尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

2021年02月

古い話で恐縮です、昨年2020/2/20~21東京おのぼりさんツアーに行ったのですが。
その中で大概の参拝ヶ所はここに書いてきたつもりだったけれど、浅草の浅草寺と浅草神社を掲載していなかったのに気が付く。1年前の画像ですが今更ながら纏める事にしました。

この東京行きは、当時、得体の知れないcovid-19が確実に東京に広まり始めた頃だったのでとても悩んで行った事だけは覚えています。

かみさんの熱い希望を踏まえ、個人で出来る対策をしたうえで向かったのですが、マスク着用や密に対して今ほど敏感ではなく、大陸からの入国制限はなかった時期だと記憶しています。
滞在中は耳に入ってくる言語に妙にピリピリしていた事だけが印象に残っています。
あの時このタイミングで掲載していいものか、だでさえ遅い掲載に尚更拍車がかかったのは間違いない。
印象は1年も過ぎると忘れてしまいますが、今回は「浅草神社」と「被官稲荷神社」の記憶を呼び戻したい。
浅草と云えば浅草寺だろう?とい云われるかもしれない、浅草寺は大きな本堂や五重塔などインパクトのある寺なんですが、おやじには「浅草神社」と「被官稲荷神社」が妙に温かみがあり印象に残っている。
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写真データから浅草神社へは二日目の昼頃に訪れ、浅草でもつ煮を食べ、ホッピーを飲むのが主目的だったような気がします。その経由地として浅草寺と浅草神社に参拝した。
上は浅草寺の二天門、本堂の東側に建つ朱塗りの門で1649年(慶安2)に浅草寺の東門として建立されたもの。
江戸時代初期の貴重な建築物で国の重要文化財に指定されている。
2010年(平成22)に修復されたものが現在の姿。
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二天門額。
建立当初は随身門といわれ、随神に豊岩間戸命、櫛岩間戸命を左右に祀っていたそうですが、1884年(明治17)、神仏分離に随身像はこれから向かう浅草神社に遷座された。
その代わりに鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天と持国天の像が奉納され、これを機に名称が随身門から二天門に改められたという。
しかし鶴岡八幡宮からやってきた像は、1945年(昭和20)に修復先で戦災にあって焼失してしまったようです。
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二天門解説。
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現在の持国・増長の二天像は、1957年(昭和32)に上野寛永寺の厳有院から拝領されたもので江戸時代前期に作られたと云う。
向かって左が増長天の右利きで南を守護する、右が左利きで東を守護する持国天だそうだ。
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二天門から浅草寺境内の眺め、右手に浅草寺本堂と左に五重塔が聳える。
「浅草神社」と「被官稲荷神社」へは右手の石畳の参道の先になります。
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二天門をくぐってすぐ右側に浅草神社の石の神明鳥居と社標が建っています。
この石の鳥居は1886年(明治18)に建立されたものです。
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浅草神社境内で最初に目に入るのがこの朱塗りの神楽殿かもしれない。
浅草神社の境内伽藍はこの神楽殿と神輿庫、そして正面に拝殿と渡廊で繋がる幣殿、本殿の権現造り。
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1649年(慶安2)第三代将軍徳川家光により建立された社殿、幾度も火災や戦災、震災などに見舞われたが、被災を免れ現在も当時の姿を留めている。
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おでこが発達し毛並みの良さそうそうなた狛犬です。
確定申告? この狛犬の様にきっちり仕事をしていればこんな気はおこらないだろうが、昨今の出来事や対応、親方様のコメントを聞いていると年貢は納めたくなくなる。
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夫婦狛犬
境内右の石碑群の中、二天門の脇に建っています。
江戸時代初期に作られたものと云われますが、詳細はよく分からないようです。
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普段見かける狛犬は参道を挟み阿形と吽形の一対が向き合う様に建てられるものですが、この夫婦狛犬は見ての通り二体並んで建てられています。
絶妙な傾斜により、いかにも寄り添っている様に見え、その表情もにこやかに微笑んでいて、とても微笑ましい狛犬です。
その様子から「良縁」「夫婦和合」「恋愛成就」のご利益があるとされ、相合傘を模した御籤かけには多くの御籤が結ばれています。
