尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

カテゴリ: 御朱印

奈良市高畑町鎮座「新薬師寺」
十輪院から徒歩20分ほど東の御蓋山南西の麓に鎮座する新薬師寺へ。
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写真は新薬師寺東門(重要文化財)。
鎌倉時代初期に建てられたという四脚門。
当初は2本の本柱の棟門だったとされ、後に四脚門へ改築されたと云う。
左右の本柱に冠木を載せ、その上に板蟇股を挟み切妻屋根の棟木を支える構造で、左右は築地塀と繋がっています。

この道を北に向かうと不空院を経て春日大社も近いがこの道筋は観光客もなく静かな町並みが続きます。
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新薬師寺南門の右に朱の鳥居を構えた比賣神社。
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比賣神社全景。
新薬師寺南門を挟んだ左の鏡神社の境外摂社で、小高く盛られた社地の上に築かれた小さな神社。
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社頭右の由緒。
祭神は十市皇女、市寸嶋姫命をお祀りする。
祭神の十市皇女は母の額田王、父は大海人皇子(後の天武天皇)の子として生まれ、額田はその後に大海人の天智天皇に召され、十市は天智の子大友皇子(後の弘文天皇)に嫁ぎ、その後起こる父大海人と夫の大友皇子の内乱(壬申の乱)で、夫は敗れ自害するも十市は生き残り、父の元に引き取られ6年後(678)にこの世を去った。
神社の建つ場所は比賣塚と呼ばれ、十市皇女が埋葬されたと伝わる場所で、時代に翻弄された十市皇女の御霊を鎮めるため有志の尽力で昭和56年(1983)に建てられた神社。
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本殿は唐破風の付く春日造りで内削ぎの置千木が施されたもの。
参拝はここからとなります。
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比賣神社本殿左になかむつまじく肩を寄せう十市皇女と大友皇子の石像があります。
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神像石(かむかたいし)
大友皇子・十市皇女から淡海三船(721~785)までの4代と其々の妃の御姿石が祀られています。

比賣神社
創建 / 昭和56年(1983)
祭神 / 十市皇女、市寸嶋姫命
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比賣神社の西側正面の本社にあたり、神仏分離以前は新薬師寺の鎮守社だった南都 鏡神社。
まずは新薬師寺を拝観した後に参拝する事にします。
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新薬師寺南門(重要文化財)。
新薬師寺の表門にあたり、鎌倉時代後期に建立された切妻瓦葺の四脚門。
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南門正面から境内の眺め。
一見すると閉じられているようですが、拝観受付は本堂なので扉を開けて境内に進みます。
周辺には鹿が出没する様で扉は必ず閉めて下さいとのこと。
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境内右の眺め。
鐘楼とその左に朱の鳥居と小池があり、その先に社の姿ある。

入母屋瓦葺の袴腰の鐘楼(鎌倉時代建立)で、中の梵鐘(重要文化財)は天平時代のもので、日本霊異記の道上法師鬼退治で知られる釣梵。
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龍王社。
小さな小池を挟んだ先の東門脇に鎮座する神社で、雨を司る善女龍王をお祀りする。
今も昔も豊かな実りに雨は必要不可欠、利水も整っていなかった時代、干ばつには無力で神に祈願することとなる。
京の都の東寺と西寺を開いた真言宗の僧、空海と守敏は朝廷から干ばつから救うために雨乞いの祈願を命じられたという、守敏が祈願しても降らなかった雨は、空海が祈願すると善女龍王が現れ雨をもたらしたという。
守敏は空海の祈願を封じるために龍神を封じたとされる、唯一それを免れた善女龍王は、空海の祈雨に応え雨を持たらしたと云う。
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鳥居の先には細い石橋が架かっていますが、通行禁止のため渡れません、参拝は橋の手前からとなります。
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境内左の眺め。
中央の入母屋瓦葺の四方一間の堂は鎌倉時代建造の地蔵堂(重要文化財)。
その左にも小さな境内社が見られます。
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堂内には十一面観音菩薩立像(鎌倉時代)、薬師如来立像(平安時代)と地蔵菩薩立像(南北朝時代)が安置されているそうです。
格子戸先の堂内は薄暗く、正面に薬師如来らしき姿は見えるものの明暗調整も精一杯、左右の像容は分からなかった。
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南門へ続く築地塀の脇に鎮座する境内社の稲荷社。
塀沿いの石仏群はかなり古く、永禄と刻まれた阿弥陀名号石もある。
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築地塀越しにかつての鎮守社南都 鏡神社の本殿が迫る。
境内は神仏習合時の名残を残している。
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南門の正面に建つ本堂。
桁行7間、梁間5間の入母屋瓦葺で、白壁と木のコントラストが綺麗な安定感のある建物。
この建物は元から本堂ではなく、修法を行うための堂として使われていたという。
新薬師寺の伽藍で奈良時代に創建され今に残る唯一の建造物。
中央の石灯籠は室町時代のもの。

新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を祈願し天平19年(747)に創建されました。
奈良の大仏の造立の途中で体調を崩し、天皇の病気を治す法要が各地で行われ、これをきっかけに光明皇后によってこの地に新薬師寺が造営され、751年には新薬師寺で天皇のために続命法要が行われ、奈良の大仏が無事完成しました。
当初の新薬師寺は、約440㍍四方の寺地に金堂や東西両塔など七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院でした。
宝亀11年(780)に落雷、天徳4年(960)の台風で、多くの堂宇が焼失・倒壊してしまったが、13世紀頃までに現在の伽藍が復興されます。
この本堂だけは、自然災害の被害を免れ、天平時代の創建当初の姿を留め国宝に指定されています。

西の京にある絢爛豪華な薬師寺と比較すると、同じ薬師と名は付くもののシンプルな伽藍の新薬師寺(華厳宗)は対照的な印象がある。
薬師寺(法相宗)は天武天皇が皇后の病気平癒のために発願したのが始まりで、飛鳥時代(592~710)に造営が始まったもので、本尊は薬師如来ですが宗派は其々違います。
また平城薬師寺は天武天皇が皇后の病気平癒を祈って文武天皇2年(698)に建立されたものと云われますが現在遺構のみ。

新薬師寺を訪れる最大の目的は、この本堂内に安置されている薬師如来坐像、十二神将立像に尽きる。
奈良時代に造られたこれらの仏像は全て国宝で、それらを目の当たりに眺めることができる。
今回奈良を訪れるにあたって、唯一リクエストとしたもの。
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まずはこちらで賽銭投入参拝。
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本堂(国宝)左から全景。
妻側の間が本堂への入口でこちらで拝観料を支払います。
南門入口からここまでは無人なので、鹿が入らないように「扉を閉めてね」というのも頷ける。

