尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2021年01月

鹿児島の神社を訪ねる二泊三日の旅も二日目を終え、二日目の宿のある鹿児島市照国町までやってきました。
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 今日はこれでのんびり・・・・・ではなく、チェックインを済ませ、城山の頂にあるこのホテルから、歩いて山を下り麓の『照國神社』に参拝します。
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部屋の窓から雄大な桜島の姿を悠長に見入っている場合ではない、なぜ急ぐ?
かみさんの念願だった島津家の家紋入り御朱印帖を手に入れたい、 「照国神社」授与所は夕方5時まで、あと30分なので絶対遅れる訳にはいかない。
ホテルから麓に降りる近道とされる狭い階段を駆け下り神社を目指す。
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 途中道を間違え、「照國神社」の鳥居に辿り着いたのが10分前。
周囲は夕陽に染まり、本当にこの時期は日没が早くとても損した気分になる。
鳥居の写真を撮って振り返るとかみさんの姿がない、授与所に直行したようだ。
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 山の頂にホテルが良く見える。近くて遠い結構ハードな下りだった。
正面の綺麗に剪定されたイヌマキ。斎鶴と呼ばれ、翼を広げて飛び立つ鶴のように見える。
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 照國神社全景、右手に手水舎。
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 手水鉢には色とりどりの花が水面に浮かべらていて、手のみならず一緒に眼まで清められる。
こうして花を浮かべた手水鉢、最近稀に見かけるけれど、しゃれた演出でいいものだ。
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 照国神社社殿全景。
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 神社創建時の社殿は権現造りだったそうですが、1877年(明治10)の西南の役で焼失し、1882年(明治15)に流造で再建され、1904年(明治37)に改築を受けます。
それも1945年(昭和20)の戦災により焼失、その後1953年に本殿、1958年に拝殿、1967年神門が再建され、1994年(平成6)幣殿を拡張し現在の姿を保っているようです。
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 境内をー段あがると手水舎の後方に古めかしい石塔。
左に社務所があります、巫女さんが戻ってくるという事は授与所閉まったのか?
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神門
1967年に再建されたばかりで趣には欠けるけれど優雅な佇まいをしている。
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 神門から拝殿。
至るところ丸に十字の島津家の家紋が目に入ってくる。
ここで漸くかみさんと合流、念願の御朱印帖はギリ〃手に入れる事が出来た様だ。

先に記載したように拝殿含め全てが昭和に入ってから再建され、以前の木造のシックな趣はない。
神社建立に先立ち、島津久光と息子の島津忠義によって1862年(文久2)社地を選定、翌年の1863年(文久3)に小社を設けたのが始まりと云う。祭神は照國大明神(島津家28代当主11代藩主 島津齊彬)をお祀りする。