元来狛犬は外からの厄災を退け、守護する勇猛な役割なんでしょうが、ここではこうして二天門の脇で相合傘の下に建てられています。どちらも幸せそうにニシャッと笑みを浮かべている。
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参道左に手水舎と手水鉢、この頃は柄杓も置かれていた。
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浅草神社の三社様として親しまれ、三社祭で知られるところ。
社伝ではその起こりを以下のように伝えています。
626年(推古天皇36)、漁師の檜前浜成、檜前武成の兄弟が現在の隅田川で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かったという。
兄弟はこの地の物知りだった土師真中知に相談した所、これは「聖観音菩薩像」だと教えられ、それを知ってから二人は毎日観音像に祈念したと云う。
その後、土師真中知は僧となり、自宅を寺にしたのが浅草寺の始まりだとされる。
土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知、浜成、武成を神として祀ったのが起源とされる」三社様と呼ばれる由縁。
現在の社殿は1649年(慶安2)第三代将軍徳川家光により建立され、幾度も火災や戦災、震災などに見舞われるも都度被災を免れ当時の姿を今に留めている。
1868年に明治政府の神仏分離令にともない浅草寺と分離され三社明神社となり、1873年(明治6)に現在の浅草神社に改称した。
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拝殿前を守護する狛犬は胸板が厚く筋骨隆々とし、羨ましいプロポーションをしている。
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拝殿を斜めから眺める。
入母屋瓦葺の平入に向拝が付けられた拝殿は朱で彩られ、各所に鮮やかな彩色の霊獣が描かれています。
木鼻や蟇股などの彫飾りも手が掛けられ、東照宮を思わせる華麗な佇まいをしている。
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祭神は土師真中知命、檜前浜成命、檜前武成命。
ご利益は家庭円満、交通安全、商売繁盛、無病息災、合格祈願などなんでも願いを叶えもらえるようです。
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この鮮やかな彩、1996年に天井画を含め漆や彩色の修復が行われた賜物で、麒麟や鳳凰、飛龍が色鮮やかに描かれています。
拝殿内。
薄暗い拝殿内で金色の御幣が鈍く輝き、右大臣、左大臣の随身が守護しています。
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拝殿から右に続く参道を進むと左に石の明神鳥居があり、境内奥の浅草神社の末社、「被官稲荷神社」へ続いています。
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被官稲荷神社の起こりは浅草神社の解説によると以下。
1854年(安政元年)新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快したと云う。
そして、同二年、町の人が伏見稲荷神社から勧請し小社を創建し、被官稲荷神社と名付けたという。
一つ上の写真の明神鳥居の左の柱には、辰五郎の名と安政2と刻まれています。
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被官稲荷神社解説。
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被官稲荷神社の狛狐達。
肉付きが良く色黒で太い尾がピンと上がっている。
狐が稲荷神社の使いとされる理由の一つに、御祭神の宇迦之御魂神の別名、御饌津神(みけつかみ)のその文字に、狐(ケツネ=キツネの古語)を使い、三狐神(みけつかみ)と記したためとか、秋の収穫の際、黄金に実った稲穂を稲荷神社にお供えすると、垂れ下がった稲穂が狐のしっぽに見えるなど諸説あるようです。
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この本殿は1855年(安政2)に創建されたもので、杉皮葺の流造で創建以来のものだと云う。
覆屋を構えて保護しています。
正面は切妻瓦葺の平入で奥に本殿を収める妻入りの覆屋が一体となったもので、建立時期は大正時代ではないかと云われています。
この社殿も震災や戦災にあいながらも被災を免れたものだと云う。
祭神の宇迦之御魂神は食料や稲の成育をつかさどる神様で、稲が成育することを意味していると言われ、農業や衣食住、諸産業の神様として崇敬されています。
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被官稲荷神社の側面からの眺め、大きなビルか背景に入ってくるのも東京ならではかもしれない。
人は少ないとはいえ浅草寺の表参道に比べると、訪れる参拝客は意外にすくないこともあり、警戒心から解放されるリラックス出来る空間かも知れない。
あの夫婦狛犬のような自然な笑みが出てくる場所です。
2020/2/21

