尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2020年11月

熱田神宮の広い境内、『大幸田神社』の後方から東西に塀が続いています。
01
 『信長塀』と呼ばれこの塀は、その名の通り信長が寄進したもの。
当時は全長400㍍の長さがあったそうですが、現存するのは120㍍ほど。
1
1560年(永禄3)、桶狭間出陣の際、手勢の少ない圧倒的に不利な戦へ出陣するにあたり、信長は熱田神宮で戦勝を祈願したといいます。
02
ご存知の様に天候を味方とした信長の奇襲により、今川義元は討ち取られます。
どう考えても不利な戦いに勝利できたのは熱田の神が味方をしたのかもしれません。
内心では信長自身死を覚悟の出陣だったと思いますが、その戦に勝てたお礼として熱田神宮に奉納したのがこの塀と伝わります。
2
 「日本三大土塀」というものがあるようで、兵庫県の西宮神社大練塀、京都の三十三間堂太閤塀と名古屋の信長塀を指すようです。
3
 土と石灰を油で練り固め、瓦をサンドイッチし厚く積み重ねて作られた築地塀(ついじべい)、塀の上には瓦屋根が付きます。
今時のブロックとセメントの塀はその気になれば容易に破る事が出来ますが、この塀はそう簡単には倒せまい。
それ故にこの塀は大切なものを守る防御の目的が感じられます。
この塀が守るのは、信長を勝利に導いてくれた熱田大神そのものだろう。
先人の知恵で作られた信長塀は震災、戦禍に遭いながらも今も姿を留めています。
重厚で趣のある塀ですが、この解説がなければただの「へぇー」かもしれない。

熱田神宮境内 『信長塀』
建立 / 1560年(永禄3)
住所 / ​名古屋市熱田区神宮1-1-1
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線​「伝馬町」駅下車徒歩10分程​
関連記事 / 熱田神宮末社 『大幸田神社』

さて二日目の工程は少しタイト
6
最初の目的地は宿から25分程走ったJR日本最南端の駅「西大山駅」。
単独峰の開聞岳を望む長閑な田園地帯、そこに伸びる指宿枕崎線の線路と無人駅で知られる。
ここはおやじが以前から行きたかった場所です。

幸せの黄色いポストは現役のようで、ここから投函すると願いが叶うと云う、近くには縁結び、子宝、家族の健康など多くの願いが込められた絵馬がかけられています。
「ワクチンを作り皆を健康にするぞ!」と書かれた絵馬に目が止まる、がんばれ!

日本最南端の駅案内碑
住所 / ​鹿児島県指宿市山川大山


「西大山駅」から車で10分程走り、開聞岳北側山麗の枚聞神社を目指す。
7
 開聞岳の北北東に鎮座する枚聞神社、社殿後方には開聞岳が優美な姿で聳えています。
薩摩国一之宮は、昨日次に参拝する新田神社と、ここ枚聞神社の二社があります。
新田神社は格式で言うところの式内社ではなく、ここ枚聞神社は式内社として格付けされています。
祭神は、天照大御神を祀り、配神に五男三女神を配祀します。
「地方開拓の祖神として厄除け、海運、交通安全、航海安全、漁業守護神として、琉球国を初め地方民から厚く信仰され、古来薩摩国一之宮、南薩地方の総氏神として朝廷や薩摩島津家から代々に渡り厚く崇敬されてきた。」
創建は定かではなく神代の時と云われますが、社記によれば708年(和銅元年)の創建とあるようです。
開聞岳を御神体とする山岳信仰から始まっているようで、開聞岳頂上には末社の御嶽神社が鎮座するという、御神体が開聞岳がありながら御嶽神社?-・・・・良く分からない。

朱塗りの社殿は正面に勅使殿、拝殿、本殿と並びますが、拝殿までは辛うじて見えますが、本殿の全容は外削ぎの千木と鰹木以外は見て取れません。勅使殿天井に描かれた絵が視線を引き付けます。
7.5
 薩摩國 一之宮 枚聞神社
祭神 /   天照大御神
配神 /   五男三女神
創建 /   不明、社記708年(和銅元年)
 住所 / ​鹿児島県指宿市開聞十町1366
さて次の目的地もう一つの薩摩國 一之宮 新田神社までは小一時間程のドライブ。
8
もう一つの薩摩國一ノ宮である新田神社は神亀山という亀の形をした小高い山の上に鎮座します。
新田神社の一ノ鳥居からニノ鳥居までの参道は真っすぐ伸び、参道両脇には桜並木が続き、桜の時期にはさぞかし見ごたえがあるだろう。それにしても参道は長い、一ノ鳥居が霞んでしまうほど。
ナビに任せてニノ鳥居に案内してくれたのはいいけれど、ここから歩いて一ノ鳥居までは少し遠い、諦めだ。

