東区筒井町4
東区筒井1丁目のもと屋根神様から東に5分程、幼稚園の東の通り沿いに湯取車納庫があります。
住宅街にあって二本の杉の木と幼稚園のクスノキの存在が目印になるか。
こちらの湯取車納庫の間口の左、玉垣で区切られた一画が目的地。
ここ筒井町から出来町周辺にかけて山車が多く保存されています。
筒井町には湯取車と神皇車の二台があり、筒井町天王まつり(毎年6月)ではそれらが町内を曳き回されます。そうした事もあり、この一帯には天王社、津島神社などを祀る小さな社が点在します。
正面に回り込み社全景を眺める。
木の常夜灯の先に6本の鰹木と内削ぎの千木が施された神明造の社が鎮座しています。
通りからは目立たなかったが小さな狛犬もいるようです。
こちらの社も以前は屋根神として軒下に祀られていたものだという。
古い区割りが残る地域だけれど、時の流れとともに街並みも変わり屋根から地上に降りるしかないのだろう。
秋葉神社、熱田社、津島神社を祀るこの社、近年再建されたようで、名古屋開府400年記念として2010年に建て替えてもらったようです。
山車を受け継ぐ風土があったからこそ、環境が変わってもこうした屋根神さまが大切にしてもらえるのかもしれない。
月次祭(1・15日)には秋葉神社、熱田社、津島神社の提灯が吊るされ、幕も張られてドレスアップした姿を見られるようです。
社を守護する彼らの年代は不明ですが、随分と年月が経っているようです。
角の取れた丸い面々が社を守護しています。
社がいつ頃地上に降りたのか分からないけれど、その時からここで守護しているのだろう。
彼らの様に歳とともに丸くならないとね。
2020/06/30
東区筒井町4 「秋葉神社、熱田社、津島神社」
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市東区筒井町4-20
アクセス / 市営地下鉄桜通線「車道」駅下車北に、筒井1丁目の屋根神様経由で徒歩15分程
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2020年06月
大本山 増上寺
東京の方にはお馴染みの芝公園増上寺を訪れる。
それはCOVID-19が身近な存在として感じ始めた2月の事。
ビル街に忽然と増上寺の表門である大門が現れる。
この門は旧大門の老朽化に伴い、昭和12年にオリジナルを踏襲し、1.5倍の大きさにして再建されたコンクリート製の高麗門。
面白いのは過去に困窮していた増上寺はこの門の所有権を当時の東京府に寄付したそうです。
その後も所有権は東京都にあったようです、一時困窮していた増上寺も寺勢を取り戻し、門の返却を求めたそうですが、いつからか台帳から抜け落ち、門の所有権が誰のものか不明となっていたそうです。2016年漸く元の増上寺に返還されたもの。ありがちな話かもしれない。
大門の先には赤い三解脱門と東京タワー。
新と旧のシンボルが一枚に収まるのも東京ならではの光景。
三解脱門の右に大きな寺号標。
「三解脱門」
増上寺の顔と云ってもいいだろう、3つの煩悩から解脱する門で、三つの煩悩とは「むさぼり、いかり、おろかさ」だとゆう。
重要文化財に指定されている三解脱門、建立は1622年(元和8)に建立されて再建されたものという。
重厚な瓦葺の二層の門で山号額は「三縁山」、楼上には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています
赤門だね。
境内マップ。
創建は1393年(明徳4)と600年以上の歴史を持つ寺ですが、空襲をはじめ幾度となく伽藍は
焼失し、その都度再建され現在に至っています。
なので古い建造物は少ない。
三解脱門をくぐった境内の左に手水舎。
もとは増上寺裏手の6代将軍家宣の父親、徳川綱重の霊廟にあったもの。
空襲の被害を免れ、焼失し再建される前の霊廟建築の名残を伝えるものです。
三解脱門を入ってすぐに「グラント松」と呼ばれる大きな松が聳えています。
1879年(明治12)、アメリカ第18代大統領グラント将軍が国賓として招かれ、増上寺に参拝した記念にこの樹を植えたそうです。
