の地主神が祀られている。
祭神 / 建日分別神
社の前には廻廊を下に見ながら平行するように参道が整備され、斜面に建つ社を参拝して回れます。
廻廊まで上り下りしなくてもいいのは有難い。
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 左が「祖霊社」、右は「水子慰霊社」。
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 参道を更に進むと赤い社が三つ祀られています、左から春日宮、大神宮、八幡宮と並び、これら合わせて「三社宮」と呼ぶようです。
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 拝殿から続くこの廻廊は境内南の南本宮社まで真っすぐに続きます。
1579年(天正7)に再建されたもので、長さは360㍍にもおよび、途中のお釜殿(現在covid-19対策で鳴釜神事は中止中)や御供殿などに続く廻廊が接続します。
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 廻廊南口の旧社務所付近の狛犬。
額中央に角があるもので、苔むして落ち着き払った風貌は貫禄すら漂う。
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 南社頭から正面の本宮社方向の眺め。
右に社号標とその先に注連縄鳥居がある。
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 「本宮社」
切妻瓦葺の平入拝殿で本殿は流造、廻廊はここまで続きます。
御崎社、新宮社、本宮社、内宮社、御崎社の五社相殿で、吉備津五所大明神(本社正宮、本宮社、新宮社、内宮社、岩山宮)のうち、本宮社と新宮社、内宮社の三社が合祀されている。
祭神  /  孝霊天皇・吉備武彦命・百田弓矢姫命
安産と子育ての神として崇敬されているようです。
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 本宮社の守護にあたる狛犬は南社頭の落ち着いた狛犬に比べ小柄で躍動感のある姿。
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 玉取り、子取りで対の狛犬は良く見かけますが、こちらは阿形吽形共に小さな体に見合わない大きな球を持っています。
玉や子が施されるには子孫繁栄であり、物事うまく転がるようにとか諸説あります。
そこには先人の思いが込められているようです。
COVID-19との長い付き合いを求められる現在であれば、丸い球にトゲトゲのついた玉がお目見えする事になるやも。
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 本宮社後方から拝殿方向の眺め、左に赤い社が見えます。27
 急峻な山肌にへばりつくように建つ社は「瀧祭宮」。
社の台座の下に二つ樋があり、山肌から湧き出る地下水がここから流れ出て二筋の滝になります。
ようやく咲き始めた桜、この時期では湧水も枯れているようで、滝のように流れ出る光景は見られませんでした。
ここが境内の南端と云ってもいいでしょう。
ここから梅林や紫陽花園を経て本殿方向に戻ります。
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 岩山宮の前を過ぎ本殿に向かう途中の巨樹に視線が止まる、その脇には小さな宝塔が建っています。
「如法経塔」
中山には多くの遺物遺跡が多く点在しますが、神社の古図に如法経塔と記され、神仏習合時代の名残を伝えるもの。
現在も経が納められているのか定かではありませんが、室町時代のものではないかとされます。
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 参道を進むと鳥居が現れ、その先に「一童社」の社殿が見えてきます。
学問、芸能の神様を祀り、江戸時代より崇敬され続けているそうです。
合格祈願の絵馬が掛けられていました。
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 上
一童社拝殿全景、願いが叶った報告に再び訪れ、達磨を納め感謝を伝える。

一童社の右にある蔵造りの建物。五三の桐紋が掲げられているけれど詳細は不明。
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 一童社の先は一段下がり本殿域が広がり、目の前には個性的で複雑な屋根を持つ本殿が間近に見られます。
比翼入母屋造と呼ばれ、他に類を見ない造から吉備津造とも云われます。
檜皮葺の入母屋造に二つの棟が連なり、本殿と拝殿が一つとなり、威厳と優美さを併せ持つ姿を形作っています。この大きさは八坂神社に次ぐ大きさを誇るようです。
また、土台となる白い部分は白漆喰で作られた亀腹と呼ばれ、その上に建てられています。
素木の本殿ですが、その昔は朱塗りだったともいわれます、亀腹の白と朱塗りの本殿、結構派手だったのかもしれません。
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 二つの棟に施された外研ぎの千木と二本の鰹木。
金色の飾り金具が施されているけれど、過度に使われていないので落ち着いた外観。

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 屋根は軒に向け曲線を描き反って行きます。
現在の本殿、拝殿は1425年(応永32)に再建されたもの。
主祭神 / 大吉備津彦命

