尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2020年08月


熱田区神宮2
新宮坂神社

この新宮坂神社はこの地の地名からきているようです。
1878年に熱田村の一部が新宮坂町に変り、1981年に現在の地名の神宮町へと変わってきました。
その新宮坂町の由来は熱田神宮の境内摂社「南新宮社」の東側の坂を新宮坂と呼んだことから付けられたとされます。
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左は熱田神宮境内で新宮坂の所以となった「南新宮社」は丁度この左の境内に鎮座しています。
写真中央の三叉路の角に「新宮坂神社」の神明鳥居が見えています。
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上は左が1945年頃(終戦後)の航空写真、右が現在、どちらも新宮坂神社の鳥居を確認できませんが、神社の前の通りは新宮坂と呼ばれたように、西の熱田神宮境内の南新宮社に続いているのが分かります。
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三叉路から新宮坂神社社頭の眺め。
小さな社地は玉垣で囲われ木製の神明鳥居が建てられています。
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鳥居から先の境内は南北に細長く、鳥居の先に神明造りの社が見られる。
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高く積まれた台座の上、南を向いて祀られる社。
6本の鰹木と内削ぎの千木が配らわれています。
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神社の創建や祭神など詳細は不明。

新宮坂の町名だけ捉えれば創建は1878年以降となるけれど、町名成立以前からの社名だとすると、近くにある今は小さな喜見寺が栄え、境内の一部を町屋にしたとされる1793年(寛政5)あたりまで遡る事になる。燈籠等の寄進年度等からも創建時期につながるものは見かけませんでした。

神明鳥居と神明造の社は熱田神宮に関連するものなのか?、熱田神宮の摂末社など調べて見るも関連はなさそう。
詳細は不明ですが、社には榊が供えられ、今も崇められているのが伝わってきます。
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神社北側は「くさなぎどんぐり広場」があり、こちらからだと社後方を眺めることができます。

神社を巡る楽しみに社格や歴史にあまり興味はなく、そこになぜ社を祀る必要があったのかそこに興味が湧きます。
そうした輩向きに由緒書きはそれを知る手掛かりとなるだけでなく、そこで育つ子供たちがその地を知る絶好の語り部となるだけに由緒書きを掲げるのは有意義だと思う。
我が家の息子達が小さかった頃、神社に虫取りに行くと「なんで?」と質問攻めにあった事を思い出す。
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「くさなぎどんぐり広場」と神社
これだけ暑いと子供たちの姿はない。

新宮坂神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市熱田区神宮2-1
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線​「伝馬町」駅下車北へ5分程
車アクセス / 熱田神宮南門駐車場から​松姤社⇒不明社⇒​新宮坂神社まで徒歩5分程
関連記事 / 神宮2丁目 不明社​ 、​「松姤社」


春日井市神領町2 「津島神社」
JR中央線「神領」駅から10分程南に進むと庄内川に架かる下志段味橋に至ります。
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橋の手前から高く盛られた堤防道路を上流に向け2~3分程歩きます。
やがて堤防の法面にポツンと鎮座する小さな社が見えてきます。
神領の津島神社です。
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鬱蒼とした堤防の法面ですが、神社と北側の車道に繋がる手入れされた歩道があり、藪漕ぎはしなくても済みます。
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道路から津島神社全景
堤の先の庄内川を見据える様に南を向いて祀られています。
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幟柱と岩の上に板宮造の社、その右に燈籠。
手前の白い燈籠らしき石柱、正面に崩し字で何か書かれていますが分からない。
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春日井の少し前は当時の村々や島々にこうした天王社や津島社が祀られ、疫病除け祈願として天王祭りや祇園祭り、津島祭りが行われてきた身近な神様。
榊も供えられ、綺麗に雑草が刈り取られた境内、今も地元の方々により崇められているのが伝わってきます。
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嘗てのこの辺りは現在の様に庄内川を渡る橋はありません、庄内川の勝川、松河戸、下津尾、桜佐、野田、大日、大留、入尾、岩瀬・・・・など各所に渡しが存在し人や物資を船にのせ渡った時代もあります。ここ神領にも渡しがあったそうです。 
上の写真は左が1900年頃の当地、橋は架かっていません。
その後、ここに木造の橋が架けられますが流失を経て、現在の下志段味橋の姿になります。
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堤防から上流の眺め、東名高速の橋梁はすぐ近く。
対岸は目と鼻の先、なんとかして渡りたいと思うのは自然の事、津島神社の辺りが神領の渡しがあった場所なのかもしれない。
そんな思い込みがあるからか、神社の白い燈籠らしき石柱に刻まれた崩し字が「わたし」と書いてあるような気になってくる。読めないもどかしさを痛感する。