ここから左の門をくぐって香薬師堂、庫裏に向かいます。
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門から香薬師堂を眺める。
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門をくぐると目の前に池があり、紅葉の美しい庭園が広がります。
石橋を渡った正面が香薬師堂。
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香薬師堂から新薬師寺境内方向の眺め。
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香薬師堂。
堂には「香薬師如来」と書かれた額が掛けられている。
この堂には7世紀から8世紀に造られたとされる香薬師像のレプリカが安置されています。
この像は過去に3度の盗難に遭い、昭和13年の盗難以降実物は今も戻ってはいない。
安置するレプリカはその前の盗難時に型が取られそれをもとに作られたものという。

この他にも堂内には2躰の地蔵菩薩像が安置されているとされます。
通常は公開されていませんが、興福寺別院の勝願院に安置され、こちらに移された景清地蔵(鎌倉時代)と呼ばれる木造の地蔵尊1躰と、その像の体内から見つかったおたま地蔵と呼ばれる木造の地蔵菩薩立像裸型像(鎌倉時代)の2躰も安置されています。
おたま地蔵は安産や健康にご利益があるとされ親しまれていると云う。
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香薬師堂右手の庫裏。
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庫裏の正面の門を出ると新薬師寺本堂入口へ。
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本堂裏側の石仏は風化により像容は良く分からないが十一面観音だろうか。
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右手の手水鉢(寄進年不明)。
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さあ、国宝の薬師如来坐像、 十二神将立像を見に行こう。
天井が張られていない堂内は、梁や柱が露出し以外に広々とした空間で、間接照明に照らされた像が浮き立って見える。
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堂内は撮影禁止
堂内中央に円形の土壇が築かれ、壇上に薬師如来坐像を中心にして十二神将が取り囲んでいます。
(写真左は栞から引用した薬師如来坐像と十二神将)
薬師如来坐像は、左手にすべての病を治す霊薬の入った薬壺を持ち、病を治す仏として信仰され、新薬師寺の本尊。
奈良時代から平安時代にかけて制作されたもので、像高は191㌢で頭から胴体は樹齢1000年以上とも云われる一本のカヤの木から彫り出されたものという。
光背は、大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸びる意匠で作成され、光背の六躯の小仏は本尊と併せて聖武天皇の病気平癒を祈願し当時祀られていた七躯の仏「七仏薬師」を表していると云う。

薬師如来は、修行時代に人々を救いたいという思いから十二の誓いを立て、十二の誓願それぞれを神格化したのが「十二神将」とされます。
一躯で7千の眷属を持つとされ、十二神合計7万4千の眷属を持つ大将で、薬師如来の眷属として十二の方角を守っています。
これらの十二神将は奈良時代に制作された塑像で、最古にして最大の十二神将像で、塑像彫刻の傑作とされ国宝に指定されています。
また、十二の方位を守護する事から干支の守護神でもあり、各像の前には干支の表示と香台が置かれ、自分の干支を守護する像の前で拝めるようになっています。
撮影は厳禁ですが、単眼鏡などの持ち込みは許されているので、向背の装飾などはそれらがあるといい。
全てを拝観すると結構な時間を要しますが、これを見に訪れただけにじっくり拝観させて頂きました。
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現在の本堂は桁行7間、梁間5間の修法を行うための堂でしたが、元々の仏殿だった金堂は桁行9間の大きなもので、堂内に善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来の七仏薬師像、七躰の如来像其々に脇侍の菩薩像が二躰ずつ、更に十二神将像が祀られていたそうです。
それらの仏像は平安時代の暴風で倒壊し現存しませんが、新薬師寺から少し西の奈良写真博物館付近に金堂の遺構が発見されています。
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その解説によると当時の金堂は大仏殿をも凌ぐ大きさだったと云われ、東西に塔が聳え、壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園など有する大伽藍を誇っていたのが窺われます。
現在の本堂は当時の金堂の右にあたり、境内の東限にあたると云う。
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往時の面影はないかもしれませんが、閑静な佇まいの今の新薬師寺に自分は魅かれる。
また、訪れて見たいと思う。

目の前に見える南都 鏡神社を合わせて掲載するつもりでいましたが、いささか長くなりすぎたので次回掲載する事にします。
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日輪山 新薬師寺
開基 / 光明皇后
宗派 / 華厳宗
創建 / 天平19年(743)
本尊 / 薬師如来
所在地 / ​奈良県奈良市高畑町1352​
参拝日 / 2023/11/30
雨寳山十輪院より新薬師寺 / ​東へ徒歩20分程
関連記事 / 
・​奈良市十輪院町「雨寳山十輪院」
・​奈良市薬師堂町「御霊神社」

前回掲載した越前市岩本町の岩本神社からの引き続きとなる今回は、岡太神社・大瀧神社を掲載します。
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社頭手前に聳える岡太神社・大瀧神社の大鳥居から、車で数分走れば岡太神社・大瀧神社下宮のニノ鳥居と社号標が見えてきます。
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ニノ鳥居から社地を左に見ながら奥に進むと右手に参拝者駐車場があるので、岩本神社や岡太神社・大瀧神社を訪れるならそちらが便利です。

写真は岡太神社・大瀧神社ニノ鳥居と「縣社 大瀧神社」社号標。
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ニノ鳥居は朱の明神鳥居。
写真は11/11参拝時の岡太神社・大瀧神社境内の様子となります。
この時期では鳥居両脇の二本の大銀杏の黄葉は終わりを迎えており、落葉の色合いも精彩はないが境内随所で見られる苔の緑が鮮やかだった。
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越前和紙のはじまりの地だけに、マンホールにも和紙を漉く女性の姿がデザインされている。
この岡太神社・大瀧神社は1500年前、この地に紙漉きの技術をもたらした紙の祖神とされる川上御前をお祀りした岡太(オカモト)神社が起こりとされ、延喜式神明帳の式内社にも記されている。
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ニノ鳥居額は岡太神社・大瀧神社とある。
神社は大徳山の麗に鎮座し、ここから御神体である大徳山の頂に鎮座する岡太神社・大瀧神社上宮へは、枯れ葉に覆われたつづら折れの参道を登っていきます。
行き交う人もない心細い道で、鳥居までは辿り着きましたが、道は更に奥に続いており、獣との遭遇が脳裏をよぎり途中で引き返してきました。
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ニノ鳥居の先の境内を守護する狛犬。
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狛犬の左に立てられている由緒。

「御祭神
旧縣社 大瀧神社 国常立尊・伊弉諾尊
式内社 岡太神社 川上御前(岡太大神)

当神社は御神山である権現山の山頂付近頂に建つ奥の院(上宮)と里宮その麓に建つ里宮(下宮)から成り立ち、奥の院には大瀧神社と岡太神社の本殿が並び建っている。
この山麓にある社はその両社の里宮である。
大瀧神社の創建は社伝によれば推古天皇の御代(592~638)大伴連大瀧の勧請に始まる伝わる。
ついて奈良朝に至って元正天皇の養老3年(719)この地を訪れた泰澄大師は、大徳山を開き水分神であり紙祖神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊・伊弉諾尊の二柱を主祭神とし、十一面観音をその本地とする神仏習合の社を建て、大滝兒大権現、または小白山大明神と称し、その別当寺として大滝寺を建立し社僧を置き神事を司らしめた事を伝えている。