かつて八幡五所別宮のひとつとして八幡神を祀っていたので、「新田八幡宮」、「八幡新田宮」などと呼ばれていたそうです。
神社の「新田」という名称は、天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコネホノニニギノミコト)が川内の地の川内川から水を引いて新しく田圃を作ったとされ、そうした意味が込めら付けられたとされる。

祭神は天津日高彦火邇邇杵尊、天照皇大御神、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(マサカツアカツカチハヤビ・アメノオシホミミノミコト)を祀り、創建は725年(神亀2)とされるようです。

勅使殿の唐破風向拝に施された飾りと拝殿天井に施された草花の天井絵は見応えがあるものです。
勅使殿前の狛犬「子だき狛犬」は、安産を祈願し撫でることで願いが叶うとされます。

社殿は元は現在の位置から一段下がった場所に鎮座していたようですが、火災(1173年)により焼失、僅か3年後に現在の山頂に再建されたようです。

社殿の背後の可愛山陵は天津日高彦火邇邇杵尊の陵墓とされる。
8.5
薩摩國 一之宮 新田神社
創建 / 不明(創建は725年(神亀2)とされる)
祭神 / 天津日高彦火邇邇杵尊、天照皇大御神、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
住所 / ​鹿児島県薩摩川内市宮内町19352

そろそろ遅い昼食をとるため新田神社から30分程南下した串木野市にある海の駅食堂へ
9
島平漁協直営の食堂という事で、鮮度のいい刺身が食べられる。
地元にとどまらず観光客からも支持され、タイミングが悪いと待ちがでるお店。
待ちがあっても大丈夫、目の前の照島には神社もあり参拝もできる。

たまたまだろう、順番待ちもなく即入店、数々あるメニューの中から一番人気の「海鮮丼しおさい」を揃ってオーダー。
これで1200円なら妥当な価格か、複数の魚種の切り身がてんこ盛り、そこにワサビを醤油に溶かして丼全体に垂らして頂くものらしい。臭みもなくこれは旨かった、が唯一白い切り身だけが食べ慣れていないせいか少し癖があった。

照島海の駅食堂 
営業時間 11:00~14:30
定休日  火曜日、年始
鹿児島県いちき串木野市西島平町409

さて食事も済ませ目の前の照島に鎮座する照島神社に参拝します。
10
 「照島」という小さな島ですが、朱色の反り橋を渡ると波打ち際の石鳥居から神社のある島の頂に向かって石段が続きます。
昔から海の守り神として崇拝されている、祭神は大己貴命、少彦名命、大山津見命を祀ります。
創建年代は不明ですが、古来言い伝えには常陸国鎮座の大洗磯神社(御祭神・大己貴命・少彦名命)と、伊予国鎮座の大山津見神社(御祭神・大山津見命)を勧請し創建したとされています。
反り橋を渡った左に「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」があり、ここに上陸した陶工たちがこの地で焼き物を作り始めた事から発祥の地でもあるようだ。
小さな島全体が神域のようで、多くの伝説も伝わる不思議の島。
照島神社
創建 / 不明
祭神 / 大己貴命、少彦名命、大山津見命
住所 / ​鹿児島県いちき串木野市西島平町410

次の目的地仙厳園へは車で1時間20分程東へ向かいます。
ここでの目的は桜島を築山に見立て、錦江湾を池に見立てた雄大な光景が見られる島津家の庭園と反射炉跡を一目見たかった。
11
仙厳園正門前では体調や検温、アルコール滅菌等感染予防の対策は十分とられていた。
園内中ほどの錫門、朱塗りの江戸時代の正門。屋根は薩摩の特産品の錫で葺かれています。
12.5
 世界遺産の構成資産ひとつ反射炉跡は、正門を入って左手に城壁の様に建っています。
28代島津斉彬が鉄製大砲の鋳造のため築いたもので、煙突が聳え立つ韮山の反射炉とは違い、炉の基礎となる炉体の跡が今も保存されています。

