尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2020年05月

神領銅鐸出土地のある貴船神社から北西方向へ徒歩で10分、道すがらに神領銅鐸を保管するという瑞雲寺、その先の高御堂古墳を左に見ながら「堀ノ内町表」の交差点へ。
交差点を右折し県道75号線を道なりに進むと左手に石鳥居と赤い鳥居が見えてきます。
春日井市堀ノ内町の「神明神社」が今回の目的地。
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 県道75号線沿いに鎮座し、境内はぐるりと玉垣で囲われています。
この神社の立地は北に内津川、南に庄内川が流れ、その間に神社が鎮座します。
豊かな土壌を生かし古くから人が居住し田畑が広がる農村地帯でしたが、今は田畑は減少し周囲は住宅地に変貌しています。
現座の町名「堀ノ内」は、嘗て豪族が堀で囲った中に館を構え住んでいたそうです。
やがて集落ができ堀ノ内と呼ぶようになったらしい。
「堀ノ内町表」の交差点角に高御堂古墳がありますが、一説には古墳が堀で周囲を囲われていたから「堀ノ内」になったともいわれるようです。

個人的には二つの川に挟まれた土地柄こそ、堀の内側の様に感じてしまいます。
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 県道脇の右手に社号標、石の神明鳥居があり、その先で右手に折れ赤い明神鳥居へ続きます。
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 神明神社、ニノ鳥居から境内の眺め。
石畳は真っすぐに拝殿へ続いていきます。
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ニノ鳥居をくぐった右側に手水鉢、年号は見忘れましたが、そこそこ年期が入っていそうです。
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 立派な灯篭の先に狛犬が守護する拝殿、境内右奥に小さな覆屋があるようです。
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 拝殿前の狛犬は1937年(昭和12)のもの、なかなか凛々しい姿です。
今回は奉納年度を悉く見忘れ、神社創建を知る手がかりとなるものは少ない。
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 神明神社全景、ほぼ玉垣で囲われています。

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 拝殿の軒先瓦には五三の桐紋が入り、止め蓋に逆立ちした獅子、棟瓦には神明社とある。
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シンプルな瓦葺の切妻造りの四方吹き抜けの拝殿ですが、其処彼処に彫飾りが施されています。
腕の見せ所と云わんばかりに梁には手の込んだ馬と龍が飾られています。
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こちらは松、その枝の下に象の鼻の様にうねった長い物は何だろう、苦手なやつか?
木鼻には今にも飛び掛からんとする獅子?が彫られています。
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 拝殿内から幣殿の眺め、拝殿の額も神明社とある、その先には狛狐がお見えの様です。
参拝を済ませ境内をひと回りします。
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 玉垣の中の彼らに近寄る事はできませんが、痩せた狐は悲壮感が漂うけれど、彼らはそうではなさそうです、健康的なフォルムをしています。
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 幣殿と本殿は神明造の様です、共に在来工法のもので年月が経っていないのか綺麗な外観をしています。
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 本殿後方から拝殿方向を眺める。
棟には内削ぎの千木と6本の鰹木が施されています。
堀ノ内町「神明神社」の創建がいつ頃なのかは定かではありません。
祭神は天照大御神。
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 神社のある堀ノ内周辺の移り変わり。
右がほぼ現在、左が1891年頃、この頃の地図に神明神社の鳥居は記されています。
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 実際に見てはいないけれど、棟札に1602年(慶長7)に再建の棟札があるそうで、「この社、堀ノ内村にあり」と記されているといいます。
上の写真は手水鉢の右に建てられた幟立てらしき石柱、そこに1799年(寛政11)と記されていることからも祭祀形態はともかく、結構古くから鎮座している様です。
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 本殿右に御嶽大神が祀られ、霊神碑や左手に霊神像が見て取れます。
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 隣接して石碑が並んでいます。
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 左から山神、中央に廿二夜塔(特定の月齢の月夜に講の信者が集まり、飲む的な)、右が読み取れない。
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 後方に御嶽大神の解説。
もともとは「堀ノ内町表」の交差点角の古墳の頂に祀られていたようだ。
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 本殿右の立派な鞘殿。
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 津島神社の神札が納められています。
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 鞘殿の右に脇参道があり境内の外れにも小さな鞘殿。
この一社のみ北方向に向いて祀られています、中には赤い社が。
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 周辺の宅地化にともないここに祀られた天王社だろうか。
立派な鞘殿の中で扉の開けられた赤い社、中には津島神社の神札が見られます。
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 伽藍は新しいけれど、「神明神社」は堀ノ内町の氏神様として古くからここに鎮座しているようです。