岡太神社はこの村里に紙漉きを伝えたとされる川上御前を祀り「延喜式神明帳」(926)に記される古社で、往古よりこの神域に摂社として祀られた。
この紙祖神としての川上御前に対する里人の信仰は篤く、神の教えに従い古くから大滝神郷一円を中心に優れた紙を漉いてきた。

中世には大滝寺は平泉寺の末寺となり、四十八坊の堂塔伽藍が山頂、山麗に並び、社僧六、七百人を擁して隆盛を極め、神領那七十余町、日野川以東の村落四十八ヶ村を氏子とするに至った。
南北朝時代には足利の軍勢に抗し、その兵火により一時衰退、室町時代の中葉、国主朝倉氏の帰依篤く再び社運は興隆したが、天正三年(1575)、織田信長の一向一揆攻略により再度兵火に会い一山ことごとく灰燼に帰した。
その後領主となった丹羽長秀により復興され、江戸時代には初代藩主・結城秀康を初め代々藩主の崇敬篤く、兵火のため焼失した社殿も再建された。
その後老朽化により、天保14年(1843)に江戸後期の社殿建築美の粋を尽くした現在の里宮の本殿・拝殿が再建された。
明治維新後、神仏分離令により「大滝児大権現」は大滝神社と改称、昭和三年には県社に列せられ今日に至る。

大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に摂社岡太神社の分霊を奉祀し、紙祖神川上御前は名実共に全国紙業界の総鎮守として多くの人々の信仰を集めている。

昭和五十九年(1984)、元里宮の本殿・拝殿は歴史記録の確かさと建築の美しさが認められ国の重要文化財に指定。
平成四年(1992)、神門・回廊・奉楽電が造営された。

祭礼
春例祭(神と紙の祭り) 五月三日(お下り奥院~下宮)~五日(お上がり下宮~奥院)
秋例祭 十月十一日(お下り奥院~下宮)~十三日(お上がり下宮~奥院)
式年大祭(御開帳) 三十三年目毎
御神忌(中開帳) 五十年目毎

文化財 重要文化財
本殿・拝殿一棟(天保一四年建立)
文化財(県・町指定)
奥之院岡太神社本殿(江戸初期再建・町指定)
奥之院大滝神社本殿(江戸中期再建・町指定)
神宮堂 木造虚空蔵菩薩坐像(平安時代・県指定)
観音堂 木造十一面観音坐像(平安時代・町指定)

天然記念物
大杉(奥之院付近)根回り9.8㍍・高さ23㍍
ぜんまい桜(同)根回り4.5㍍・高さ18㍍
ブナ社叢林(同)」

丁寧に書かれており分かりやす由緒。
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ここで川上御前の謂れもここで書いてしまおう。
この地の紙漉きの歴史は古く、正倉院の越前国正税帳(730年)にも越前和紙が用いられているという。
越前和紙のはじまりは1500年前に遡り、岡太川の上流に現れた一人の女性(川上御前)が村人に紙漉きの技術を授けた事から始まると伝わる。

上は駐車場に前に掲げられている川上御前の解説板。
「今から1500年ほど前の事、岡太川の上流の宮ヶ谷に、ある日美しい女性があらわれ、「この村里は、谷あいで田畑が少なく、生活に困っているだろう。
しかし、この村には清らかな水と、豊な緑の樹々に恵まれているから、紙漉きを生業とすればよい」と告げ、自ら衣を脱いで紙漉きを教えたいう。
村人が名を尋ねると「岡太川の上流に住むもの」とだけ言い残し姿を消したという。
以来、里の人は紙漉きを生業とし、この美しい女性を川上御前と崇め、紙祖神として岡太神社に祀ったのです」
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参道左の手水舎。
後方の建物は木造十一面観音坐像を安置する観音堂で岡太神社・大瀧神社は神仏習合時の名残が漂う神社。
まずはその観音さまを拝みに行こう。
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観音堂に向け苔生す境内を進む、途中に辨財天堂跡の石標が立てられていた。
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参道の両脇には観音堂まで複数の燈籠が立ち並ぶ。
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右手に苔に包まれた手水鉢、そこに小さな龍の姿があった。
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小さな龍ですが、大きな口を開け、岩を掴む鋭い爪など、繊細に作られた威厳のある姿をしています。
よく見ると右と左で角や耳に違和感を覚える、この龍の身の上になにかあったのか。
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入口の色褪せた観音堂の額。
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切妻瓦葺平入の薄暗い堂内は右が外陣、左が内陣になっており、外陣には時代不明の奉納絵馬が掛けられている。
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内陣の木造十一面観音坐像(町指定文化財)。
「大滝神社文書「大滝権現開帳記録」や「大滝権現明細帳」などに奥之院十一面観音、末社龍児権現本地にあたる観音像と思われる。
現在は観音堂(絵馬殿)に安置されているが、像容は左手臂を屈し、拳には蓮華をを持し、右手は膝上で掌を延ばし、頭部最上部三面、下部七面の仏頭が飾冠されている。
胸や両腕は厚手で豊満な仕上がりで、衣文などが単調なのは、補修や彫り直したためと考察されているが、尊顔などは往事のままで、平安時代前期の尊容を留めている」
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里宮全景。
年輪を重ねた樹々が聳える境内北側に、石垣が高く積まれ、その上に神門と左右の回廊が繋がり拝殿・本殿を取り囲んています。
綺麗な外観は由緒にあるように平成四年(1992)に造営されたもの。

