尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

カテゴリ: 御朱印

東京都港区芝公園4「芝東照宮」
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増上寺から日比谷通りを5分程南に歩く。
芝公園を右手に眺め旧台徳院霊廟惣門(右)と増上寺(中央)、後方に東京タワーも一望できる。
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芝公園の一画が目的地「芝東照宮」。
社号標の先の参道は駐車場になっているようで、参道を普通に車が出入りしています。
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参道に入ると1788年(天明8)に奉納された凛々しい容姿の一対の狛犬。
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参道の明神鳥居と扁額、「家達」(いえさと)の文字が入っています。
家達(1863~1940)は徳川家16代当主で、徳川幕府の終焉がもう少し遅ければ慶喜の次を担う将軍の座も現実のものだっただろう。この扁額は2000年(平成12)に改修されたもの。
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鳥居から最初の石段を上る。
両脇の芝東照宮の提灯には当然ながら葵の紋が入ります。
正面にはいかにも東照宮らしい拝殿が見えてきます。
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境内右に徳川家光が植樹したと伝えられる御神木のイチョウの大樹。
戦災を免れ今も境内右に聳えたっています、1956年(昭和31)に東京都の天然記念物に指定されているようです。
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境内右に手水舎、手水鉢があり清水は常に注がれています。
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参道両脇に「徳川家康公(家光公お手植え公孫樹)」と書かれた青い幟。
公孫樹? イチョウの事ですね、黄金色に染まった境内はとても綺麗なものです。
杉などに比較すると非常に燃えにくい樹で、落ち葉の絨毯は防火シートの役割も果し、銀杏が実れば食料にもなる、そんなことから神社仏閣や広域避難場所などの周囲で見かけることが多い。9
権現造の拝殿全景。
芝東照宮は日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。
大きさは違えど煌びやかさは通じるものがあります。

芝公園は古くは増上寺境内でそこに勧請されたもので、境内の社殿の一つだった。
由来は家康が1601年(慶長6)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を駿府城に於いて祭祀していた。

1616年(元和2)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言したとされ、その年に着工、1617年(元和3)に竣工、完成した社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」から「安国殿」と呼ばれ、これが芝東照宮の起源とされる。
上野東照宮の創建が1627年(寛永4)とされるので、芝東照宮の方が創建は早かった事になる。
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拝殿左の由緒書きと境内の方位石。
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芝東照宮
創建 /   1617年(元和3)
祭神 /  徳川家康
御神体 /  徳川家康寿像
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創建以来年月を重ね、明治の神仏分離令に伴い、増上寺から切り離されて芝東照宮となります。
そして1945年(昭和20)の東京大空襲により伽藍を焼失し、唯一焼け残ったのは御神体の「寿像」と神木のイチョウだけだったという。

今見る社殿が再建されたのは1969年(昭和44)の事だという。
鉄筋コンクリートの東照宮として生まれ変わり、近年では2014年(平成26)に幣殿、拝殿、外部壁や、飾り金具等に補修の手が入っているようです。
斜めから見る姿は実に複雑な屋根構造をしている。
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南から見た芝東照宮社殿。
左の本殿から拝殿が繋がっているのが分かります。
ここ芝東照宮は久能山東照宮、上野東照宮の様に本殿域の拝観できないようです。
上野東照宮より創建が古いけれど、空襲で被災するかしないかで随分と佇まいに差を感じてしまう。
キンキラで近寄りがたい存在感の上野東照宮に対し、身近で親しみやすいのが芝東照宮かもしれない。
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芝東照宮の境内から南に続く小道があり、そこを抜けると梅林が広がります。
「銀世界の梅」と呼ばれ、2/20の頃の梅林は赤・白の梅が咲き始め、満開にはまだ少し早かった。
色合いの乏しい街中にあって、四季を感じることができる貴重な場所かもしれない。
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 東京タワーが一望できる芝公園の中、芝東照宮の背後に小高い盛り上がりがあります。
芝公園ランプの北側の切通しになった部分で、通りには「丸山貝塚」の解説が掲げられています。
ここは5世紀後半につくられたと推定される前方後円墳の「丸山古墳」。
墳丘へは石段もあり自由に登ることができる。看板の辺りは円型に繋がる方型部分の裾にあたるようだ。

埋葬者など詳細は不明なようですが、長さは約112㍍にもなり、都内最大規模の古墳と云われる。
この古墳、円型の墳丘部分は江戸時代に既に広場となっていたと言われます。
古墳として認識されたのは意外に新しく1893年(明治26)の事で、発掘調査では埴輪や須恵器などが見つかったそうですが遺構らしいものは見つからなかったいう。
丸山古墳周辺には7世紀頃の小型の円墳が複数存在したようで、副葬品も出土されたようです。
ビルが立ち並ぶ環境にあって、現在では海岸のイメージすらできないけれど間近に海が迫っていたようです。
2020/02/20