津島神社
創建 / 不明
祭神 / 素戔嗚尊
住所 / 春日井市神領町2
公共交通機関アクセス / JR中央線「​神領」駅から10分程南
最寄りの神社 / ​三明神社​ 下津尾の渡し


和歌山市和歌浦西2丁目「紀州東照宮」
和歌の浦湾を望む雑賀山の頂に鎮座し、徳川家康を神格化した東照大権現と紀州藩初代藩主徳川頼宣を神格化した南龍大神を祀る神社。

この地方の紀三井寺、和歌浦天満宮、紀州東照宮の3ヵ所は急な石段で有名、三社合わせて合計389段の石段を一日で回る事を「和歌の浦急峻三社寺巡り」というそうです。
既に紀三井寺は制覇したのでこれで二社目にチャレンジ。
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当初予定には入っていなかったけれど、時間に余裕があれば参拝としていたけれど、紀三井寺から車で県道151号線を西に10分ほどと近いので、折角来ただけに紀伊東照宮は是非とも見ておきたいとかみさんに無理いって参拝することにしました。
上は参拝者有料駐車場入口に掲げられた紀伊東照宮の看板と葵の紋のレリーフが嫌でも視界に入ってきます。
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一の鳥居から広い駐車場に入ります。
駐車場左の建物は東照宮会館、こちらであれば石段を登る事なく御朱印は頂けるようです。
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その右にある社は「権現不動堂」
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さて一ノ鳥居から社殿を目指します、鳥居は三ノ鳥居まであるようです。
後方の小高い山が雑賀山、あそこまで登ります。
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二ノ鳥居。
一ノ鳥居に比べ額も付き、葵の紋が入ります。
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三ノ鳥居。
二ノ鳥居と同様額が付きますが、葵の紋はこちらにはない。
右手に社号標と左手に境内案内板があります。
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境内案内板。
目の前の参道は途中で一旦左に折れ、そこから真っすぐ続くようです。
途中には福森稲荷社と弁財天社の二社があるようです。
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三ノ鳥居の額は重厚感のある色合いと字体のもの。
6月とはいえ陽気は真夏です、杜の木陰に包まれた参道を進みます。
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ここから先の雰囲気は厳粛な空気が漂います。
木陰の中の参道の両脇に立ち並ぶ年季の入った石灯籠は、徳川家の家臣から寄進されたもので、石畳の参道の奥まで続きます。
意外にも参道は目と鼻の先で左に折れるようです。
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参道を一旦左に折れ、右に参道が続きます、そのあたりの参道左に赤い玉垣と鳥居、さらに青い「稲荷大明神」と書かれた幟が見えてきます。
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「福森稲荷社」への参道はこの奥で右に続き、その先に社が祀られています。
左の小さな鳥居が置かれた石標は日之出大神、その右の石標は吉光大神と彫られています。
和歌山県神社庁によればこの三社は境内社となっています。
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「福森稲荷社」
詳細は不明。
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再び参道に戻って先を眺めます。
反り橋の先に見上げるような急な石段とその先に随神門が見えてくる。
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反り橋の右手は堀の様相、その中に水が湧き出て池を作り、中央の小島に弁財天社が祀られています。
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弁財天社へは反り橋を渡って右側に狭い下りの石段を下りていきます。
橋の手前とその先に二つの鳥居を構えています。
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こちらには立派な由緒書きが置かれていました。
1621年(元和7)、徳川家康公の十男で紀州藩初代藩主の徳川頼宣公により創建されたと言う。
その目的は東照宮が鎮座するお山のお守りとしてここに祀られたらしい。
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御神徳はこの地の守り神のみならず、学問向上、商売繁盛、家運向上、海上安全、井水防火、防疫、安産祈願と霊験あらたかだそうです。
祭神は市杵島比売神。
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弁財天社の右に小さな祠。
内部には宝船に乗った七福神が祀られています。
宝船の前に置かれているものは長い蛇に見えてしかたがない…蛇はどうにも好きになれない
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弁財天社から反り橋を見上げる。
山肌に降った雨は自然とこの弁天池に流れ込むようになっている。
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反り橋の先に壁の様な108段の石段、「侍坂」と呼ばれ、石段の数108段は煩悩の数を表すのだという。
この「侍坂」を避ける迂回路が石段の左にあります。
「緩い石段」と書かれてはいるが、こうした道は遠回り以外の何物でもない、直登あるのみ。
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角の取れた石段を一段、二段・・・・・、随神門を見上げて登っていたが、中ほどから足元ばかりが気になる、石段の数も途中で忘れた。
先を登るかみさんの足取りも重くなり、遂には足元を見て登っている。数はともかく結構な斜度がある。
「和歌の浦急峻三社寺巡り」甘くはないか。
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 朱塗りも鮮やかな二層の随神門が間近になってきた。この辺りに来ると再び石灯籠が現れる。
石段の両側は切り立った斜面と杜が迫っているため、極彩色に彩色された随神門と左右の廻廊の全容は意外と収まらないけれど、関西の日光とも呼ばれるのも分からないでもない。
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随神門前から扁額を見あげ…る、首の筋肉が悲鳴を上げる、少し離れて眺めるのがいいのかも。
「侍坂」の急登108段と紀三井寺の結縁坂の231段、登り切ったぞ。
すぐ西隣に残りの和歌浦天満宮があるけれど、今の気分は「もう十分」
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日本一大きいといわれる随神が鎮座する。
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随神門をくぐると視界は開け、境内が広がります。
正面に檜皮葺の唐門、拝殿は入母屋造の檜皮葺で破風が施されています。
周囲は檜皮葺きの端垣が取り囲んでいます、瑞垣に彩色される特徴のある緑の色、お馴染みの色ですが最近この色が気になりだした、何色というのだろう?
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境内右に手水舎と正面の瓦葺の建物は神輿蔵。
赤い玉垣に囲われた一画は「楓の木」、古い葉は枯れても新芽が出るまで落ちる事はないそうで、縁起を担ぎ合格祈願に訪れる受験生も多いと云います。