島津齊彬と神社創建について案内では以下のように書かれています。
「島津齊彬公は文化6年(1809)御出生、嘉永4(1851)43歳で薩摩藩・藩主を襲封され、安政5年(1858)薨去されるまで僅か7ヶ年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久2(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、同3年(1863)5月11日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。翌元治元年(1864)社殿竣工、照國神社と称し、明治6(1873)県社に、同15年(1882)別格官幣社に列格し、同34年(1901)正一位を賜り、今日では、鹿児島の総氏神様として、多くの人々に崇敬されています。」
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 拝殿左の廻廊から更に参道が続きます。
最初に現れるのか赤い鳥居を構えた照國神社の末社「保食神社(照國稲荷)」
食物や穀物の神さま倉稲魂神を祀る、もともとは後方の城山の中腹に祀られていたが、台風で被災したのを機会に1954年に境内に遷座した。
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 「保食神社」から参道は更に奥へ続きます。
右手に流造で五本の鰹木と外削ぎの千木が施された本殿を間近に見ることが出来ます。
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 本殿後方の水宮に向かう参道脇、木の根元に悲壮感を漂わせて座り込む石像があります。
邪鬼なんだろうか、両手は目に見えぬ何かを必死の形相で支えている。何の重圧から耐えているのだろう。その表情があまりにも印象的だったので撮ったものの詳細はよく分からない。
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 参道は左の「水宮」に続く。
時間のせいもあるけれど、鳥居から先は薄暗くそれまでとは違う異質の空気が漂う。
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 緩やかなカーブを描く参道、左には複数の苔むした石標が並ぶ。
それらには山神、水神、地神と刻まれ、正面の苔むした山肌にも水神と彫られた石標が祀られています。
これらの石標は「内神様」と呼ばれ自然への畏敬の念を込め祀られたものだという。
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 御幣が供えられた山肌は清水が湧き出ている。
こうした場所は開発も進み湧き出る清水も少なくなる、神様を祀るほど以前は量も多かったのだろう。
蛇口を捻れば好きなだけ飲め、植物に水もやれる、そんな時代に生きているものにすれば、自然の水に感謝し尊ぶ気持ちは薄れてしまったのかもしれない。
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 参拝を済ませ神門を通り手水舎の謎の石塔まで戻り、そこから隣の探勝園に向かいます。
灯が灯された境内、神門の上には月も顔を見せています。
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 探勝園
照國神社の右に隣接し、島津家第25代当主重豪公が建立した庭園。
ここには祭神の島津斎彬の像や島津久光公・忠義公父子の銅像があります。
左手には『照國神社』の社殿全体を見渡すことができる。
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42歳で藩主となり50歳で亡くなるまで、薩摩藩の富国強兵を推し進め、洋式造船技術育成、反射炉建設・溶鉱炉建設の他にも地雷や水雷、ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を立ち上げるなど技術革新を進め、西郷隆盛や大久保利通などの人材を輩出するなど、近代日本の礎となる数々の功績を残した。
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 国旗、日の丸を発案したのも齊彬で、江戸末期の黒船の来航以降、幕府は鎖国から開国に向け転換せざるを得なくなります。
それにより、海上を航行する船舶の日本船と外国船の識別が必要となって行きます。
齊彬はこれを解決するため、「白帆に朱の丸」の旗を掲げるように幕府に提案。
それを取り入れた幕府は日本の船印を「日の丸」に定めたとされます。
一国の藩としてだけでなく、世界の中の日本のあるべき姿を見据えて策を練り形にする、そうした将来を見る力量を持った人だったようだ。
藩主となり亡くなるまでの8年は長いようでとても短い、それを知っていたかのように濃密な時を過ごしたようだ。今はここ城山の麓から鹿児島の移り行く姿を見守っている。
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 「戊辰之役戦士顕彰碑」
探勝園にはこの他に「太平洋戦争戦士の墓」「原爆犠牲者慰霊平和記念碑」等がある、幸運にも平穏な時代に生かされている幸せに感謝しかない。
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 「鹿児島縣護国神社頓宮」
名の通り祖国の為に亡くなられた方々を祀る神社で1868年(明治元年)、島津忠義は鹿児島市山ノ口馬場に靖献社として建立、1879年(明治2)に移転したもの。
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そろそろ日没も迫っている、斎鶴の先の鳥居と街並みが夕陽に照らされ赤く染まっている。
この鳥居は強運を持っているようで、空襲により社殿は焼失しましたが、この鳥居だけは被害を免れたそうだ。
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照國神社
創建 /   1863年(文久3)
祭神  / 照國大明神(島津家28代当主11代藩主 島津齊彬) 
境内社 /   保食神社、水宮 
住所 /   ​鹿児島県鹿児島市照国町19-35

西尾市吉良町 蛭子社

息苦しい街の空間、そんな毎日の繰り返しが続いている。
時には外の空気を腹いっぱい吸いに名古屋から下道を走って二時間ほど、かみさんと二人で久しぶりに郊外に出かけてみた。
ポンコツナビとかみさんの指示に導かれ吉良町までやってきた。