芝東照宮
創建 / 1617年(元和3)
祭神 / 徳川家康
住所 / 東京都港区芝公園4-8-10
公共交通機関アクセス / 都営地下鉄三田線 御成門駅下車 A1出口より徒歩2分
関連記事 / ​増上寺​、久能山東照宮​、​上野東照宮
増上寺からアクセス / 徒歩で​南へ5分程
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​​東京の方にはお馴染みの芝公園増上寺を訪れる。
それはCOVID-19が身近な存在として感じ始めた2月の事。
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ビル街に忽然と増上寺の表門である大門が現れる。
この門は旧大門の老朽化に伴い、昭和12年にオリジナルを踏襲し、1.5倍の大きさにして再建されたコンクリート製の高麗門。
面白いのは過去に困窮していた増上寺はこの門の所有権を当時の東京府に寄付したそうです。
その後も所有権は東京都にあったようです、一時困窮していた増上寺も寺勢を取り戻し、門の返却を求めたそうですが、いつからか台帳から抜け落ち、門の所有権が誰のものか不明となっていたそうです。2016年漸く元の増上寺に返還されたもの。ありがちな話かもしれない。
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 大門の先には赤い三解脱門と東京タワー。
新と旧のシンボルが一枚に収まるのも東京ならではの光景。
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 三解脱門の右に大きな寺号標。

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 「三解脱門」
増上寺の顔と云ってもいいだろう、3つの煩悩から解脱する門で、三つの煩悩とは「むさぼり、いかり、おろかさ」だとゆう。
重要文化財に指定されている三解脱門、建立は1622年(元和8)に建立されて再建されたものという。
重厚な瓦葺の二層の門で山号額は「三縁山」、楼上には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています
赤門だね。
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 境内マップ。
創建は1393年(明徳4)と600年以上の歴史を持つ寺ですが、空襲をはじめ幾度となく伽藍は
焼失し、その都度再建され現在に至っています。
なので古い建造物は少ない。
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 三解脱門をくぐった境内の左に手水舎。
もとは増上寺裏手の6代将軍家宣の父親、徳川綱重の霊廟にあったもの。
空襲の被害を免れ、焼失し再建される前の霊廟建築の名残を伝えるものです。
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 三解脱門を入ってすぐに「グラント松」と呼ばれる大きな松が聳えています。
1879年(明治12)、アメリカ第18代大統領グラント将軍が国賓として招かれ、増上寺に参拝した記念にこの樹を植えたそうです。
松と呼ぶには一風かわった大樹である。スギといってもいいだろう。
正式名称はヒマラヤスギ、杉は松科だそうで、グラントさんが植えた松なんです。
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 聖鋏観音菩薩像。
1981年(昭和56)に建立されたもの、美容師の使う鋏の供養塚があるようです。
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 境内右に入母屋瓦葺の鐘楼。
東日本最大の大きさを誇るのだそうだ。11
 梵鐘は大きい。
1673年(延宝元)に鋳造されたもので、その大きさ故に7回の鋳造を経たそうです。
再鋳の話はないようなので供出は免れたのでしょう。
300年以上を経て、今も朝夕の二回時を知らせています。
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 仏足石と聖観世音菩薩像。
仏足石は1881年(明治14)に建石されたもので、所謂仏様の足型が刻まれ、これを礼拝するもの。
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 二月の空に聳える東京タワーと大殿。
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 左手に増上寺会館と光摂殿。
光摂殿は2000年(平成12)に建立されたもので、天井には色彩も鮮やかな天井画が描かれています。
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 大殿

戦災で焼失、1974年(昭和49)に再建されたもので、室町時代に作られた本尊の阿弥陀如来、脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の像が祀られています。
地下に宝物展示室(@700円)がある。
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 増上寺は1393年(明徳4)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開かれたとされます。
三河から江戸に領地替えを命じられ、この地を治める事となった家康は1590年(天正18)に増上寺を徳川家菩提寺に定め、移行幕府から厚遇を受けることになります。
家康は晩年に「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」と言い残し、1616年(元和2)75歳で歿しました。
そのこともあり、往事の増上寺は日光東照宮を彷彿とさせる程に絢爛豪華な作りだったとされます。
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 増上寺大殿扁額と火焔太鼓太陽(右)と火焔太鼓月(左)。
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 大殿右の「安国殿」
空襲で焼失した大殿に代わり、仮本堂としていた建物。
1974年(昭和49)、現在の大殿完成際に現在の位置に移転されたもの。
2011年に(平成23)に再建されたもの、内部には黒本尊が安置され、年三回御開帳されるそうです。
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 大殿から見た「安国殿」側面。
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 安国殿右にある千躰子育地蔵菩薩と西向観音。

