尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

カテゴリ: 少し遠出

11月10日、車中泊で越前町の「越前カニ祭り」に行ってきました。

11月6日越前ガニ漁が解禁以降、荒天で漁ができず、8日から出漁しカニのシーズンが到来。
それに合わせて越前町の「道の駅 越前」で「越前カニ祭り」が開催される。
開催日は11月11・12日、11月18・19日の土日。

振舞いはなく朝市的な催しですが、地元の店舗が道の駅にブースを連ね、カニ汁やカニ飯など味わえる。
事前の案内では「開催」とあったので、前日の10日にのんびりと下道だけで越前町の現地に向かう。
移動日は10日は雨、寒気が南下し天候は下り坂。
紅葉の時期いろいろと立ち寄りスポットの計画はあったが、色付きが悪くどこにも立ち寄らず越前に直行し温泉に浸かる事とした。
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名古屋を10時を過ぎに出発、休憩場所の滋賀県長浜市の道の駅「浅井三姉妹の郷」に12時30分着。
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関ケ原から長浜まで車窓から眺める山々の紅葉は車を止め眺めよう、そんな気にはならなかった。
ここから国道8号線で敦賀に向かい、市内の地元スーパーで晩御飯と酒を買い求め、海岸沿いの国道305号線と漁火街道を経由し「道の駅 越前」に16時に到着。
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道の駅から越前海岸方向の眺め。
雨は降ったり止んだり、低気圧が南下していたが、この時期にしては比較的穏やかで風もさほどではなかった。
日本海から押し寄せる鉛色の雲は山に阻まれ、この時期いつきても雲が滞留するイメージしかない。
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若狭方向の眺め。
時間潰しのため、竿と疑似餌を忍ばしてきたものの、消波ブロックと堤防が延々と続く海岸線に気軽に楽しむ場所はないようです。
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「道の駅 越前」全景。
道の駅に近い駐車場は結構埋まっていましたが、道の駅から少し離れた駐車場は閑散としています。
イベント前日に合わせ前泊の車も見られ、かみさんの意向から我家もここに駐車。
トイレは21時まで道の駅の館内施設が利用でき、それ以降は向かいの「越前ガニミュージアム」駐車場トイレが利用できる。
左方向のすぐ近くに24Hのコンビニがあり重宝しますが夜間のトイレ利用はできません。
また駐車場の夜間照明が皆無なので、夜の移動の時はライトが必要。
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一息入れて道の駅へ、そこで見かけた観光マップ。
これから冬本番を迎えると海岸線沿いの道路は雪と波の影響を受け思わぬことが起こります、厳冬期に軽い気持ちで訪れるのはやめたほうがいい。
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道の駅の前にある「越前ガニミュージアム」、隣接し海産物の売店、屋外トイレの施設がある。
道の駅では明日のイベントに向け仮設テントの設営に大忙し。
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かにの漁期はズワイが11月6日から翌年の3月20日まで、セイコが12月31日まで、今回はこのイベントの他にセイコガニをふんだんに使ったセイコガニ丼を食べるのが目的。
以前は梅浦漁港付近に予約なしでも食べられたが、今は大半が事前予約が必要。
今回もそこを目当てに予約せず来た、駄目なら道の駅でも食べられます。
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敦賀が買い求めた地元の食材。
漬物にサラダ、麩の辛し和え、他に左上の「フジバーグ」。
これはご当地フードらしく、試しに一つだけ買ってみたがこれが美味しい。
肉は豚と鶏のミンチで牛のように重くなく、甘辛タレがとても新鮮な感覚、軽い食感で病みつきになるもの。
へしこ刺身は少し塩味が強いが、癖のある鯖が好きな方なら酒の肴にマッチする。
地酒も買い求めましたが写真を撮り忘れてしまった。
メインはちらし寿司、これで498なら安い。さあ一次会をはじめよう。
TVは受信できますが、選択肢は少ないか。
会場の準備は万端、少し早めに晩御飯を食べ、温泉で体を温めて明日に備えよう。
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道の駅併設の露天風呂「漁火」は料金520円で内湯とサウナ、日本海を望める露天風呂がありドライヤーも完備、街のスーパー銭湯を思えば安価。
泉質はナトリウム泉で肌がすべすべになるいいお湯です。

車中泊では電気敷布も持参しましたが、寒さはなくマットとシュラフで快適に過ごせました。
夜間になって雨脚は強くなり、コンビニへビールを買いに行きましたが、外は風も強くなり本当にこれで開催できるのか多少心配になる。しかし雨天決行ということだった。
夜中は深夜に到着した車のエンジン音、車が揺れるほどの強風と時折屋根に叩きつけるほどの強い雨、堤防の向こうでは重々しい波が打ち寄せ砕け散る音。
ほんとやれるのかぁと考えながらも寝落ちして翌朝を迎える。
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翌朝雨はあがる。
道の駅の様子を見に行くと多くのテントがたたまれ看板には「本日中止」の貼り紙。
雨はあがってもこの風では……。
前日準備していたあのテント、夜間たたみに来ていたようだ。
ここで大きく計画変更を余儀なくされる、取り敢えずここにいても何も起こらない。
セイコ丼は捨てきれないが時間が早すぎる、ここは帰りに道に立ち寄る予定の越前市大滝町に鎮座する岡太神社・大瀧神社へ向かう事にした。
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一山超えて越前市大滝町の岡太神社・大瀧神社まで小一時間。
五箇地区と呼ばれるこの辺りは、1500年の歴史を持つ越前和紙の産地として知られる地域。
目的地の岡太神社・大瀧神社はこの地区の一番奥まった場所に鎮座します。
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越前市大滝町13-1、岡太神社・大瀧神社。
大徳山の麗に鎮座し、苔と杜に包まれた下宮とそこから御神体の大徳山を登った頂に鎮座する上宮を持つ神社。
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里には両部鳥居の一ノ鳥居と境内入口のニノ鳥居を構えている。
和紙の里だけにマンホールにも和紙を漉く女性の姿がデザインされていた。
この岡太神社・大瀧神社は1500年前、この地に紙漉きをもたらした紙の祖神とされる川上御前をお祀りした岡太(オカモト)神社が起こりとされ、延喜式神明帳の式内社にも記されている。