松と呼ぶには一風かわった大樹である。スギといってもいいだろう。
正式名称はヒマラヤスギ、杉は松科だそうで、グラントさんが植えた松なんです。
聖鋏観音菩薩像。
1981年(昭和56)に建立されたもの、美容師の使う鋏の供養塚があるようです。
境内右に入母屋瓦葺の鐘楼。
東日本最大の大きさを誇るのだそうだ。
梵鐘は大きい。
1673年(延宝元)に鋳造されたもので、その大きさ故に7回の鋳造を経たそうです。
再鋳の話はないようなので供出は免れたのでしょう。
300年以上を経て、今も朝夕の二回時を知らせています。
仏足石と聖観世音菩薩像。
仏足石は1881年(明治14)に建石されたもので、所謂仏様の足型が刻まれ、これを礼拝するもの。
二月の空に聳える東京タワーと大殿。
左手に増上寺会館と光摂殿。
光摂殿は2000年(平成12)に建立されたもので、天井には色彩も鮮やかな天井画が描かれています。
大殿
戦災で焼失、1974年(昭和49)に再建されたもので、室町時代に作られた本尊の阿弥陀如来、脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の像が祀られています。
地下に宝物展示室(@700円)がある。
増上寺は1393年(明徳4)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開かれたとされます。
三河から江戸に領地替えを命じられ、この地を治める事となった家康は1590年(天正18)に増上寺を徳川家菩提寺に定め、移行幕府から厚遇を受けることになります。
家康は晩年に「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」と言い残し、1616年(元和2)75歳で歿しました。
そのこともあり、往事の増上寺は日光東照宮を彷彿とさせる程に絢爛豪華な作りだったとされます。
増上寺大殿扁額と火焔太鼓太陽(右)と火焔太鼓月(左)。
大殿右の「安国殿」
空襲で焼失した大殿に代わり、仮本堂としていた建物。
1974年(昭和49)、現在の大殿完成際に現在の位置に移転されたもの。
2011年に(平成23)に再建されたもの、内部には黒本尊が安置され、年三回御開帳されるそうです。
大殿から見た「安国殿」側面。
安国殿右にある千躰子育地蔵菩薩と西向観音。
鎌倉時代、北条時頼が現在の東京タワーの建つ観音山に堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまを安置し、子育て・安産に霊験あらたかと伝えれています。
1975年(昭和50)に現在の安国殿前に遷座、1980年(昭和55)に観音堂落成。
江戸三十三観音札所というものがあるようで、その21番札所。
「千躰子育地蔵尊」。
子供の健康と成長を願って安置され、赤い帽子を被り、赤い前掛けをかけられ、その手には風車を持つ、愛くるしい表情のお地蔵さまがずらりと並んでいます。
子や孫の成長を祈る親の気持ちの数が現れています。
このお地蔵様に導かれる様に奥に進むと徳川家霊廟に続きます。
安国殿後方にある徳川家霊廟。
二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の歴代将軍とその側室、子供の墓所。
以前は墓所、本殿、拝殿を持ち東照宮で見られるように当時の技術の粋を結集した壮麗なもので国宝に指定されるほどだったそうです。それも空襲で被災、焼失を免れた一部も国宝指定を解除されたそうです。
正面の門は鋳抜門と呼ばれ、旧国宝指定のもの。
六代家宣の霊廟の宝塔の前で中門として建っていたものを再建後こちらに移設したそうです。
青銅製の扉には片側に5つの葵の紋が入り、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれており、往事を忍ぶ数少ない遺構。
緑青で見辛いものの、雲海にうねる龍が見て取れます。
霊廟前に四体の菩薩像。
港区の文化財に指定されている。
右から普賢菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩と並び、1258年(正嘉2)の作とされる。
