尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2020年07月

吉田城址


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 春日井市下条町の八幡社で吉田城址を公園整備中複数の大きな石が見つかり、神社に一つ移されたとあったことから訪ねて見ました。
八幡社から北に向かい王子町の交差点で西方向に向かいます。

この周辺で遠景写真を撮ると必ず写り込んでくる製紙会社の赤白の煙突。
ここまで来ると見上げる高さに迫ってきます。春日井のランドマークと云っても過言じゃない。

この工場が稼働を始めたのは昭和27年頃、当時は田畑が多く長閑な景観だっただろう。
名古屋のベットタウンとして宅地化が進み、現在は工場を取り囲む様に住宅が広がっています。
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 上は1894年(明治24)頃と現在のこの辺り移り変わり。
現在の下条公園が赤のマーカーになります。
明治の頃にして既に地図上に城の痕跡はないようです。
以前訪れた上条城址には石積みなどの遺構を見ることができましたが、吉田城址に遺構らしきものは皆無。
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 下条公園から北の眺め、この正面に施錠された石碑がありますが、それは公園の竣工碑。
竣工碑、柵で囲って施錠までするんだ。
という事で城址の碑はどこよ。
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 吉田城址の碑は公園の南側の東角に建てられていました。
囲いもなく、間近で見ることができます。
とはいえ碑だけしかないのですが。
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この碑の台座になっている大きな石、根拠はないけれどこれも公園整備で見つかった岩が使われているのかな。
吉田城
室町時代に築城された日本の城(平城)。
但馬国で出生した小坂吉政(1466年(文正元年)~ 1517年(永正14))が但馬から、応仁の乱の頃に京都に入り織田敏定の家臣となり尾張国に入った。
当初奉行所として館を建てた事が城の始まりのようで、やがて土塁や堀を築かれ、当初は柏井城と呼ばれていたらしい。
その後吉政が吉田孫四郎吉政と改名したので吉田城と名乗るようになった。

1554年(天文23)の清洲攻めの際、当時の城主であった小坂正氏が清洲城の南西で討死。
跡継ぎのいない正氏死後、城は放置されていた、織田信長は前野宗吉の母の生家だった、小坂家と城を継がせ、小坂孫九郎尉雄吉と名を改めた。
こうして小坂雄吉は、ここ吉田城と上条城の城主になっていった。
信長亡き後の1584年(天正12)、小牧・長久手の戦いに於いて羽柴秀吉が休戦と引き換えに官職を解き、吉田城や上条城、小牧にある諸城の取り壊しを命じられ廃城になった。
現在はそれを伝えるこの石碑のみがかつてここに城があった事を伝えています。

小坂雄吉のその後についてはよく分からない。

吉田城の絵が欲しいところですが生憎見つけきれません。
「勝川郷土資料館」に古い地籍図などが展示されているようなのでこちらを訪ねると城の痕跡が見られるかも知れません。

吉田城址

築城 / 室町時代
初代城主 / 小坂吉政
遺構 / なし

住所 / ​春日井市下条町3-10-4
公共交通機関アクセス / JR中央線​「春日井」駅から南西に徒歩30分
下条 八幡社からのアクセス / ​八幡社から北へ王子町の交差点を西に
関連記事 / 春日井市下条町795 八幡社​  ​上条城


​春日井市下条町795

八幡社
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県道30号線を春日井方向に向かい、中切町交差点から次の信号機のある交差点が目的地「八幡神社」の社頭。
交差点の角から北に向かい参道が続くけれど、県道から少し奥まった場所に社号標と鳥居があるので、車で訪れると分かり辛いかもしれない。
徒歩だとJR中央線春日井駅から南西の下条町に鎮座しています。
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参道両脇はこの様に並木が出来ていて、その先には蕃塀が見えています。
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並木を過ぎると公道の先に境内が広がります。
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境内の西方向の眺め。
社地の一部が公園になっていて、その先にお堂のような建物も見えます。
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境内は左が社務所、中央に蕃塀があり、拝殿の屋根しか見る事は出来ません。
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石段右の石像
風化により輪郭がはっきりしませんが、役行者の様に見えます。
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蕃塀
社殿の容姿は蕃塀が遮り見通しは利きません。
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社殿全景
伽藍は瓦葺妻入の四方吹き抜け拝殿と一段高くなり幣殿、本殿。
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参拝の前に伽藍を見て行きます。
まずは拝殿の眺め。
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幣殿前の狛犬。
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幣殿。
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渡廊から続く本殿は流造。
祭神は應神天王。
左右に脇社が祀られ、右の板宮造の赤い社は天王社だろうか。
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左に神明造の脇社。
こちらも社名札がなく特定はできませんでした。