桜島の噴火活動は訪れる前日までは活発だったようですが、滞在期間中は穏やかな表情を見せていました。錦江湾に浮かぶ桜島、今も噴煙を上げる桜島はこの地のシンボルでもあり、火山と共に生活がある。
余談ですが、その日は気付かなかったけれど、翌日の朝、車の窓ガラスに薄く白い砂が積もっていたのには驚きました。これが桜島なんだと実感。
12
 尚古集成館 
仙厳園の左に隣接し、幕末の薩摩藩主島津斉彬が西欧諸国のアジア進出に危機感を持ち、軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践、それら事業の中核を担ったのが集成館一帯。
ここから大砲などの西洋技術が各地に広がっていったといっても過言ではない。
1865年(慶応元)に竣工した機械工場は重要文化財で現在は島津家の歴史、文化と集成館事業を展示する博物館になっています。

仙厳園・尚古集成館
住所 /   ​鹿児島県鹿児島市吉野町9698-1

滞在二日目最後の目的地照国神社に向かいます。
13
その前に今夜の宿、城山ホテル鹿児島にチェックインし荷物を置くことに、部屋の窓からは夕陽に染まりつつある桜島が一望できる。
照国神社の授与所は夕方5時まで、あと30分、悠長に景色を見入っている場合ではないか。
ホテルから近道の狭い階段を下り神社を目指す。
かみさんは島津家の家紋が入った御朱印帖を手に入れたかったようで絶対外せない場所、ギリギリ間に合い念願の御朱印帖を手に入れ大満足。
13.5
 照國神社
島津齊彬は1851年(嘉永4)、43歳で薩摩藩・藩主を襲封し、1858年(安政5)に亡くなるまでの僅か7年間の治世ですが、その間の事績は藩内にのみならず日本にとっても数々のものを残し、生前の遺徳を慕い崇敬の念から1863年(文久3)照國大明神の神号を授けられ照國神社が創建された。
祭神は照國大明神、島津家28代当主11代藩主 島津齊彬

照國神社
住所 /   ​鹿児島県鹿児島市照国町19-35
14

参拝を終え、城山を背に建つ西郷さんにもご挨拶したし、市内を走る路面電車を見がてら晩御飯へ。
ホテルは夕食の予約が埋まる程の宿泊客、GoTo効果は大きいようだ。
15
 市内で一杯ひっかけながら晩御飯を済ませ、ホテルに戻りやっと一息。
展望露天風呂で疲れを癒し、夜景を見ながら再び飲む。
イルミネーションが施されクリスマスが近いことを告げているが、今年は家族揃って乾杯は見送りだろうね。
鹿児島滞在も明日が最終日、いよいよ桜島に渡ります。
そしてお決まりの早起き、窓から朝陽に輝く錦江湾と桜島の綺麗な事。

城山ホテル鹿児島
​住所 /  鹿児島県鹿児島市新照院町41-1


二日目工程​ 

関連記事 / ​2泊3日で鹿児島一之宮巡り1日目​ 、​韮山反射炉世界文化遺産


お国の勧めるGo Toなんちゃら
決めきれないお国の方針、やばい県民でありながら噛み合わない県と市の方針。
体調は完璧、感染防止対策も出来る限りの準備をした、11/24~26鹿児島の大隅國、薩摩國一ノ宮に行ってきました。
1
セントレアからプロペラ機で鹿児島空港へ、搭乗前も検温、手滅菌の徹底、機内でもマスク着用のマナーを皆さん守られている。この上で何を求める。

お国の示すGoTo、かみさんは普段届かない遠方の一之宮を選んだようです、車中泊で巡る予定でいた地域、お国が勧めるのであれば当然の選択。

最初にこれだけは書いておこうと思います。
迎え入れてくれる施設では最善の知恵を絞り、この状況下を乗り越えようとしています。
出かける個人の振舞いがこれらを全て台無しにしてまう、違うだろ?と思う光景を何度も感じた二泊三日でもありました。
2
鹿児島空港からほど近くの大隅國一之宮 鹿児島神宮
日豊本線の隼人駅から北に約1㌔に鎮座し、社頭の大鳥居からは長い参道が境内まで続き、二の鳥居をくぐり石段の参道を三つ登り切ると社殿が広がります。