熊野神社
境内に入り、右外れに鎮座する。
八咫烏の彫られた手水鉢。
天照大神の使いで、荒れすさぶる中で東征中に道に迷った神武天皇を導いたとされる。
熊野神社境内から鳥居方向の眺め。
御神体
熊野本宮大社 / 家津御子大神
熊野那智大社 / 大己貴命熊野那智大社
熊野速玉大社 / 伊弉諾尊。
1624年(元和10)、当寺の第十三世正誉廓山上人が増上寺鎮守として熊野権現を東北の鬼門に勧請したのが始まりとされる。
由来には
「増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う、縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。」とある。
『熊野』はクマノ、ユヤと二通りの呼称があるそうで、こちらでは「ユヤ」権現と呼ばれ親しまれているそうです。なのでユヤ神社と呼ぶのが正しいのだろう。
ユヤ神社から見た三解脱門。
神仏分離の影響だろう、神社の玉垣と大きなクスノキで寺領と分けられてはいる。
黒門
三解脱門の南隣りに建ち、1648~1652年(慶安年間)、三代将軍家光により寄進、建立されたとされます。もとは増上寺方丈の表門だったそうで、1980年(昭和55)に通用門として日比谷通り沿いに移築されたと云う。
以前は黒漆が塗られていた事から黒門と呼ばれるが、現在はこのような色合いです。
細部に彩色されていた痕跡が残ります、シックな黒地の門に施された鮮やかな彩色はきっと美しかったに違いない。
黒門を出て徒歩で右に1~2分行くと幹右側に旧台徳院霊廟惣門がある。
江戸幕府第2代将軍秀忠の霊廟の惣門として1632年(寛永9)に建築されたもので、
秀忠の戒名、台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士に因み、台徳院霊廟といわれ、戦前は本殿、拝殿、宝塔など江戸当時の伽藍があったが空襲により伽藍を焼失、唯一被災を免れたのがこの惣門。
被災前の伽藍は当時の国宝に指定されていたが、焼失に伴い指定解除、現存するこの門が重要文化財に指定されている。
現在はホテルの敷地内ですが、往事はこの門の先に伽藍が広がっていた。それもつい最近の事です。
綿々と受け継がれてきた物を消し去る事は一瞬です。
2020/02/20
大本山 増上寺
創建 / 1393年(明徳4)
山号 / 三縁山
宗派 / 浄土宗
本尊 / 阿弥陀如来・南無阿弥陀仏
住所 / 東京都港区芝公園4-7-35
公共交通機関アクセス / 都営地下鉄芝公園駅から徒歩で3分 他
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車中泊で紀伊國・大和國一之宮巡りと紀三井寺特別御開帳へ
車検を終えずっと出番を待っていたおやじの旧車、名古屋から6時に高速に乗り、快調に走っている。
変速ショックやエンジンの乱れも随分と改善され、これなら道中不安を覚える事はないだろう。
高速の交通量も随分と戻ってきたようで交通量は多い、やはりバスの姿は皆無、法定速度+10km/hの定速走行。
7:25 朝食のため亀山PAでひと休み。
かみさんのお目当てだった「littlemermaid」の「とろ~り半熟卵のカレーパン」を買い求め・・・・・?、「ない!」
出来上がりまで10分程とのこと、道中を気にしている彼女だが、表情に「カレーパン食べたい」と書いてある。
急ぐこともない、出来上がりを待つことにした。
間もなく出来立ての「とろ~り半熟卵のカレーパン」が、外はカリカリ食感で生地はふんわり、中にはカレーと半熟卵の入ったものだ。
出来立ての温かいカレーパンは待っただけの事はあった。これでコーディネーターの目的の一つはクリア。
さあ、朝御飯も食べた、目的地の和歌山へ向かおう。
最初の目的地「日前神宮」と「國懸神宮」へは10:30到着
創建二千六百餘年を溯り、鳥居から先は杜が取り囲み、玉砂利の敷かれた参道が杜の奥に続きます。
参道は突き当り、二つに分かれ右に「國懸神宮」、左に「紀伊國一之宮日前神宮」へ続きます。
同じ境内に二社の大社が座し、日前宮とも呼ばれます。