大瀧神社は、推古天皇の時代(592~638)に大伴連大瀧が神様の降臨を請う「勧請」をおこなったことが起源とされ、養老3年(719)、泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒大権現(オオタキチゴゴンゲン)を建立したという。
その際、別当寺として大徳山大瀧寺(後に破却)が創建され一時は48坊を有し社僧6700名を擁する一大勢力となったが、信長によりそれら焼き払われ一時は衰退したが秀吉・徳川、松平氏と保護を受け社殿は再興されていった。
後の神仏分離により大瀧兒大権現は祭神を国常立尊と伊弉諾尊とする大瀧児(オオタキチゴ)神社に改め、明治8年郷社に列せられ岡本村の總社氏神となり社号も大瀧神社となり、昭和3年県社に列せられ、現在の岡太神社・大瀧神社となった。

独創的な社殿を持つ神社で以前から訪れたいと思いながらも、近くまで来るのだが機会に恵まれなかった。写真はニノ鳥居、鳥居の両脇の大銀杏は落葉の時期を迎え参道を黄に染めていた。
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岡太神社・大瀧神社社殿全景。
上宮の岡太神社と大瀧神社の遥拝所の位置づけで社殿を共にする。
従って拝殿の扁額も両社の名が記されています。
こうして見る下宮の社殿は、所謂拝殿の部分は入母屋妻入りの唐破風向拝が付くもので、後方の一間社流造で千鳥破風と唐破風の連なる本殿がひとつに繋がった実に複雑な造りで、屋根の連なりが実に美しいもの。
紅葉を少し期待するが、周囲の樹々には常緑樹が多く、そうした環境ではないようですが、境内至ると櫓で見かける苔の美しさはなかなかのもの。
神門から左手の大徳山山頂に続く上宮へも向かいました、独りで行くから車で待ってと云ってはいたが、かみさんも運動がてら上宮に向かうとのこと、中ほどの鳥居を過ぎた辺り、20分程登った行程の半分ほどで上宮参拝を諦め下山。
そうさせた背景には熊と猿の出没が脳裏をよぎる。
行き交う人も皆無、見通せない参拝道では大声や拍手も打つも、武器となるものを何も持たず、一緒に登り始めたかみさんの事を考えると、この時期にこれ以上深入りするのは避けた方が賢明と考えた、「戻ろう」と振り向くと、かみさんの手にはしっかりと木の枝が握りしめられていた。
上宮までの所要時間を示す看板が参拝道になく、これだけは是非とも整備して欲しい。
未練が残るがここで岡太神社・大瀧神社を後にして、新在家町の「越前和紙の里 パピルス館」に向かい御朱印を頂きに行く。
岡太神社・大瀧神社
所在地 / 福井県越前市大滝町13-1
御朱印は越前和紙の里 パピルス館で頂けます。

さてここで、どうしたものか。
上宮に参拝できず悔やまれるのに、ここまで来てセイコ丼を食べなくて帰るのは何しに来たのか分からない。
もう一度越前町に向かいセイコ丼を探し求める事にした。
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丁度昼時に越前町に戻るが、どこを訪れても満員で長蛇の列、予約なしで食べるのは困難だった。
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晴れているのか、曇っているのかよく分からない天気、風は今朝がたに比べれば収まっていた。
結局は道の駅の「お食事処 かねいち」の20番待ちのウェイティングボードに名を連ね、車に戻り横になってその時を待つ。
30分ほどして様子を見に行く、あまりの待ち時間に諦めて帰った方が多いのか意外に早く呼ばれそうな雰囲気。
結局1時間待ちで席に座る事が出来セイコ丼(¥5.500)をオーダー。
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待望のセイコ丼。
まったりした内子に外子とカニ身がふんだんに盛られこの時期に是非とも食べたい旬の味。
これで越前まで訪れた甲斐があったというもの、満足の一杯にお腹も一杯。

さて食後の昼寝と行きたいがそうもいかない。
15時、来た道を買い物しがてら帰路に付く。
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途中、長浜の地元スーパーでサラダパンや赤こんにゃく、麩に野菜など買い求め、上の「湖濱純米」を買い求めて家に辿り着いたのは19時。
走行距離402㌔、重たい四駆で下道ばかり走ってliter9㌔はあの車にしては上出来だ。

中途半端な時間の昼食だった事もあり、この酒と現地で仕入れた乾き物の晩酌でお疲れ様の乾杯、ひとまずセイコ丼も食べる事が出来満足の二日間でした。

今週もイベントは開催されますが、風が有無が開催の可否を決めるようです、現地の天候を考えてお出かけください。
イベント詳細は「​越前かにまつり・越前がに朝市2023​」を確認する事をお勧めします。
道の駅越前 
所在地 / 福井県丹生郡越前町厨71-335-1
訪問日 / 2023/11/10~11

車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」からの続きとなる群馬県二日目。
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道の駅赤城の恵で迎えた二日目。
昨晩は結構車中泊していた車も、既に多くが走り去って行ったようで、爆睡していた我家は出遅れ感があるか。
二日目の最初の目的地は群馬県太田市世良田町に鎮座する「世良田東照宮」を目指します。
その前に、ここから数分先にある吉野家の朝定食を食べて一日がスタートします。
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8:16
食事を済ませ、道の駅から通勤時間で混みあう国道17号線を50分程南下。
利根川左岸の田園地帯が広がる世良田町の新田荘歴史資料館の駐車場に到着。
ここに車を停め世良田東照宮と徳川町の東照宮の二社を巡ります。
上は太田市歴史公園マップ。
園内には新田荘歴史資料館、世良田東照宮があり、参拝に訪れ駐車するにはありがたい。
資料館には徳川家と所縁のある「長楽寺」や「世良田東照宮」に伝わる文化財はじめ、新田荘の歴史を伝える資料等が展示されています。
下は資料館前の新田義貞像。
稲村ヶ崎で剣を海に投げ、海の神様に祈願してから、海岸から鎌倉へ侵入して、倒幕をはたした故事に基づく銅像。
新田荘歴史資料館
所在地 / 群馬県太田市世良田町3113-9
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世良田東照宮小黒門から境内の眺め。
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門の前の通りから右を眺めると東照宮の別当寺を務めた長楽寺の太鼓楼と三仏堂も近い。
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東照宮境内から社殿の眺め。
当日は本殿が修復作業中で全景を見ることが出来ず残念でしたが、さすが東照宮、拝殿に施された左甚五郎の彫飾りや狩野探幽の彩色は見応えがありました。