「浅草神社」
創建 /   626年(推古天皇36)
祭神 / 土師真中知命、檜前浜成命、檜前武成命

「被官稲荷神社」
創建 /   1855年(安政2)
祭神 / 宇迦之御魂神

住所 /  ​東京都台東区浅草2-3-1
公共交通機関アクセス /  東京メトロ銀座線浅草駅から徒歩7分

小牧市南外山『南外山八幡社』
以前掲載した外山神社から東に歩いても5分程の場所に鎮座する。
ここは南外山城址の一画に鎮座し、境内西側には稲荷社もある。
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南外山八幡社には二つの鳥居があります。
一ノ鳥居は南外山公園の北側にあり、社号標が右側にあります。

参道の途中に公道が横切っていて、そこに辿り着くと赤い両部鳥居が参道だと勘違いするかもしれない。
一ノ鳥居から眺める参道は郊外の神社らしく、真っすぐな長い参道が杜に続いていきます。
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両部鳥居はこの辺りでは意外に見かけないかもしれない。
参道は二ノ鳥居から更に続き、その先に蕃塀と社殿が見えてきます。
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「南外山城址」
ニノ鳥居から蕃塀に続く
参道右に南外山城址の解説板と石標があります。

「南外山城は、堀尾孫助の居城で、この八幡社を含む範囲にあったが、正中年間(1324~1325)にはすでに廃城となっていた城と伝わる。
その規模、構造などについては伝わっておらず不明であったが、近年、この周辺で行われた区画整理事業に伴う発掘調査により、徐々に明らかになってきている。
調査では、城の北辺、南辺、西辺にあたる堀が部分的ではあるが確認されている。
堀は幅4㍍程で、その内側では敷地を区画する溝、掘立柱建物を構成していたとみられる多くの柱穴、井戸などが見つかっている。
また、山茶碗、すり鉢、壷などの陶器、素焼きの皿や鍋、漆椀、木製の下駄など城があった当時に使われていた生活品が出土している。」
現在、境内で城の痕跡を期待してもそれらしい遺構は見当たらない、強いて言うなら境内東側の土手が土塁の遺構にあたるのかも知れない。
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木造のシックな蕃塀と拝殿の眺め。
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蕃塀左に手水舎があります。
鉢の後方には安政5年(1858)と刻まれています。
『南外山八幡社』の創建を自分では調べきれませんでしたが、小牧市の当社の解説によれば、1318年(文保2)と伝えられるとあった。
日蓮宗の僧侶日澄がすぐ東隣の妙楽寺建立の際、寺の鎮守として社を勧請したのが始まりだという。
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伽藍は入母屋瓦葺で妻入りの四方吹き抜け拝殿から渡廊が入母屋瓦葺の平入の本殿に繋がっている。
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拝殿前の狛犬。奉納年度は見忘れたので定かではないけれど、色褪せた石に刻まれたいかつい表情は風格を感じる。
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拝殿妻側の龍の透かし彫り、それ以外に懸魚の鰭に彫られた雲飾り等に作り手の細やかな拘りが現れている。
賽銭箱には神紋の丸に橘が描かれている。
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拝殿内に掲げられるシンプルな扁額。

拝殿から本殿方向を眺める。廊下が真っすぐに本殿に繋がっている。
1318年建立と伝わるようなので、現在の社殿の再建など分からないものか、目に付く範囲で棟札を探して見るも見当たらない。
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渡廊と本殿。
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格子扉の先に複数の社があるが、祭神まではとても分からない。
どこかに由緒書きがあり、それを見落としているかもしれない。
中央の大きな社に誉田別命(応神天皇)が祀られていると思われます。
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「稲荷社」
本殿西の境内に赤い幟と鳥居が目に止まる。
ここが正面だと思っていると、少し左に奉納鳥居と幟が連なっている。
こちらはひょっとすると脇参道かも知れない。
正参道と思われる側に回り込む。
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趣きからこちらが正参道の様な気がする、正面に社が見えないのは少し引っかかる。
「お前さっきもきたやろ、お参りするの?しないの?」小さな狐がこちらを窺っているのに気付く。
参拝させてもらうかね。
ところで君達はいつから此処にいるのか教えてくれない?
無駄な問いかけだわなぁ。ここも詳細は分からない。
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小さな狐には相手にされず、分からない事ばかりですが南外山八幡社を後にしよう。
蕃塀から一ノ鳥居方向を眺める。
駐車場は両部鳥居の右に用意されています、車でも駐車場の心配はしなくてもいいでしょう。

南外山八幡社
創建 / 1318年(文保2)
祭神 / 誉田別命(応神天皇)

稲荷大明神
創建・祭神 / 不明

南外山城址
築城・廃城 / 不明

住所 / ​小牧市南外山404
関連記事 / ​外山神社

先日熊野三山巡りに出かけてきましたが、晩御飯の食材と酒のつまみを買い出しに地元のスーパー「エーコープなち」に立ち寄りました。
地方に行くと地元のスーパーで地のものを探しに行くのが定番になっているけれど、熊野は魚好きの自分にとっては天国の様なところ。鮪等の魚介類は価格も安く、鮮度もいい。
食文化の違いもありクジラやイルカなど普通に切り身で売られている。
そんななか、目に止まったのが「うつぼ揚煮」、これは食べたらいかんやろ、手にしたものの買うのを躊躇した。

タイトルなし

とはいえ、中を見ると佃煮のような状態の「うつぼ」は妙にそそられるものがあり。
大と小のパッケージがあったけれど、お試しで小を買ってみた。
「うつぼ」は海のギャングとも呼ばれ、夜釣りなんかしていると外道として連れてきたりする。
強烈な牙と大嫌いな蛇を思わせるあの容姿はとても食べようとは思わない。