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境内から廻廊と随神門、社務所の眺め。
御朱印はやはりこちらで頂きたいもの。
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入母屋瓦葺の随神門は至る所に彫飾りと彩色が施され、豪華絢爛ですが、意外に地味な方なのかもしれない、何より金色に光り輝く飾り金具が目に飛び込んでこない。
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唐門から先の拝殿、本殿は拝観料を支払えば間近に見ることができます。
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唐門左の解説。
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唐門から拝殿の眺め。
最後の11段の石段を登って拝観することに。
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極彩色の唐門の天井に描かれた天女、色彩は鮮やかです。
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拝殿、正面に金色に輝く狛犬(獅子かも?)、その先にこれまた金色の葵紋。
社殿は拝殿、石の間、本殿の構成、ここはもう豪華絢爛そのもの。
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眩いばかりに光り輝く金色と細かな彫や彩色が溢れている、さすが徳川。
社殿を左回りに見て廻ります。
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拝殿西側の石の間の軒下に左甚五郎の「鶴亀」が描かれています。
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唐門に戻ってきました。
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 色鮮やかで傷みの目立たない社殿は、創建から50年の年忌毎の根本修理、10年・15年に彩色修理と計画的に手が入れられて来たそうで、それは今も受け継がれこの姿を留めています。
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 唐門から随神門、その先の眼下に和歌の浦湾を一望できる。
こうしてみると標高は結構ありそうです、‣・・・・という事はあれだけ下る? 当たり前か
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随神門から和歌の浦湾を眺めると「緩い石段」は捨てがたいけれど、この景色を眺めながら再び「侍坂」を下っていこう。
「隣も行く?」、無理です。

2020/6/26
紀伊東照宮
創建 / 1621年(元和7)
祭神 / 徳川家康、徳川頼宜
境内社 / 権現不動堂、福森稲荷社、日之出大神、吉光大神、弁財天社
住所 / 和歌山市和歌浦西2-1-20

関連記事 / ​車中泊で紀伊國・大和國一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳
『紀三井寺』​ 、​上野東照宮​ 、​久能山東照宮​、​芝東照宮​、​