久しぶりの海、久しぶりの吉良海岸、若かりし頃に慰安旅行で訪れて以来かもしれない。
当時は温泉街もそれなりに活気があった、今は当時の活気に満ちた温泉街の印象とは程遠い。
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写真は吉良海岸の恵比寿海水浴場の眺め。
砂浜の先に弧を描くように堰堤が続く。
季節外れの砂浜に釣り人の姿がポツンと見える程度、この空間に密など存在しない。
潮の香りと静かに打ち寄せる波の音。
気が許せない普段の生活から解き放たれリラックスできる。
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恵比寿海水浴場の西外れ、というか堰堤の付け根に松の生い茂る馬の背のような小高い高みがあります。
海側に高みに続く石段があり、その先に神明鳥居があります。
ここは恵比寿海水浴場にある『蛭子社』。
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石段を上ると馬の背沿いに赤い幟が立ち並び、参道は奥の小さな社へ続いています。
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松並木の参道にはえびす社と書かれた赤い幟が海風にたなびいています。
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参道右側にいかにも海らしく錨とスクリューが飾られています。
そこの案内板によれば、「昭和34年(1959)、9月21日に超大型の台風15号がこの辺りを通過。
それは甚大な被害をもたらした伊勢湾台風と名づけられ、当時の新聞の記録には15号台風で吉良町宮崎海岸に座礁した松岡汽船の松隆丸は座礁したまま救援を待っていたが、松隆丸の船内にある野菜・肉類など乗組員の三ヶ月分の食料を被災した地元被害者のために放出し、地元の人々から感謝されたという。」

この錨やスクリューは恰も松隆丸の物のように見えますが、よく見ればこの逸話とは無関係な船のものでした。
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参道の突き当りの入母屋瓦葺の拝殿、後方には平入で切妻瓦葺の本殿を収めた覆殿が一体となっています。
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シンプルな懸魚と大きめの鬼瓦、そこには鯛を抱えてにこやかに笑う姿がある。
祭神は事代主神、迦具土命、須佐之男命
創建は1585年(永禄8)と見た目以上に長い歴史をもっている。
社伝によると1580年(永禄3)に今川義元が巡遊の際、当地は耕地が少なく、漁業で生活するもの多いことから、漁業の祖神西宮大明神を祀るようにと云われ、1585年(永禄8)に蛭子神が祀られたされる。
1913年(大正2)に近隣の秋葉社と津島神社を合祀したという。
永禄3年は桶狭間の合戦で今川義元は信長に討たれた年、その年に義元はこの地へ巡遊していたという。
余裕たっぷりの義元、よもや、よもやの結果が待っていようとは。
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拝殿から鳥居の眺め、正面も右手も海だ。
海に向け突き出るように伸びる高みは恵比寿(蛭子)岬の由縁かもしれない。
堰堤が築かれる以前はこの小さな岬が堰堤であり、風よけの役割を持っていたのだろう。
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参道から左に駐車場に続く小路があり、駐車場から見た社殿。
小高い高みから海に向かい鎮座する「蛭子社」、海を生業にする者の守り神の姿が漂う。
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蛭子社の横はすぐに駐車場、今は静かに佇む神社の姿も海水浴シーズンの時はどうなんだろう。
水着姿の若い参拝客で賑わうのだろうか?、いかん〃煩悩が目覚める。
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恵比寿岬から「吉良ワイキキビーチ」の眺め。
この時期は夏場の賑わいとはかけ離れた静かな光景が見られる。

「蛭子社」
創建 /   1585年(永禄8)
祭神 / 事代主神、迦具土命、須佐之男命
住所 / ​西尾市吉良町宮崎宮11
名古屋から車でのアクセス /   国道23号線⇒西尾東IC県道383号線⇒高河原交差点左折県道310号線⇒善明交差点右折国道42号線⇒新木田交差点左折県道317号線⇒鳥羽橋交差点左折国道247号線⇒鳥羽交差点右折県道316号線⇒吉良観光ホテル手前を左折⇒恵比寿海水浴場方向、 ​所要時間1時間45分