大吉備津彦命は281歳で亡くなり、中山頂きに葬られますが、そうした事から延命長寿の守護神として、厄除け、家内安全、病気平癒、子育て守護、産業興隆のご利益を授かりに訪れる参拝客は絶えない。
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 本殿域の東に祈祷殿、その左は祈祷殿を凌ぐ高さを誇る大イチョウ、樹齢は600年を超えるともいわれるそうです。
落葉の頃は境内に黄色の絨毯を敷き詰めたようになるのではないでしょうか。
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 大イチョウの左の社務所、ここから再び石段があり、北随神門に至ります。

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 北随神門と拝殿のある授与所方向の眺め。
これで右の石段から拝殿、回廊、本殿とぐるっと一周した事になります。
一ノ宮に相応しい大きな境内と美しい本殿を持った、桃太郎伝説の伝わる神社です。

備中国一ノ宮「吉備津神社」
創建 / 不明
祭神 / 大吉備津彦命
本殿 / 吉備津造
境内社 / 一童社、岩山宮、えびす宮、祖霊社、水子慰霊社、三社宮、本宮社、瀧祭神社、宇賀神社
住所 / ​岡山県岡山市北区吉備津931​​

※3/23時点ではお釜殿の神事はや御朱印はCOVID-19対策から開場、御朱印は16時まででしたが現在神事は休止されています。 御朱印についても確認される事をお勧めします。
因みに、我が家が辿り着いたのは16時を過ぎており御朱印は終了していました、吉備の國一ノ宮御朱印はまたの課題です。

宝生寺境内の一画に鎮座する「尾張ゑびす大黒社」
以前記載した「秋葉三尺坊大権現・御嶽神社・笠松と権道路」の参道の突き当りになります。
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 境内入口には数台駐車余地はありますが、車は宝生寺参拝駐車場をお勧めします。
社頭右に「尾張ゑびす大黒社」社標が立っています。
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 社頭右の手水鉢。
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 龍はお休みの様です。
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 南に延びる境内、社頭左から札所?かな、その先に個性的な造りの社殿が佇んでいます。
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こちらは1月5日、初えびす大祭が催されます。
地元の方のみならず、遠方から訪れた参拝客で、この寂れた境内は人で埋まるようです。
普段は訪れる方は少ないようで、こちらの御朱印は宝生寺で頂きます。
御朱印収集を楽しまれている方は寺と神社の御朱印帳をお忘れなく。
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 「尾張ゑびす大黒社」は瀬戸市内を見渡すことのできる高台、その端っこに北を背にして建っています。境内はこちらの大社造の本殿のみで鳥居も狛犬は見かけませんでした。
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 高く積まれた石垣の上に切妻、妻入りの本殿が建ち、本殿に続く石段の傾斜に合わせる様に本殿の妻に屋根が繋がります。
屋根の勾配は急ですが、緩やかな曲線を持っています。
縦にスパッと切り落とされた外研ぎの千木と3本の鰹木が飾られています。
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 斜めから眺める姿は美しいものがあります。
これで周囲の桜が満開を迎えていれば一層映えるのでしょうが、本殿周辺の桜はまだ早かった。
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 向拝柱の左に美保神社、奥の柱には事代主大神、 右に出雲大社、大国主大神と社名札がある。

御存知のように島根県の出雲大社は縁結びの神様として広く知られ、国造りの神、農業、商業、医療の神「大国主大神」をお祀りします。

美保神社は商売繁盛、漁業、海運、田の虫除けの神「事代主大神」をお祀りし崇敬されていますが、尾張ゑびす大黒社は正式な分社として1976年(昭和51)に造営されたもの、それから半世紀に満たないけれど地元では親しみを込め「えびすさん」と呼ばれているようです。

参拝作法は「二礼・四拍手・一礼」、なかなか馴染めない。

余談ですが、近頃「大黒様」と聞くと携帯電話のCMに登場する、あのキャラのイメージが真っ先に出てきてしまう、巣ごもりで相当すりこまれている。
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 本殿側面全景。
この右は崖っぷち。
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 北側の赤津川の堤から丘の頂にポツンと鎮座する「尾張ゑびす大黒社」の眺め。
丘の高みから氏子の住む麓の町を見守る様に佇んでいます、右の木々の生い茂る辺りが御嶽神社や秋葉社が鎮座し、右に少し下がった辺りに宝生寺があります。
ここなら川が氾濫しても二度と被害に遭う事はないでしょう。
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 本殿北側は麓の街並みと田畑の広がる光景が広がり、その先の瀬戸街並みも見通せます。
周囲の動きは手に取る様に見えます、家康がここに陣を置いた気持ちも分かるような気がします。
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 巣ごもり生活は気も滅入ってきます。
既に散ってしまっただろうけど、境内で咲き始めていた桜の写真を入れておこう。
2020/3/29