世良田東照宮 由来
寛永21年(1644)、三代将軍徳川 家光は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。
奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽く されました。
東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と誘われました。
御祭神
主祭神 徳川家康 (東照大権現)
東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。
配祀
菅原道真公(学問の神) 、倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 、須佐之男命(愛、農業の神)、大穴牟遲命(招福、医療の神)、誉田別尊(安産、育児の神)、伊弉冉尊(結婚、火防の神)、火産霊命(車、縁結びの神)、建御名方神 (スポーツの神)、豊城入彦神(開運の神)。
祭事
一月元日 初詣
1月4日 除魔神事 午後1時
1月5日 御釿始め式 午後一時
4月第一日曜日葵祭り 午前十時~
4月17日例祭、10月17日春季祭
11月 七五三祝祭

太田市世良田は徳川発祥の地と云われ、町名にも徳川町と残る程徳川家と所縁のある地。
徳川氏の祖は上野国新田郡を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされ、平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となりました。
新田義重は、仁安3年(1168)に世良田などの開拓の地を四男義季に譲りました。
新田義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷(太田市尾島町)に住んで徳川(得川)を称し、徳川義季と名乗りました。
これが徳川氏発祥の始まりと言われています。
その後、義季の子孫である親氏は、父有親とともに諸国を放浪し、三河松平郷(愛知県豊田市)に住んで松平を称し、松平親氏と名乗りました、その松平親氏の子孫が松平家康で、後に徳川氏を名乗り徳川家康となります。
そうしたことから世良田東照宮は歴代の将軍から厚遇されてきました。
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大鉄燈籠。
上野国総社藩主の秋元長朝が明暦4年(1658)に寄進した鉄燈籠で、他にも宝暦から天保の元号が刻まれた石灯籠が見られます。

世良田東照宮
創建 / 寛永21年(1644)
祭神 / 東照大権現
境内社 / 稲荷社、日枝社
拝観料・開場 / 300円・9:00から
道の駅赤城の恵から車移動で世良田東照宮 / 移動時間50分程
所在地 / 群馬県太田市世良田町3119-1

これだけゆっくりと参拝し拝観料は300円とは懐に優しい。
時間が10:00という事もあるのか、意外に参拝者は少なく、何より大陸からの団体客に出会わなかった。

次はここから南西の徳川町に鎮座するもう一つの東照宮に向かいます。
世良田東照宮から徒歩で20分程という事なので見渡す限りの葱畑が続く道を歩き出しますが、あまりに単調で日差しを遮るものもなく、道半ばで引き返して車で向かいました。
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10:05
駐車場から徳川町東照宮までは車で5分程、永徳寺前の縁切寺万徳寺遺跡駐車場に駐車し社頭までは徒歩2分程、最初っから車移動だったか。

徳川東照宮社頭全景。
利根川支流の早川右岸に鎮座し、社地左は資材置場、右は小さな公園に挟まれています。
公園の脇に家康が描かれた尾島かるたが掲げられていました。
「徳川氏発祥の地尾島町
江戸幕府将軍徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれています。
新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。
義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。」とあります。

社頭から見る社殿は神社と云うより寺の雰囲気が漂う。
左の石標には「徳川義孝公館址」とあり、右の社標には「●●東照宮」と刻まれていました。

かつてのこの辺りは上野国新田郡得川郷と呼ばれる徳川家発祥の地とされ、徳川義孝の館があった場所。
この屋敷址は後に正田家が所有し、そこに建てられたのが徳川東照宮とされ、代々正田家により護られて来たようですが、明治政府の神社合祀令により東照宮の社地は正田家から徳川郷に移り、郷内の神社は世良田東照宮に合祀されたようです。
現在の入母屋瓦葺の拝殿は、車を停めた向かいに鎮座する永徳寺から大正3年(1924)に権現堂を移築し拝殿としたものとされます。
世良田東照宮と徳川東照宮は葱畑を隔てお互いに見える距離にありながら、随分と境遇は違うようです。
御朱印は世良田東照宮で頂けるようです。

徳川東照宮
創建 / 天正19年(1591)
祭神 / 東照大権現
所在地 / 群馬県太田市徳川町387-1
世良田東照宮からアクセス / ​徒歩20分​、​車で5分
10:30
群馬県の徳川東照宮を後に最終目的地埼玉県の「父父夫國総鎮守 秩父神社」の最寄りある「道の駅ちちぶ」へ向かいます。
​移動時間は約70分程。
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道の駅へはほゞ12:00到着。
ここで一息入れ、売店で土産を探し求めながら、こちらの名物?豚みそ丼本舗で昼食を予定していました。
ところが歩き足りなかったのか、かみさんの御楽しみだった豚みそ丼はとても食べられる状態ではなく、軽く蕎麦を食べる事に変更。

「道の駅ちちぶ」周辺には商業施設もあり、車中泊には便利かもしれないが、目の前を国道140号線が走るので夜はどうなんだろう?