ここ和歌山や三重県では「小明石煮」とも云われ珍味として珍重されている。
「うつぼ」の切り身をカリカリに揚げ、甘辛いタレにまぶしたもの。
過去に釣り宿で黙って出されているかもしれないが、この歳まで食べた事はなかった。
タイトルなし1
今晩の酒のつまみで「うつぼ揚煮」を食べて見た。
これが臭みもなく、カリカリに揚げられた切り身を、甘辛たれにくぐらせた「うつぼ揚煮」は絶品だった。かみさんも抵抗なく食べられる。
カルシウムやたんぱく質も豊富らしく、地元では御婦人や子供も好んで食べていると云う。
確かに骨粗しょう症が気になる方や育ちざかりの子供にはいいかもしれない。
酒飲みには酒が進む一品だ、これまで食わず嫌いだったようだ。
粉砕にしてふりかけも有りかも知れない。
「うつぼ」美味しいです、たいしたもんだ。

小なんて言わず大を買っておけば良かった。たまに食べたくなる味わいだ。
という事で取り寄せできないか調べて見た。
桝悦

南紀珍味 うつぼ揚煮 45g×2袋 (合計 90g)【全国送料無料】【珍味/おつまみ/和歌山】海のギャング ウツボ揚げ煮 桝悦商店 ​」。



また恋しくなったら次は取り寄せだ。
今夜の酒は美味しいわい。

ずっと見送っていた熊野三山巡り。
車中泊で2/21~22の二日間で回ってきました。
天候と気温を見ながらこの日に予定、コロナの状況を見ながらの熊野詣。

昔は道路事情も悪く一晩かかりで出かけたものです。
高速も伸び、国道は整備され道路事情は格段に良くなり、印象としては日帰りでも行けない事はない。
コロナで悉く遠出が出来なくなり、おやじの車で遠出は久し振り、車検後初めてかも?
名古屋発6時でひたすら高速を使ってのドライブ、車もご機嫌はいいようだ。
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途中、朝食休憩を取りつつ法定速度+10㌔でのんびり走る。それでも9:30には三重県熊野市紀和町の「道の駅 熊野・板屋九郎兵衛の里 」に到着小休止。
道の駅からは「紀州鉱山選鉱所」の建物の骨格が良く見える。
昭和中期から後期にかけて、ここで採掘した銅などの鉱石を選別する施設が24時間操業で稼働していたそうで一時は東洋一の選鉱量を誇ったそうです。
それも衰退し現在は建物を支えていたコンクリートの骨格がこうして残るのみ、古代の遺跡か水路のようでもある。紀和鉱山資料館もあり面白そうなところ。
道の駅 熊野・板屋九郎兵衛の里 
住所 / 三重県熊野市紀和町