海幸山幸の神話によるところの社で、祭神は彦火火出見尊(別名山幸彦)、筑紫の国開拓の祖神で高千穂宮を営み給い、580歳の長寿に亘り農耕畜産漁猟の道を指導し民政安定の基礎をつくったとされます。
幣殿天井一面に野菜や花の天井絵と二本の柱に巻き付く龍が彫られた巻龍柱が見所。
2.5
大隅國一之宮  鹿児島神宮 
創建 / 不明
祭神 / 彦火火出見尊、豊玉比売命
相殿神 / 仲哀天皇、仲哀天皇、応神天皇、応神天皇皇后
住所 / ​鹿児島県霧島市隼人町見次内 24961

今回は飛行機とレンタカーによる移動、名古屋発が昼となり初日の参拝はここのみ、ここから一気に90㌖南下し、かみさん念願の砂蒸し風呂で知られる指宿温泉に向かいます。
3
今夜の宿に到着したのは18時前、チェックインを済ませ宿から数分の「砂蒸し会館 砂楽」へ。
とっぷり日が暮れ周囲の景色は眺められなかったけれど、念願だった「砂に埋もれる」を体感し大満足の様子、じっくり一時間くらいはと思っていたけれど、こちらが推奨する10分が程よく体の芯まで温まるところかも知れない。それ以上は罰ゲームの世界かも。
4
宿に戻り晩御飯、滞在期間は専用個室で食事、仲居さんも専属で対応してくれ、他の客との交差汚染、感染経路の特定に対し配慮されているようです。
目の前で上げてくれるさつま揚げや地の魚等盛りだくさん。
おやじには結構お腹一杯、いも焼酎の心地よい酔いが今日の疲れを癒してくれる、夫婦で訪れるには落ち着いた絶好の宿です。
鹿児島湾を眺めながらの展望露天風呂もなかなかいいものです…この後バタンキュー。
5
お約束の早起き、日の出の美しい光景は最高の御褒美。
朝食もボリュームたっぷり、ご飯がすすむ、朝から食べ過ぎだ。
スタッフはこの状況下で精いっぱいの配慮を見せてくれる、にも関わらず館内のマスク着用、エレベーターでは相乗りを控えて、とありながら守られないのは悲しいものがある。
温泉同様とても温かみのあるいい宿でした。

指宿温泉、嘗ての賑わいとかけ離れ、随分寂れた印象でした。

夫婦露天風呂の宿 吟松 
鹿児島県指宿市湯の浜5-26-29
1日目工程

岐阜県下呂市萩原町上呂
飛騨川沿いに続く国道41号線を「飛騨萩原」から飛騨川左岸を10分程高山方向に向かう。
国道と並行して伸びるJR高山本線の脇に鎮座するのが飛騨國二之宮『久津八幡宮』
1
国道から高山本線を踏切を越えると右手に参拝者駐車場、その先に境内が広がります。
2
駐車場から続くこの参道、拝殿の向きからすると脇参道なのかもしれない。
左が社務所のようです。
3
鳥居をくぐり拝殿と右に手水舎。
4

5
境内伽藍
上 拝殿
下 中央から幣殿と本殿、左の鳥居は美魂神社で鳥居の左右に杉の巨木が聳えています
6
こちらが正参道ですね、鳥居前に社号標と狛犬、正面に拝殿。
社頭を高山線の線路が横切っています。
7
あらら遮断機が下りてしまった。
8
社頭を守護する狛犬
吽形は子持ち、阿形は玉を持っています。
9
境内右隅に社号標が二つ、左が県社の社号標、右が郷社の社号標。
10
拝殿(重要文化財)
入母屋杮葺きの屋根は軒先に向かって美しい曲線を描き、縦横の比は安定感のある優雅な佇まい。
1581年(天正9)とされ、益田の国領主、三木自綱の命で普請奉行に小林正左衛門、舩坂弥次右衛門、内記喜助を任命し、桜洞住民で飛騨の匠の流れを汲む桂川孫兵衛を棟梁として建立されたもの。
11
この拝殿正面の軒下には「水呼ぶ鯉」と呼ばれる鯉の二つの作り物が左右に施され、火難除けの守護を務めています。その左右には矢も描かれています。
12
現在の鯉は1854年(嘉永7)の大修理の際に取り付けられたもの。
鯉と↑が書かれた看板がなければ気付くことはないでしょう。
13

