​​東京の方にはお馴染みの芝公園増上寺を訪れる。
それはCOVID-19が身近な存在として感じ始めた2月の事。
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ビル街に忽然と増上寺の表門である大門が現れる。
この門は旧大門の老朽化に伴い、昭和12年にオリジナルを踏襲し、1.5倍の大きさにして再建されたコンクリート製の高麗門。
面白いのは過去に困窮していた増上寺はこの門の所有権を当時の東京府に寄付したそうです。
その後も所有権は東京都にあったようです、一時困窮していた増上寺も寺勢を取り戻し、門の返却を求めたそうですが、いつからか台帳から抜け落ち、門の所有権が誰のものか不明となっていたそうです。2016年漸く元の増上寺に返還されたもの。ありがちな話かもしれない。
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 大門の先には赤い三解脱門と東京タワー。
新と旧のシンボルが一枚に収まるのも東京ならではの光景。
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 三解脱門の右に大きな寺号標。

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 「三解脱門」
増上寺の顔と云ってもいいだろう、3つの煩悩から解脱する門で、三つの煩悩とは「むさぼり、いかり、おろかさ」だとゆう。
重要文化財に指定されている三解脱門、建立は1622年(元和8)に建立されて再建されたものという。
重厚な瓦葺の二層の門で山号額は「三縁山」、楼上には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています
赤門だね。
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 境内マップ。
創建は1393年(明徳4)と600年以上の歴史を持つ寺ですが、空襲をはじめ幾度となく伽藍は
焼失し、その都度再建され現在に至っています。
なので古い建造物は少ない。
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 三解脱門をくぐった境内の左に手水舎。
もとは増上寺裏手の6代将軍家宣の父親、徳川綱重の霊廟にあったもの。
空襲の被害を免れ、焼失し再建される前の霊廟建築の名残を伝えるものです。
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 三解脱門を入ってすぐに「グラント松」と呼ばれる大きな松が聳えています。
1879年(明治12)、アメリカ第18代大統領グラント将軍が国賓として招かれ、増上寺に参拝した記念にこの樹を植えたそうです。
松と呼ぶには一風かわった大樹である。スギといってもいいだろう。
正式名称はヒマラヤスギ、杉は松科だそうで、グラントさんが植えた松なんです。
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 聖鋏観音菩薩像。
1981年(昭和56)に建立されたもの、美容師の使う鋏の供養塚があるようです。
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 境内右に入母屋瓦葺の鐘楼。
東日本最大の大きさを誇るのだそうだ。11
 梵鐘は大きい。
1673年(延宝元)に鋳造されたもので、その大きさ故に7回の鋳造を経たそうです。
再鋳の話はないようなので供出は免れたのでしょう。
300年以上を経て、今も朝夕の二回時を知らせています。
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 仏足石と聖観世音菩薩像。
仏足石は1881年(明治14)に建石されたもので、所謂仏様の足型が刻まれ、これを礼拝するもの。
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 二月の空に聳える東京タワーと大殿。
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 左手に増上寺会館と光摂殿。
光摂殿は2000年(平成12)に建立されたもので、天井には色彩も鮮やかな天井画が描かれています。
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 大殿

戦災で焼失、1974年(昭和49)に再建されたもので、室町時代に作られた本尊の阿弥陀如来、脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の像が祀られています。
地下に宝物展示室(@700円)がある。
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 増上寺は1393年(明徳4)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開かれたとされます。
三河から江戸に領地替えを命じられ、この地を治める事となった家康は1590年(天正18)に増上寺を徳川家菩提寺に定め、移行幕府から厚遇を受けることになります。
家康は晩年に「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」と言い残し、1616年(元和2)75歳で歿しました。
そのこともあり、往事の増上寺は日光東照宮を彷彿とさせる程に絢爛豪華な作りだったとされます。
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 増上寺大殿扁額と火焔太鼓太陽(右)と火焔太鼓月(左)。
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 大殿右の「安国殿」
空襲で焼失した大殿に代わり、仮本堂としていた建物。
1974年(昭和49)、現在の大殿完成際に現在の位置に移転されたもの。
2011年に(平成23)に再建されたもの、内部には黒本尊が安置され、年三回御開帳されるそうです。
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 大殿から見た「安国殿」側面。
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 安国殿右にある千躰子育地蔵菩薩と西向観音。