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 鎌倉時代、北条時頼が現在の東京タワーの建つ観音山に堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまを安置し、子育て・安産に霊験あらたかと伝えれています。
1975年(昭和50)に現在の安国殿前に遷座、1980年(昭和55)に観音堂落成。
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 江戸三十三観音札所というものがあるようで、その21番札所。
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 「千躰子育地蔵尊」。
子供の健康と成長を願って安置され、赤い帽子を被り、赤い前掛けをかけられ、その手には風車を持つ、愛くるしい表情のお地蔵さまがずらりと並んでいます。
子や孫の成長を祈る親の気持ちの数が現れています。
このお地蔵様に導かれる様に奥に進むと徳川家霊廟に続きます。
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 安国殿後方にある徳川家霊廟。
二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の歴代将軍とその側室、子供の墓所。
以前は墓所、本殿、拝殿を持ち東照宮で見られるように当時の技術の粋を結集した壮麗なもので国宝に指定されるほどだったそうです。それも空襲で被災、焼失を免れた一部も国宝指定を解除されたそうです。
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 正面の門は鋳抜門と呼ばれ、旧国宝指定のもの。
六代家宣の霊廟の宝塔の前で中門として建っていたものを再建後こちらに移設したそうです。
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 青銅製の扉には片側に5つの葵の紋が入り、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれており、往事を忍ぶ数少ない遺構。
緑青で見辛いものの、雲海にうねる龍が見て取れます。
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 霊廟前に四体の菩薩像。
港区の文化財に指定されている。
右から普賢菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩と並び、1258年(正嘉2)の作とされる。
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 熊野神社
境内に入り、右外れに鎮座する。
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 八咫烏の彫られた手水鉢。
天照大神の使いで、荒れすさぶる中で東征中に道に迷った神武天皇を導いたとされる。
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 熊野神社境内から鳥居方向の眺め。
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 御神体
熊野本宮大社 / 家津御子大神
熊野那智大社 / 大己貴命熊野那智大社
熊野速玉大社 / 伊弉諾尊。
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1624年(元和10)、当寺の第十三世正誉廓山上人が増上寺鎮守として熊野権現を東北の鬼門に勧請したのが始まりとされる。
由来には
「増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う、縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。」とある。
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 『熊野』はクマノ、ユヤと二通りの呼称があるそうで、こちらでは「ユヤ」権現と呼ばれ親しまれているそうです。なのでユヤ神社と呼ぶのが正しいのだろう。
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ユヤ神社から見た三解脱門。
神仏分離の影響だろう、神社の玉垣と大きなクスノキで寺領と分けられてはいる。
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 黒門
三解脱門の南隣りに建ち、1648~1652年(慶安年間)、三代将軍家光により寄進、建立されたとされます。もとは増上寺方丈の表門だったそうで、1980年(昭和55)に通用門として日比谷通り沿いに移築されたと云う。
以前は黒漆が塗られていた事から黒門と呼ばれるが、現在はこのような色合いです。
細部に彩色されていた痕跡が残ります、シックな黒地の門に施された鮮やかな彩色はきっと美しかったに違いない。
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 黒門を出て徒歩で右に1~2分行くと幹右側に旧台徳院霊廟惣門がある。
江戸幕府第2代将軍秀忠の霊廟の惣門として1632年(寛永9)に建築されたもので、
秀忠の戒名、台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士に因み、台徳院霊廟といわれ、戦前は本殿、拝殿、宝塔など江戸当時の伽藍があったが空襲により伽藍を焼失、唯一被災を免れたのがこの惣門。
被災前の伽藍は当時の国宝に指定されていたが、焼失に伴い指定解除、現存するこの門が重要文化財に指定されている。
現在はホテルの敷地内ですが、往事はこの門の先に伽藍が広がっていた。それもつい最近の事です。
綿々と受け継がれてきた物を消し去る事は一瞬です。
2020/02/20

大本山 増上寺
創建 / 1393年(明徳4)
山号 / 三縁山
宗派 / 浄土宗
本尊 / 阿弥陀如来・南無阿弥陀仏
住所 / 東京都港区芝公園4-7-35
公共交通機関アクセス / 都営地下鉄芝公園駅から徒歩で3分 他
関連記事 / ​久能山東照宮​、​家康お膝元徘徊
増上寺
    

COVID-19の影が見え始めた2020年2月20.21日、悩んだ末に東京遠征に出かけた。
あれから随分時間も経過し訳も分からなかった頃に比べ付き合い方も分かってきたような。