水を呼ぶ鯉の昔話の解説、どうやら鯉は必要以上に仕事し過ぎたようです。

鯉の左右に付けられた矢はそれを鎮めるために後から付けられたようです。
14
幣殿
1827年(文政10)に再建され、その後、明治、大正、昭和と大改修を受けたもの。
15
幣殿前の狛犬、こちらも子持ち玉もち。

16

久津八幡宮由緒
祭神は應神天皇、天照皇大神、春日大神を主神とし仁徳天皇をはじめ八柱の大神を配祀する。
仁徳天皇六五年(377)勅命により難波子武振熊命が飛騨国の両面宿儺を征討の途次應神天皇の霊を奉祀したのを創祀とし、平治の乱(1159)役募兵のため飛騨に入国した源義平が鶴岡八幡宮の神霊を勧請奉斎したのを當宮の鎮座とする。
その役応永一九年(1412)飛騨国領主白井太郎俊國が現在の本殿を再建、天正九年(1581)飛騨国領主三木自綱が現在の拝殿を建立した。
以後飛騨国藩主金森氏や幕府の代官、郡代により修理造営が行われてきている。
古くから飛騨二の宮南飛騨総鎮守と称され、飛騨国中はもとより越中、美濃からも厚く崇敬されている。

天然記念物
夫婦杉雄杉と雌杉、周囲12.5㍍樹齢1500年

配祀祭神
倉稲魂神、火産霊神、大山祇神、須佐之男命、事代主神、磐長姫神、久久能智神、菅原道真

下 
久津八幡宮所蔵の宝物
17
幣殿右に本殿への参拝順路の案内板。
18
幣殿から本殿方向へは右に参道が整備されています。
19

本殿
1412年(応永12)、飛騨の国領主、白井太郎俊国が祈請により、家臣の山下作右衛門友貞を普請奉行にして、美濃の武沢茂右衛門利久を棟梁として再建された、杮葺き屋根の流造。
南側の蟇股には「鳴いた鶯」の伝説が伝わる彫が施されています。
20
鳴鶯の蟇股
むかし、むかし一人の男が夏の暑いなか歩いて久津八幡様で休憩をしている内にうとうとと眠りについてしまった。
しばらくすると小鳥のさえずりが聞こえてきました、せっかく寝付いたのにやかましいと云いつつ森に向かって小石を投げるとぴたり鳥のさえずりが静まったが、ホーホケキョ〃〃と鳴くウグイスの声だけはいっそうはっきりと聞こえてきました。
男は鳴き声の方へ歩いて行くと不思議な事に本殿の軒下の木彫りのウグイスから聞こえていました。
男は小石をその木彫りのウグイスに投げつけるとパッタリとやみ、ただ木の葉を渡る風の音だけがサラサラ聞こえていたと。
男は慌てふためいて境内を飛び出し村人にこの出来事を話したと、このときからや、軒下の二羽の鳥の彫り物を鳴いたウグイスと呼ぶようになった。

この彫物が鶯なのかはともかく、人が思いを込め作ったものには何か不思議なものが宿るのかもしれない。
21
本殿から拝殿の眺め。
22

美魂神社境内に左右に聳え立つ夫婦杉の偉容。
老木で割れもありながら今も青々としている。


美魂神社
この一帯の戦没者をお祀りする。
23
夫婦杉から見た本殿。
流麗な流造の姿が良く見る事が出来ます。
24

境内に一際目を引く巨大な夫婦杉、それ自体がこの神社の歴史で、不思議な鯉や鶯の昔話もそれを物語っている様です。

社頭の高山線と国道、そのすぐ右には飛騨川が迫っています。
近年の異常な降雨による河川氾濫は、今年は飛騨川水系にも大きな被害を与えました。
恐ろしい側面を持つ川は反面で実りをもたらしてくれます、生活と川は密接な関係です、それがこの距離感なのかも知れませんが、ここはあの2本の矢が水を鎮めてくれている。
202/9/28

飛騨國二之宮 『久津八幡宮』
創建 / 377年(仁徳天皇65)
祭神 / 應神天皇、天照皇大神、春日大神
配祀祭神 / 倉稲魂神、火産霊神、大山祇神、須佐之男命、事代主神、磐長姫神、久久能智神、菅原道真
住所 / ​岐阜県下呂市萩原町上呂2345-1
公共交通機関アクセス / JR高山線「飛騨萩原」から高山方向へ徒歩25分程