八幡社の境内をひと回りしましたが、創建年度や由緒等の記載は見当たらず詳細は不詳。
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拝殿の外観はシンプルですが、各所に彫飾りが施されています。
特に妻の部分に彫られた龍の飾りは手間がかかっています。
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上から龍の視線を感じながら参拝させてもらいます。
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境内西側から見た社殿の眺め。
左側に玉垣で囲われた一画、その奥の杜の中に屋根が見えます。
境内の拝殿前などには大きな岩が置かれています。

ここから西に下条公園がありますが、ここに吉田城(現在は碑のみ)があり、遺構などは残ってはいませんが、公園の辺りは本丸が築かれていたそうです。
跡地を公園に整備する際の工事で跡地から大きな石が数個見つかったそうです。
そのうちの一つが八幡社にあると云う。
それらしい岩は確かにあるけれど、残念ながら由緒や解説がなくどれがその石なのかまではよく分かりませんでした。
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玉垣で囲われた一画の中央に黒地に白の模様が入った岩が祀られています、磐座なのだろうか。
それとも吉田城から移された石がこれなのか、 玉垣で囲うだろうか?

杜の中の祠
祠の中には小さな社と複数の石が安置されているものの、詳細は分からなかった。
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杜の中から磐座、蕃塀方向の眺め。
社殿を取り囲む様に杜が作られ、それは鬱蒼とした杜ではなく風も通り解放感を感じる。
社地の一画は公園になっていることもあり広くて解放感を感じます。
梅雨のこの時期、僅かに自生する苔の緑が鮮やかです。
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公園の外れにある下条観音堂。
西国三十三所巡礼の証として祀らた観音像が多数安置され、大正時代の物も見受けられます。
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鳥居(1916年建之)から国道を眺める。
この周辺には他にも複数の八幡社等の寺社や城址点在し、寄り道が多くなる地域。

八幡社
創建 / 不明
祭神 / 應神天皇
住所 / ​春日井市下条町795
公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」から​南西に徒歩で約30分

主税町筋を国道19号方向の東に進むと、城下町の名残を留める棟続きの建物が僅かに残る区域があります。
国道19号線からなら平田町北交差点を西に入ったあたりになります。
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 「主税町」なんて読むんだぁ?と思った方もいると思います、これで「ちからまち」と読みます。
町名の由来は尾張藩士の野呂瀬 主税助(ちからのすけ)が屋敷を構えたことから付いたとされます。
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こうした趣のある町並みには雨が似合う。
街中にあって静かな通りはしっとりとした落ち着いた雰囲気が漂います。
こうした道筋には軒の神さまとの出逢いがあったりして歩く楽しみにもなり、ついつい軒下に視線が行きがちになります。
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 東区主税町4丁目来ると以前は軒下に祀られていたであろう屋根神さまが一階軒下に祀られています。
地上から高く積まれた台座の上に祀られた社、その中には提灯も吊られ今も現役の様子。
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この社がこの状態で祀られるようになったのかは定かではありませんが、棟続きの住宅が立ち並んでいた頃には、町内の災い除けとして見通しの良い二階の軒下から町内を見守っていたと思います。

そうした光景も時の移り変わりと共に、棟続きの住宅は歯抜けになり廃社になったり、社の手入れをされる方の高齢化に伴い、梯子を使ってお世話をするのも難しくなる。
住環境の向上を図れば、屋根神さまの居場所は変わっていく。
そうして見ると、ここ主税町4丁目の屋根神さまは恵まれているのかも知れない。

地に下りた屋根神さまは人目に付く、社の前を通りがかった際に小さな我が子から「これなに?」と聞かれたら説明も必要だろう。
その内容によっては、子供なりにこの箱の捉え方が違ったものになるのかもしれない。

余談になりますが、昨年諏訪湖周辺を訪れた時の事、集団登校の小さなグループを見かけました。
道端のお地蔵様の前でペコッとお辞儀をしていく光景を見かけ、それが今も印象に残っている。
親や地域の人から、彼らがそうしたくなる上手な説明がされているのだろう。
さあ、この箱を子供に尋ねられたらどう回答しようか? 
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 話を戻して、こうして住宅が集まると、地域の厄除けとして津島神社、火伏の秋葉神社、地域の氏神様を祀り、屋根神さまを中心に神社当番の様な町内の人の結びつきが生まれていきます。
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 何かを中心に住民のコミュニケーションが取れている間はいいけれど、それがなくなると意外にご近所様の顔や名前も分からなくなるのは早いものです。