木漏れ日のさす境内に照らされる社殿は厳粛な雰囲気が漂い、参道沿いには多くの摂社がある。
『日本書紀』に関りがあり、日前宮には天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が祀られているとの記述が残り、日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体とし日前大神を奉祀、國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神をお祀りしている。
コロナ禍の影響だろう、参拝客は少なく、静かで厳粛な空気感が漂う居心地のいい神社の印象を受けました。
紀伊國一之宮 日前神宮
祭神 / 日前大神(ひのくまのおおかみ)
相殿 / 思兼命(おもいかねのみこと)、石凝姥命(いしこりどめのみこと)
御神体 / 日像鏡
國懸神宮
祭神 / 國懸大神(くにかかすのおおかみ)
相殿 / 玉祖命(たまのやのみこと)、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)、鈿女命(うづめのみこと)
御神体 / 日矛鏡
創建 / 神武天皇2年(紀元前659年)
住所 / 和歌山市秋月365
日前宮から車で下道を走る事約20分程、もう一つの紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」に到着。
このあたりは和歌山県の南東にあたり、周囲を山で囲まれた所謂盆地で山東盆地と呼ばれる緑が残る田園地帯。
伊太祁曾神社はその西の丘陵地に鎮座します。
祭神は、五十猛命(いたけるのみこと)で 『日本書紀』には、我が国に樹木を植えて廻り、緑豊な国土を形成した神様であると記されているそうですが、まさしく緑豊かな周辺環境の中に神社は鎮座しています。
古くから人が住んでいたのでしょう、神社の向かいには古墳も残ります。
旧称は山東宮と呼ばれた紀伊國一之宮。
社伝によれば古くは先程の日前宮の地に祀られていたそうだが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神を同所で祀ることになり、その地を明け渡したとされ、その際、現在の鎮座地近くの「亥の杜」に遷座、和銅6年(713年)に現在地に遷座したとされる。
一ノ鳥居から緩やかに上る参道、左手の小高い森は「伊太祁曾古墳」でニノ鳥居はその右に建つ。
鳥居からは赤い橋の先に境内が広がり、城壁の様に積まれた石垣の上に拝殿が建ち、石段を上ると本殿と脇殿が鎮座する。
本殿は五十猛命(いたけるのみこと)、脇殿左が大屋都比賣命(おおやつひめのみこと)、脇殿右が都麻津比賣命(つまつひめのみこと)と五十猛命の妹神が祀られています。
何れも檜皮葺流造で外削ぎの千木に3本の鰹木が施されています。
左手には蛭子神社、霊石のおさる石が安置されています、この石を撫でれば首から上の病に霊験あらたかされるそうです。
左脇拝殿の左に気生神社、五十猛命の荒御霊祀った摂社がある。
その他に本殿の裏斜面には「いのちの水」が湧く「御井社」、祇園神社や磐座などが祀られています。
緑豊かな水田地帯、小高い山に鎮座する伊太祁曾神社は、日常の雑念から解き放ってくれる、静かで落ち着いた佇まいの神社でした。
紀伊國一之宮「伊太祁曾神社」
祭神 / 五十猛命(いたけるのみこと)
左脇殿 / 大屋都比賣命(おおやつひめのみこと)
右脇殿 / 都麻津比賣命(つまつひめのみこと)
創建 / 和銅6年(713年)
住所 / 和歌山県和歌山市伊太祈曽
ぼちぼちお腹も空いて来た、お昼は伊太祁曽神社から車で20分ほど西の和歌山市塩屋6丁目へ移動。
和歌山ラーメンを食べに行くそうな。
丸三中華そば外観は小さな食堂の印象。
とんこつの香りが漂う店内へ。
テーブルにはなぜだか海苔巻きと早すし、茹で卵が置かれています。
「ラーメンが届く間これを食べていてくれ」的な感じで無論お代がかかります。
「中華そば」をオーダーし、どれどれ早すし頂くか。
開けて見れば鯖寿司だね、個人的にはもう少し酢を利かせてほしいところですが鯖大好き人間にとってはたまらない。