堀ノ内町「神明神社」
創建 / 不明
祭神 / 天照大御神
境内社
   津島神社、天王社 / 牛頭天王 、須佐之男命
   稲荷社、御嶽大神、廿二夜塔、山神
住所 / 春日井市堀ノ内町2丁目(​神領貴船神社から徒歩10分程​)
公共交通機関アクセス / JR中央線​「神領」から南へ徒歩10分
関連記事 / ​春日井市神領「貴船神社」

名古屋市守山区幸心「天王社」
JR中央線「新守山」駅から北に徒歩15分の位置にあたり、JRのアンダーパスを超え西へ。
小さな用水路沿いを右へ進みます。宝勝寺西天王社から徒歩だと北に30分程の場所になります。

因みにこのまま西に進んで国道19号線を越えた右手に酒蔵(東春酒造)があり、酒蔵と水屋造も見ることができます。
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用水路沿いに歩き出すとすぐに道は写真の様な三叉路になります。
守山区幸心「天王社」の天王社は別れ道の中央の角地に鎮座しています。
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船の舳先の様な敷地に南を向いて祀られる天王社。
覆屋こそないものの、シンボルカラーで塗装された社は、守山で良く見かける天王社の路線です。
この先の庄内川も間近です。
いつ頃からこの立地なのか遡ってみました。
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上段左が大正時代、右が昭和初期、下はほぼ現在でマーカーが天王社。
大正時代は用水路の西は一面の水田、そこに地道が現れるのが昭和初期の事、現在の区割りの原型はこの頃できたようです。
一面の水田だった当時から下の地図を見ると水田は姿を消し宅地に変貌しています。
この東に流れる用水路は八ヶ村用水と呼ばれ、御用水路と郷合川の水源の目的も兼ねた灌漑用の水路。
現在は灌漑としてのニーズがどれほどなのか定かではないけれど、街中にポツンと残る水田を今も潤しているのだろう。
八ヶ村は幸心、瀬古、川、牛牧、大森垣外、大永寺、金屋坊、守山を指すようです。
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交差点東から見た天王社。
赤く塗られた社は色褪せ、遠目に見ると周囲に景観に溶け込み存在感は薄いかな。
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天王社全景。
この社がいつからここにあるのか、詳細は分かりません、現在の立地になったのが昭和初期のようなのでその頃ではないかと思われます。
外観から訪れる方は少ないような印象を受けます。
交差点の真ん中にあり、気軽にお参りできる環境ではないのかな。

後方の石碑は幸心土地改良記念碑。
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赤い板宮造、そろそろ化粧直しの時期を迎えているのかも。
朽ちる始めると早いものです、次訪れる時に鮮やかな赤で存在をアピールしてくれているのではないだろうか。 ささやかな気持ちを添え参拝させて頂きました。

守山区幸心「天王社」
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / ​名古屋市守山区幸心3-1702
公共交通機関アクセス / ​JR中央線「新守山」駅下車 北に徒歩15分程
関連記事 /   ​宝勝寺西の天王社』