駐車場脇の「ちちぶの水」、昼寝の時間も迫りボンヤリしてきた意識を秩父の冷たい湧水がリフレッシュしてくれる。PET容器持参で汲みにこられるようです。
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そば処入船。
道の駅から秩父鉄道秩父駅方面に向かい、秩父神社社頭を通り過ぎて約10分歩きます。
左手の風情ある佇まいの通りに面し「そば処入船」がある。
既に開店しており、第一陣が入店した後なんだろう、店舗前に列は見られずラッキーと喜んだ。
しかしウェイングリストを見ると結構待ちがあるようで、取り敢えず記名を済ませ店舗前で座っていると、次から次に客が訪れ始め、長椅子では足りず立って待つ状態に。
30分程して店内の奥の座敷に通され山くるみそば¥900とまいたけ天ぷら¥800、くるみ天ざるそば¥1700をオーダー。
30分程して、山くるみそばとまいたけ天ぷらが出て来た。
やくみの下のくるみだれにたっぷり蕎麦を絡ませ味わう、口の中は出汁の効いた濃厚な胡桃と蕎麦の風味が広がり、なかなかいける蕎麦、くるみだれに蕎麦湯を入れても胡桃の風味は負けていない。
舞茸の天ぷらもカラッと揚げられサクサクした食感で美味しかった。
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趣のある入船の店舗は「登録有形文化財秩父銘仙出張所二」として登録されています。
大正時代から昭和時代初期にかけて、この地は秩父銘仙の取引で賑わい、近在近郷の織物工場の製品取引をするための出張所が建ち並んでいた。
木造2階建、切妻造、瓦葺、平入、建築面積88平方メートルで、正面2階軒を出桁造、1階は下屋を設ける。
正面は真壁造で外観は左右対称の2戸1棟形式で、当時の商業地区の景観の一端を今に伝えている。」

秩父銘仙とは、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源とされ、山に囲まれた秩父の地形は、稲作に適さないことから養蚕業が盛んとなり、商品にならない繭を使い「太織」と呼ばれる野良着を生産、それが評判となり鬼秩父、秩父銘仙と呼ばれるようになり、庶民の普段着として重宝され、往事は住民の7割近くが繊維業界に携わっていたようです、番場町にはこうした出張所は3棟現存するようです。

そば処入船
所在地 / ​埼玉県秩父市番場町1001
13:40
多少時間を費やしてしまったが最後の目的地秩父神社に戻る事に。
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父父夫國総鎮守 秩父神社社頭全景。
秩父鉄道秩父駅から徒歩10分ほどの秩父市番場町1に鎮座する古社。

秩父神社の創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀国造本紀』によると、第10代崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされ、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
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上は栞にある境内マップ。
現存する権現造の社殿は、天正20年(1592)に徳川家康が寄進したもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。
毎年12月3日に行われる例祭は秩父夜祭として、国の重要無形民俗文化財と重要有形民俗文化財に指定され、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる。
訪れた時は本殿北側の壁面が装飾の補修中で職人により漆の剥離作業が行われていました。
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神門から拝殿の眺め。
参拝客は多いが途切れるのを待っていれば人の映り込みの少ない写真も撮れなくもない。

拝殿正面全景。
入母屋銅葺屋根で千鳥破風と唐破風向拝が施された拝殿。
秩父神社は永禄12年(1569)に戦火で焼失、家康により天正20年(1592)に再建されますが、社殿全周に施されている彫刻とその彩色の美しさが見所といってもいい。
拝殿正面の四面に描かれた虎の彫刻「子宝 子育ての虎」は、左甚五郎が家康の威厳と祭神を守護する神使として彫ったものとされます。
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拝殿両側面の装飾。
左甚五郎による繋ぎの龍、子育ての虎、お元気三猿などの彫りもの一つ〃に物語があり、それら見ているだけでも時間は過ぎていきます。
父父夫國総鎮守 秩父神社
創建 / 崇神天皇10年
祭神 / 八意思兼命(政治・学問・工業・開運の祖神)、知知夫彦命(秩父地方開拓の祖神)、天之御中主神(北辰妙見として鎌倉時代に合祀)、秩父宮雍仁親王(昭和28年に合祀)
所在地 / ​埼玉県秩父市番場町1-3

秩父神社を14:30に後にして「道の駅ちちぶ」で鬼胡桃などの買い物を済ませ350㌔の帰路につく。
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世良田東照宮(右)と父父夫國総鎮守 秩父神社の御朱印。
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名古屋にはとっぷり日が暮れてしまうが、帰りも付かず離れず法定速度+10km/hの定速運転でひた走る。二日間の全走行距離790㌔、使用燃料80literと年代物の車ながら上出来の結果でした。

訪問日 / 2023/05/11~12
二日目走行ルート​ 

5月11日~12日にかけて、久し振りに車中泊で一之宮を巡って来ました。
かみさんが温めていたプランのひとつで、上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社を巡る総走行距離は約800㌔の行程です。
名古屋を5時に発ち一路中央道をひた走り、岡谷ICで降りて立科、軽井沢方面に向け山越えの道を走る。
初日の第一目標上野国一之宮貫前神社を目指しました。
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高速は工事規制もありましたが、全体の流れが法定速度+10km/hの巡行速度で、十分な車間距離を保つ流れだったのでブレーキを踏む必要もなく運転のストレスは少なかった。
10:00
国道142号線沿いの「道の駅 女神の里 たてしな」に到着。
一面田畑が広がり浅間山が望める長閑な道の駅で、地元の野菜や珍しい山菜、苗などが販売されています。
こちらの新トイレはとても綺麗、女性には受けがいい事間違いなし。
国道は交通量はさほどでもないがトラックの往来があり、車中泊だと音が気になるか。

「道の駅 女神の里 たてしな」
所在地 / 長野県北佐久郡立科町茂田井2480
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11:15
奥多摩の山々を見渡す富岡町の山間に鎮座する上野国一之宮貫前神社に到着。
一ノ鳥居の下に車を停め、石段を上り詰め大きな両部鳥居をくぐり、総門に向かう。
総門前にも駐車場があるので石段を避けたい向きにはお勧めですが・・・
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総門から社殿の眺め。
随分と下に社殿があります。
下り参道と云われ、総門から楼門へは石段を下りていく事になります。