ペロッと二つたいらげる、ラーメンライスみたいなもんか。
こうしたシステムはこの辺りでは当たり前の食文化のようです。
すぐにやってきた「中華そば」、見た目は醤油ラーメンというより豚骨みそラーメン。
具はメンマ、ネギ、チャーシュー、蒲鉾で、 スープはとんこつ強めの醤油系。 これがおやじにジャストフィット。
過去のイメージは醤油辛い印象でしたが、それは一変しました。
油の旨味が口に広がり、濃厚な味わいで麺ともよく絡みとてもおいしい。
和歌山ラーメンうまい、くせになるかも。
我が家評価☆4つ
丸三中華そば
住所 / 和歌山県和歌山市塩屋6
定休日 / 日曜・祭日
お腹も満たされ次の目的地「紀三井寺」へは車で10分程です。
秘仏特別御開帳が6/28までという事もあり、このタイミングを逃せば二度とお目にかかる事はないだろう。
(特別御開帳は50年に一度)
紀ノ川河口平野の南部にある名草山麓の門前町から赤い楼門を目指す。
こちらには赤いシリーズとしてこの他に1,500年前後に建立された多宝塔、鐘楼などがあり、何れも国の指定文化財に指定されています。
楼門からは231段の石段を上る事になります、この坂は結縁坂とも呼ばれ、一緒になりたいパートナーと上ると願いが叶うとされます。
特別拝観料1,000円をお支払いし本堂内陣の逗子の横から、収蔵庫に続く廊下を進みます。
収蔵庫の内部正面に五体の仏像が公開されていました。
正確に言えば一番右の十一面観世音菩薩立像は京都に只今出張中で五体。
左から上の写真順に並んでいます。
中央が今回の目玉となる二体。
左が本尊の十一面観世音菩薩、右が千手観世音菩薩。
左が梵天立像、右が京都へ出張中の十一面観世音菩薩立像。
ここは櫻の寺かも知れません、境内には多数の桜の木を見かけます。
28日までの御開帳ですが訪れる方は少なかった。
紀三井寺
山号は紀三井山、院号は護国院、寺号は金剛宝寺。
創建は770年(宝亀元年)とされ、西国三十三所第2番札所である。
本尊は今回御開帳された十一面観世音菩薩。
住所 / 和歌山県和歌山市紀三井寺1201
さて231段を上り下りし駐車場に戻る、予定の時間に対し余裕があるとかでここから西に10分程の「紀州東照宮」に参拝することとしました。
「紀州東照宮」一の鳥居から参道の眺め。
石段の予感がする、予感は現実のものとなり、楼門の前には一直線に続く急な108段が待ち構えていた。
石段の左には緩い石段と書かれているが、こうした道は遠回り以外の何物でもない、直登あるのみ。
急な石段で有名な紀三井寺、和歌浦天満宮、紀州東照宮の3ヵ所、合計389段を「和歌の浦急峻三社寺巡り」といい一日で回るらしい。
すぐ左には残る和歌浦天満宮が鎮座するだけに、チャレンジしてもいいかとも思ったが結構足腰に来る。
無理は禁物、天満宮は見送ろう。
108段を登り切ると楼門の先に拝殿が視界に入る。
所謂東照宮です。権現造の社殿は豪華絢爛そのもので「関西の日光」ともいわれるそうです。
祭神は徳川家康、紀州藩初代藩主の徳川頼宜。
創建は1621年(元和7)とされる。
紀州東照宮さすがでございます。
この道中、我が家の天気予想では雨を想定していましたが、雲はこの辺りを避けるように過ぎていきます。
陽射しは強くこんなはずではなかった、予定外の108段、汗びっしょりです。
これで初日の計画は全て達成、後は紀ノ川沿いに国道24号線を遡り、今宵の宿となる道の駅紀の川万葉の里を目指すだけですが、ひとっ風呂浴びないとやってられない、かみさんが道すがらのスーパー銭湯を検索してくれたのでそこで汗を流す。
スーパー銭湯「極楽温泉幸の湯」
比較的新しく、湯舟も種類が豊富おやじは寝湯と電気風呂がお気に入り、汗を流すどころかしっかり居眠り。
心地よい眠りから目覚めるとかれこれ1時間、これはかみさんお怒りだろう。慌てて着替え待合室へ。
15分程待たしてしまったようだ。
ここでビールをひっかけご飯もいいけれど、道の駅周辺にファミレスがあるらしい、ビールはそこまで我慢。
国道24号線沿いの道の駅紀の川万葉の里へは6時30頃到着。
周囲は自然豊かで一歩出れば紀の川が流れその先の山並みの遥か先が高野山。