ずっと控えてきたけれど、今更感満載ですが東京の写真を纏める事にします。
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JR上野駅、出張の時には良く降りた駅、そうした時はつい〃人込みが嫌いなこともあり、出不精になり何処に行っても全く周辺散策せずさっさと名古屋に戻ってきていた。
今回は観光という事でまさにお上りさん、かみさんにお任せだ。
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 目指すはキンキンキラキラの上野東照宮(赤丸)へ拝みに行きます。
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 上野駅の西が上野東照宮が鎮座する上野恩賜公園。
チラホラ咲き始めた桜、本来の上野公園はきっと春を待ちわびた人が集う場所。
今年は異様な光景、歩道沿いは規制線が貼られ例年とは違う様相を見せていた。
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 公園に入るとすぐ左手に「おばけ燈籠」が見えてくる。
佐久間勝之が1631年(寛永8)に創建後間もない東照宮に寄進したもの。
その大きさは高さ約6㍍、燈籠の上にある笠石は周囲3.6㍍とまさにお化け灯籠と呼ぶに相応しいもの。
勝之が寄進した南禅寺、熱田神宮の大灯篭と共に「日本三大燈籠」に数えられるそうだ。
ここで忖度しておけば悪い方には転がらないか、この先数えきれないほどの燈籠が現れます。
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 「石大鳥居」
西尾市出身の酒井忠世が1633年(寛永10)に奉納したもので、備前の御影石が使用され、関東大震災でも傾く事のない程の精度で施工された。
鳥居の先に見えるのは「水舎門」。
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 「水舎門」
四脚の切妻の門はどことなく手水舎の上屋に見えますが、元は1651年(慶安4)、東照宮の造営奉行の阿部重次が奉納した手水舎そのもので、現在社殿の右にある手水舎の上屋だけを1964年(昭和34)に門として移築したようです。
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 「水舎門」
軒下や内部の斗組は手水舎の上屋には見えないほど手が掛けられています。
天井の垂木には無数の千社札が貼られています、過去のものなのか定かではないけれど、貼っていいものなのか?
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水舎門から先の参道には燈籠が立ち並ぶ。年号を見ていたら進めなくなります。 
燈籠の数は200基以上あるとも云われるようですが、大半は今の社殿が建築された1651年(慶安4年)頃の全国の大名から奉納されたものだという。
参道右手に重要文化財の旧寛永寺五重塔が聳える。
建立は1631年(寛永8)で焼失により1639年(寛永16)に再建されたもの、相輪までの高さは約36㍍という木造建築。
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 正面に金ぴかの唐門と社殿が見える。
唐門と社殿は恰も一体になって見える。
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この時期(2月)境内にはソメイヨシノに先立ちピンク色も艶やかな河津桜が彩りを与えてくれる。
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 参道右の「神楽殿」
入母屋造りの三面吹き抜けで1874年(明治7)に建立されたものと云われ、お花見の頃には神楽が奉納される。
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 手水舎は参道右と左に二つ、上は左の手水舎。
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 右の手水舎。
この上屋が水舎門として移築されという、手水鉢に清水は張られていなかったけれど、上から吊るされた巨大な鈴に視線が行く。この先の立派な狛犬を作った酒井八右衛門が寄贈したものというけれど、なぜ鈴だったのか謂れはよく分かりません。
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1914年(大正3)に建立された酒井八右衛門作の狛犬。
胸板は厚く、頭は小さめで胸を突き出した容姿は個人的には好きな。
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 上
振り返ると狛犬の先に東京スカイツリーが望める。

唐門右に銅燈籠が連なる、その数は50基、各地方大名より奉納されたもので、竿には奉納者、官職名、奉納年、虎など彫られていて、同じ様に見えるけれど宝珠や火袋など其々特徴のあるものです。
見て行くだけでも面白い。重要文化財。
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 唐門両側の銅燈籠は、内側より紀伊、水戸、尾張の徳川御三家より寄進されたものです。
手前の銅燈籠群に対し一段と手の込んだ作りが施されています。
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 「唐門」
唐破風付きの四脚門、1651年(慶安4)の造営で重要文化財に指定される煌びやかな門。
柱内外の四額面には左甚五郎の手による昇り龍、降り龍の彫が施されています。
この龍は毎夜〃不忍池の水を飲みに蠢くという言い伝えが残ります、それ程の仕上がりという事です。
下を向いている方が昇り龍と呼ばれます。