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休憩を終え30分程で全国に多々ある熊野大社の総本宮熊野本宮大社に到着。
写真は大斎原。 杉並木に囲まれた神域は神武天皇とヤタガラスの出会いの地です。
この場所は熊野川と支流の音無川・岩田川が交わる洲にあたり、1889年(明治22)の夏に熊野川の大洪水で上、中、下社の各4社の内、上四社を除き被災。
大きな禍の後、人は学ぶものです、これを機に1891年(明治24)、ここから約700㍍上流の高台の地に遷座した。大斎原には中4社、下4社と摂社の御神霊が二つの石の祠に祀られています。
左の堤防の先は熊野川だ、川は時に荒れ狂い、人や物を奪い去るけれど、反面土壌を更新し肥沃なものになる。
こうして人と自然が身近に接する風景に被災時の面影はないけれど、力任せでコンクリートの護岸堤防や3面コンクリートにして自然に対抗しても自然の力は計り知れない。
神社が遷座した様に、引く所は引き、上手く共生するのが本来の姿なのかも知れない。
復興の象徴として建てられた巨大な約34㍍のコンクリートの大鳥居、大きさでは日本一の鳥居だと云う。確かに大きい、けれどこの光景に果たして必要だったのか疑問が残る。
熊野本宮大社
住所 / 和歌山県田辺市本宮町本宮
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お昼は熊野本宮大社の前を走る国道168号線沿いの「三軒茶屋」でかみさんはめはり寿司、おやじは「秋刀魚寿司」。以前熊野のホテルバイキングで出た秋刀魚寿司は大外しだった。
今回は美味しく頂けた、やはり秋刀魚寿司は美味しいものだ。
リベンジを果たしたところで次の目的地まで小一時間のドライブ。
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熊野新宮 熊野速玉大社
熊野本宮大社、熊野那智大社とともに熊野三山をなす大社でこの北側には熊野川が流れている。
神倉神社のゴトビキ岩に降臨した熊野権現を勧進するため、景行天皇の時代に社殿を造営したのが始まりという。創建は伝承では景行天皇58年、主祭神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の夫婦神を祀る。
朱塗りの神門から境内に入ると、朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿域には朱塗りの社殿が横に5棟並んで鎮座しています。
左から第一殿、第二殿、摂社の奥御前三神殿、第三殿、第四殿、神倉宮の三社相殿。
第五殿から第十二殿までの八社相殿と5棟が並んでいます。
向かって左の礼殿礼殿の前には第一本社と第二本社が建つています。
第一本社は「結宮」と呼ばれ、熊野結大神(くまのむすびのおおかみ)を祀り、第二本社は「速玉宮」と呼ぶ、熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)が祀られています。
社殿は昭和に入り再建された事もあり、年月を感じるものではないかもしれないけれど、檜皮葺で朱塗りの社殿が並ぶさまは見応えがある。
熊野新宮 熊野速玉大社
住所 / 和歌山県新宮市新宮1
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熊野新宮熊野速玉大社から熊野三山始まりの地、「神蔵神社」は新宮から車で10分もあれば駐車場に辿り着け、とってもお手軽に始まりの地に行ける。
狭い道で駐車場の間口も狭く、駐車場自体も狭い印象、大きなSUVや四駆ではとっても厄介な場所。
しかしそれさえ我慢すれば、熊野三山に祀られる熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社「神蔵神社」はとっても近く、たった120㍍程の神蔵山の中腹に鎮座する社までは、熊野古道の一部で500段ほどの石段を上るだけだ・・・・・嘘ばっかりです。
ここからはマジで書きます。
・ヒールなんて絶対に無理です。
・最低でも滑り止め加工されたソールの靴がいいでしょう。
・できれば飲み物があるといいでしょう。
・入口に杖があります、その心遣いには甘えて下さい。手摺はありません。
・調子こいて直登すると膝に来ること間違いなし、ゆっくりと途中休憩を入れ登ってください。
・人の目は気にすることなく手も使いましょう。
・登ったら最後、エスカレーターはないので必ず自分で降りるしかありません。
・山と一緒です、登りの方に道を譲りましょう。
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鳥居から御神体のゴトビキ岩まで、2回程休憩を取り30分程かかりました。
天ノ磐盾(あまのいわたて)という険しい崖の上にあり、絶妙のバランスで安定したゴトビキ岩、ここに熊野権現が降臨したとされ、その下に石垣が積まれ社が鎮座します。
この不思議な空間と空気感は、自然の奇跡では語れない特別なものを感じる。
そこから眺める市街地と熊野灘の眺めはここまでの道のりを忘れさせてくれるでしょう。
始まりの地へは近いようで過酷な急登の石段が続く道のりです、自分の足で駐車場に戻りましょう。
神蔵神社(熊野元宮)
住所 / 和歌山県新宮市神倉1-13-8
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補陀洛(ふだらく)山寺
本来は明日予定していた寺だ、意外に移動に費やす時間が少なくて寄っていく事にした。
この寺は補陀落渡海の住僧を出した寺として知られる。
こんな小さな小舟で遥か南方海上にあるとされた補陀落浄土を目指す。
それは自らの死を覚悟して漕ぎ出す究極の修行のことで、9世紀から18世紀までの間に20数回も帰らぬ旅へと船出を試みたとされる。
この境内左に「那智山宮曼荼羅」に描かれた「渡海船」を基に復元モデルが展示されています。
全長は6㍍程の入母屋造の帆船で、四方に発心門、修行門、菩提門、涅槃門の殯の鳥居がある。