春日井市神領町1『貴船神社』
神領町の『三明神社』の前の通りを​南へ5分程​歩きます。
やがて左手の保育園を通り過ぎると小学校が正面に現れ、道はそこから右に続きます。
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右手の角地に舗装された保育園の駐車場、その先の小さな杜が目的地「貴船神社」。
周囲は北と西が住宅街、東は保育園がありその先に庄内川右岸の堤防道路、南は小学校、静かで自然を身近に感じる事が出来る環境。
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左は1891年(明治24)と右がほぼ現在の地図、こうして見ると随分宅地化されたものです。
貴船神社は現在も明治の頃も記載はされていません。
神社の由緒は分からなかった事を最初に書いておこう。
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貴船神社は社号標や鳥居、狛犬などはなく、灯篭と拝殿、覆屋に納められた社の伽藍。
村の社そのものかもしれない。
境内入口右の「神領銅鐸」の立派な解説板が目に付く。
手前の石標は社号標ではありませんでした。
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「神領銅鐸出土地」と刻まれた石標。
今は出土当時の面影は残っていませんが、発掘当時は神社境内に接する小川があったようです。
その小川の堤から銅鐸が2点出土したようです。
この石標は銅鐸が出土した場所に建てられているそうです。
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解説板
江戸時代末期の1858年(安政5)、現在の保育園付近から2点の銅鐸が発見され、状態の良い1点は地頭が所有、もう1点の銅鐸は地元に保管されたと伝えられます。
その時の状況が 名古屋藩士の細野要斎(1811~1878)の「感興漫筆」で「神領村農民長蔵が次子仙左衛門、村東の堤畔を掘て、銅鐸二を獲たり」と記録が残る。
また、昭和4年の考古学雑誌に「庄内川の右岸堤防を隔たる西十数間、無格社木船神社の接している何等特長のない低い地点」で出土したことが紹介として掲載されているといいます。

2点の銅鐸は一つは破損、一つは原型を留めていたそうです。
破損した銅鐸は復元され、神領区有の銅鐸としてここから西に5分程の​臨済宗瑞雲寺​に保管されているそうです。原型を留めた銅鐸の行方は分からないようです。

この銅鐸は雨乞いの神具として使われ、干ばつ際には、貴船神社に住人が集まり、銅鐸を持出し庄内川の水を中に入れ、洗い清めた銅鐸を持ち帰ってたらいに入れ、竜の掛け軸の前に供え神主の祈願の祝詞と村人がお参りを繰り返したそうです。
その祈願を行うと必ず雨が降り、日照りは解消したと伝えらるそうです。
銅鐸がそうした用途で用いられていた頃は貴船神社の屋根裏に保管されていたようです。
そうした事も用心の悪さから瑞雲寺に移されたらしい。

銅鐸が作られた当時の用途は分からないけれど、そうした神事に使われてもそれはそれでいいのではないかな。物が残ってさえいれば。
行方の分からないもう一方は今頃は海を渡っているのかもしれません。
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さて、神社に進みます
右に石が組まれた常夜灯があり、その奥に小さな社と拝殿があります。
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岩の上に置かれた社は「秋葉神社」です。
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拝殿全景。
瓦葺の切妻で四方吹き抜けの拝殿で、その奥の覆屋の中に社が窺えます。
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貴船神社の鬼瓦も菊紋が入っています、三明神社の様式の流れを受けているのでしょうか。
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拝殿内から社の眺め。社は南を向いて祀られています。
創建や祭神については分かりませんが、先ほどの考古学雑誌の記述で「無格社木船神社」とあるけれど、
それ以前の「感興漫筆」に社名が出てこない事から推測し江戸以降の創建ではないかと思います。
こうした事が解説として整備されていくといいのだが。
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一段高い台座の上に祀られた板宮造りの社、秋葉神社はまめに訪れる方が見えるようです、最近は水事情も良くなり、こちらに頻繁に訪れる方は少ないようです。
境内のさつきが唯一彩りを与えています。
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貴船神社側面全景
銅鐸が出土した古墳の痕跡を留めるものは石標以外皆無です。
いずれにしても春日井や東部丘陵地帯には多くの古墳があり、宅地化に伴い現存しないものも多いですが、古くから人が住み、豪族がいたという事でしょう。


