前回掲載した「飛騨の水屋と天醫稲荷大明神社」

宿から稲荷神社、温泉寺を経由し温泉街に向かったのですが、写真の並びが宜しくない、温泉寺の写真の並びを変えています。
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下呂の温泉街から少し東に外れた「中根山」の麓に温泉寺参道があります。
参道入口の寺号標と地蔵堂が目印です。
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「子守り地蔵尊」
その昔、飛騨川が氾濫したときに幼い子供と、そのお婆さんが濁流の犠牲となり亡くなったそうで、それを哀れんだ村人がお祀りしたのが始まりと云う。3
後半の言葉はとても重たい。
堂内にはしっかりと幼い子供を抱く子守地蔵様が安置されています。
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173段の石段も間もなく終わりです、目の前には城壁の様な壁と山門も間近。
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山号は「醫王霊山」
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山門の先で「下呂五福神」がお出迎え。
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毘沙門天と福禄寿は秘仏のため、ここには安置されていません。

歳と共に日常生活で若かりし頃との違いを実感するこの頃、そんな歳である。
それでも普通に五体満足であることにここで感謝する、「おかげさまで・・・・・」と。
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右から補修中(9/28時点)の社は旧飛騨屋邸地蔵堂、中央が「本堂」で、左の方型の建物は「湯掛薬師」。
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「飛騨屋は元禄期より北海道松前藩のもと、アイヌやロシアと交易、北前舟などで材木や魚介類を本州に輸送した江戸時代の大財閥。この檜皮葺の地蔵堂は飛騨屋久兵衛4代益郷が1821年(文政4)下呂本店屋敷内に建立したもので現存する唯一の遺構。」
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「湯掛薬師」
お湯掛け薬師とも呼ばれ、師如来像の鎮座する蓮台から温泉が湧いて、若い頃とは違う個所に温泉をかけ、お参りすると癒されるそうだ。全身浴びたいところですが・・・・・目だね。
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本堂前から堂内の眺め、下呂温泉と白鷺は切り離せない、堂内にはその白鷺が彫られた額が飾られています。
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現在の本堂の創建は1671年(寛文11)とされ、それ以前は「湯島薬師堂」とよばれ記録では1507年(永正4)まで遡るそうです。

下呂温泉は平安時代には既にあったと云われ、1265年(文永2)湯ヶ峰にあった湯源が涸れてしまつたそうです。
ある時益田川に舞い降りた白鷺が村人に新たな湯源を告げたという。
白鷺は再び飛び立ち「中根山」中腹の松に留まったそうで、村人がその場所に行くと金色の薬師如来が鎮座していた、白鷺は薬師如来の化身で、舞い降りた場所が温泉寺という事です。
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「さるやの石」
この地に伝わる昔話で、日本昔話にも取り上げられた、養蚕を営んでいた優しい夫婦が親とはぐれた小猿を飼うようになった、子猿は成長と共に夫婦をよく助けたそうです、特に蚕を食べてしまうネズミの駆除をよくつとめてくれていた、やがて猿は天寿を全うし、お墓を作ったところ「猿の墓の回りの小石を持ち帰るとネズミ避けになる」と評判になったそうで、以来願掛けの小石とされるようになったそうです。
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「中根山」中腹の境内、その西側に建つ「温泉寺普明堂」。
ここから写真右手を眺めれば、はるか下に流れる飛騨川(益田川)と下呂温泉街が一望できる。
あれから一か月を経て、今は紅葉の山々と境内の紅葉が美しい事でしょう。
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堂内右側の机に並ぶ白い物体、願がかけられた石が山積みです。
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山門脇の鐘楼、白鷺が羽を広げたような軒の広がりを見せている。
下呂の街にこの鐘の音は良く響き渡る事でしょう。
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本堂の右には上に続く細い参道があり、本堂の裏山に続きます、この絵馬は本堂の側面に飾られていたもので、よく見ると文政等の元号が記され絵馬も見られます。
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本堂裏から上に登っていくと既に掲載した「飛騨の水屋と天醫稲荷大明神社」へと続きます。

温泉街の外れの地蔵堂から続く173段の長い石段、ゆっくり上って辿り着く温泉寺境内から眺める下呂の街並み、それだけでも満足感は得られるはずです。
良くぞここまで上れたものだ、五体満足に感謝するしかないだろう。

醫王霊山温泉寺
宗派 / 臨済宗妙心寺派
創建 / 1671年(寛文11)
本尊 / 薬師如来
住所 / 岐阜県下呂市湯之島680
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