間違いを認め謝罪の行動すらできないどこぞの人達、賢い人ほど頭を垂れるものです、原稿を読むだけに下を向くのとは訳が違う、少しは見習ったらどうだろう。
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 破風の下には錦鶏、銀鶏鳥の手の込んだ透彫が施され、色彩も鮮やかで美しい。
装飾は木鼻、蟇股等に留まることなく細部まで施されています。
単に黄金色に輝く色合いだけではありません。
創建当時の匠の技を集大成したのが上野東照宮なのかも知れません。
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 唐門の左の御神木。
樹齢600年以上と云われる枝振りが見事な楠木。
幹の太さは8m以上、高さは25㍍を超すとされ、上野公園にあって最大とされ、上野の祖木といわれる御神木です。
上野東照宮が建立される以前からこの地に根を降ろし、この地を見続けている大樹。
まだまだ衰える事無く聳えています。
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 御神木から透塀沿いに石畳を奥に向かいます。
社殿を取り囲む様に「透塀」が施され、菱形の格子の先に社殿が見通せます。
塀の上側には緻密に描かれた植物や動物、下側に海や川の動物が刻まれ、その数は両面で200枚を上回目るともいわれます。 全てが色鮮やかに彩色されています。
それもそのはず平成21年~25年にかけ保存修復工事が行われ、金箔で覆った後でその上から岩絵の具で彩色が施されているそうです。
この透塀も1651年(慶安4)の建立のもので、国の重要文化財に指定されています。
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 透塀の先に赤い鳥居、その先の社は「栄誉権現社」
親しみを込め御狸様とも呼ばれ、江戸時代に大奥などに安置され先々で災いをもたらしたとされ、 大正に入り上野東照宮に寄贈以降は災いがなくなったといわれます。
「悪行狸他を抜く」という縁起の良さから、強運開祖、受験、就職、必勝にご利益があるとされ、受験シーズンになると合格祈願に訪れる受験生で賑わうそうです。縁起のいい日は5の日だそうです。
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 社全景、内部に照明で照らされ、上を見上げた姿の狸が祀られています。
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 透塀沿いの扉が開けられ、石段から社殿域に入ります。
今年の干支「子」の彫飾りへ導く案内板、それに導かれる様に左に進むことにします。
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とはいえ、目の前に遮るもののない黄金色の社殿が現れる、どうしてもそちらに視線は釘付けとなります。
権現造の金ぴかの社殿、左のこの部分が本殿で、右に幣殿、拝殿と連なります。
1651年(慶安4)造営のもので、国の重要文化財に指定されています、こうして見てくると上野東照宮は戦災や震災の難を免れて今があるようです。
戦時中の空襲で近くに爆弾が投下されたそうですが、不発に終わり難を逃れたとも。
何かを持っているのかもしれない。
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 上野東照宮は1627年(寛永4)に上野公園に創建された神社で、徳川家康(東照大権現)を神様として祀った神社。
良く知られる日光や久能山東照宮以外にも全国各地に数多く東照宮があります。
天下統一を成し遂げ長きにわたる江戸幕府の生みの親家康にちなみ、出世、勝利、健康長寿に御利益があるとされ信仰されているという。
訪れた者の目を奪う金ピカの社殿は豪華そのもの、江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されるのも当然の事でしょう。
始まりは1616年(元和2)、危篤の徳川家康の枕元に天海僧正と藤堂高虎が呼ばれ、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と家康から遺言を伝えられたとされ、天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった現在の上野公園の敷地に東叡山寛永寺を開山した事から始まります。
境内の多くの伽藍や子院に加え、1627年(寛永4)に創建した神社「東照社」が上野東照宮の起源とされます。
現在の社殿は1651年(慶安4)に三代将軍の徳川家光が造営替えをしたもので、当時容易に日光までお参りに行くことができない江戸の人々に日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したものと言われています。
参道に立ち並ぶ燈籠はこの造営替えの時に各大名が競って寄贈したもの。
御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
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 透塀に戻り今年の干支を探しに行く、ここまで親切に表示されると探す手間もありません。
透かし彫りのアケビ?の実を背景に、今年の干支の子はすぐに見つけられます。
保存修復工事のおかげで鮮やかな色彩の生き生きした子の姿を見ることができます。
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 社殿域の透塀。
下段にもびっしりと彫が施されています。
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参道からは唐門と一体となって見えていた拝殿全景。
金色殿とも呼ばれるように黄金色に輝いています。
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社殿外壁はこれでもかと云わんばかりに豪華な彫刻と彩色が施されている。
家康の遺言に「遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に「小堂」を建て勧請せよ、関八州の鎮守になろう」とあるけれど、日光東照宮はじめキンピカ派手派手の東照宮のイメージはきっと家康の趣味ではないのか知れない。
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拝殿の彫飾り、鷹も、鳩も、鶴もいる、想像の生きもの鳳凰もいる。
葵の紋もキンピカですね。
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社殿域から唐門の眺め、こうして見ると四脚なのがよく分かる。
内側の透彫に太鼓の周りに尾長鶏のような姿が彫られていますが、諫鼓鳥と呼ぶらしい。
中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたという。
それも善政のため打たれることは無かったことから、「太鼓に鶏が住みつくほど」と言う話に倣い、 天下泰平の願いを込めて彫られたとも云われているそうです。

マスクの方の官邸前に太鼓が置かれたとしたら、鳴り止む事はないのかも?
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豪華絢爛な社殿、その出口に朽ちた1本の木がある、「きささげの木」、社殿の雷除けとして植えられたものらしいが、樹齢は350年以上。
その樹皮は梓白皮と呼ばれ生薬としても使われるそうです。
災いから守られてきたその立役者は意外にこの樹のおかげなのかも。
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上野東照宮
創建 / 1627年(寛永4)
御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
境内社 / 栄誉権現社
住所 / 東京都台東区上野公園9-88
公共交通機関アクセス / JR山手線​「上野」下車西に徒歩10分程​ 
関連記事 /  久能山東照宮​ 

兵庫県淡路市多賀『伊弉諾神宮』
古事記・日本書紀の冒頭に創祀が記され、国生み神話に登場する伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀る日本最古と云われる神宮で淡路國一宮。
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 右に社号標と大きな石灯籠。
右の石灯篭には「修理」、左は「固成」と彫られ「つくり・かためなせ」、古事記の最初に出てくる言葉で、天の神様たちが伊耶那岐命と伊耶那美命に「国土をあるべき姿に整え(修理)、固め(固成)なさい」と命じ、天の沼矛を授け天の浮き橋から沼矛で下界をかき回し、沼矛の先から落ちた滴が島となり国生みの始まりとなった神話、その島がここ淡路島です。
国産み、神産みを終えた伊弉諾尊は、最初に生んだ淡路島に戻り幽宮を構え余生を過ごしたのが伊弉諾神宮の起源とされています。

一ノ鳥居は大きな石の神明鳥居、花崗岩で作られたものでは国内最大規模とされるそうで
阪神淡路大震災(1995年)で被災、その後再建されたという事です。
鳥居から石灯籠が続く真っすぐ伸びる参道、その先にニノ鳥居。