『尾張ゑびす大黒社』
建立 / 1976年(昭和51)
祭神 / 大国主大神、事代主大神
住所 / 愛知県瀬戸市駒前町
アクセス / ​八幡社⇒本地城⇒本地大塚古墳⇒宝生寺⇒『秋葉三尺坊大権現・御嶽神社・笠松と権道路』⇒大黒社は目の前​​

岡山県岡山市北区一宮 「備前国一ノ宮 吉備津彦神社」

吉備の中山の北東の麓に鎮座する広い境内を持つ神社です。
この山は岡山平野の北東にあり、古くから和歌に歌われ、清少納言の枕草子にも書かれるなど、この地方ではよく知られる山です。
そして桃太郎伝説のモデルとも云われる大吉備津彦命を祀ります。
境内には桃太郎のお供、猿(楽々森彦命)、キジ(留玉臣命)、犬(犬飼武命)、桃太郎の中で鬼を演じた温羅を祀る温羅神社など桃太郎の出演者が勢ぞろい。
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 「吉備津彦神社」の社頭から眺める中山は、標高は170㍍程の里山ですが、この山の西麓には備中一宮の「吉備津神社」が鎮座し、同じ山の麓に二つの國の一之宮が鎮座します。
このことからも互いの國にとって神聖な山だったのが分かります、中山の由来は両社の中心ということからきているようです。
県道61号線と吉備の中山道が交わる場所に社頭があります。
石鳥居の両脇で赤黒い大きな狛犬がお出迎え、石畳の参道は随神門へ真っすぐに伸びています。
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 「社頭の狛犬」吽形
これは石ではなく焼き物、尾張の陶器製の狛犬は瀬戸や美濃焼の狛犬が多いけれど、ここは地元備前焼きの狛犬。
岡山市から北東の伊部を中心に造られる備前焼は釉薬は使わず、土の風合いと温もりを感じる素朴な焼き物です。写真で大きさが伝わらないでしょうが140㌢はある立派な狛犬です。
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 「社頭の狛犬」阿形
いずれも骨太で筋肉質の逞しい姿をしています。
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吉備津彦神社案内図
この案内図には書かれていないけれど、この山は社殿を設ける以前の古い祭祀形式の磐座や、古墳が点在し、太古から崇拝対象の山として周辺も栄えていたのでしょう。
社頭の鳥居の左右に神池があり、中央に参道が設けられ、その先に伽藍が広がります。
別名を「朝日の宮」とも云われ、夏至の日の朝陽が正面鳥居から祭文殿の鏡に当たる様に巧みに計算された伽藍となっているそうです。
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 左右の神池、松並木の続く石畳の参道の先に髄神門が間近に見えてきます。
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 参道左の神池の中ほどに浮かぶ小島は「亀島」。
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 亀島の注連縄鳥居の先に鎮座する社が「亀島神社」。
髄神門の中央からの方位から亀島神社は水の神とされるそうです。
御祭神 / 市寸島比売命
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 参道を挟み右側に対峙するように浮かぶ小島が「鶴島」。
そこに鎮座する鶴島神社は海上安全の神様。
亀島同様にその方位から風の神とされているそうです。
御祭神 / 底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后
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 参道中ほどから社頭の眺め。
夏至の日の朝陽はこの鳥居から祭文殿に光の道を作る、神々しい光景が見られる。
目の前をJR吉備線(桃太郎線)の赤い電車が通り過ぎて行きます。
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 神池に架かる「太鼓橋」鶴島と亀島の間を縦断する参道に架かる石橋。
車輌参道として埋没していたものを、平成16年の参道整備の際に復元されたもの。
創建は定かではないようです。
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 「随神門」。
1697年(元禄10)に備前岡山藩主の池田綱政が造営したものとされ、シックな外観の門。
綱政は後楽園の造園を命じた事でも知られています。
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 随神門に掲げられた額も外観同様にシンプルなもの。
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 「随神」。
左/豊磐窓命、右/櫛磐窓命の二柱が髄神としてお祀りされています。
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 随神門をくぐると一際存在感のある大燈籠。
高さ11.5m.、笠石は8畳と云われ、大きでは日本一と云われる燈籠です。
文政13年(1830年)から安政4年(1857年)の27年にも渡り寄付がよせられ、1859年(安政6)に天下泰平を祈願し建立されたそうです。
建立にあたり27年の長きにわたる寄付を募り、6段づくりの石段には数えきれない奉納者の名が刻まれています。
正面に聳える大きな木は、樹齢千年以上と云われる御神木の杉です。
「この大杉に龍の宿る」という伝承のある、吉備津彦神社を象徴する巨木。
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 「手水舎、手水鉢」
1697年(元禄10)に池田綱政が社殿を造営した際、石工の河内屋治兵衛が奉納した手水鉢です。
河内屋治兵衛は、和泉の國(現在の大阪南西部)に生まれ、江戸期の岡山で活躍した石工。
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 石段の先にある拝殿の上に、中山に落ちようとする夕陽が眩しい。
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 「社殿全景」
現存の本殿は1668年(寛文8)に池田光政が造営に着手、その後の1697年(元禄10)綱政の時に完成した。
流麗な流作りの本殿は当時の社殿建築の技術の粋がつくされたもの。
この流造は吉備国の神社建築の伝統とする正統な姿のものらしい。
この姿は古代の熱田神宮の伽藍にならったものと云われ、拝殿、祭文殿、渡殿、本殿が一直線に配置されたもの。
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「拝殿前の狛犬」
こちらも石ではなく焼き物、社頭の狛犬に比べスリムで各部のシルエットはよりはっきりと作られています。
年代が違うこともあるのでしょう、色は随分変色し、日焼けが冷めたような印象。
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 拝殿に掲げられた「一品一宮」の額と拝殿内から祭文殿の眺め。
御祭神 / 大吉備津彦命 
相殿 / 吉備津彦命、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、彦刺肩別命、天足彦國押人命、大倭迹々日百襲比賣命、大倭迹々日稚屋比賣命、金山彦大神、大山咋大神
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 入母屋造り平入向拝付きの拝殿の南側からの眺め。
派手さはないけれどシックな佇まいは、一ノ宮としての風格が漂います。
訪れたのが3/23、この頃の境内の桜はちらほら、蕾が大きく膨らみ一気にスイッチは入りそうな感じです。21
 拝殿から渡廊で「祭文殿」に繋がっていきます。22
 祭文殿の先の「渡殿」
ここから、本殿にかけてり神域は拝殿域より一段高くなるからか、渡廊はありません。
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 「本殿」
唯一檜皮葺で外研ぎの千木が施された流造の本殿、周囲を透塀が取り囲んでいます。
背後の吉備の中山に巨大な天津磐座磐境を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。
大吉備津彦命は吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てたのが始まりと言われ、その後佛教も入り、神宮寺や法華堂など伽藍は伽藍は51社を具えたと云われます。
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 写真上
本殿左の神域
石の社は岩山神社の社。
御祭神  /  建日方別命、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀り中山主神とも呼ばれるそうです。