上野国一之宮貫前神社拝殿から本殿。
2009年から2013年にかけて「平成の大修復」が行われ、彩色も落ち着きを見せ、嫌みのない華やかな社殿。
貫前(ぬきさき)神社の創建は安閑天皇元年(531)とされ、物部姓磯部氏が氏神の経津主神を蓬が丘綾女谷に奉斎したのが始まりとされ、祭神は経津主神、姫大神。
樹齢1200年とも云われる大杉をはじめ、スダジイやイチョウの古木が聳え立つ広大な社叢に包まれた美しい神社です。
富岡と云えば世界遺産「富岡製糸場」もあり、こちらを訪れた際に貫前神社は訪れるだけの価値はあります。
上野国一之宮貫前神社
創建 / 安閑天皇元年(531)
祭神 / 経津主神、姫大神
所在地 / 群馬県富岡市一ノ宮1535

参拝を終え、丁度昼時となり10分程離れた登利平 富岡店で昼食としました。
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群馬では鳥めしがソウルフードだという事で、登利平は群馬県内各所に店舗があるようです。
写真は胸肉とモモ肉を甘辛たれで絡ませた「鳥めし松重(¥900)」
御飯にもたれが浸み込み、うなぎ程こってりでもなくさっぱりとした味わい。

ここから一旦上信越自動車道に乗り、次の目的地「前橋東照宮」まで小一時間の移動時間。
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前橋公園駐車場へは15:10に到着。
ここに車を停めて周辺を散策。
6.6
まずは、公園東に隣接する臨江閣と庭園を散策。
手入れの行き届いた庭園内には臨江閣本館、別館、茶室の国指定重要文化財三棟が建っている。
明治期における近代和風建築の迎賓施設で、明治17年(1884)に群馬県を訪れる皇族や賓客の接待・宿泊施設として建てられたもの。
臨江閣
所在地 / 群馬県前橋市大手町3-15-3
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三時のおやつ。
群馬県のソウルフード原嶋屋総本家の「焼きまんじゅう(¥240)」
なんというのか、五平餅のたれを丸いパン(まんじゅう)に塗って焼いたもの・・・悪くはない。
群馬県は名古屋同様に味噌文化が花開いているのか、味噌を挟んだ味噌パンなどスーパーで売られていた。
もちろん「こんにゃく」も豊富で価格も安く、大量に袋詰めされた刺身こんにゃくを土産に買ってきました。
原嶋屋総本家
所在地 / 群馬県前橋市平和町2-5-20
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前橋公園駐車場から5分程南の大手町に鎮座する前橋東照宮。
御覧の様にスタイリッシュな外観で、この建物自体が鞘殿で本殿は右側のガラス張りの部分にある。
外部から本殿の全容が見れますが、映り込みもあり見えそうで見えない。
前橋東照宮は江戸初期の大名松平直基公が幕府より賜った領地、福井県の越前勝山に寛永元年(1624)に創建されたもの。
江戸時代中期には松平家が各地の国替え経て姫路城より前橋城に入城。
その後洪水の被害を受けて、一時武州川越に居住しその川越に作られた社殿で、洪水による復旧を遂げた前橋に戻るに際し解体・移築されたもの。
現在の社殿は明治4年(1871)に再築されたものだという。

前橋東照宮
創建 / 寛永元年(1624)
祭神 / 東照大権現、木花咲耶姫、菅原道真、長壁様
所在地 / 群馬県前橋市大手町3-13-19

初日の行程は一通りコンプリート、そろそろ地元スーパーに立ち寄り今夜の酒と肴を買い込み今日の宿泊地「道の駅 赤城の恵」に向かいます。
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17:45赤城山の南麗にある「道の駅赤城の恵」に到着。
この道の駅には「あいのやまの湯」が隣接し、お風呂も食事も済ませることができるので車中泊にはいい条件が揃っています。
車を停め、車内をお泊り(宴会)モードにセットしてお風呂に向かう。
久し振りの長距離走行で腰はパンパン、歩き疲れて足は重い、41℃のやや塩味を感じる湯に浸かり一日の疲れを癒し食事処で乾杯。
入浴料は大人520円で、65歳以上は310円に割り引かれ、施設内には休息所もあるなどお得な施設。
ここで20:00までゆっくりと休むことが出来ます。
その後は車に戻り二次会、今夜の酒は地元のスーパーで見切り品だった「船尾瀧」。
テレビの受信状況も良く、雉や鶯の鳴き声も聞こえるいいロケーションの道の駅でした。
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初日行程 / ​名古屋~道の駅赤城の恵