姿を消す屋根神さまが多い中、ここはそんな心配は当分なさそうです。

東区主税町  屋根神さま
創建 / 不明
祭神 / 秋葉社、熱田神宮、津島社
住所 / ​名古屋市東区主税町4丁目​   ​「屋根神さま」東区橦木町から5分
関連記事 / 「屋根神さま」東区橦木町

明るい2020年がスタートしたとき
よもやこんな世の中になるとは誰も予想していなかっただろう。

誰もやめだ! と云えずオリンピックも延長はしたものの
はたして来年に環境は整っているのか、疑問ばかりだ

思い付きなのか、TVの影響なのか、やる事・なす事、感覚もスピード感も…マッチしていない
多分、現実はもう一人の自分でもわかっているはず

国民全員抗体ができるのを待ち、将来を担う世代から希望を失っていくのを見ているのかな?
マスクの人、巣ごもりしていないでお二人だけでGo Toして見ては
失礼・・・・・できなかったね、尖閣に議事堂つくるのはいかがだろう
0723
数か月前の学び、今日までの準備・・・・国内は疲弊、国土も縮小しかねない、トンネルの出口は見えない

荒波で舵取りが出来るリーダーがいないのが一番の禍なのかも知れない

自己防衛……しかないか、安心という出口はいつ見えてくるのだろう?
感染しない安心は重要、それ以上に、感染しても安心な環境整備はいつできるのか?
ばら撒きだけで出口は見えてくるのかな

紀伊國一之宮 日前神宮

紀の川が作った和歌山平野、紀伊國一之宮は和歌山市の秋月に鎮座します。
和歌山電鉄貴志川線「日前宮」駅から徒歩で2~3分あれば、県道138号線沿いに鎮座する紀伊國一之宮の社頭に辿り着けます。
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県道の北側に社頭があり、道沿いに日前(ヒノクマ)神宮、國懸(クニカカス)神宮の社号標が建っています。
鳥居前に少ないながら駐車場もあり駐車が可能、境内西側に幼稚園がある事から時間帯によって送迎バスが駐車場を通るので通行の妨げにならない配慮が必要かも。
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紀伊國一之宮 日前神宮・國懸神宮社頭全景。
住宅や田畑が広がる和歌山平野にあって、緑豊かな社地はさながら緑の浮島の様にも見える。
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神社の外周は小さな堀で囲われ、石橋を渡れば境内。
この橋と正面に見える大鳥居は白さが際立っています、建替えられて間もないようです。
参道は杜の中へ消えていきます。
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鳥居右の由緒書き、鳥居をくぐり左が手水舎。
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『日前神宮
祭神 日前大神 相殿 思兼命、石凝姥命
國懸神宮
祭神 玉祖命 相殿 明立天御影命、鈿女命

謹みて按ずるに日前國懸大神は天照大神の前霊に座しまして其の稜威名状すべからざる太古天照大神天の岩窟に幽居まし、時群神憂ひ迷ひ手足措く所を知らず諸神思兼命の儀に従ひて種この幣帛を備へ大御心を慰め和め奉るに當り 石凝姥命天香山の銅を採りて大御神の御像を鋳造し奉る
是れ日前神宮奉祀の日像國懸神宮奉祀の日矛の鏡にして二鏡齊き祀る

例祭 九月二十六日  和歌山市秋月鎮座』

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手水舎全景。
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神楽殿・絵馬殿
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内部に掲げられた複数の奉納額。
上の左の額は1864年(元治元年)、右は 1696年(元禄9)と記されている、右の絵は七福神図のように見える。
下は1628年(寛永5)と記されているように見える。
どれも長い年月を経ていながら鮮やかな色彩が残り、躍動感のある描写が描かれています。
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境内右手に授与所。
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授与所から参道を進む、参道は杜の中で二手に別れ、右が國懸神宮。
左に進むと日前神宮に繋がる。
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上は日前神宮へ続く参道。
下が國懸神宮へ続く参道。
各々の参道脇に摂社が祀られています。
まずは國懸神宮のある右に進みます。
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摂社
中言神社
祭神 / 名草姫命(ナグサヒメノミコト)、名草彦命(ナグサヒコノミコト)