右の社は尺御崎神社で本殿両脇に二社が祀られています。
御祭神 /  夜目麻呂命  夜目山主命
吉備津彦命の従者がお祀りされていて楽御崎の2社と共に本殿を守るように配祀されています。 あたかも桃太郎さんと共に鬼退治をした猿、雉、犬たちが、今でもお仕えしているかのようです
写真下
楽御崎神社
御祭神 / 楽々与里彦命
本殿の両脇に祀られています、吉備津彦命の吉備の国平定の際に活躍した従者が祀られています。
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 背後の吉備の中山には巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)があり、山全体が神の山として崇敬されてきました。吉備津彦命は吉備中山の麓の屋敷跡に永住し社殿を建てたのが始まりと言われ、その後佛教も入り、神宮寺や法華堂など伽藍は51社を具えたと云われます。
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 拝殿脇のこの建物と社務所の間から境内を一旦出て、中山に続く参道に向かいます。
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 境内から左に出ると、社殿と並行するように赤い鳥居が連なり、参道の先は「稲荷神社」に至ります。
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 上
稲荷神社に向かう参道から、流造の本殿の側面の眺望がきき、流麗な屋根の曲線が見て取れます

稲荷鳥居が途切れるあたりから左に、複数の社が現れます。
それらの後方は山の傾斜を生かした段々畑で、その中に大きな石碑も建っています。
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 上
「温羅神社」
御祭神 / 温羅の和魂 童話桃太郎で吉備津彦命と戦った温羅は鬼とされていますが、吉備の国に様々な文化をもたらし「吉備の冠者」の名を吉備津彦命に献上したとされ、温羅の和やかな和魂を祀ります。