神門・回廊・奉楽電が造営された
大徳山の麗に鎮座し、苔と杜に包まれた外宮とそこから御神体の大徳山を登った頂に鎮座する上宮を持つ神社。
里には両部鳥居の一ノ鳥居と境内入口のニノ鳥居を構えている。
和紙の里だけにマンホールにも和紙を漉く女性の姿がデザインされていた。
この岡太神社・大瀧神社は1500年前、この地に紙漉きをもたらした紙の祖神とされる川上御前をお祀りした岡太(オカモト)神社が起こりとされ、延喜式神明帳の式内社にも記されている。
大瀧神社は、推古天皇の時代(592~638)に大伴連大瀧が神様の降臨を請う「勧請」をおこなったことが起源とされ、養老3年(719)、泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒大権現(オオタキチゴゴンゲン)を建立したという。
その際、別当寺として大徳山大瀧寺(後に破却)が創建され一時は48坊を有し社僧6700名を擁する一大勢力となったが、信長によりそれら焼き払われ一時は衰退したが秀吉・徳川、松平氏と保護を受け社殿は再興されていった。
後の神仏分離により大瀧兒大権現は祭神を国常立尊と伊弉諾尊とする大瀧児(オオタキチゴ)神社に改め、明治8年郷社に列せられ岡本村の總社氏神となり社号も大瀧神社となり、昭和3年県社に列せられ、現在の岡太神社・大瀧神社となった。
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軒唐破風の付く神門前景。
石垣前には銅製燈籠や狛犬があり、門の先には檜皮葺の屋根が連なる社殿が見える。
一度訪れて見たいと思いながら、縁がなくやっと訪れることができた。
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神門前の狛犬。
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神門から拝殿の唐破風向拝と千鳥破風、その先には本殿の唐破風向拝と千鳥破風が重なるように連なる。
岡太神社・大瀧神社ならではの眺めです。
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檜皮葺の苔むした屋根は本来あまりよくないものですが、趣のあるこの社殿にこの苔は必要不可欠なものに思える。
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日本一複雑な構造の社殿とされ、四層の屋根が折り重なるこの造りは特に定義されていないようですが、造の一つに加わってもいいほどの独創性を持つものです。
構造は入母屋妻入りの唐破風向拝が付く拝殿が後方の一間社流れ造りの本殿の屋根に連なったもので、山々の重なりを表現したくて、其々の基礎の高さを決めたのかと思えるくらいです。
今の建物を手掛けたのは永平寺山門前で代々永平寺大工を務め、永平寺勅使門を手掛けたとされる大久保勘左衛門(1801~1859)によるもので、1992年に神門、廻廊、奏楽殿の造営の際に拝殿屋根の葺替えが行われたもの。
社殿の懸魚をはじめ、欄間や木鼻、向拝の手挟や虹梁に錫杖彫が施されるなど、全体に細かな彫が施されており、とても見応えのあるもの。
唐破風の鬼板には葵紋が入れられています
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社殿左からの斜景。
緑に包まれる社殿の屋根の連なりが一番美しく見え、日の出とともに本殿に朝日が差し込む時の姿は神々しさが漂う。
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拝殿向拝装飾、龍や鳳凰、獅子に草花の彫が一面に施されている。
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左桁隠し。
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右桁隠し。
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向拝桁隠し、海老虹梁、手挟、木鼻の装飾。
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手挟の雉と木鼻装飾。
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今にも動きだしそうな龍。
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拝殿額も龍の装飾。
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拝殿から朝陽が差し込む本殿の眺め。
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拝殿側面から本殿の眺め。
大棟の千鳥破風と唐破風が流造の庇の上に乗り、庇に拝殿の棟が入り込み唐破風が大棟の上を覆う。
妻壁や脇障子、木鼻などにも彫が施されている。
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本殿破風には鶴。
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本殿左の壁面装飾。
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長押の獅子と木鼻の獅子。
29.2
肘木装飾。
29.3
本殿向拝の木鼻装飾。
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境内左の高みに鎮座する護国霊社、氏子祖霊社。
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社殿側面全景。
31.5
朝日を浴びる本殿右。
こちらの面にも図柄の違う彫が施されています。
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神輿殿。
境内右の切妻の建物で、桁側四間の開け放たれ間には金色の神輿が保管されている。
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春例祭・秋例祭ではこの神輿を担ぎ、里宮から上宮に続くつづら折れの参道を往復するという。

里宮参拝後、上宮に続く参道を鳥居付近まで登ってみました。
落葉が積もって足元は滑りやすく、何も持たなくても苦労したあの山道を担いでいくという。
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1992年に造営された神門、廻廊、奏楽殿。
落ち着いた佇まいの社殿に調和するように考えられたのだろう、光り輝く飾り金具や彩色はない。
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神門左の境内。
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右側の燈籠群。
境内の樹々がつくる木陰には苔が生し、初夏に訪れるとさらに綺麗だろう。
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境内南の鳥居。
ここから社地沿いに右方向の駐車場へ。
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駐車場から最も近い社地東側の鳥居。
ここから県道を上り、奥宮へ向かってみました。
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県道から左に燈籠が連なる参道、そこから鬱蒼とした大徳山山頂に鎮座する上宮へ続く。

参道入口の「山伏岩の跡」
大徳山に続くこの道は泰澄大師が開いた修験道。
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参道は整備され、上り始めは傾斜も緩いので手軽に行けそうに感じました。
しかし、途中から傾斜も増し、落葉が積もって滑りやすくなりトレッキングシューズとポールが欲しくなる。

熊との遭遇を予感させる山道を進むと「神馬神くら化石跡」の石標。
参道口からここまでは撮影時間で見ると約15分。
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奥宮の木造明神鳥居。
社殿も近いと信じて鳥居をくぐり更に進むが、つづら折りの山道だけが上に続く。
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鳥居から5分を過ぎたあたりの「神馬の足跡」
先は一向に見通せず、奥宮までの距離感が掴めず参拝はここで諦める。
以外に次の坂を登れば見えたのかもしれないが、それを繰り返してここまできたが、足の疲れと熊の恐怖から悔いは残るが引き返す。
自分一人ならともかく、かみさんと二人のところを熊とバッタリ遭遇はなんともならない。
戻ろうか?
振り返るとかみさんの手にはしっかりと枯木が握られていた。
奥宮には結局辿り着けなかったが、岡太神社・大瀧神社はもう一度訪れたいと思う神社です。
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御朱印は新在家町の「越前和紙の里 パピルス館」で頂けます。
岡太神社・大瀧神社
創建 / 推古天皇の御代(592~638)
祭神 / 国常立尊・伊弉諾尊・川上御前(岡太大神)
所在地 / ​越前市大滝町13-1
参拝日 / 2023/11/11
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平泉寺白山神社

武蔵一宮氷川神社から大宮駅東口に戻り、そこからバスに乗り氷川女體神社に向かいました。
一向にお腹も空かないので少し手前の染谷新道バス停で降車。
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ここから芝川を越えて一面田畑が広がる約3㌔を歩いて氷川女體神社に向かう事にしました。
写真は芝川に架かる宮後橋から、下流のさいたま新都心方向の長閑な眺め。
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上は現在の地図にかつての見沼を落とすとこんな大きさ、降車駅の染谷新道停から氷川女體神社まで徒歩で向かっていますが、その道筋は見沼の縦断する事になります。
バス移動の際に中山神社最寄りバス停(片柳)を通過しましたが、時間の都合から今回は諦めました。
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見沼代用水西縁と呼ばれる灌漑用水沿いに遡ると、正面にこんもりとした氷川女體神社の杜が見えてきます、社頭へは杜の左側を目指します。
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社頭入口の見沼たんぼの解説。
見沼田圃の散歩みちのひとつで、遡ってきた見沼代用水西縁沿いは桜並木が続き、花の時期にはさぞかし綺麗な事だろう。
遥か昔はこの辺りまで海が迫っていたようで、一帯は氷川女體神社や磐船祭祭祀遺跡など見沼田圃の歴史に深く関わる見所が残されています。

武蔵一宮氷川神社でも現れた見沼ですが、ここ氷川女體神社へ歩いて訪れると往古の見沼の姿が見えてきます。
見沼の畔に突き出た台地の突端に氷川神社、中山神社(中氷川神社)、氷川女體神社が直線上に祀られており、その三社を氷川神社と捉える説があるのも、大宮の氷川神社を男体社、氷川女體神社を女体社として称する理由も分からなくもない。
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見沼田圃を見下ろす高台に鬱蒼とした社叢に包まれる氷川女體神社。
石段脇に縁起が掲げられており、そこには以下のように記されています。
「武蔵国一宮 御縁起 (歴史)
当社は見沼を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。
見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保12年(1727)の新田開発までは、12平方キロメートルとい
う広大なものであった。
この沼は御手洗として当社と一体であり、ここに坐す神は女體神、すなわち女神であった。