岩倉市大市場町順喜1「縣明神社」
訪れたのは昨年の大晦日。
コロナが広まりを見せる名古屋に電車で帰省する息子、密な中心街を経由させたくない事もあり、車で県境まで迎えに行く途中に立ち寄ってみました。
岩倉市は南北に長く、東西に短い県内の市では面積は一番小さい。
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上は1920年頃の当地、市内には岩倉(美濃路)街道が南北に続き、街道を中心に集落が点在し城址や寺社が集まる、五条川堤の桜やのんぼり洗いで知られところでもあります。
岩倉は「磐座」から由来したとされ、田畑は宅地化され区画整備も進み、田園風景は薄れてきたものの、古い道筋が一部残り昔の面影を留めるいい街だ。
各町内には氏神様が祀られ、それらは神社当番によりお世話をされている。
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大市場町を東西に走る県道166号線、その北側に鎮座する「縣明神社」
南北に長い境内を持ち、参道は県道の交差点を越え更に南に続く、この町の氏神様だ。
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鳥居から境内の眺め。
門松が飾られ、小さな蕃塀と鳥居の先に瓦葺の切妻拝殿が見える。
右手に縣(あがた)明神社の社号標があります。
幟や神社幕、提灯が吊るされ新年を迎えるばかりだ。
平年ならば当番の方はこれから忙しい時を迎える。
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鳥居から先の境内。
左に脇参道があり、街路樹の様な杜が社殿を囲んでいる。
地元のかみさん曰く、この辺りは神社の名前で呼ばず、〇〇町の神社で呼ぶようだ。
この神社の詳細はさっぱり分からない。
この神社誰を祀っているか尋ねてみたが、「参拝はしてもそれが誰かは考えた事がない」という回答。
確かにそうかもしれないな・・・・・残念。
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境内左の手水鉢、龍はいない。前面に文字が刻まれているが悲しいかな読めず。
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切妻で四方吹き抜けの拝殿。
屋根は軒に向かい緩やかに曲線を描き、木造のシンプルな外観はいかにも馴染みやすい町の神社の佇まい。
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五三の桐が神紋のようです、拝殿から幣殿は間近に見通せます。
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拝殿左から幣殿、本殿の眺め、玉垣の先に灯籠と狛犬、どちらもいい感じで古びている。
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幣殿前の肉付きの良い狛犬、奉納年は不明。
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切妻で平入の幣殿、両脇に棟を下げた小さな建屋が一体となり、内部は一つの空間になっているようです。こうした構造の造りの呼称は知らないけれど、単純な平入の切妻より重厚な印象を受ける。
幣殿右に境内末社が祀られています。
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幣殿から本殿は渡廊で繋がっているようで、本殿の全容は見えませんが屋根の形は流造の様です。
神社は旧村落の大円寺地区の氏神で、安産・縁結にご利益があるとして信仰されたきた神社だという。
ここから徒歩で20分程北西の所に、1505年(永正2)からの続く建雲山龍潭(りゅうたん)寺があります。
そちらで1659年(万治2)から伝わる古文書に、この地に長谷大明神と記されているという。
一枚目の地図では、ここに鳥居の印が描かれるのは大正から、社号標にも大正9年と刻まれています。
規模や形態からそれ以前は記されていないとして、古文書のそれが縣明神社の始まりだとすると、古くからこの地の移り変わりを見続けてきた神社。祭神は大縣大神(大荒田命)を祀るようです。
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幣殿右の二社。
何れも社名札がなく詳細は不明、境内はここから右に少し広がります。
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手前に霊神碑があり、参道は赤い稲荷鳥居に続いています。
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霊神碑の右隣に社があります、御嶽社か? こちらも分からない。
社殿を取り囲む様に堀になっていて、恰も島の様に見える。
雰囲気は・・・・・、社名札が欲しいところです、かみさんじゃないけれど取り敢えず参拝するのだ。
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この稲荷も詳細は分からない。
さしずめ縣稲荷と勝手に言う事にしておこう・・・・・社名札が欲しい。
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稲荷鳥の先の本殿。
見逃したか、狐の姿は見かけられなかった。
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いつも横目に眺めていた小さな町の神社、訪れて見れば見た目以上に大きいものだった。
県道の先も参道のようで随分と先にも神社幟が見える。
どなたに参拝したのか、もやもやは残るけれど、お陰様で一年無事に過ごせそうなことに感謝。

予報通りに雪も降り始め、その勢いは増してきた、県境の駅に向かおう。
体調に問題はないらしいが、それにしてもこのタイミングで名古屋に帰省するかな?
素直にその気持ちは嬉しい、土産のへしこも楽しみだ、それをつまみに一緒に酒を飲もう。