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松姤社から国道一号線沿いの歩道を左へ、更に最初の脇道を左に向かい秋葉山圓通寺方向へ。
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 最初の交差点は左に進むと熱田神宮南門へ続きます。
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 熱田神宮の杜沿いに北方向へ進みます。
周辺の表通りはビルが立ち並んでいますが、少し入ると趣のある民家が点在しています。
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 秋葉山圓通寺が見える三叉路の角にある個人宅の片隅の幟柱が目にとまりました。
良く見ればその奥に小さな社の姿があります。
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 個人宅の壁面に貼られたホーロー看板が味があっていいものです。
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 個人宅南の敷地に東西に長い社地を与えてもらい、幟柱の先に岩で組まれた台座の上に社が祀られています。
こちら側が正面かと決め込んで社名の手掛かりを探して見るも何もない、社をよく見るとこちらは背面側。
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 正面に回り込んで見ました、趣はこちらが裏の様な外観です。
街中に井戸、しかも今も現役の様に見えます。
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 熱田神宮を背にして東向きに鎮座する板宮造りの社に社名札はなく、その他の手掛かりは分かりません。
それでも神社幕が架けられるようになっているので廃社ではなさそうです。
こうして見ると屋根神さまの様にも見えなくもないけれど、なにも分からない。
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 上の写真の左は終戦から間もない頃の航空写真、右が終戦から6年後の航空写真。
名古屋は大きな空襲を幾度か受けています、戦争による空襲は多くの犠牲者と大きな爪痕を残しました。
熱田神宮のあるこの辺りも「熱田大空襲」として多くの人命を失い、甚大な被害を受けています。

この社が建てられたのはそれほど古くはないでしょう。
復興に向かい現在の姿になっていく過程で、ここの住民(個人?)の思いと創意から祀られたものである事に間違いないでしょう。

今こうして見る社、それを必要とした背景が後世に伝わっていくといいのだろうが。

廃社の社を見かけると、単に社だけではなく、その地域の一つの歴史が幕を閉じた気がしてならない。

不明社
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市熱田区神宮2丁目3
松姤社からのアクセス / 鳥居から​徒歩で2~3分程
関連記事 / ​松姤社

久し振りにかみさんが健康診断を受けた。
それは7月中頃の事、そこから健診結果が郵送されてきたのが先週末の事。

レントゲンで再検査(このご時世これは面倒なことになるぞ)と判定される、最寄りの医療センターを9時に受付。
受付は一般外来で内容を伝え非接触式体温計で異常なし、1時間近く待ち漸く受診。
そこで問診の際にもう一度脇の下で体温計るとこれが37度越え。
その結果から一気に本来の受診内容からcovidコースに変更となり、抗体検査へと進む。

一歩そちらに踏み込むと、シールドで囲われた受診者が視界に入ってくるそうだ。
検体を採取し、結果が出るまでシールドされた僅かなスペースで壁に向かい待機する事さらに一時間。

そこから告知なしに本来の外来コースに復帰、問診と精密検査を受けることができた。
健診で引っかかった内容について問題ない事は確認できたので一安心。
結果を聞いて余裕ができたのでしょう、先生にcovidの検査結果を尋ねたら「問題があればここにはおれません」とのこと。

「取り敢えず掛かりつけ医で事情を説明し発熱の治療を受ける様に」とのことなので、今度は掛かりつけ医を訪れる。

事前に電話で説明、時間指定で医者に向かう。
当然一般待合室には入れず、屋外駐車場の車内で待機。車で待機する方が他にも複数台。

やがてフェイスシールド、防護服姿の先生が駐車場に現れ、診断を受ける事に。
「抗体検査受けたんだ、取り敢えずもう一度体温計りましょう・・・・・平熱ですねぇ、少し喉チンコが赤いかな、薬飲んで様子見ましょう、本来最初の医療センターが対応する内容、こちらに回されるのは・・・・電話しておきます、薬は調剤薬局から車に持ってきてくれますから、もう少し待っててね」と言い残し立ち去っていきました。相変わらず軽い先生だ。

そこから10分程待っていると、フェイスシールド、防護服姿の調剤薬局の方が現れ薬を受け取る。
健診や清算等全ては車内で事が済む。

陽はとっくに傾き一日がかりとなったけれど、途中相当不安にもなっただろうが、かみさんはある意味、我家でただ一人covid-19の不安を払拭できたことになる。
心の健康を頂いたという事で今日一日は二人にとって有意義だったと考えよう。
医療に従事される方々には「お手数お掛けしました」という以外にない。

エアコンかけっぱだったり、ただでさえ夏風邪をひく。
ましてや育ち盛りの子育て世帯にとって子供と熱は切り離せない。
このご時世、最初にcovid19の疑いから診断が始まります。
いつ感染してもなんら不思議ではないけれど「covid19?風邪?」と悩んでいても解決しない、さっさと医者を訪れよう。今まで以上にエネルギーが必要なご時世になったものです。

因みにかみさんは炎天下を歩いて医療センターに行ったようです。
(ソレッテ・・・・・どうなのヨ)

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