春の陽気につられ、岐阜県の恵那市方向の春の山々と土岐川支流の小里川上流の小里川ダムまでドライブに出かけてきました。
今回はその工程のトピックスを掲載します。
出かけたのは2023/04/11、名古屋市内から庄内川を遡り、定光寺から瀬戸方向に向かいます。
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みくに茶屋
国道363号線沿いにある郷土料理のお店で四季折々の素材を用いた食事を提供する店。
かみさんが一度行ってみたいと言っていたお店でここで少し早目の昼食。
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店舗入り口の看板にあるように、通年でじねんじょ料理が楽しめ、この時期は山菜を提供してくれる。
じねんじょが苦手のかみさんが敢えて行きたいと言ったのは、こちらの山菜天ぷらで春の苦みを味わいたかったのだろう。
看板の後方はテラス席があり、樹々に囲まれた庭にはハーブが植えられ、ラベンダーも植えられるようです。
また、店舗入り口で五平餅や川魚を焼いており、その魅力的な香りに誘われそうになる。
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店内。
古民家をリノベした店内は、立派な梁を現した木の温もりを感じさせるもので、照明も好感がもて落ち着いた雰囲気のもの。
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キャンプ用の唯々眩しいLEDランタン、こんランプシェードを作りたいのだが一向に形になっていない。
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お品書き。
じねんじょ推しのお店だけにこうなる。
じねんじょアレルギーのかみさんにはつらいお品書きですが、「菜めし田楽定食」などもあり困る事はない。
ねばねば大好きおやじは「自然薯定食」
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単品メニュー。
この中から「花山葵の醤油漬け」と「山菜天ぷら」をオーダー。
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自然薯定食。
このとろろの量に対して、御飯の量は若干少ないが迷うことなく一気にぶっかける。
家で自分が作る時はもう少し固めなのですが、これは食べると云うより飲み物感覚でおいしく頂ける。
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田楽と山菜天ぷら。
本来は5本で提供されますが、お店が気を利かせてくれ1本サービスしてくれました。
天ぷらはタラの芽、旬の筍やウドはじめニラの根の天ぷらなど。
この中でニラの根の天ぷらは絶品だった、たかが根っこがここまでニラの風味を主張するものとは。
次回は秋の味覚きのこを目指して訪れる事にしよう。
みくに茶屋
所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野3038-1
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みくに茶屋の前を走る国道363号線を東に少し行ったところで見かけた南宮神社。
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国道脇に石鳥居を構え、石段が続いており、少し行けば社殿だろうと勝手に思い込み、一人で参拝に向かう。
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幾つかの石段を上ると、その先は林間に参道が続き社殿は見えない。
これは奥が深そうで、かみさんに怒られるパターンだ。
参道の先に怪しい影もないので先に進む、ウグイスの鳴き声が妙に心強く感じる。
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林間の参道を進むと右側の頂に続く石段があり、そこを上った所に境内が現れる。
大きな杉の杜に包まれ神秘的な雰囲気の境内は、拝殿とその先で覆殿につながり、雪深い土地柄なのが伝わってくる。
詳細は調べきれていないのではっきりした事は分かりませんが、鳥居の寄進年が大正8年で祭神は金山毘古神を祀るようです。
南宮神社
祭神 / 金山毘古神
所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2829
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国道363号線と国道419号の交わる瑞浪市陶町大川付近の山々。
芽吹き始めた淡い緑と山桜が春の山里の光景を見せていました。
春とは言ってもこの日の気温は22℃を示し、北側のお隣の多治見では25℃と初夏を思わせる陽気。
今回の道のりには「○○一」と銘打つ見所が幾つかあり、ここは世界一大きな「美濃焼の狛犬」と世界一大きな「茶壺」のあるところ。
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国道の交わる三叉路から少し右に行ったところに、駐車場があり駐車には困らないでしょう。
ここには二つの世界一と八王子神社があり、立ち寄っても時間の無駄にはならないだろう。
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三叉路の角にある巨大な美濃焼の狛犬。
周辺にはこの他にも美濃焼の大小様々な表情をした狛犬が置かれています。
そもそもが瑞浪市政35周年を記念し、国道419号線の起点と終点の瑞浪市と高浜市の交流を深める目的から故郷創生資金を財源に平成2年(1990)に焼かれたもので、阿形・吽形共に高さ約3.3㍍もある巨大なもの。
使用された土も瑞浪と高浜の土をブレンドしたもので、こんなところにも趣旨が盛り込まれている。
狛犬の前後には焚口も残されています。
見上げるばかりの狛犬は、なにかエジプトにでも来たような妄想に陥る。
一つ目の「世界一」
世界一の美濃焼こま犬
所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川

この場から国道363号線を少し歩いた右の斜面に次の「世界一」があります。
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「世界一の茶つぼ」
豊穣の壺と呼ばれ、瑞浪市の陶町に点在する古窯のひとつ大川窯の陶工の茶壷をモデルにして、平成10年(1998)に委員会を立ち上げ、地域住民総出で製作日数一年を要して作られたもので、高さ5.4㍍、直径が4㍍もあるギネスに認定された茶壷。
製作に関わった人たちにとって、自分やその子供にも誇れるモニュメントとして残っていく。

豊穣の壺
所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町
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八王子神社。
集落を見下ろす山の中ほどに鎮座する八王子神社。
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鳥居の先にはここにも陶製の狛犬が安置され、愛嬌のあるお互いの顔を見合っています。
岐阜県神社庁によれば「元禄14年(1701)再建の棟札があり、昭和6年(1931)3月1日陶町大川字十三塚に鎮座した無格社天神社を合併」とありました。
もう少し調べたうえで後日改めて掲載します。
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社名の通り、祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命をお祀りする神社。
境内社は社頭の燈籠の竿には「牛頭天王・秋葉山・大神宮・金毘羅宮」と刻まれており他に天神社、稲荷社が祀られているようです。
境内の今は拝殿左の靑紅葉が逆行に透かされ美しい時期を迎えていました。

境内右から兎岩登山道の案内板が掲げられ、登山道は杉木立の比較的明るい山奥に続いています。
気持ちの良さげな道の雰囲気ですが、入口に「熊出没注意」の看板があるので、こちらに参拝し、熊鈴をつけて歩いた方が気持ちは落ち着くかと。
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八王子神社
所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川716

さて次は「道の駅おばあちゃん市・山岡」に向かい、地元でとれた山菜を買い出しに向かいます。
写真の看板を363号線の右に向かい、小里川を下り小里城大橋を経由して車で15程の移動時間。
運転手なので写真はありませんが、小里城大橋は一般道に架けられた無料の橋にしては、目を見張る規模のもので、これにより稲津の町の上空を一気に渡る。
長さは420㍍、最大高は約80㍍ととても壮大な橋で余程の有力者か企業がいると見える。
21.5
道の駅「おばあちゃん市・山岡」
県道33号線沿いの小里川ダムの湖畔沿いの高台にある道の駅。
ここでは地元のおばあちゃん、おじいちゃんの育てた野菜や御餅、この時期の山菜が手に入ると聞きゴールと位置づけて訪れた。
到着したのは間もなく14:00、平日なので商品は残っているだろうと甘い考えでいたが、駐車場は多くの車が駐車し、道の駅は多くの客で賑わい、野菜や山菜は既に売り切れ状態。
「こごみ、ワラビ、ウド、コシアブラ、タラの芽」の札だけが空しく掲げられていた。
残念、帰りに他の道の駅にも寄ってみよう。