春日井市神領町『貴船神社』
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / ​春日井市神領町1丁目14
公共交通機関アクセス / JR中央本線「神領」駅下車、​南へ徒歩15分程
関連記事 / 春日井市神領町『三明神社』

兵庫県淡路市多賀『伊弉諾神宮』
古事記・日本書紀の冒頭に創祀が記され、国生み神話に登場する伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀る日本最古と云われる神宮で淡路國一宮。
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 右に社号標と大きな石灯籠。
右の石灯篭には「修理」、左は「固成」と彫られ「つくり・かためなせ」、古事記の最初に出てくる言葉で、天の神様たちが伊耶那岐命と伊耶那美命に「国土をあるべき姿に整え(修理)、固め(固成)なさい」と命じ、天の沼矛を授け天の浮き橋から沼矛で下界をかき回し、沼矛の先から落ちた滴が島となり国生みの始まりとなった神話、その島がここ淡路島です。
国産み、神産みを終えた伊弉諾尊は、最初に生んだ淡路島に戻り幽宮を構え余生を過ごしたのが伊弉諾神宮の起源とされています。

一ノ鳥居は大きな石の神明鳥居、花崗岩で作られたものでは国内最大規模とされるそうで
阪神淡路大震災(1995年)で被災、その後再建されたという事です。
鳥居から石灯籠が続く真っすぐ伸びる参道、その先にニノ鳥居。

鳥居左の光景にご注目です。
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 鳥居両脇の狛犬
写真に収めた狛犬は大きさが掴みにくいかもしれませんが、前の写真で馬に乗り参拝される姿があります。数値より対比する事で大きさをイメージしてください。
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 灯篭が並ぶ参道は玉砂利が敷き詰められ、踏みしめる音は特別な空間にいる事を感じさせます。
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この右側に熊本産と淡路産のさざれ石が置かれています。
個人が抱くさざれ石は、小石が集まり固まりゴツゴツした典型的な礫岩のそのものでしたが多少イメージを改める必要がありそうです。
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ニノ鳥居から境内は広がりを見せます。
この先の放生の神池を経て、その先に正門が見えてきます。
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エリンギの様な灯篭と放生の神池に架かる神橋。
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 境内の伽藍配置図、右(南)から左(北)に進んでいきます。
エリンギのある放生の神池は配置図の中間にあたります。
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 神池の左に伊弉諾神宮由緒書き、右後方が手水舎になります。
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 切妻四脚の手水舎。
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 手水鉢に使われている石は大阪城築城に使われる目的だったようで、幕末の頃に郡家浦に沈んでいたものを引き揚げて鉢にして奉納されたものという。
その鉢には龍ではなく亀が清水を注いでいます。
神池に亀や鯉を見かけます、それは神事として病気平癒祈願に鯉を放ち、快癒に亀を放つ習慣があったことからで、そうした事もあるのでしょう。亀です。
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 放生の神池と水の神を祀る延壽之宮。
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 正門全景。
以前は随神門で三棟造りだったようですが、1883年(明治16)に建て替えられた檜皮葺の四脚の門です。

 門の手前は東西に脇参道が続きます。
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 正門から入母屋の拝殿の眺め、拝殿前を守護する狛犬は台座含めて身の丈程の大きさですが年季が入っているようです。
愛くるしい表情をしていますが、角も備えた小さくて頼もしい面々。

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 拝殿と扁額。
やたらと幟や神社庁推しの議員のポスターが目に付くのは気のせいか。
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拝殿東から拝殿本殿の眺め。