由緒

『祭神である名草彦命は、天道根命を初代國造にして五代目にあたり、また夫婦神として名草姫命と御一緒に中言神社として奉祀されております。名草郡の地主の神として崇敬され、『紀伊続風土記』には名草郡だけでも中言社と呼ばれた神社が十二社もあった程で、同郡では最も多い神社であったと伝えられております。明治十年三月二十六日官命を以て日前國懸両神宮の摂社に定められました。』
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摂社
松尾神社
祭神 / 大山咋神(オオヤマクイノカミ)、中津島姫命(ナカツシマヒメノミコト)

由緒

『京都洛西の総氏神である松尾大社から分社され、当宮の末社となりました。特に醸造の祖神として特別な崇敬を受けており、毎年十一月には「松尾祭」が厳かに斎行されております』
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摂社
市戎神社
祭神 / 蛭子神(ヒルコノカミ)

由緒

『旧記』(くき)によると、市戎神社はかつて境内の外にお祀りされていた庭外社で、江戸時代の享保6年に境内に御遷座され日前宮末社となりました。もともとこの社の近くで「市」が立ち非常に賑わったことから、次第に市のえべっさん・市えびすと呼ばれるようになり、往時は新内(あろち)から芸者衆の「宝恵かご」が出て、たいそうな賑わいであったようです』
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國懸神宮
祭神 / 國懸大神(クニカカスノオオカミ)
相殿 / 明立天御影命、鈿女命
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切妻造の拝殿から本殿の眺め、向拝付き平入の入母屋造、7本の鰹木と千木は外剥の様です。
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摂社
天道根神社
祭神 / 天道根命(アメノミチネノミコト)

由緒

『天孫降臨の時、天道根命は二種の神鏡とともに従臣として仕え、神武天皇二年春二月、紀伊國を賜り初代國造職に任命されました。

紀氏は天道根命の末裔にあたり、歴代に渉り國造職を受け継ぎ明治十年三月二十一日には官命を以て日前國懸両神宮の摂社として定められました。』
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摂社
邦安神社 (左)
祭神 / 松平頼雄命

由緒

『御祭神の松平頼雄公は紀州藩支藩の伊予西条藩の世継ぎでありましたが、お家騒動で廃嫡の憂き目にあうと不遇の生活を強いられていました。そこで、紀州藩々主で従弟であった徳川吉宗公は頼雄公を紀州へと移され、ここに紀州徳川家と頼雄公の御縁が始まります。

その後、吉宗公が将軍となり紀州を去ると再びその地位を追われることになった頼雄公は、51歳で非業の最後を遂げられました。

やがて和歌山城内に頼雄公を祀る神社が創建され、代々徳川氏によってお祀りされていましたが、幕末の混乱期に日前宮へ御遷座されました。(現社殿は平成25年正月再興)』

深草神社(右)

祭神 /   野槌神

由緒

『祭神の野槌神はイザナキ・イザナミ二柱の大神の御子にして、草や野に関するすべてを司り、守護する神であります。

古来より神の使いとしての「牛」と信仰を結び、野草を食むことからくさ(人体の腫物)を食むという「病気平癒」の高い御神徳があります』
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紀伊國一之宮 日前神宮
祭神 / 日前大神(ヒノクマノオオカミ)
相殿 / 思兼命(オモイカネノミコト)、石凝姥命(イシコリドメノミコト)
御神体 / 日像鏡
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日前神宮
鳥居から拝殿方向の眺め、日前神宮、國懸神宮共に社殿配置、造は瓜二つ。
現在の社殿は1926年(大正15)に建て替えられたもの。
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日前神宮の左に社務所へ続く参道が続きます。
写真は参道右側。
参道の左右に切妻造の社が祀られていますが、社名の表記がなく何れも不明。
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写真は参道左側にも二社。
全ては参拝した気になっていたが、略記によれば境内末社は20社とあった。
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杜を抜けると右手に社務所が見えてきます。
境内には紫陽花が植えられ、この頃に見頃を迎えていました。
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『紀伊國一之宮 日前神宮・國懸神宮』
住所 / 和歌山市秋月365
公共交通機関福セス / 和歌山電鉄貴志川線​「日前宮」駅から徒歩で2~3分
関連記事 / ​車中泊で紀伊國、大和國一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳

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