縣明神社
創建 / 不明
祭神不明 / 不明
住所 / ​岩倉市大市場町順喜1

鹿児島県薩摩川内市『新田神社』
うねりながら平野に流れ出た川内川、その平野の右岸に亀の形をした里山があります。
平野の中にあって、その存在は恰も島のようにも見えなくもない。
「新亀山」と云われる小高い里山の頂に薩摩国一ノ宮 新田神社は鎮座していました。
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土地勘もなく、不慣れなレンタカーでの運転、運転する者よりも高性能なナビゲーションを隣でそれを操作するかみさんの方が悪戦苦闘。その導きで辿り着いたのが県道44号線沿いのこの地。
御親切に駐車場のある一ノ鳥居まで導いてくれるではないか。(それがニノ鳥居だと知ったのは帰り際でした。)
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ニノ鳥居と新亀山、こうして見ると亀の甲羅の様に見えなくもない。
控え柱の付けられた朱塗りの明神鳥居、その先の石造りの太鼓橋を経て参道は石段となり杜に消えていきます。
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石段の左右には門守社もあるようです。
鹿児島に来て門守社はよく見かけるものです。
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緩やかに弧を描く石造りの太鼓橋は「降来橋」と呼ばれるもので、この橋と擬宝珠は市の指定文化財に指定されていてるようです。
現在こうして見る降来橋は1892年(明治25)に架け替えられたもの。
全長は8㍍、幅5㍍と云うけれど、目の当たりに見る太鼓橋はひと回り大きく見える。
こうして見ると一つの橋に見えますが、その先にもう一つの小さな石橋が架けられています。
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橋の袂に掲げられていた降来橋の解説。
由来は古く「三國名勝図絵」には、1290年(正応3)新田八幡宮の降来橋で雅楽が催された記録が残るという。
擬宝珠は1602年(慶長7)に島津義弘により神殿を修復した際、橋の欄干に刻銘入りの宝珠8個が付けられた。(実物は宝物殿に保管)
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右は新田神社の末社で豊磐間戸命(トヨイワマドノミコト)を祀る東門守神社。
左が西門守神社、祭神は櫛磐間戸命(クシイワマドノミコト)を祀る。
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門守神社から城壁の様な石垣となり、その間に石段が続きます。
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石段の左に赤い社が三社並んで鎮座しています。
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石段を登りきると社殿が現れるかと思いきや、境内は広がりますが、その先から再び石段が続きます。
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左に見えていた三社は新田神社の末社。
石段を踏みしめ参拝に訪れた者をここから見守るように佇んでいます。
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門守神社をコピペでもしたように造も大きさもほぼ同じ、社名札が無ければ参拝していても分からないかもしれない。
右から高良神社 祭神は天鈿女命。
中央が中央神社で祭神は大山祇命。
左が早風神社で級長津彦命、級長津姫神の二柱を祀る。