創建の由緒は明和4年(1767)に神主武笠大学の記した「武州一宮女躰宮御由緒書」によると「崇神帝之御勧請」「出雲国大社同躰」とある。
また「神社明細帳」控えには、見沼近くにある当社と現在のさいたま市大宮区高鼻鎮座の氷川神社、同市中川の鎮座の中山神社(氷王子社)の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。

中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀は北条泰時の奉納と伝える。
祭祀は御船祭と称し、隔年の9月8日に見沼に坐す女神に対して行われた。
しかし、古来より続けられてきた御船祭は享保12年(1727) 見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。
このためやむをえず磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同14年(1729)9月から斎行された。
下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹」の地名が残るが、近年の調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。

社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹であることから、昭和56年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。

御祭神 奇稲田姫命、大己貴命、三穂津姫命
御祭日 歳旦祭(一月一日)、祈年祭(二月十八日)、祇園磐船龍神祭(五月四日)、名越大祓(七月三十一日)、お日持(十月七日)、例大祭(十月八日)、新穀感謝祭(十一月二十三日)」

上に記された中山神社は今回訪れなかったが、地図上で三社の鎮座地を見ると一直線上に鎮座しており、三社を合わて氷川神社と云われると訪れておくべきだったのかも知れない。
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社頭の鳥居に掲げられた額には「武蔵国一宮 氷川女體神社」の額が掲げられています。
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鳥居から境内の眺め。
境内左が社務所、参道の先が社殿、右側に龍神社と参集殿があり、社殿後方には複数の境内社が祀られています。
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鳥居をくぐった右側の手水舎から社務所方向の眺め。
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手水石には絶えることなく清水が注がれ、再び台地に戻って行く。
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参道から拝殿の眺め。
社地を包む杜は楠木、モチノキ、タブノキの他に多様な樹々で形作られ、樹齢が300年を越えるとも云われる杉の大木などが聳えています。
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現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川幕府四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立したものです。
氷川女體神社は中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されているといいます。
拝殿は銅葺入母屋造りで千鳥破風、軒唐破風が付くもの。
本殿は全面に朱の漆が塗られた三間社流れ造りで、拝殿と相の間で結ばれた権現造りの建造物です。
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拝殿向拝に「武蔵国一宮」の額。
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女體神社社殿解説。
「寛文七年銘棟札一枚 平成19年3月16日埼玉県指定有形文化財(建造物)
この社殿は17世紀の造営であり、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿です。
一番奥にある本殿は朱塗りの三間社流造です。
三間社とは、正面の柱となだらかな曲線を描く「流造」となっています。
本殿と拝殿をつなぐ幣殿は間口の柱の空間が三つあるので「三間社」と表現します。

屋根は切妻造の前方が長く延び、本殿に合わせ、屋根は切妻造で二方向に葺下しています。
拝殿は入母屋造で屋根の正面には、「千鳥破風」と、軒から起こり曲線を持つ「軒唐破風」が施されています。
現在、屋根は銅板葺ですが、平成23年の社殿保存修理時に、古い杮葺が残存していることが確認されました。
寛文7年(1667)銘の棟札には、四代将軍徳川家綱が忍藩主阿部忠秋を奉行として「武蔵国一宮厳河女躰大明神社」本殿の工事を行った記載があり、江戸幕府の公式歴史書「徳川実紀」には、その修理費用が三百両であったとも記録されています。

この本殿は埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物で幣殿・拝殿を含め社殿として一括して埼玉県の文化財に指定されています。」

その社殿も当時のままで、現在は一部雨漏りが発生し、早急な修復に迫られているようです。
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参集殿左から見る社殿。
同じ武蔵国一宮を冠する大宮の氷川神社神社と比較すると、規模の小さい社殿で参拝に訪れる人影が少ないのは意外、個人的にはこの佇まいの方が落ち着ける。
本殿の棟には4本の鰹木と内削ぎの千木が置かれ、拝殿から透塀で本殿が囲まれています。
13.5
この神社は古くから豪族や武将からの尊崇があつく、中世を中心にそれらに関する文化財も多い。
その中の一つとして鎌倉時代金工品の優品として三文兵庫鎮太刀があり、刀と吊紐をつなぐ帯執りが針金で編んだ鎖となった兵庫鎖太刀で、多く寺社奉納に使われた。
この太刀も刀身は鉄の延板で奉納用として作られ、社伝では北条泰時の奉納と伝えられ、全面に三鱗文が施されているという。
古社宝類のひとつとして、正応6年(1293)佐伯弘の銘がある飾鉾など、多くの文化財を所蔵する。
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境内右の龍神社。
さいたま市の竜伝説に因んだ龍神様を祀る。
8.5
傍らの解説の概要は以下。
今は消滅した見沼の辺に鎮座する氷川女體神社には、14世紀より神輿を乗せた舟で沼の最深部に漕ぎ出して、見沼の主である龍神様に御船祭を執り行っていたと伝わり、享保12年(1727)に見沼新田の開発にともない、干拓後は磐船祭として現在まで執り行われている。
創建など詳細は不明ですが、祭が14世紀には行われていたと伝わる事や、女體神社の創建が崇神天皇の御代と云う事から、それよりかなり遡る事になるのだろう。
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龍神社の傍らに、伊勢講で行われた太々御神楽の記念碑が並んでいます。
「伊勢参宮太々御神楽」とありますが各々の年代は未確認。
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参集殿後方の境内社。
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左から。
天神松尾合社・祭神 / 少彦名命、菅原道真
住吉明神社・祭神 / 大巳貴命
坂東神社・祭神 / 不明
石上神社・祭神 / 布都御魂、布留御魂、布都斯魂大神
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本殿後方の二社。
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上は今宮神社、下神明社(天照大神)。
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社務所から拝殿、参集殿の眺め。
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社殿は一部雨漏りが発生し、早急な修復に迫られているようです。
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拝殿前の燈籠は文化10年(1813)寄進のもの。

境内の力石。
重さは262.5㎏(70貫目)ある石で、昔の若者はこうした力石で自らの存在を誇示したようで、集落の娘はその姿を羨望の眼差しで見つめ、嫁に目娶られることを夢見る時代もあったようです。
それにしても262㎏に挑戦とは信じられないが、多くの力自慢が挑戦したのか石の表面は艶やかだ。
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本殿左の境内にも複数の境内社が祀られています。
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御嶽神社(国常立尊命)と霊神碑?。
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稲荷社(宇迦之御魂神)