鳥居左の光景にご注目です。
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 鳥居両脇の狛犬
写真に収めた狛犬は大きさが掴みにくいかもしれませんが、前の写真で馬に乗り参拝される姿があります。数値より対比する事で大きさをイメージしてください。
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 灯篭が並ぶ参道は玉砂利が敷き詰められ、踏みしめる音は特別な空間にいる事を感じさせます。
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この右側に熊本産と淡路産のさざれ石が置かれています。
個人が抱くさざれ石は、小石が集まり固まりゴツゴツした典型的な礫岩のそのものでしたが多少イメージを改める必要がありそうです。
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ニノ鳥居から境内は広がりを見せます。
この先の放生の神池を経て、その先に正門が見えてきます。
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エリンギの様な灯篭と放生の神池に架かる神橋。
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 境内の伽藍配置図、右(南)から左(北)に進んでいきます。
エリンギのある放生の神池は配置図の中間にあたります。
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 神池の左に伊弉諾神宮由緒書き、右後方が手水舎になります。
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 切妻四脚の手水舎。
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 手水鉢に使われている石は大阪城築城に使われる目的だったようで、幕末の頃に郡家浦に沈んでいたものを引き揚げて鉢にして奉納されたものという。
その鉢には龍ではなく亀が清水を注いでいます。
神池に亀や鯉を見かけます、それは神事として病気平癒祈願に鯉を放ち、快癒に亀を放つ習慣があったことからで、そうした事もあるのでしょう。亀です。
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 放生の神池と水の神を祀る延壽之宮。
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 正門全景。
以前は随神門で三棟造りだったようですが、1883年(明治16)に建て替えられた檜皮葺の四脚の門です。

 門の手前は東西に脇参道が続きます。
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 正門から入母屋の拝殿の眺め、拝殿前を守護する狛犬は台座含めて身の丈程の大きさですが年季が入っているようです。
愛くるしい表情をしていますが、角も備えた小さくて頼もしい面々。

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 拝殿と扁額。
やたらと幟や神社庁推しの議員のポスターが目に付くのは気のせいか。
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 上
拝殿東から拝殿本殿の眺め。

境内から眺めた正門、授与所は左でその脇には百度石が建っています。

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 拝殿右に御神木の楠木、夫婦大楠と呼ばれ樹齢は900年を超えるそうだ、元は二株だったものが一株になり、そうした事から夫婦円満、子育て、長寿にご利益があるとされます。
県の天然記念物に指定されています。
鳥居の先の社は岩楠神社。
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 上
一間流造の岩楠神社
檜皮の様に見えるけれど色目が違い、檜皮葺ではないかもしれません、個人的に銅葺に比較すると好きな趣です。
この地方では初宮詣、七五三、神前結婚式、安産祈願のあとに詣でる神社のようです。
祭神 / 蛭子命

伊弉諾夫婦楠解説板
この樹は成長が早いのか、各地で見かける巨木に楠木が多い気がします。
枝の張りが良く、心地いい木陰を提供してくれる。
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 上
皇大神宮遥拝所。
この遥か先がお伊勢さん。
何処に行っても大体こっちが北で生きている者として、この方向感覚には頭が下がる。

東門
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 上
淡路祖霊社。
1875年(明治8)に創祀され、この地の英霊と神社祀職が祀られている。

拝殿右の神馬像と神輿庫。
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 上
神輿庫には摂社の濱神社の御旅所で毎年4月22日の例祭に使われる神輿が収納されているという。

黒光りした碑が建つ頭髪感謝之碑。
髪は神にも通じるという事から建てられたものらしい。
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 上
本殿右に位置する左右神社。
日が建っていないのだろう吹き替えられた屋根が綺麗。
伊弉諾尊の左目と右目から生まれた、天照大神と月読尊を祀り、目の病を改善してくれると云われ。
老眼とやや白内障に歳を感じる自分としてしっかりと拝んでおいた。

左右神社の後方にある、鹿島神社・住吉神社。
鹿島神社 祭神 / 建御雷神・経津主神
住吉神社 祭神 / 住吉三神
農業と武運長久を祈願し祀られたもの。

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 本殿裏の参拝所。
拝殿より間近で参拝することができます。
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 竈神社・根神社
酒造・醸造の守護神で災難除けと火伏の神として崇められている。
竈神社 祭神 / 奥津彦命、奥津姫命 竈の神様
根神社 祭神 / 須佐之男尊
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 本殿後方から幣殿方向の眺め。
檜皮葺で鰹木は6本、外研ぎの千木が施された三間流造で神門は菊紋。
本殿は1868年(明治元年)~1887年(明治20)にかけて伽藍整備が行われ、本殿は1876年(明治9)に竣功したもの。
この本殿の後背には、伊弉諾大神の神陵があり神代から禁足でした。
本殿竣功に続いて、神陵の墳丘を覆うように二重に基壇を設け、竣工後間もない本殿を神陵の真上に移築したのが現在の姿。1879年(明12)のことです。
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 少し拝殿方向に進むと幣殿中門と幣殿、本殿を見通すことができます。
本殿屋根は傷みが来ているのか補修痕があり痛々しい。
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 拝殿から幣殿本殿の眺め。
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 上
拝殿左の祓殿の眺め。

同じ場所から正門と東門の眺め。
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 上
参拝を終えて正門を東脇参道から西方向を眺める。