当社は、九州五所八幡宮(大分宮・千栗八幡宮・藤崎八幡宮・新田神社・鹿児島神宮)のうちのひとつとされ、江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていたという。
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石段の左で見かけた「がらっぱ大明神」。
いざなぎ河童といざなみ河童とあるけれど、読んでいてもよく分からない。
川内川にはがらっぱ(河童)が普通に生息しているらしい、しかも彼らは共和国まで築いているらしい。
建国式の当日、お祭り広場に2体の「がらっぱ像」が見世物として飾られていたそうです。
ガラッパ像はコンクリート造、制作者も担当者も知らぬ間に、用意されていた高台に入魂の儀まで終え鎮座していたのだとか。
河童の不思議なパワーなんだろうかねェ。
「がらっぱ様」の不思議なパワーは、参拝する者に開運、願望援受、魔除け、商売繁盛、災難逃れなどに御利益を授かる事ができる。ここは賽銭を奮発しておくべきところ。
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最初の石段を上り詰めた先に広がる境内、そこから先に再び石段が続きその先に社殿が小さく見えてきます。
1173年(承安3)、新田神社は火災に見舞われ、新亀山中腹にあった社殿を焼失してしまったそうです。
この広い空間は焼失以前、ここに社殿があった名残ということでしょう。
それも朝廷や幕府の支援を受け1176年(安元2)、この石段の先の山頂に再興されたのが現在の『新田神社』。
以後も薩摩国歴代藩主から厚く崇敬され、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿の原形が造られました。
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新たに建てられた社殿に向かう石段の登り口で守護を受け持つ狛犬。
奉納年は見ていないけれど、鼻のあたりに愛嬌を感じるその容姿に隙はない。
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阿形、見開いた眼は無表情に見えなくもない、鋭い犬歯が印象的な狛犬。
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社殿に続く最後の石段、途中で足を止め一息入れる姿も見える、この石段甘く見てはいけない。
ゴールは見えているけれど長く感じる。
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見あげる先に社殿と右手に注連縄が巻かれた大きな楠の樹が見えてきました、あと少し。
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見あげる様に聳え立つ「新田神社の大楠」
根回りは13.3㍍、幹回りが9.9㍍と巨大なもので樹高は20㍍を越え、枝張りは約20㍍に及ぶ。
樹齢は2000年を超えると伝わるそうですが、年輪から推定すると650~800年とされる。
大楠の根元は空洞化し、更に「地上2mのところに大穴牟遅神の木造が彫刻されている」とありますが今一つよく分かりませんでした。
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大楠の右に社の屋根が見えたので寄り道、そこは駐車場で見えていたのは車祓所の社でした。
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新田神社「勅使殿」
唐破風向拝が設けられ。細部に彫飾りと彩色が施された華麗な建物。
棟札から1784年(天明4)の造替とされるもの。
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石段を上り詰めた両脇に独特の佇まいの狛犬がある。最初遠目に見た時はガマガエルの様に見えた。
「子だき狛犬(安産狛犬)」と呼ぶそうだ。
古くから安産に大変霊験のある狛犬で、安産を祈願する方はこの狛犬の頭を撫でるとよいというそうです。
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この子抱狛犬、案内にある様に子を抱いているけれど、頭部が妙に押し潰されたような形が印象に残る。
こうして見る顔の表情は、かわいいようでどこか哀愁が漂ってくる。
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新田神社「勅使殿」
「新田」という名の由来はその昔、瓊瓊杵尊はがらっぱの住むという川内川から水をひき、新たに水田を作ったことからその名が付いたといわれる。
創建は725年(神亀2)と云われますが定かではありません。
始まりは新亀山に瓊々杵尊のお墓を祀られたことに始まるようで、この山のほぼ全体が瓊々杵尊の陵墓とされ、可愛山陵(エノミササギ)と呼ばれるようです、新田神社はその陵墓に鎮座するものです。
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唐破風向拝の透かし彫りの鳳凰?から始まり、蟇股に木鼻の獅子や象など細かな手間と彩色が施され、ここだけでも見応え十分。
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祭神は瓊々杵尊(ニニギノミコト)、天照大神(アマテラスオオカミ)、天忍穂耳命(アメノオシホミミ)
家内安全、事業繁栄、交通安全、商業繁栄、入試合格、漁業繁栄、心身健康などの御利益を授かる事が出来る。
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参拝すると良く見えるのですが、この勅使殿は外部の華やかさ同様、内部の装飾も見事なものがあります。梁の彫飾りに彩色、天井に至っては格子天井の一枚〃に草花の絵が描かれ、参拝後しばらく足が止まります。程よく色褪し嫌みのない上品な華やかさ。
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勅使殿から社務所方向の境内の眺め。
コロナ再燃の兆しのなか鹿児島に出向いたけれど、そうした事も影響があるのか参拝者の姿は皆無。
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主務所側から勅使殿方向の境内の眺め。
社殿に対し境内は意外に狭い印象を受け、もう少し引いて本殿を含めた全体を見たいところですが、手持ちのカメラでは無理があるようです。