稲荷社(宇迦之御魂神)
近隣の開発によりこちらに遷座して来たのだろうか。
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氷川女體神社参道鳥居。
神社から北西約500㍍程の住宅地の生活道路に石の明神鳥居が立っています。
柱には安政2年(1855)己卯8月と銘が刻まれており、鳥居が寄進された年の10月には安政江戸地震が起きており、この辺りも強烈な揺れに見舞われた事だろう、外観に修復の跡は見られず、この鳥居は震災で倒れるのを免れたのだろうか、だとするとこの鳥居はなにかもっているのかもしれない。

今のご時世、鳥居にとって最大の脅威は地震ではなく車なんだろうか、柱の前後左右にはガードバーが設置され保存されていました。
最近夫婦ともども些細な起伏で躓いて転ぶことがある、倒れなかった?鳥居にゲン担ぎで触れさせてもらい氷川女體神社を後にする。

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氷川女體神社、縁があれば神社東部の見沼たんぼの散策を含めのんびり歩いて見たい、大陸からの観光客もなく、個人的には再訪したい神社のひとつかもしれない。

氷川女體神社
創建 / 崇神天皇年間
祭神 / 奇稲田姫命、大己貴命、三穂津姫命
境内社 / 龍神社、今宮神社、神明社、坂東神社、石神神社、住吉明神社、天神松尾合社等
所在地 / 埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1
参拝日 / 2023/09/26
大宮駅からバスで染谷新道まで / ​約30分
染谷新道から氷川女體神社まで徒歩 / ​約3㌔40分
​関連記事 /  
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さいたま市大宮区「鐘塚稲荷神社」
『武蔵一宮 氷川神社』 一ノ鳥居から三ノ鳥居
『武蔵一宮 氷川神社』 氷川稲荷から氷川神社社殿

川越市連雀町鎮座「川越熊野神社」
前回まで掲載した川越時の鐘・薬師神社から、歩道が混み合う県道12号線を避け、時の鐘から東の一本先を右折し南下、大正ロマン通りを横切り県道15号線方向に歩く事約8分の所に今回の「川越熊野神社」は鎮座します。
県道12号線を南下するより幾分人波は減り歩きやすい印象がありました。
1
熊野神社社頭。
両脇を店舗と民家に挟まれた僅かな場所に忽然と社頭が現れます。
社頭の右に熊野神社の社標と石造靖国鳥居を構え、石畳の参道がその先の拝殿まで続きます。
面白いのは参道左の「足踏み健康ロード」だ、参道に玉石が埋め込まれており足つぼを刺激してくれるらしい、罰ゲームじゃないが誰もやらんだろうと思いきや靴を脱ぎすてチャレンジする人がいるのには正直驚いた。
足踏み健康ロードのゴールはニノ鳥居、かみさんから「やってみゃあー」と煽られるが、そこは断じて断る、間違いなく瞬殺なのは見えている。
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鳥居の額は…読めない。
恐らく熊野神社だろうが、下の神社くらいは読めるが上の「くまの」の文字が読めない。
ひょっとして「熊埜」?と刻んであるのか。
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社標右手の境内マップ。
両サイドに建物が迫る参道からニノ鳥居を過ぎると、境内は左右に広がり意外に広い社地を持っている。
東向きの社殿を中心に北側に境内社、南側に社務所、神楽殿が配置されています。
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ゴールの先の境内。
目の前に茅の輪のような「八咫烏鈴の輪くぐり」がある。
要領は茅の輪くぐりと同じ、違うとすれば輪の上に鈴が吊るされている。
春詣と秋詣での期間に行われるようで、ここをくぐって罪穢れを祓ってから拝殿で参拝するのが作法。
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ニノ鳥居右の手水舎と加祐稲荷神社の運試しの輪投げ。
いまになって気が付くが、ニノ鳥居(石造明神鳥居)を一枚も撮っていなかったようです。
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境内右の加祐稲荷神社から参拝。
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由緒
通称「かすけさま」「おいなりさま」生命の元になる食物(稲)の実りを守り、人々の願いの実りを助けて下さる福の神。
御祭神 倉稲魂命
由緒
新編武蔵風土紀稿及び武藏三芳野名勝図会に当社の名は記されているが、御由緒は不詳。
口碑によれば蓮馨寺開祖以前からあり、この神を帰信したところ、種々の災厄から免れたことから神が祐を加えて下さるということで「加祐」という名前を社号に冠し崇め来た。
その社号が古旗に書かれているのが残っていたと言われる。
そのことから室町時代永禄年間(1558~1570)には既に存在していたと推測できる。
明治2年蓮馨寺境内より遷座し熊野神社の御末社となった。
御祭礼日 
例祭 3月第二日曜日
縁日 毎月第二日曜日
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覆殿全景。
9
写真の石の明神鳥居の先は、左に銭洗い弁天厳島神社、右に白蛇神社の二社が祀られている。
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鳥居脇の銭洗い弁天厳島神社由緒。
通称「べんてんさま」「銭洗い弁天」芸能、福智、延寿、除災、特勝、財運の神。
平成28年6月新たに安芸の宮島より弁財天像をお祀りする。
御祭神 市杵島姫命
由緒
武蔵三芳野名勝図会(享和元年1801)によれば、その昔は蓮馨寺の南側林中にあったが、当時、秋葉神社の西側移したと記されている。
由緒は不詳であるが口碑によれば蓮馨寺開祖以前より寶池(熊野神社裏より蓮馨寺境内にかけてあり)に鎮座していた当社を崇敬し、池名「寶池」を寺号とし、寶池院としたと言う。
明治2年蓮馨寺境内より遷座し熊野神社の御末社となった。
御祭礼日 
例祭 6月第三日曜日
縁日 毎月第三日曜日
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左が銭洗い弁天厳島神社。
こちらを参拝した後、虎の子をざるに入れ御神水で洗い清める作法。
これでどれだけ使っても、明日になれば「内閣官房機密費」のように減る事はない。
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銭洗い弁天厳島神社由緒。
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右の石の社が白蛇神社本殿。
願いを込め二つの白蛇様の部位をなでるとその部位に応じた御利益を得られる。
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周辺は蜷局をまいた白蛇の子が数えきれないほどいる。
蛇は…苦手だ。
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秋葉神社覆殿全景。
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秋葉神社由緒(通称は省略)
御祭神 火之迦具土命
御由緒 
新編武蔵風土記稿によれば、第十代川越藩主秋元喬房氏により、享保8年(1723)年に建立。
秋元氏が蓮馨寺住僧東誉円悦なる者に議り、当社安置の地を熊の神社に卜して丘を築き勧請させた。
昭和32年まではその小丘が残っていた。
例祭日 例祭11月第三日曜日
縁日 毎月第四日曜日
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中には白虎に乗った秋葉大権現の像があります、人が集まり集落ができると火伏の神が必ず祀られていきます。
川越は寛永15年(1638)、明治26年(1893)の川越大火と幾度も大火を経験し、趣ある蔵造りの町並みはこうした過去の学びの結果。