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 鎌倉時代、北条時頼が現在の東京タワーの建つ観音山に堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまを安置し、子育て・安産に霊験あらたかと伝えれています。
1975年(昭和50)に現在の安国殿前に遷座、1980年(昭和55)に観音堂落成。
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 江戸三十三観音札所というものがあるようで、その21番札所。
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 「千躰子育地蔵尊」。
子供の健康と成長を願って安置され、赤い帽子を被り、赤い前掛けをかけられ、その手には風車を持つ、愛くるしい表情のお地蔵さまがずらりと並んでいます。
子や孫の成長を祈る親の気持ちの数が現れています。
このお地蔵様に導かれる様に奥に進むと徳川家霊廟に続きます。
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 安国殿後方にある徳川家霊廟。
二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の歴代将軍とその側室、子供の墓所。
以前は墓所、本殿、拝殿を持ち東照宮で見られるように当時の技術の粋を結集した壮麗なもので国宝に指定されるほどだったそうです。それも空襲で被災、焼失を免れた一部も国宝指定を解除されたそうです。
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 正面の門は鋳抜門と呼ばれ、旧国宝指定のもの。
六代家宣の霊廟の宝塔の前で中門として建っていたものを再建後こちらに移設したそうです。
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 青銅製の扉には片側に5つの葵の紋が入り、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれており、往事を忍ぶ数少ない遺構。
緑青で見辛いものの、雲海にうねる龍が見て取れます。
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 霊廟前に四体の菩薩像。
港区の文化財に指定されている。
右から普賢菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩と並び、1258年(正嘉2)の作とされる。
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 熊野神社
境内に入り、右外れに鎮座する。
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 八咫烏の彫られた手水鉢。
天照大神の使いで、荒れすさぶる中で東征中に道に迷った神武天皇を導いたとされる。
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 熊野神社境内から鳥居方向の眺め。
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 御神体
熊野本宮大社 / 家津御子大神
熊野那智大社 / 大己貴命熊野那智大社
熊野速玉大社 / 伊弉諾尊。
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1624年(元和10)、当寺の第十三世正誉廓山上人が増上寺鎮守として熊野権現を東北の鬼門に勧請したのが始まりとされる。
由来には
「増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う、縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。」とある。
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 『熊野』はクマノ、ユヤと二通りの呼称があるそうで、こちらでは「ユヤ」権現と呼ばれ親しまれているそうです。なのでユヤ神社と呼ぶのが正しいのだろう。
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ユヤ神社から見た三解脱門。
神仏分離の影響だろう、神社の玉垣と大きなクスノキで寺領と分けられてはいる。
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 黒門
三解脱門の南隣りに建ち、1648~1652年(慶安年間)、三代将軍家光により寄進、建立されたとされます。もとは増上寺方丈の表門だったそうで、1980年(昭和55)に通用門として日比谷通り沿いに移築されたと云う。
以前は黒漆が塗られていた事から黒門と呼ばれるが、現在はこのような色合いです。
細部に彩色されていた痕跡が残ります、シックな黒地の門に施された鮮やかな彩色はきっと美しかったに違いない。
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 黒門を出て徒歩で右に1~2分行くと幹右側に旧台徳院霊廟惣門がある。
江戸幕府第2代将軍秀忠の霊廟の惣門として1632年(寛永9)に建築されたもので、
秀忠の戒名、台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士に因み、台徳院霊廟といわれ、戦前は本殿、拝殿、宝塔など江戸当時の伽藍があったが空襲により伽藍を焼失、唯一被災を免れたのがこの惣門。
被災前の伽藍は当時の国宝に指定されていたが、焼失に伴い指定解除、現存するこの門が重要文化財に指定されている。
現在はホテルの敷地内ですが、往事はこの門の先に伽藍が広がっていた。それもつい最近の事です。
綿々と受け継がれてきた物を消し去る事は一瞬です。
2020/02/20

大本山 増上寺
創建 / 1393年(明徳4)
山号 / 三縁山
宗派 / 浄土宗
本尊 / 阿弥陀如来・南無阿弥陀仏
住所 / 東京都港区芝公園4-7-35
公共交通機関アクセス / 都営地下鉄芝公園駅から徒歩で3分 他
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