追分から稲置街道を進み御日塚神社、三十三観音堂を経て10分程の場所に小さな観音堂を見かけ足を止める。
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 写真は街道から東の入鹿池方向の眺め。
田園の中を名鉄小牧線の車両が走り去る長閑な光景が見られる。
この辺りの住所は犬山市羽黒新田起シ 、名が示す様に江戸時代の新田開発によりできた集落。
この新田の灌漑用溜池として1633年(寛永10)に入鹿池が作られ、その水は麓の田畑を潤してきた。
この一帯は過去に洪水が多くの人命を奪っていきました。
洪水と聞くと木曽川と思うけれど、洪水の要因は入鹿池の堤が決壊した「入鹿切れ」によります。
満々と湛えていた入鹿池の水は破堤により一気に流れ下り、麓の犬山市、江南市、扶桑町、大口町、一宮など広範囲に大きな被害をもたらした。
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 上は「なごやコレクション」「入鹿池決壊図」より画像を引用させて頂いた入鹿池決壊時の周辺の被害を記録絵図。
破堤は1868年(明治元年)に起ります。
この年の長雨により破堤を回避する必死の応急対策も空しく破堤に至りました。
青い線は灌漑用の水路で黄色の線は街道で中央で二手に別れている場所が先に歩いて来た「追分」。
絵図には青く塗られた浸水域と各村毎の浸水水位、被害状況が記されています。
この被災地には災害で犠牲となられた方々の慰霊を弔う慰霊碑が各地に残り、過去の災害を風化させないモニュメントととして存在しています。
ここから近くの羽黒城屋敷にある「興禅寺」の境内には入鹿切れで流されてきた15tの巨岩が残され、碑とともに語り継がれています。

古い地名はこじゃれた地名に変り、こうした先人の教えともいえる碑は忘れ去られがち。
我家のある場所も古い地名から、ここがその昔とんでもない場所だったのか想像できる。
地名は変り、景観は変っても危害は今も変わらない。 
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 街道沿いに佇む小さな堂、その中には一体の如意輪観音像が祀られています。
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 頬杖をつき人々を救う術を考えている、そんな姿だ。
台座に明治、西國の文字が刻まれているが、そこから下は手前の板で遮られ読み取れない。
西國は恐らく西国三十三と彫られていると思います、入鹿切れ以降に安置されたもののようです。
街道沿いのこの場所から100年近くは行き交う人々を見守り続けています。
自分の中の煩悩を打ち消してもらいたいもの、手を合わせて観音堂を後にする。
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 観音堂から10分程北上すると五条川に架かる小さな橋に到着。
次の目的地は五条川の左岸の「尾北自然歩道」を遡る。
訪れたのは3月9日、桜は蕾も堅かった、今頃は桜も満開となり川沿いの光景もきっと華やいでいることでしょう。

「羽黒新田の観音堂」
徒歩ルート / 追分から​稲置街道を約10分
住所 / 犬山市羽黒新田起シ 
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