同東方向の眺め。
この東西の参道、秋祭りはここが馬場となり、流鏑馬神事が行われる。
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 神池に架かる赤い橋を渡り土産物屋方向に向かいます。
神池の傍に右の石灯篭(年号不明)と左上の石碑があります、碑には書かれた文字の内容は読み取れませんでした。
左下は陽の道しるべ
陽時計の先にある石碑には日本の国土が描かれ、伊弉諾神宮のある淡路島を中心に方位が描かれ、夏至と冬至の日の出と入りの方角に線が引かれています。
夏至の日の出は諏訪大社、日の入りは出雲大社、冬至は那智大社から登り、高千穂神社に沈むのだと解説されています。
しかも北は出岩神社、東に藤原京と伊勢内宮、西は対馬の海神神社が伊弉諾神宮を中心とした線の延長にあたるそうだ。
星や陽の運行から割り出した根拠のあるものの様だ、これは進んだ技術と知識に基づく航海術そのもの。
この神社配置が意図したものか偶然なのかは知る由もないけれど国造りの始まりの地、不思議があってもいいのかも知れない。
大体あっちで生きている自分とは明らかにできが違う。
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おや?
帰りも一緒の様だ、茫然とお見送りする子供の姿が印象に残る伊弉諾神宮でした。

『伊弉諾神宮』淡路國一之宮
創建 / 不明
祭神 / 伊耶那岐命、伊耶那美命
本殿 / 流造

境内社
 延壽之宮 祭神 / 不明
 岩楠神社 祭神 / 蛭子命
 淡路祖霊社 祭神 / 当地英霊、神社祀職
 左右神社 祭神 / 天照大神、月読尊
 鹿島神社・住吉神社 祭神 / 建御雷神・経津主神・住吉三神
 竈神社・根神社 祭神 / 奥津彦命、奥津姫命 ・須佐之男尊
 
住所 / ​兵庫県淡路市多賀740
関連記事 / 阿波國一ノ宮 『大麻比古神社』

御朱印
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徳島県鳴門市大麻町
南に四国山地と北に讃岐山脈に挟まれ、東西に長い徳島県、その間を吉野川がもたらした徳島平野が広がります。
阿波国一宮大麻比古神社が鎮座する大麻町は旧吉野川の左岸に注ぐ坂東谷川沿いにあたります。
吉野川は古くから氾濫を繰り返す暴れ川で知られ、名西群石井町で別宮川と分流し紀伊水道に注ぎます。
この別宮川を1672年(寛文12)治水や新田開発を目的に開削、蛇行していた吉野川の流れを主に別宮川へ導いた事から、やがて別宮川を吉野川、もともとの吉野川は旧吉野川に改称されました。
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 高松自動車道の板野ICから県道12号線、県道41号線を経由、ICから15分程走ると大麻比古神社の大鳥居に到着です。右に社号標と小さな石鳥居があります。

朱塗りの大きな鳥居は2002年に再建された鋼管製のもので、高さは14.6㍍と巨大なもの。
鳥居から先の参道には灯篭と並木が延々と続きます。
灯篭は主に2004~2005年にかけて氏子崇敬者により寄進されたものという。
両側の楠木の並木、以前は樹齢を重ねた黒松並木が続いていたそうです、それも害虫により枯死し、その後に楠木が植えられ現在の並木を作っています。
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 鳥居扁額
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 大鳥居の右側の小さな鳥居は「天神社」
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 鳥居を過ぎ左右に参道が分かれ、左手に大麻比古神社末社「天神社」が鎮座。
手前左に石の社が見えます。
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 「五神名地神塔」
右に社号標らしき五角柱の石標と手前に祭壇の様な岩がある。
石標には大己貴命、少彦名命、天照大神、倉稲魂命、埴安媛命と農業を守護する神々の名が刻まれています。「五神名地神塔」と呼ばれ、地元では親しみを込め「地神さま」として呼ばれるそうです。
ここ徳島の村々にはこうした塔は多くみられるそうです。
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 境内左の天神社へ
上の写真の石の社は大麻比古神社の末社「野神社」
農業の神、鹿江比賣命を祀る。

大麻比古神社末社の「天神社」拝所全景
学問の神、菅原道真を祀る。
解説板には大麻比古神社の神紋の麻紋が付けられています。
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 本殿全景
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 社頭を守護する狛犬
駐車場は?、それどころか社殿すら見通せない。
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 大きな狛犬、垂れ耳で玉を咥えた均整の取れた面々。
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 上
参道脇の光景、緑の中に名も知らぬ白い花が咲き誇っていました。
路肩に一旦車を止め、かみさんを残し社頭を収めてきましたが、再び駐車場に向け再出発。