境内から眺めた正門、授与所は左でその脇には百度石が建っています。

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 拝殿右に御神木の楠木、夫婦大楠と呼ばれ樹齢は900年を超えるそうだ、元は二株だったものが一株になり、そうした事から夫婦円満、子育て、長寿にご利益があるとされます。
県の天然記念物に指定されています。
鳥居の先の社は岩楠神社。
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一間流造の岩楠神社
檜皮の様に見えるけれど色目が違い、檜皮葺ではないかもしれません、個人的に銅葺に比較すると好きな趣です。
この地方では初宮詣、七五三、神前結婚式、安産祈願のあとに詣でる神社のようです。
祭神 / 蛭子命

伊弉諾夫婦楠解説板
この樹は成長が早いのか、各地で見かける巨木に楠木が多い気がします。
枝の張りが良く、心地いい木陰を提供してくれる。
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皇大神宮遥拝所。
この遥か先がお伊勢さん。
何処に行っても大体こっちが北で生きている者として、この方向感覚には頭が下がる。

東門
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淡路祖霊社。
1875年(明治8)に創祀され、この地の英霊と神社祀職が祀られている。

拝殿右の神馬像と神輿庫。
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神輿庫には摂社の濱神社の御旅所で毎年4月22日の例祭に使われる神輿が収納されているという。

黒光りした碑が建つ頭髪感謝之碑。
髪は神にも通じるという事から建てられたものらしい。
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本殿右に位置する左右神社。
日が建っていないのだろう吹き替えられた屋根が綺麗。
伊弉諾尊の左目と右目から生まれた、天照大神と月読尊を祀り、目の病を改善してくれると云われ。
老眼とやや白内障に歳を感じる自分としてしっかりと拝んでおいた。

左右神社の後方にある、鹿島神社・住吉神社。
鹿島神社 祭神 / 建御雷神・経津主神
住吉神社 祭神 / 住吉三神
農業と武運長久を祈願し祀られたもの。

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 本殿裏の参拝所。
拝殿より間近で参拝することができます。
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 竈神社・根神社
酒造・醸造の守護神で災難除けと火伏の神として崇められている。
竈神社 祭神 / 奥津彦命、奥津姫命 竈の神様
根神社 祭神 / 須佐之男尊
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 本殿後方から幣殿方向の眺め。
檜皮葺で鰹木は6本、外研ぎの千木が施された三間流造で神門は菊紋。
本殿は1868年(明治元年)~1887年(明治20)にかけて伽藍整備が行われ、本殿は1876年(明治9)に竣功したもの。
この本殿の後背には、伊弉諾大神の神陵があり神代から禁足でした。
本殿竣功に続いて、神陵の墳丘を覆うように二重に基壇を設け、竣工後間もない本殿を神陵の真上に移築したのが現在の姿。1879年(明12)のことです。
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 少し拝殿方向に進むと幣殿中門と幣殿、本殿を見通すことができます。
本殿屋根は傷みが来ているのか補修痕があり痛々しい。
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 拝殿から幣殿本殿の眺め。
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拝殿左の祓殿の眺め。

同じ場所から正門と東門の眺め。
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 上
参拝を終えて正門を東脇参道から西方向を眺める。

同東方向の眺め。
この東西の参道、秋祭りはここが馬場となり、流鏑馬神事が行われる。
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 神池に架かる赤い橋を渡り土産物屋方向に向かいます。
神池の傍に右の石灯篭(年号不明)と左上の石碑があります、碑には書かれた文字の内容は読み取れませんでした。
左下は陽の道しるべ
陽時計の先にある石碑には日本の国土が描かれ、伊弉諾神宮のある淡路島を中心に方位が描かれ、夏至と冬至の日の出と入りの方角に線が引かれています。
夏至の日の出は諏訪大社、日の入りは出雲大社、冬至は那智大社から登り、高千穂神社に沈むのだと解説されています。
しかも北は出岩神社、東に藤原京と伊勢内宮、西は対馬の海神神社が伊弉諾神宮を中心とした線の延長にあたるそうだ。
星や陽の運行から割り出した根拠のあるものの様だ、これは進んだ技術と知識に基づく航海術そのもの。
この神社配置が意図したものか偶然なのかは知る由もないけれど国造りの始まりの地、不思議があってもいいのかも知れない。
大体あっちで生きている自分とは明らかにできが違う。
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おや?
帰りも一緒の様だ、茫然とお見送りする子供の姿が印象に残る伊弉諾神宮でした。