道の駅ではツバメが子育て真っ最中、そこかしこに巣が掛けられ、駐車場を飛び回っている。
のどかな光景だ、トイレも綺麗でかみさんにとっては嬉しい。
大きな木の下に車を停め、晩御飯(ビール)を食べにファミレスへ。
こんなに暑い日とは、まずはさておき冷たいビールで今日一日お疲れの乾杯。
ご飯もそこそこにビールで涼を取り車に戻り二次会へ、ところがここは民放がかろうじて一局入るが電波の通りが良くないようだ。夜中に雨が降りそうな気配が漂う、二次会はそこそこに眠りにつく。
翌朝の光景、空はどんより。
結局夜も雨は降らなかった、今日は降るだろう。
二日目の目的地は「風猛山 粉河寺」、ここから紀ノ川沿いに15分ほど下流あたります。
途中、地元に24時間営業のスーパーで朝御飯と地元の酒を買い求め粉河寺へ向かう。
西国33所巡りの第三番札所
開創は770年(宝亀元年)と云われ、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北4キロ余の境内地と寺領四万余石を誇っていた、1585年(天正13)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。
後に、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期にかけて現存の諸堂が形作られた。
個人的な見所は金剛力士を祀る赤い大門、四天王を祀る中門、西国33所巡りの寺では最大で複雑な屋根構造を持つ本堂ではないだろうか。
更に本堂左の石段の先に粉河産土神社、本堂の手前には巨岩を組んで作られた枯山水の庭園「粉河寺庭園」などがあり、見所が多い寺で境内は剪定も行き届き、とても居心地のいい寺の印象です。
桜の時期にまた訪れてみたい、その頃は華やかな一面を魅せてくれるのではないでしょうか。
「風猛山 粉河寺」
創建 / 770年(宝亀元年)
山号 / 風猛山
本尊 / 千手千眼観音菩薩
西国33所巡り / 第三番札所
住所 / 和歌山県紀の川市粉河2787
さて和歌山県とはここでお別れ。
今回最後の目的地は、ここから京奈和自動車道と国道24号を経由し、奈良県桜井市に鎮座する「大和国一之宮 大神神社」に向かいます。
ざっくりと1時間半程の移動時間となります。
大神神社は三輪山を御神体として直接拝するため、所謂本殿は存在しません。
三輪山には上から奥津磐座、中津磐座、辺津磐座と3つの磐座があり、この拝殿から三輪山を仰ぎ見る古来の形態を留め、現在の拝殿が建てられる以前は拝殿奥の明神鳥居を繋げたような変わった形態の三つ鳥居とそこに続く玉垣があっただけだという。
主祭神は大物主大神、配祀神は大己貴神、少彦名神 を祀る。
現在では三輪山の麓から山嶺にかけて多くの神社が祀られ、三輪明神として親しまれています。
おやじ大好きの造り酒屋、その軒先で見かける杉玉は、大神神社で毎年11月に行われる酒祭で、拝殿に吊るされたことが始まりでそれが各地に広まったという。
今回訪れた寺社の中では訪れる参拝客は圧倒的に多い。
こんな時期なので閑散としているのかと思っていたが、社頭の大鳥居から駐車場待ちの車が列をなす程。
ニノ鳥居でも人波が途切れるのを待っていたがその機会は訪れなかった。
これでも参拝客は少ないのだろうが、こんな時だからこそ多くの人が訪れているのかもしれない。
車を駐車するのであれば歩きが増えますが入口の大鳥居付近が入るも出るも便利でお勧めかも。
大和國一之宮 大神神社
創建 / 不明
主祭神 / 大物主大神
配祀神 / 大己貴神、少彦名神
住所 / 奈良県桜井市三輪1422
写真上は久延彦神社から見た大鳥居。三輪の町に大神神社の巨大な鳥居が存在を主張しています。
参拝の後は遅い昼ご飯、もちろん三輪そうめんという事になります。
写真は三輪そうめん山本の「冷やしそうめん」
ソーシャルディスタンスの関係から一時間待つことになりました。
二日目も雨は降らず暑い一日、冷たくて喉越しのいいそうめんが恋しくなる時期です。
写真は大盛、税込み1,280円
三輪そうめん山本
住所 / 奈良県桜井市箸中880