標高538㍍の大麻山は大麻比古神社の御神体でもあり、7合目から頂上にかけては伐採される事はなかった。
そのためこの地の植生がそのまま残るそうです。
麓から頂上までは2時間程の工程で、石段と坂道が続く修業の場であり、低山登山の足慣らしとして訪れる人は多いようです。
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 大鳥居から真っすぐに伸びていた参道、一旦左に折れて再び真っすぐに続いています。
やがて正面に赤い欄干の橋が見えてきます。
橋の左手に大きな参拝駐車場があり、ここに駐車しここからは徒歩です。
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 旧吉野川の支流で坂東谷川に架かる祓川橋、ここを渡り左の杜に向かいます。
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 橋を渡るとニノ鳥居と正面に石段が現れる。
その先に巨大な御神木が聳えています。
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 石段手前の狛犬
彫の深い彼らの足元は子や玉ではなさそう。
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 吽形の前足の下に老人がタバコでもふかしているような光景が彫られています。
社名に大麻、神紋は麻まさかとは思うが、それが何か写真からは分からない。
なんだろう?
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一段上がった右に手水舎・手水鉢。
中央の盃?に星形の麻紋が施されています。
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 御神木の楠木
樹齢千年を超えると云われ鳴門市指定天然記念物、その高さは22㍍、直径は8㍍を超える。
まさに御神木の相応しいもので、そこには何か不思議なものが潜んでいそうな雰囲気が漂う。
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 境内左手に社務所と裏手に「水神社」、右手に古神札納所。
水神社は帰りに参拝と決めていたが、すっかり忘れていた事に今頃気づく。
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 注連縄鳥居の先に社殿が広がります。
正面の拝殿と右に祈祷受付左に授与所。
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 入母屋銅葺屋根の平入の拝殿は庇に唐破風と千鳥破風が施されたもので、1970年(昭和45)に再建されたものだという。
祭神は大麻比古大神と猿田彦大神を祀ります。
創建は不明。
927年に出来上がったとされる延喜式神名帳の中で、阿波国50座の内の大社として大麻比古神社の名が記されていることから、1100年前には既に阿波國を代表する神社であったようです。
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 拝殿前の狛犬
境内では一番古いと云われ1762年(宝暦12)のもの。阿形(右)吽形共に個性的なフォルム。
ヘルメットでも被ったような頭部、吽形は角付きで全体的に細かな彫はされていない。
小さいながらニヤケタ表情が印象的です。
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 拝殿右から神庫(下の写真)を見ながら本殿方向に向かいます。
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 上
本殿後方から拝殿の眺め、本殿は流造の様です。
現在の本殿は
1880年(明治13)に建て替えられたようです。

本殿後方の拝所。
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 上
末者「豊受社」、祭神は豊受大神。

「豊受社」の右にある小さな石の社。詳細は分かりません。
 手前は一部が欠損しはっきりしないけれど狛犬の様に見える。
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 「山神社」

豊受社の左に鎮座し、その名が示すように山を司る神、大山祇神を祀る。

「中宮社」
祭神は不明のようですが、神宮式年遷宮古材を再利用し1974年(昭和49)に建替されたもの。
この辺りにやたらと「危険 猿出没注意」の看板が建っています。
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 中宮社から右手に進むと「奥宮遥拝所」がある。
大麻山山頂の奥宮峯神社に登ることなく参拝できる。
今回は時間の制約がありここで参拝としよう。
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 「心眼の鏡池」とそこに架かる眼鏡橋。
約75年前の当時この辺りには第一次世界大戦で捕虜となったドイツ兵の収容所があり、捕虜達は故郷を思い、ここに池を掘りこの眼鏡橋を架けたのが始まりだそうです。
この池から近くの谷筋にはドイツ橋も架けられた。
この近くにはドイツ館もあり、ドイツと日本の友好の懸け橋ともなっているようです。
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 「ドイツ橋」
6~9年の長い捕虜生活の中で彼らは地元に乳製品の製法や土木技術等のドイツ文化を残していったそうで、このドイツ橋は帰国を前に記念として彼らが残していったもの。
アーチ状に組まれた石組は美しいものがあるけれど、現在は通行が規制されていました。

橋の先に見える赤い鳥居は、そこから石段を上ると丸山神社と丸山稲荷に続きます
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鳥居の左の石の社は「鳴門神海五国龍王神」

丸山神社と丸山稲荷はこの石段を少し登った尾根に祀られています。
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 尾根に出て左が「丸山稲荷社」
祭神は商売繁盛の神、倉稲魂命を祀る。
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 稲荷社から右に石鳥居があり、その先が「丸山社」
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ここを守護する狛犬達。
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 丸山社覆殿全景と社。
祭神は丸山神。
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 本殿西側から駐車場に戻ります。
阿波国を開拓し麻布や木綿産業の礎を築いた阿波の忌部氏、その祖神である天日鷲命の御子神を祀り、1000年の樹齢を誇る大楠を育み、おふわさんと親しまれている大麻比古神社は徳島の総鎮守としての風格を備えた神社、そんな印象を受けました。

阿波國一ノ宮 『大麻比古神社』
創建 / 不明
祭神 / 大麻比古大神と猿田彦大神
本殿 / 流造

末社
天神社 祭神 / 菅原道真
野神社 祭神 / 鹿江比賣命
豊受社 祭神 / 豊受大神
山神社 祭神 / 大山祇神
中宮社 祭神 / 不明
丸山稲荷社 祭神 / 倉稲魂命
丸山社 祭神 / 不明
未参拝
水神社 祭神 / 水波女神
西宮社 祭神 / 天照大神
 
住所 / ​徳島県鳴門市大麻町板東字広塚13
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