凡人からみるとこれはもはや修行ではない。
補陀洛山寺
住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348
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今日一日予報通りの温かい一日だった、結構汗もかき地元の天然温泉「きよもん湯」でひとっ風呂。
約1,500年の歴史を持つ紀州の名湯。地元から親しまれる源泉流しっぱなしの湯。
その昔は熊野詣での旅人の疲れを癒した温泉、今は仕事終わりの地元の方が一日の疲れを癒しに訪れる。
露天風呂がある訳でもなく、大浴場があるだけのシンプルな施設だけれど、入浴料500円を買い求め施設に入ると直ぐに硫黄のにおいが漂い期待が高まる。
泉質は無色透明、最初は硫黄臭が感じられたが徐々に慣れてくる、その湯は肌に優しく纏わりついてきてすべすべ感が半端じゃない。それは源泉を使用したシャワーも同じで乾ききった肌はすべすべになる。
湯上り後も体の芯がホカホカ温かく気持ちのいい温泉だ。
かみさんの50肩も随分改善されたけれど、身近にこの湯があれば強張った筋肉の蘇りは早いだろう。
天然流しっぱなしの湯「きよもん湯」いい湯頂きました。
きよもん湯
住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町湯川
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さて時間も17:30を過ぎて来た、地元のスーパーで新鮮な生マグロの握りやらなんやら買い込んで、本州最南端の酒蔵「尾崎酒造」の「太平洋」を何本か買い求め、今夜は「道の駅たいじ」で宿泊体制を整える、布団にポータブル電源、電気式毛布に湯沸かし器、そしてシュラフこれで完璧だ。
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後は宴会場を作り利き酒会スタート、地元では考えられない値段で新鮮なネタの握りが食べられる幸せな場所だ、くじらもイルカもウツボだって店頭に並んでいる。
そして初めて口にする「太平洋 生貯蔵酒」はすっきりとして喉越しで寿司にあう、もう一本の「山廃仕込特別純米酒」こちらは少し濃厚な風味で香りも主張している。こちらは肉系の摘みにあいそうだ。
何を飲んでも基本美味しいのだが、買って帰ろうと思う酒はそんなにない。 
今回は一本買っていこう。酒蔵の近くまで行ったけれど日曜日はお休みという事で行くのは諦めた。
この辺りはTVの受信状況がよろしくないかも知れない、きっと「TVなんか見とらんと星空でも見てろ」ということかな、普段見えない様な星空が広がり、こんなに視力が良かったかと疑うくらいに空は星で溢れている。爆睡。
道の駅もトイレがとにかく綺麗、かみさんの評価は上々。
朝も7:30にはモーニングも食べれる、また釣り好きな方もここはいいかもしれない。
8.5
明け方にはキビレが群れを成して悠々と回遊していた、欲がない時は意外な光景に巡り合うものだ。
海辺近くの宿泊時はワームかルアーは持っていたい。
さて朝飯も済ませ宴会場を片付け出発準備を整える、まだ神蔵山の石段の後遺症が残っている。
かみさん曰く「今日は昨日より歩くから」とのこと。
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昨日より歩く・・・・・本日の目的地「熊野那智大社」に向かう、しかも大門駐車場から徒歩で熊野古道の雰囲気を味わうそうだ。
石の鳥居と小橋「振ヶ瀬橋」を渡るとそこからは那智の聖域だ。
熊野那智大社へはこうした杉の巨木に包まれた石段を上っていく、とても石段を数える気にはならない。
唯一、町石の数が増えていくのを心待ちにするくらいか。
途中幾つか見所もあり退屈はしない、水とトレッキングポールがあるといいだろう、車にはあるのだが持ってくるのを忘れた、先を眺めてはいけない、辛くなるだけだ。
ひたすら足元の石段をクリアしていけば必ず辿り着く、バスで行けば10分もかからない距離だ。
ただ、「マムシ注意」の看板はいただけない、陽気もいいし、いない訳がない。長いものは嫌いだ。
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大門駐車場から休憩を交えて1時間、「熊野那智大社」鳥居が見えてきた。
古道を歩いている時は出逢う人は少なかったが、ここまで来ると車やバスで訪れる参拝客は多くなる。
過去に訪れた事があるけれど、以前は大みくじがあったが見当たらない、子供と一緒に大楠の根をくぐった「胎内くぐり」もここまで狭かったかナ、随分と印象は変わっていた。
朱塗りの拝殿や熊野造りの本殿は相変わらず鮮やかで優雅な佇まい。
熊野那智大社
住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
10.5
西国第一番札所 那智山 青岸渡寺
「補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で知られる西国一番礼所。
縁起によると開基は仁徳天皇の頃(4世紀)、印度天竺の僧、裸形上人が那智大滝で修行を積みその暁に瀧壷で八寸の観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初とされる。 
那智山に映える鮮やかな熊野那智大社に対し、山に溶け込むシックな趣は安らぎのようなものを感じる。
如意輪観音を本尊とする
住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8番地
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参拝を終えて「茶房珍重庵」のもうで餅と抹茶のセットで一息いれる。
当然ながら、かみさんのリクエスト、以前もどうしようか迷ったようだが息子達もいて諦めたようだ。
今回漸く目的を果たせたようだ。
古道を登ってきて疲れた体、この甘味を求めていたようだ、とても美味しく感じた。
次は小さく見えている那智の滝まで再び歩くか。
看板は要らない、奴は事前に旗降ってここにいるとは教えてくれない。
いつも黙って突然現れる。長いものは嫌いだ。
12.5
熊野那智大社別宮飛瀧神社
珍重庵からここまでの下りの石段は割愛です、どこに行くにも登るか、下るか石段しかありません。