前回掲載した報恩寺から東に向かいます
知多半島の中央を南北に伸びる「ふるさとロード」、そこから少し東に進むと道は二手に別れます。
1
恋之水神社はこのY字路の手前左側に鎮座します、道路左の水色の鳥居が目印。2
鳥居の前に駐車場があり、そこからだと鳥居は目の前。
社頭には「健康長寿、縁結び、交通安全」とこちらの御神徳が大きく掲げられています。3
恋之水神社鳥居額
ここは縁結びにご利益がある事で知られ、若いカップルや良い縁を授かりに訪れる参拝者が多いと聞く。
4
鳥居をくぐると恋之水神社の社標、杜の中に境内へ続く参道が下に伸びています。
5
参道を降り始めてすぐ右側に石標が二つ、詳細は分かりません。
6
鳥居から参道を下ると右手におみくじ掛け、無数のおみくじが結ばれています。
7
境内全景。
左が社務所で右手前に小さな社がある、その先には拝所と社殿があるようです。
更に正面奥には白い紙コップが山積みにされています。
8
境内右の社は大己貴命と少名彦名命を祀るようです。
9
良く調べきれなかった石碑が二つ、句が彫られているような。
10
社殿は二つの覆屋の中に祀られています。
神前には願いが書かれた紙コップで一杯、しかも上手に何段にも積まれています。
14
恋之水神社由来

神代の頃、大己貴命と少名彦名命の国造りの時、少名彦名命が病気になり大己貴命が一刻も早く全快するように祈願した、電光とともに美都波能女命が現れ、この地の水を与えれば病も治癒すると告げ、以降万病の特効薬と称される。
允恭天皇の病や聖武天皇の妻、光明皇后もこの水により治ったと伝えられている。
恋之水神社には美都波能女命が祀ってある。

桜姫伝説
一説には桜町中納言の藤原成範の娘の桜姫が家臣青町と恋中になり、反対を押し切り山城国愛宕北山村(現在の京都)に隠れ住んだが、靑町は病にかかり1191年(建久2年)桜姫はお告げを受け、この地の水を汲みに訪れた。
その所在を土地の者に尋ねたところ戯れから「今まで来たくらい東の方」と答えたと云われ、落胆の余り桜姫はこの地で倒れなくなったとされる。
これより恋之水神社とも云われ、その水は恋の病や万病、健康長寿に御利益があるとされる。

13
祭神は水の神、井戸の神と云われる美都波能女命を祀る。
11
恋の水
社務所で紙コップを買い求め、ここで願いを書き恋の水を注ぎ神前にお供えし祈願する。
12
奇跡の湧き水は絶えることなく注がれ続けている。
15
左側の社殿
祭神等の詳細は分かりません、ここも願のかけられたコップが山の様に供えられています。
16
三段に積まれたコップ、恋の病に悩む方は多いもの、そんな時期は誰しもあるものです。
時に神に頼むのも必要です、待っていて何も変わらない、積極的に自らの扉を開ければ道は開かれるはずです。
思う方とここを訪れ、敢えてその場で相手の名前を書いて見せる、ここではそれも許されるはずです。
出逢いがないと思ってここを訪れる、その時あなたの名前が書かれたコップがあるやも知れない。
17
恋之水神社の社殿の全景
18
桜姫の碑
社殿の左にあります。
恋の病にも効く評判から、授与所で販売する紙コップに思い思いの願いが書かれたものが無数に奉納されています。
一つ〃のコップには其々の思いが込められています。
19
神社全景
右は山間地の田んぼ、左は丘陵地の斜面、恋の水はこの斜面から湧き出しているようです。
20
縁結びのお守り
所謂相合傘が描かれている、よく見れば笠は左が一部線が切れ、やや左に傾いている。
右に相手の名前を書き、左に自分の名前を書き入れ、相手の気持ちが自分に傾くようにとの願掛け。
切れた線はその願が叶ったときに線を結ぶものだそうです。
21
少名彦名命の病を癒し、桜姫伝説が伝わる恋之水神社、今もその不思議な力を求めて訪れる参拝者は多い。
2020/10/26

恋之水神社
創建 / 不明
祭神 / 美都波能女命
住所 / 愛知県知多郡美浜町奥田中白沢92
公共機関アクセス / 名古屋鉄道知多新線知多奥田駅より約2km
車アクセス / ​知多奥田駅から報徳寺経由10分程
関連記事 / ​報恩寺

↑このページのトップヘ