龍泉寺表参道弘法堂​から龍泉寺方向に向け歩き出す。
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 弘法堂を過ぎて左手の民家と民家の間に広葉樹の森に続く細い道が現れます。
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これが弘法堂で教えて頂いた道のようです。
「御嶽神社」へは森の中に続く細い道を進むのですが、森の入口は造成が進み明るいけれど、入口から少し入ると広葉樹と竹が生い茂り、午後ともなると薄暗く進むのを躊躇したくなる。
それもこの坂を上ると視界が開けるので心配は無用です。
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 坂を上ると視界が開け境内が現れます。
適度に木々が間引かれ、周囲の鬱蒼とした杜とは事なり多少解放感があります。
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まずは、境内の南から神社の全景
左から、寂れた社務所?とその右に霊神碑、中央に切妻の拝殿?、一番右に小社が祀られています。
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 周囲を見渡すと雑木林の中に複数の石像が祀られています。
右は多分弘法大師かと思われますが、なすがままに朽ちた木が道を覆い正面に回り込めません、顔を拝みに行くことは諦めます。
この周辺は江戸時代から「御花弘法」として霊場が存在し、御花弘法八十八ヶ所霊場として大正に入り整備されたようです。それも戦争以降に荒廃の道を辿ります。
これらはその名残と捉えていいのかもしれません。
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 境内の左に社務所らしき建物、使われている痕跡がなく寂れてしまっています。
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 建物の前に二つの石碑
左は庚申と読めますが、右は読み取れません。
庚申講が伝わり、ここで講が行われていたのでしょう。
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 境内の枯れた手水鉢、その先は霊神碑が立ち並んでいます。
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 拝殿左側の霊神が立ち並ぶ一画
霊神碑が並んでいるとお墓に来たようで訝るような気になるけれど、霊神碑はお墓ではなく
御嶽信仰、御嶽を神格化し崇拝対象とした自然への畏敬の念から生まれた山岳宗教。
その歴史も古く、覚明と普寛によって広められた修験の行場だった。
因みに覚明生誕の地は春日井と云われます。

「御嶽に生まれ、御嶽に戻る」、御嶽講の信者は他界すると御嶽に戻り、童子として迎えられると信じられています、霊神碑は他界した信者が御嶽に迷うことなく辿り着くための道標として建てられているもので、お墓ではなく訝るような事はありません。
ここから南に降りたところにも松阪町の御嶽神社がありますがそれらも同様です。
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 霊神碑のコロニーの頂きに小社が祀られています。
そこまでの道のりは、さざれ石の様な石が置かれ、さながら御嶽登拝そのものです。
祭神は御嶽大神と思われます。
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 境内中央の瓦葺で切妻造りの吹き抜け拝殿?で良いのだろうか。
正面に二つの社が祀られています。
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 「拝殿」
縣魚の装飾以外に彫り飾りは見られないけれど素朴で親しみやすい。
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 「神明社」
拝殿の先の大振りの社、この地域の氏神様です
「秋葉社」
右の小社が火伏の神
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 「津島神社」
境内の右に祀られる小社
全国に広がる天王社の本社で疫病の守り神とされる。
天照大御神が祀られ素戔嗚尊、秋葉権現が祀られていればほぼ大抵の災いから守られる?
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境内東からの眺め
右が津島社、秋葉社、神明社と並び、絵には入らなかったけれど左に御嶽社の四社が南向きに祀られています。
鬱蒼とした印象の杜も北側は宅地化の流れが迫り、外光が入り込んでいます。
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 上は明治の頃の龍泉寺と近年の周辺
御嶽神社の鳥居のシンボルマークが現れるのは大正9年版からとなります。
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 広葉樹の枝振りは見事、周囲の造成とは無縁の杜のままであって欲しい空間です。
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 我家の近隣で良く見かけたクヌギやナラの実も今年は伐採が進み、今年は道すがらに見かける事はなくなりました。
今年は不作と聞いていますが、ここに来て久し振りに目にしました。
この時期を待ち焦がれる生き物もここにはいるのかも。
2019/11/21

「御嶽神社」
創建 / 不明
境内社 / 神明社、秋葉社、津島社
住所 / 名古屋市守山区竜泉寺1丁目
公共交通機関アクセス /  ​ゆとりーとライン「龍泉寺口」下車、徒歩5分程​