大雲取連山は那智48滝と云われる様に多くの滝があります、その中で一番の落差を誇るのが「那智御瀧」。高さは133㍍で滝口の幅は13㍍、滝壺の深さは10㍍以上あるという。
御瀧そのものが大己貴命が現れた御神体としてお祀りし、熊野の神様は元々ここでお祀りされてたという。
神蔵神社もそうですが、自ら我慢して極めたからこそ、こうして見る光景に特別なものを感じる。
熊野那智大社別宮飛瀧神社
住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1

なんだかんだと大門の駐車場を9:00に出発し再び戻ってきたのが12:30、じっくり回ると1日がかりだね。因みに飛瀧神社からはバスで降りてきました。
昼ご飯は怪しい店に行くらしい。
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国道42号線沿いに広い駐車場を持ち、そこにポツンと簡素な店舗と写真の手作り感満載の看板が目に付く。そういえば昨日も運転中にあの店構えと看板の前を通り過ぎた。
とあるTV番組では手作り看板のある店は安くて美味しい法則なんだそうな。
このヤマキも外観とは裏腹に天然クロマグロの海鮮丼が売りの店だ。
毎朝市場で仕入れた新鮮なマグロを使用した丼を主として提供しいる。
大トロも混じっているらしい中とろ丼1,600円を注文。
秘伝のタレを「御飯が黒くなるまでタップリかけてくれ」、普段はかみさんから「醤油かけ過ぎ」とお叱りを受けているが、云われるままに御飯が黒くなるまでかけた、いくらなんでかけ過ぎやろ。
一口食べてみる、意外に醤油辛くない風味のあるもの。
生のクロマグロの丼がこの価格、安いと感じるかどうかはあなた次第。
入店した時は待ちはなかったけれど、他府県から訪れる方も多く会計を済ませる頃には待ちが出来ていました。コロナ対策でテーブル席を減らしている事もあります。
美味しかったか? 昨日の握りに比べると有難さはそれほどでもなかったような・・・・・
マグロのヤマキ
住所 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町天満1

熊野予定も全てコンプリート。
多少時間もあり、帰り道でもう一社参拝する事にした。
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国道311号線の海岸線沿いに鎮座する「花窟(はなのいわや)神社」。
道の駅「熊野・花の窟」に隣接していて、駐車は道の駅で問題なし。
伊弉冉尊、軻遇突智尊を祀る神社で創建は不明。
伊弉冉尊は火の神軻遇突智の出産時にからだを焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に葬られた。以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったとされ、それが花窟神社が鎮座するこの地であるという。社名も「花を供えて祀った岩屋」からきているという。
御神体は大きな巨岩でそこに開いた穴は伊弉冉尊の女陰とされる「陰石」、昨日見たゴトビキ岩は「陽石」とされ、それらで一対をなすものだそうだ。
見あげるような巨岩の対面には軻遇突智の神霊を祀る岩もある。
社殿を持たない神社で、それらの拝所では素足となり拝む。
熊野、自然と空に八咫烏が飛んでいそうな神秘に満ちた土地柄です。

さあ後は無事に帰るたげだ、それにしても暑い、エアコン入れるか。
・・・・・ン? 全然冷えないじゃん。機嫌が良かった15年選手もご機嫌斜めなようだ。
構ってほしいのだろう、帰って点検してやろう。
総走行距離580㌔、使用燃料75liter、2トンを超える四駆にしては上出来だ。このままおとなしく名古屋に連れて行って欲しいものだ。