この道の駅はそうした目的以外に、目的地にしてもいいだけの「○○一」があります。
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それがこの「日本一の水車」
この地区は明治から大正にかけて、陶石を粉末にするための石粉水車が利用されていたそうで、小里川ダムの建設で水没した地域は特に多く水車が多かったらしい。
今は湖底となり、地場産業を支えた水車を象徴するシンボルとして平成16年(2004)に完成したのがこの水車。
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観覧車と見紛うばかりの大きさは実物を見ないと伝わらないかも知れません。
水輪の直径は24㍍で水車を支える柱脚は約14㍍もある。
周囲を山々に囲まれた景観に高層の建築物がない事もあり、その大きさは数値以上に大きく感じられます。
この水車も先程の橋もダム建設による恩恵なのでしょう。
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道の駅と水車の光景。
つり橋を渡って歩いて10分もかからない距離にある小里川ダムに向かいます。
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橋からダムの提体は間近に見えますが、巨大な構造物なので歩くとそれくらいの時間はかかります。
1日5000歩は歩きたい我家は、こうした目標でもなければ達成なんてとても無理。
「歩きたくない!」向きの方はダムの提体脇に駐車場もあるので車で行くのがお勧めです。
25.5
小里川(おりがわ)ダム。
一級河川庄内川(土岐川)の支流小里川に平成16年(2004)に完成した多目的ダムで、今どき流行のダム印が手に入る。
技術の粋を結集したダムの提体の右岸・左岸の両脇には、青龍、白虎、朱雀、玄武と名の刻まれた巨岩が置かれ、ダムを守護している。
ダムの提体の上は一般道で両脇に歩道があり、中央にエレベーターがあり無料で提体内の見学ができます。
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提体上部からおりがわ湖と道の駅と水車の眺め。
これから木々の緑は一層濃いものに変っていきます、ある意味今が一番の見頃なのかもしれません。
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提体中央にあるエレベーターホール。
ダム本体の長さは約331㍍、堤高は114㍍、提体の底面は約170㍍に及ぶコンクリートの要塞。
このダムが溜める水の量は12,900,000㎥と全く実感の湧かない量。
提体の中央のエレベーターで展望テラス、最下部の下流広場を見学でき、そこに向かう通路には構造や工事の様子、湖に住む魚類、湖底に沈む村々の映像が公開されており子供の社会勉強に向いている。
堤内は常時室温は15℃前後で、夏場の避暑に最適な場所かも知れない。
26.5
提体上部から左の展望テラスと下流広場を覗き見る。
冗談でも後ろから押されたくない。
それにしても山々の淡い緑と山桜の色合いが美しい。
26.4
エレベーターホールは無人で、記名した上で2階、一階を見て廻ります。
ただこの案内の最下部の「乗り遅れると戻れなくなる」の注意書きだけは見ておいてください。
最悪の場合提体の左岸脇の非常階段を114㍍登る事になるやも…
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114㍍下の下流広場からダム天端を見上げる、人影は点でしかない。
無料で普段味わえない貴重な体験ができるのでお勧めしたい。

道の駅おばあちゃん市・山岡、小里川ダム
所在地 / 岐阜県恵那市山岡町田代1565-169

さて、本来ならばここで帰途に着く予定でしたが、山菜を諦めきれず、もう一つ道の駅に寄ってから帰る事にしました。
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道の駅上矢作ラ・フォーレ福寿の里。
道の駅おばあちゃん市・山岡から国道418号線を約30分程東進した、矢作川水系の木の実川沿いにある道の駅。
ここでなければ潔く帰ろう。
かみさんは直売所へ直行、おやじは対岸のモンゴル村方向の景色を写真に収め合流する。
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木の実川右岸の桜、見頃は過ぎていますが、まだ〃綺麗に見られました。
護岸整備中で川に重機が入り、吊り橋しか入れれませんでしたが流れは綺麗でした。
かみさんと合流、唯一残っていた葉付きのウドを買い求め晩御飯の一品としました。

道の駅上矢作ラ・フォーレ福寿の里
所在地 / 岐阜県恵那市上矢作町3566-1

・ウドの葉は天ぷら、皮をきんぴら、茎は軽くあくを抜いてから、からしマヨネーズ和えで楽しみました。
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となれば酒が飲みたくなるもの、滋賀で買い求めた藤井本家の旭日大吟醸で乾杯、今日一日を締めくくりました。
久しく動かしていなかったおやじの車も、快調に動く事が確認できた、さあ車中泊で遠征しようか?
2023/04/11

今回の走行ルート
市役所から道の駅上矢作ラ・フォーレ福寿の里一般道ルート / ​77km、約2時間

4月4日、奈良県桜井市の多武峰に鎮座する「談山(たんざん)神社」と明日香村に鎮座する「岡寺」を車で訪れてきました。
談山神社、岡寺の伽藍など改めて掲載するとして、今の多武峰と明日香村を彩る花の状況を掲載します。

名古屋を6時に高速に乗り、法定速度+10km/h(違反だナ)の定速走行で一路東名阪自動車道で針ICまでひとっ走り。
平日という事で高速は空いていますが、相変わらず速度と車間を制御できない「人」が操る車の多い事。
警察には徹底した取り締まりを望み、どんどん反則金を徴収してもらいたい。
「道の駅針テラス」で朝食を取って再び桜井市に向け走り出す。
周囲の山々は芽吹きを迎え、萌黄色に染まる「山笑う」時期を迎え、ソメイヨシノも散り始めを迎えていますが、名古屋に比べまだまだ咲き残っています。
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9時過ぎ、談山神社東大門に到着。
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緑が鮮やかな時期になってきた。
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駐車場から緩やかに続く参道を上った先の談山神社社頭。
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鳥居の右側には散り始めた桜並木。
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談山神社。
写真は総社拝殿から見た権殿・十三重塔・神廟拝所。
天武天皇7年(678)創建とされ、藤原鎌足を供養の為、妙楽寺の講堂として始まったのが談山神社で、権殿・十三重塔・神廟拝所 (旧・講堂)・舞台造りの拝殿が主な伽藍。