「十柱神社」
吉備海部直祖、山田日芸丸、 和田叔奈麿、針間字自可直、夜目山主、栗坂富玉臣、忍海直祖、片岡健命、 八枝麿、夜目丸の十柱が祀られている。
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 上
「牛馬神社」
保食神を祀る。
左後方の一段高い場所に「忠魂の碑」がありますが、この土台となる石も磐座ではないかとされています。

「祖霊社」
吉備津彦神社歴代社家の霊が祭られている。
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 上
赤い稲荷鳥居が途切れると石鳥居が現れ、参道は石段に変わり稲荷神社の社に続く。

「ト方神社」
鳥居を過ぎた左手の斜面に鎮座する小さな社。
御祭神 / 輝武命 火星照命
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 「稲荷神社」
石段を上り詰めた先の小さな境内に社があります。
御祭神 / 倉稲魂命 
五穀豊穣、商売繁盛、諸業繁栄、生産の神、この地方では最も早くから祀られたと云われます。

本殿左はここまでにして、次に本殿右の摂末社に向かいます。
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 本殿右からの眺め。
流造りの特徴である、緩やかな曲線を描きながら、長く延びる向拝。
良く三間流造とか耳にしますが、正面から見て柱が4本あれば柱の間が三つなので三間社と呼びます。
柱が2本だと柱の間は一つしかないので一間社、身近で良く目にするのがこれが多いようです。
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 上
これも流造、柱は2本なので一間流造。
本殿域右側の手前にある社は「楽御崎神社」御祭神 / 楽々森彦命
赤い社の子安神社が右の高台に見えています。

本殿域右奥の社「尺御崎神社」
御祭神  / 夜目山主命

「楽御崎神社」と「尺御崎神社」は桃太郎のお供の猿、犬、雉の様に本殿左右に祀られています。

ここから右に参道が続き子安神社へ続きます。
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 参道を右に進むと正面に天満宮に至ります。
「天満宮」
御祭神 / 菅原道真公
学問の神さまとして知られる菅原道真ですが、901年(延喜元年)に太宰府に向かう道中の道真が吉備津彦神社に立ち寄ったとされ、古くから天満神社が祀られていたという。
元々の社殿は老朽化により、1909年(明治42)以降は他の末社に合祀されていたそうです。
2005年(平成17)に新たな社殿が再建され現在の姿となっています。

天満宮の左に石鳥居があり、そこから上に続く石段の先が先程の「子安神社」、右手には複数の社が祀られているのが分かります。手持ちの小銭も心細くなってきました。
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 上
鳥居から朱が印象的な摂社の「子安神社拝殿」を見上げる。
祭神は伊邪那岐命、 伊邪那美命、 木花佐久夜姫命、 玉依姫命を祀ります。

横からの見た社殿全景
古来より縁結び、子授け、安産、育児の神様として崇められ、神社周辺に生えるワラビを採り、夫婦で食べると子宝に恵まれるという伝承があるようです。
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 子安神社の右に七社が整然と並び祀られています。

 一つ一つ参拝していきます。
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 上段左から 下宮 / 倭比賣命、伊勢宮 / 天照大神
下段左から 幸神社 / 猿田彦命、鯉喰神社 / 楽々森彦命荒魂 39
 上段左から矢喰神社 / 吉備津彦命御矢、坂樹神社 /  句句廼馳神 
下段 祓神社 / 祓戸神
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 神聖な中山の杜の麓に佇む社の姿はここだけでも厳粛な空気が伝わってきます。

天満宮、子安神社の社頭の前は参拝者駐車場となっていて、車の場合はここが便利で、左に進めば吉備津彦神社の大燈籠に続きます、社頭の狛犬に遭うには一旦戻る事になります。
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 広い参拝者駐車場の外れには中山森造氏の手による桃太郎と家来のセメント像が東を向いて立っています。
視線の先は神池に浮かぶ鶴池とその先に赤い電車が通り過ぎる長閑な光景があります。
吉備津彦神社は歴史と風格のある一ノ宮に相応しい神社でした。

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 訪れた当日はCOVID-19感染防止対策として、手渡しによる御朱印帳の記載を取りやめ、書置きに変更されていました。


備前国一ノ宮「吉備津彦神社」
創建 / 不明
祭神 / 大吉備津彦命
本殿 / 流造
境内社 / 子安神社、天満宮、霧島神社、亀島神社、稲荷神社、十柱神社、牛馬神社、温羅神社、祖霊社、七つの末社など
住所 / ​岡山県岡山市北区一宮1043

タイトルなし

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