そういえばポータブル電源、100%で出かけて電気毛布、湯沸かし器、携帯バッテリーなど結構使って残量67%でした。
ひょっとしてホームベーカリーもいけるかも。


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覚王山日泰寺
タイ王国から寄贈された釈迦の遺骨を安置するために1904年(明治37)に創建され、どの宗派にも属さない超宗派の寺。
山号の「覚王」とは釈迦の別名を指す様で、寺号の「日泰」とは日本とタイ王国を表しています。
毎月21日の縁日は参道に多くの店が並び、昔は訪れる方の年齢層は高かったけれど、最近は若い世代をターゲットにした店も増え若い世代も訪れて賑わう。
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日泰寺参道、境内脇には覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場があり、当日は各札所には世話人の方がいてお茶やお菓子を振舞ってくれたりする。
そうして世話をされている方の年齢も高齢化を辿り、後継者がなく朽ち果てた札所も目に付く。
縁日に若者が訪れる様になったことを考えると覚王山日泰寺八十八ヶ所霊場も変化が必要なのかもしれない。
写真は山門の右手の1番、2番札所の眺め。
石仏の種類を見て覚えるにはいい場所かもしれないけれど、なかなか区別が付けれない所にもどかしさがある。
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覚王山日泰寺に鳥居があるのを御存知だろうか。
写真は五重塔の東側の通りから北に方向の眺め、桜の頃には花見しながらの散歩にはいい道筋。
今回の目的地「真清田弘法大師」はこの通りの先の日泰寺境内に鎮座しています。
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通りを進むとやがて右に道は曲がっていきますが、そこから日泰寺東参道の右をよく見ると東を向いて立つ鳥居が見えるはずです。
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鳥居の先には馬頭観音が向かい合う様に安置されています。
ここの石仏は他の札所とは少し趣が違い、この一画だけ単独となっています。
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真清田弘法大師全景、社名と明神鳥居はしっくりこない。
小さな境内の先に板宮造の社が2社、鳥居左に由緒書きが掲げられています。
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この2社には社名札は掲げられていない、どちらの社にどなたが祀られているのか分かりません。
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真清田弘法大師縁記
「御神殿に奉安せるは昔弘法大師巡錫の砌り尾張一の宮真清田神社に崇納し奉る念持石にして真清田神社の御神体なり。
明治維新廃仏毀釈の際、神社より分離し爾来竊に護持し其の縁由により真清田弘法と称すれども、本地には難陀跋難陀の二大竜王也経に曰く、此の二大竜王は首上に七頭竜あり通力自在にして我を念ずる者は願いに応じて衆生を利益し給う其の誓願に曰く。
一には命欲を離れて我を祈念する者は福を受くること佛に等し
二には瞋恚を離れて我を念ずる者は寿を迎えて保つこと佛の如く成らむ
三には愚癡を離れて我を祈念する者は楽を受くること佛の願に等し」

雨を掌る龍を祀るようです、恐らく大きい方の社に祀られているものと思います。
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話は昔弘法大師が真清田神社(一宮市)を訪れた時から始まるようです。
干ばつに見舞われていた当地、困窮した人々を救うため、弘法大師は雨乞いするも効果がなかったという。
そこへ一頭の龍が現れ、雨を降らせるためには、自分か他の龍の命が必要になると弘法大師に伝えたそうです。 
弘法大師はその龍に人々のためにその命を差し出してほしいと懇願し、引き換えに真清田神社にあなたを祀ると約束をしたところ、龍は承諾した。
やがて激しい雨が降りだし、黒雲の中からバラバラになった龍の体が落ちてきたそうです。
弘法大師はバラバラの死骸を纏めて、約束通りその龍を神として真清田神社に祀り、一時は境内の神池に鎮座する厳島神社に祀られてていたようです。それが龍神石だという。
そのことは真清田神社境内社「八龍神社」の解説に「もと厳島社内に奉祀されていたが、明治初年神仏分離の際御神体の龍神石が名古屋の日泰寺に流出、近年当社に還り改めて奉祀した」とあります。

1869年(明治2)廃仏毀釈により真清田神社から龍神石は流出し、その後さまざまな経緯を経て人の手を点々としたという。点々としたのも訳があったようで、それを所有すると禍が起ったと云う。
廃仏毀釈以降から1930年(昭和5)に日泰寺に「真清田弘法大師」と名を変え祀られるまでの所在はっきりしないようです。

真清田弘法大師縁記には真清田神社に崇納された御神体の龍神石(念持石)が奉安、その本来の姿は二大竜王であるとも書かれている。しかしそれを真清田神社に戻したことまでは記されていません。

この二社の内のどちらかに御神体が奉安されていて、真清田神社境内社「八龍神社」に返還されたとなると、一つの社から御神体はない事になってしまう。そしてもう一つの社はなんだろう。

日泰寺の創建は1904年(明治37)、覚王山日泰寺の八十八ヶ所霊場の起こりが1909年(明治42)に数人の発起人から始まったと云われています。
八十八ヶ所霊場がそうである様に一部の信者により真清田弘法大師が維持管理されているのかもしれない。それとて毎月21日の縁日や、それ以外でも扉が開けられているのを見たことがない、扉が開けられるのはいつなのか知りたいところ。
日泰寺のHPで真清田弘法大師について紹介はされていない。
分からない事の多い「真清田弘法大師」、龍神は今もいるのだろうか。
2021/2/20

覚王山 真清田弘法大師
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / ​名古屋市千種区法王町1-1
関連記事 / ​雪の日泰寺

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