空き家が増え今後も減る事のない現在、一軒家だった敷地は小間切れにされ、壁の修理をどうするのか疑いたくなる建売住宅が犇めぎ合う。
そうした利益優先「運命共同住宅」を得意とするメーカーは、もれなく秋葉さんの祠を標準で付けるくらいしてみたらどうだろう。
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大鷲神社と左にある石碑には「山さくら咲けば白雲散れば雪 花見てくらす春ぞすくなき」と記され、「もとのもくあみ」の語源となった落栗庵元杢網(1724 〜1811)の歌碑が建てられています。
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大鷲神社由緒
通称 12月3日の酉の市は「おとりさま」と呼ばれ、戦時中は武運長久の神として、現在は家内安全、商売繁盛の守護神として信仰されている。
御祭神 天之鳥船命
御由緒 大正11年、南埼玉郡の鷲宮神社の分霊を奉斎したと伝わる。
初め熊野神社に合祀されたが、後に流れ造りの社殿を建立し、遷座祭を執行して末社とした。
川越地区とその付近住民の繁栄を願い、毎年12月3日に「酉の市」を開催し、大神の福と呼ばれる「稲穂付きの熊手」や「百万両小判」を授かろうと近郷近在より善男善女が集まり、年毎に益々盛大になっている。
例祭日 例祭12月3日
縁日 毎月第一日曜日

今年も間もなく熊手の時期になろうとしている。
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熊野神社拝殿正面全景。
八咫烏の紋が入った提灯が連なり拝殿に導いてくれる。
その先に一対の狛犬が守護する。
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明治37年(1904)に寄進された狛犬。
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川越熊野神社由緒
・天正18年(1590)蓮馨寺二世然誉文応僧正が紀州熊野より勧請。
・正徳3年(1713)蓮馨寺十六世然誉了鑑僧正の時、社殿を改築。
・御祭神 熊野大神 (伊弉諾命、伊弉册命、事解之男命、速玉之男命)
・ご利益 開運・縁結び・厄除け
八咫烏
・熊野大神に仕える三本足の烏、夜明けを呼び太陽を招き、明るい世界に導く霊鳥
・熊野で迷う神武天皇を大和の檀原まで導いた
・JFAのシンボルとして描かれている。
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拝殿は瓦葺入母屋造り。
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拝殿左からの眺め。
手前に可愛い金と黒の八咫烏が置かれている。
…これ、チョコのキャラに見えるのは自分だけか。
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神明造の本殿。千木は外削ぎ鰹木の数は見ていなかった。
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境内東側の神楽殿と社務所。
金と黒の八咫烏がここにも。
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強力に導いてくれそうなジャンボ八咫烏。
あのキャラクターの名前がスッと出てこない、キョロちゃんか!
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八咫烏由緒。
大きな導きを与えてくれそうな。
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境内西の結びの庭。
熊野本宮から榊とナギが移植され、一歩中に入ると霧のようにミストシャワーが注がれていた。
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中にはふたつの八咫烏のレリーフが安置されており、霧に包まれ道に迷う人に導きを授けてくれる。
これで川越熊野神社の主な神社は参拝して廻ったはず。
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結びの庭の左側にここ連雀町の「道灌の山車庫」があり、訪れた日は運よくシャッターが開けられ遠巻きに見る事が出来た。
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山車の一番上に太田道灌の人形があるのだが、残念ながら暗くて見えない。
川越氷川祭では川越に受け継がれている29台の山車が勢揃いするという、有形民俗文化財や歴史文化伝承山車に指定されており、この道灌の山車は歴史文化伝承山車に指定されているとか。
建造は昭和27年(1952)と比較的新しく、黒漆や金色の飾り金具は光り輝いていた。
川越まつりを前に準備していたのだろうか、祭り当日はすごい人波が川越に押し寄せるのだろうなぁ。
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川越熊野神社
創建 / 天正18年(1590)紀州熊野から勧請
祭神 / 熊野大神 (伊弉諾命、伊弉册命、事解之男命、速玉之男命)
境内社 / 加祐稲荷神社、白蛇神社、銭洗い弁天厳島神社、秋葉神社、大鷲神社、
所在地 / 埼玉県川越市連雀町17-1
参拝日 / 2023/09/25
時の鐘・薬師神社から川越熊野神社徒歩移動 / ​南へ600㍍約8分
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川越氷川神社。
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氷川神社表参道。
瘡守社から北に向かい20分程、三叉路の突き当りに社頭がある。
氷川神社への入口は写真の石鳥居を構えたここと、社頭から右に向かうと左に大鳥居を構えた広い参道、そして社地北側を流れる新河岸川沿いの脇参道の三か所があります。
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宮下町日本武尊山車庫。
三叉路の手前にあり、川越氷川祭の山車行事で曳航される川越市登録歴史文化伝承山車「日本武尊の山車」を保管しています。
川越氷川祭は、慶安5年(1648)に時の城主だった松平信綱が、川越に町をあげた祭礼がない事から祭具を寄進し、江戸の天下祭り様式に則った神幸祭を奨めたこともあり、元禄11年(1698)初めて踊屋台が出たのをきっかけに300年を越えた現在に受け継がれ、川越の蔵造りの残る町並みを煌びやかな山車が曳行される。
こうした山車は川越には29台受け継がれているようで、有形民俗文化財や歴史文化伝承山車に指定されているようです。
2016年には「川越氷川祭の山車行事」として、ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録されたそうだ。

普段はシャッターが下ろされ、見る事は出来なかったが、10月第3土・日にはその姿が見られる。
3
社頭右の風鈴。
7月から9月にかけて川越の夏の風物詩縁結び風鈴廻廊が行われますが、参拝時は既にその時期を過ぎており江戸風鈴が吊るされた廻廊は見られませんでした。
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氷川神社社頭全景。
石造靖国鳥居とその先に石造明神鳥居の二つを構えてる川越の総鎮守。
創建は古く、歴代の川越城主からも庇護を受け、川越城下の人々から崇敬されてきた神社で、縁結びや夫婦円満の御利益があるとして今も多くの参拝客で賑わう。

社頭から右手に向かい、朱の大鳥居が聳える参道から境内に向かう。
6
大鳥居は朱塗りの明神鳥居で、高さは15㍍の木製鳥居。
木製鳥居では国内唯一の規模を持つそうです。
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扁額の文字は勝海舟の揮毫とされる。
8
鳥居をくぐった参道左に小川が流れる庭園があり、注連縄の張られた岩と奥に小さな社が祀られています。
澄んだ細い流れを境に参道脇に庭園が造られています。
9
戌岩。
「その姿が鼻先を神前に向けた戌(犬)の形をしていることから名付けられた。
犬はお産が軽く多産であることから、古くから安産・子宝を象徴する動物とされます。
今日でも毎月戌の日には祈願に訪れる参拝客が多い。
祈願の作法はこの戌岩の鼻先を撫でるといい。」