伽藍は勅使殿、舞殿、拝殿、幣殿、本殿が一直線に並び、本殿の両脇には摂社があり、それらは廻廊でつながっているという。

薩摩国一ノ宮は先に掲載した枚聞神社と新田神社の二社がある。
何れも島津家の厚い庇護を受けてきた歴史のある神社。
社格を争うとこうなるのか、大人の事情なのか理由はよく分からないけれど、一ノ宮マップを塗り潰す事に燃えているかみさんには違和感はない様ですが、お供のおやじは「一つの國に二つの一ノ宮」や「社格」、もやもや感は今もすっきりしない。
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勅使殿から先の本殿方向は拝めないものか、漸く廻廊とその先の社殿の姿を捉えるがそれが何なのかは良く分かりません。因みに現在の本殿は1850年(嘉永3)に造営されたようです。
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二つ目の薩摩国一ノ宮『新田神社』の参拝を終え次の目的に向かう、長い下りの石段を下り、最初の石段までくると「降来橋」の先にニノ鳥居とその先には桜並木の真っすぐに伸びる参道が一望。
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一ノ鳥居からニノ鳥居に続く長い参道は「八丁馬場」と称し、参道の両脇に植えられた桜は花見の名所。
嘗てこの長い参道には多くの寺院があり「新田神社一二坊」と称されたそうです。
霞んで分かりにくいけれど遥か先に一ノ鳥居が見えています、その先が川内川の堤という事です。
これが桜の時期であれば嘸かし見事なんだろう。
あまりに長い参道、今更「あそこまで行ってくるわ」とは言えない。
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薩摩国一ノ宮 新田神社
創建 / 725年(神亀2)
祭神 / 瓊々杵尊、天照大神、天忍穂耳命
境内社 / 東門守神社、西門守神社、高良神社、中央神社、早風神社等
住所 / ​鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
関連記事 / 薩摩国一ノ宮 ​枚聞神社

静岡県浜松市天竜区春野町領家
秋葉山本宮秋葉神社 下社の右に鎮座する『六所神社』
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それ程大きくはない下社の境内、手水舎の右に『六所神社』と下社境内を繋ぐ参道があります。
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参道を進むとすぐ左に『六所神社』の社殿が見えてきます。
ここから右に参道が伸び、鳥居を経て県道に続いているようです。
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秋葉神社下社の末社の様に見えますが、全く別のようで、六所明神と神社が鎮座する領家地域の六社を祀る地域の氏神さま。

六所明神はこの地域では犬居郷一宮と称えらる古社とされ、祭神は天照大神(伊勢神宮)、中筒男大神(住吉大社)、大山祇大神(大山祇神社)、誉田別命(八幡宮)、天児屋根大神(春日大社)、武甕槌大神(鹿島神宮)の六柱を祀る。
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社殿全景。
切妻妻入りの拝殿には向拝が施され、本殿がおさまる鞘堂と一体となっています。
社殿右に大きな砲弾が安置されています。

江戸時代には石高一石三斗七升五合を拝領したという『六所神社』。
独身の頃は毎日2合ほど、お茶碗で4杯分の米を消費していたけれど、ほぼ2年分に相当する、それ程歴代領主から崇敬されてきた神社。

領家地域の六社とは、天王神社(素戔嗚命)、熊野神社(熊野大神)、八阪神社(素戔嗚命)、金山神社(金山彦神)、山野神社(野槌神)、若宮神社(天押雲根命)を指す様で、先の六柱と合わせるとこの小さな社に11柱が祀られる領家地域の守り神。
この領家という地名はもともと京都の公家の荘園があったことからきていると云い、秋葉山本宮を目指す参拝客の旅籠などが建ち賑わったようです。

領家地域と家康
武田軍との戦で劣勢に追い込まれた家康は退却を余儀なくされた際、この地域の村人は退却する家康に手助けした事から、後の江戸幕府から領家地域は手厚く保護されたとされます。

『六所神社』の創建は定かではありませんが、古くから鎮座する六所神社の隣に利便性などから秋葉神社下社を建立したのかもしれません。

六所神社は神職の常駐しない無人の神社のようですが、「問い合わせは秋葉山本宮秋葉神社まで」とある事から現在はそちらで管理されているのかも知れません。
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参道右に木造の神明鳥居。
下社から県道沿いの社頭に戻るのは諦め、県道が見えるところまで参道を下ってみました。
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静かな杉木立の中に伸びる参道、その先に周囲と同化するように佇む素朴な社殿、特別な空気が漂う。
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少し先に行くと視界の先に県道とその先に気田川が見えてくる、車を停めた駐車場は右手方向。
鳥居はなく社頭を見過ごしていたようで、参道はこの石段から社殿まで真っすぐに続いていきます。

『六所神社』
創建 / 不明
祭神 / 天照大神、中筒男大神、大山祇大神、誉田別命、天児屋根大神、武甕槌大神
合祀六社 / 天王神社、熊野神社、八阪神社、金山神社、山野神社、若宮神社
住所 / ​静岡県浜松市天竜区春野町領家327​ 
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