『伊弉諾神宮』淡路國一之宮
創建 / 不明
祭神 / 伊耶那岐命、伊耶那美命
本殿 / 流造

境内社
 延壽之宮 祭神 / 不明
 岩楠神社 祭神 / 蛭子命
 淡路祖霊社 祭神 / 当地英霊、神社祀職
 左右神社 祭神 / 天照大神、月読尊
 鹿島神社・住吉神社 祭神 / 建御雷神・経津主神・住吉三神
 竈神社・根神社 祭神 / 奥津彦命、奥津姫命 ・須佐之男尊
 
住所 / ​兵庫県淡路市多賀740
関連記事 / 阿波國一ノ宮 『大麻比古神社』

御朱印
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​守山区​鳥羽見「天王社」​から一筋東の通り、ここにも「天王社」が祀られています。
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たった今登ってきた、結構な斜度の石畳の坂を振り返ってみます。
下に見える交差点を左に進むと​鳥羽見「天王社」​に続きます。
宝勝寺の西傾斜地に位置し、西に鳥羽見の街並みが広がり眺望もいい静かな環境です。
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石畳の坂が途切れると道は左が下り坂、正面は市場方向の上り坂、右が宝勝寺西側の平坦な道の3方向分かれます。
この辺り境界なのか、左は市場5、右が市場4と番地が変わり、平坦な道を進むと道路を境に右側が鳥羽見で左側が市場になります。
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天王社へは平坦な右方向へ向かいます。
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距離にして50㍍ほど南に進んだ右に、解説らしき案内板と覆屋が視界に入ります。
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社全景、解説板かと喜んでいたけれど、残念ながら「急傾斜地崩壊危険区域」の警告板で社の由緒を語る物ではありませんでした。
余程のリスクがあるのか鳥羽見方向の西側の斜面はコンクリートで補強されています。
異常な雨が降ろうものなら、下に住む方にすれば社が祀られる裏山は脅威となり兼ねない。

この下辺りに鳥羽見『天王社』があるはずです。
現在の町割りで行くと鳥羽見1丁目に天王社は二社ある事になります。
厄介だ、ここでは以降「宝勝寺西の天王社」としておこう。
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「宝勝寺西の天王社」
覆屋は全体が赤く塗られ、守山の天王社の外観をしています。
逆光で光り輝いていた覆屋の側面は、良く見ればアクリル板。
こうして見ると向こうは透けて見えます。
こちらの覆屋は三面が囲われ風雨から社を守っています。
それだけこの社が大切にされている事が伝わってきます。
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社正面全景、覆屋は内部もちゃんと赤く塗られていますが、それに対し社はご覧の様に赤くはありません。
佇まいは守山の天王社の流れそのものなのですが、鰹木が5本、内研ぎの千木が施され、少し様相は違うような気もしてきます。ひょっとすると天王社ではないのか?
地元で大切に手入れしている社、ふらりと訪れた参拝者が知る必要はないのかも知れない。
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いつからここに祀られているのか、推測でしかないですが上の昭和61年とほぼ現在の地図で見ると、
いま社の前にあるこの道は昭和61年頃には確認できない。
意外に最近祀られたものなのかもしれません。
現在の町割りで、道路を境に鳥羽見と市場に分けられているけれど、意外に市場の天王社なのかも知れません。社の向きは市場の方角を向いているのはそのためか?
2020/05/12

『宝勝寺西の天王社』
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市守山区鳥羽見1丁目16
公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線​「矢田」駅下車 徒歩12分

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