想像力の乏しい自分は解説のように見えないことが多い。
この角度から見る岩は、穏やかな表情をし、垂れ耳で頬肉が垂れた大型犬の横顔と健康的な鼻が良く分かる。
二人の子育てを終え、この歳で子宝もないが、鼻先を撫でさせてもらった。
参拝に訪れた若いカップル、どちらかが撫でようもんなら、それは無言のアピールとして捉え、年貢を納める時期と悟った方がいいかもしれない。
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戌岩の前の御神水。
鉢の底から絶え間なく地下水が湧き出し、苔とシダを育んでいる。
御神水は自由に汲み取って持ち帰り、煮沸し飲用してもいいらしい。
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水神。
現在は一筋の細い流れですが、往古は御手洗川という小川が流れ、神社脇の上尾街道を通る人々の喉を潤してきたという。
そうした恵みをもたらす水源にはこうした水の神様が祀られます。
蛇口を捻れば飲適の水が出るのは当たり前、電気は自給できても命の水はやすやすとは賄えないだけに、当たり前に感謝する意識はもはやないのかもしれない。
祭神は弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)。
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境内全景。
右が拝殿でこの左手に二つの鳥居がある、奥は八坂神社。
境内左には授与所と舞殿が主な建物。
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拝殿右は護国神社。
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明治14年(1881)、川越出身の西南戦争以降の戦没英霊をお祀りするため創建された。
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氷川神社拝殿。
入母屋平入の銅葺屋根で現在の拝殿は1874年(明治7)に改築されたもの。
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氷川神社境内マップ。
社地は新河岸川の右岸の杜に鎮座し、広い社地の半分が社殿、残りは会館が占めており、意外に境内は狭い。
当日は七五三の御祈祷に訪れた家族連れと大陸から訪れた観光客が多かった。
以下はHPから引用。
「川越氷川神社は今から約1500年前、古墳時代の欽明天皇(507~571)二年に創建されたと伝えられています。
室町時代の長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。

江戸時代に入っても歴代の川越藩主から社殿の造営や特別の計らいを受けました。
現在の本殿には緻密な彫刻が施されており、県の重要文化財となっています。
また、昔より縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の神様(ご祭神)にあります。」
お祀りされる五柱は主祭神の素盞鳴尊の他、脚摩乳命と手摩乳命の夫婦神様と娘であり、素盞鳴尊の妃神でもある奇稲田姫命、そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命の子で縁結びの神様として知られる出雲大社の大己貴命の五柱の神様。
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入母屋銅葺屋根の舞殿。
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舞台の正面に一本の老松と左右の脇戸に松と鶴が鮮やかに描かれている。
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舞殿左の覆屋は境内社の一つ柿本人麻呂神社。
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本殿前の狛犬。
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御祭神は柿本人麻呂。
歌道・学問に優れた柿本人麻呂をお祀りする。
直系の子孫、綾部氏が戦国時代に川越に移住してきたことからお祀りされるようになった。
歌道・学問の神様、安産・火防の神様として古から信仰を集めている。
柿本人麻呂を社名に冠する神社は初めてお目にかかるかもしれない。
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拝殿左の八坂神社。
「八坂神社は素盞嗚尊・奇稲田姫命をおまつりする摂社。
毎年7月には例祭・八坂祭が行われ、お神輿が街中を巡行します。
八坂祭では神前にキュウリを2本お供えして1本を持ち帰り、このキュウリを食べると夏負けしないといわれています。
京都の八坂神社の神様で、かつては牛頭天王とよばれ、疫病退散のご神徳があります。」
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この社殿は寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となった事を契機に明暦2年(1656)川越城内の三芳野神社の外宮として移築、明治5年(1872)に氷川神社境内に移築されたもの。
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拝殿脇の社殿解説。
朱塗りの本殿は内部は見られませんが、外観には東照宮らしさが漂っています。
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氷川神社拝殿。
「欽明天皇の時代に大宮市の武蔵一宮から勧請されたと伝えられ、江戸時代には川越城下の総鎮守となり、歴代の城主をはじめ城下の人々の厚い信仰を得てきました。
嘉永3年(1850年)に建てられた本殿は、川越まつりの山車の人形を主題にした彫刻がほどこされています。

拝殿左に本殿を周回する参道があり、入口には無数の絵馬が吊るされた絵馬廻廊があります。
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絵馬廻廊を抜けた本殿左側には境内社20社が纏められています。
上は右が琴平神社、御嶽神社。
下は蛇霊神社。
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上は三峯神社。
下は右から雷電神社、嶋姫神社、水神社、厳島神社、疱瘡神社、子ノ権現社。
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上は右から春日神社、稲荷神社、左の石標が小御嶽神社。
下は右から八幡神社、馬頭観音、松尾神社、菅原神社、加太栗島神社、日吉神社、稲荷神社。
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本殿。
玉垣で囲われた本殿域には一対の狛犬と銅製燈籠が見える。
本殿は入母屋銅葺屋根の平入で千鳥破風と唐破風向拝が付くもの。
天保13年(1843)に起工し嘉永2年(1849)に竣功したもの。
一見して視線を釘付けにする色彩や意匠は見られないが、当時の名工とされる嶋村源蔵による精密な彫刻が全周に施されておりそれは見事なもの。
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氷川神社本殿。
以下はHPより。
「江戸後期に川越城主松平斉典公の寄進と氏子の寄付によって建立されました。
ご本殿には木の良さを生かした江戸彫とよばれる関東特有の精緻な彫刻が全面に施されており、名工嶋村源蔵・飯田岩次郎が7年の歳月をかけて彫りあげたものです。
これらの彫刻はそれぞれ川越氷川祭で繰り出される山車に乗る人形をモチーフにしています。
江戸時代の名工の技が静かに息づくご本殿は県の重要文化財に指定されており、大森貝塚を発見したことでも有名なE.モースも本殿の彫刻を見てその緻密さに驚いたといいます。
また、モースは当社のお札をアメリカに持ち帰り、保存しました。」
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全周は透塀に囲われ細部を見る事は難しいですが、虹梁、肘木をはじめ「強度大丈夫か?」と思いたくなる程彫りこまれている。
遮るものなく一間〃じっくりと眺めてみたいところですが、まだ次の予定もあり氷川神社を後にする。
32.5
帰りは正参道から手水舎の龍にご挨拶。
平日とはいえ多くの参拝客、縁結びを祈願しに訪れる女性の参拝客が多いのには驚いた。
32.6
ニノ鳥居扁額。
黒地の額に金で「川越総鎮守 氷川神社」とある。
ひと昔前に小渕さんが掲げた「平成」の元号を書かれた蜂城河東氏の揮毫によるもの。
正参道から訪れた際にはニノ鳥居を見上げて見ては如何だろう。
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川越 氷川神社
創建 / 欽明天皇二年(540)
祭神 / 素盞鳴尊、脚摩乳命、手摩乳命、奇稲田姫命、大己貴命
境内社 / 八坂神社、柿本人麻呂神社、護国神社など
所在地 / 川越市宮下町2-11-3
瘡守(カサモリ)社から川越高校方向に北へ / ​​20分程
参拝日 / 2023/9/25
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