コロナ禍が納まる兆しは全くないものの、形上の制限解除になり一気に以前に戻った錯覚を覚えますが、上手に付き合っていくしかありません。
人波が少ない所を選んで出かけるのも必要なのかもしれませんね。
延命地蔵
春日井市上条町3丁目
「延命地蔵」
上条町3の不明社から上条城址に向かう途中の道すがらで見かけた地蔵堂。
狭い交差点の角、民家の敷地の一画を間借りするように建てられた地蔵堂、その奥には案内板らしきものも見える。
場所が場所だけにどうなんだろう、もしや過去の事故の慰霊なのか、せっかくなので寄り道する事にしました。
堂の中には白い石像とお花が供えられています。
縁起には以下の様に書かれていました。
「延命地蔵様を建立することになった由縁は、当時比較的若年層の不幸が町内で続き、あるところへ伺いを立てた所「その昔、池に身を投げた娘の霊がこの地域にある」という事を知りました。
そこで町内会の皆さんと相談した結果、これらに纏わる先人達の霊を慰め、また、若くしてこの世を去った御霊を供養し、合わせてこの地域の人々の延命を祈念するため寄付を募り、昭和57年9月23日に建立されました。
上三町内会では年に一度の良き日に、近隣町内の方や多くの子供達も一緒に延命地蔵様の前で大祭を開催し、町内の安全と厄除けり祈願をしています。
平成17年9月23日 上三町内会」
「その昔、池がこの地域にある」という事なので、少し遡って見ると、上条町内には昭和の初期まで2つの池があったようです。(地図左の丸部分)
現在は埋め立てられ、宅地化され痕跡すらありませんが、調べて見ると庄内川が氾濫した際に出来たとされ、庄内川、内津川の伏流水が湧き出し、池底は非常に深かったそうです。
由緒に記された池とはこの二つ池のどちらかを指しているのかもしれない。
地蔵堂の中には前掛けが掛けられた、白い延命地蔵が一体祀られていました。
表情はとても穏やかで、小さな像ですがこの地域に住む方々の延命の願いを一身に担っている
普段はひっそりと佇む地蔵さま、年に一度の良き日がいつなのか分かりませんがきっと賑やかなのかもしれません。
新しい地蔵さまですが、地域には必要不可欠な存在の様です。
上条町3の「延命地蔵」
建立 / 1982年(昭和57)
住所 / 春日井市上条町3丁目
アクセス / 春日井市上条町3の不明社から南に5分程
関連記事 / 上条町3不明社
春日井市上条町4 これは「津島社・天王社?」
春日井市上条町4
上条城址から西に1分程歩くと細い道の交差点があります。
その交差点の角に切妻瓦葺屋根の四方が吹き抜けの覆屋があります。
道路前方の左側に一本だけポツンと聳える樹が見えますが、そこが上条城址なので本当に目と鼻の先。
この右手には上条城の城主だった林氏の立派な蔵があります。
交差点の北角に佇む覆屋、よく見ると中に神棚が見えます。
交差点の南側から覆屋を正面から見る。
土足で入っていいものなのか悩む、覆屋と呼ぶには立派なものです。
中には板宮造りの二つの社が祀られています。
どちらも注連縄も新しく、扉は開け放たれています。
左手の社には石の御神体が祀られているようで、右手の社には真新しい神札が見て取れます。
覆屋の中に入り間近に見ればいいのだろうが、やはり入るには気がひける。
覆屋の前から参拝させて頂くこととした。
社の中をコンパクトカメラで目いっぱい引いて見た。
ここまでが精いっぱい、右の社は津島神社(天王社かもしれない)。
左の花崗岩の御神体には漢字二文字が刻まれているようです。
色々調整をしては見たが、下の漢字は王と読めるけれど上が分からない。
猿の様にも見えなくもない、猿王…猿王社?、龍でもあるまい。
上条町を厄疫から免れるためにここに祀られたものと思われますが、いつ頃の創建なのか含めこちらの詳細は分かりませんでした。
注連縄や神札などが新しいことから町内で崇敬され、ここを中心に人とのつながりが出来ていると思います。
「津島社」
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 春日井市上条町4
上条城址からのアクセス / 徒歩で西に1分
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