紅葉の時期は錦の山々に社殿が包まれとても綺麗な光景が見られ、それを愛でに多くの人で賑わいます。
秋だけではなく、実は山々が芽吹きを迎え、山桜の咲くこの時期が一番美しい表情を魅せてくれます。
その昔、この辺りの四季を通じてスライドに収めた頃がありました。
少し離れた高台から霞に包まれた萌黄色の山を背景に、手前の白い桜に埋まれる様に佇む談山神社が実に美しく、あの光景を再びデジタルに収めたくてかみさんを口説いて訪れました。

やはり足繁く通わなければ、あの光景は見られないようです。
訪れた時には既に桜のピークは過ぎ、かつて絶好のスポットだった場所?は周囲の樹々が成長し、当時の面影はなく、何処で撮ったかすら分からなくなっており、遠景を収めることは出来なかった。
6.5
談山神社は新緑、紅葉の美しい時期に、このけまりの庭で古の装束を身にまとい蹴鞠祭りが行われ、その光景を見に訪れる観光客も多い。
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神廟拝所内の祭神である藤原鎌足像。
神廟拝所はかつて飛鳥時代後期の白鳳8年(679)に定慧和尚の父・藤原鎌足の供養の為、妙楽寺の講堂として創建したのが始まりとされ、仏教色の強い神社でもあり、内部の壁面全周には羅漢や天女の像が描かれています。内部の撮影は許されていますが、ストロボ撮影は控えたい。
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総社拝殿から見る十三重塔。
こうして見る塔は天文元年(1532)の再建で、木造の十三重塔としては世界唯一のもので、藤原鎌足の供養のために建てられたもの。
風が吹き抜ける度に桜吹雪となる。
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拝殿廻廊から見る桜、既に葉桜になろうとしていました。

多武峰談山神社由緒より
「御祭神 藤原鎌足公
飛鳥・法興寺で行われた蹴け鞠まり会えにおいて出会った中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。
『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作くらつくり(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳のべよと。
中臣連、皇子を将ひきいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。
この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。
多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり「大化改新設合の地」の伝承が残りました。
現在の社号の「談山神社」もここからきています。
天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いと知った大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。
藤原氏は、ここから始まります。
鎌足公の没後、御墓は摂津国 阿威あい山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称しました。
さらに、大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。」

随分久し振りに訪れましたが、少し離れて眺める姿は今も趣があっていい。
多武峰談山神社
所在地 / 奈良県桜井市多武峰319
名古屋から車アクセス / 東名阪自動車道・名阪国道・国道25号経由奈良市針町の針IC・国道369号・県道198号・国道166号・県道37号で桜井市多武峰街道・県道155号で​3時間程度 

談山神社から車で石舞台古墳を経由し15分程の距離にある「岡寺」へ。
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岡寺は奈良県明日香村の東にある岡山の中腹に位置し、綺麗に公園化された石舞台古墳からもほど近い。
真言宗豊山派の寺院で西国三十三所観音霊場第七番札所。
四季折々に趣を変え、美しい景観を見せてくれる寺。
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昨今は花手水の岡寺として知名度が高いようで、手水舎や華の池はじめ、境内の小さな鉢などにも花があしらわれ参拝者を迎えてくれます。
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華の池にもこうして花があしらわれ、水面一面に散りゆく桜の花弁が埋め尽くしています。
…花弁がピンクなら一層いいのだろうが、そんなタイミングは一瞬です。
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ソメイヨシノは間もなく葉桜も近く、当日は枝垂れ桜が綺麗に咲いていましたが、それも風が通り過ぎるたびにひらひらと舞い落ちています。
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本堂全景。
以下は岡寺由緒からの抜粋。
「昔には日本の首都、飛鳥京の中心地 飛鳥板蓋宮(大化の改新が起こった場所)、現在は明日香村行政の中心地「明日香村役場」の東に位置します。
過去においても現在においても政(祭りごと)・行政の中心地のすぐそばに位置しております。
『東光山 真珠院 龍蓋寺』、古来より土地の名から『飛鳥の岡にある寺』⇒『岡寺』と親しみをこめて呼ばれており、宗教法人名も『龍蓋寺』ではなく『岡寺』となっており、『岡寺』の名で知られております。
西国三十三所観音霊場の第七番札所として西国霊場草創1300年来、第七番の観音様として信仰を集めており、また日本最初やくよけ霊場としても知られています。
現在は真言宗豊山派に属しておりますが、創建当初より江戸時代までは開山の義淵僧正が法相宗の祖であったことから法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出しており、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務しておりました。
江戸時代に長谷寺第32代化主(住職)法住が岡寺に入山して中興第一世となって以来、長谷寺の末寺となり今日に至っています。
同じ西国札所の興福寺・長谷寺とは昔から深いかかわり合いがあるお寺です。」

主な伽藍は仁王門、楼門、本堂、奥之院、三重宝塔、大師堂、鐘楼堂が主な伽藍。
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八重の椿は幾分落花していますが、まだしばらくはこうした艶やかな姿を見せてくれそうです。
この他に境内ではシャガがひっそりと咲き誇っています。
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岡寺の境内の桜が葉桜になろうとするこの時期から5月にかけて、境内を彩る花は石楠花に移り変わっていきます。
4月に入ったばかりだというのに境内の石楠花はつぼみも膨らみ、既に咲き始めていましたが、牡丹は流石にまだ〃。
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以前に比べ花が咲く時期が早くなっている気がしてなりません。
5月に見頃を迎えていた室生寺も既に開花しているかもしれません。
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境内は今、靑紅葉が綺麗な時期を迎えています。
岡寺
本尊 / 如意輪観音座像
所在地 / 奈良県高市郡明日香村岡806
談山神社から岡寺車アクセス / ​約15分程

奈良。
うんざりする人込みの京都に比べ、静かで落ち着けるところなのかもしれない。
今は吉野の桜に向かう観光バスも、間もなく石楠花や牡丹の花が咲きだすこの辺りを目指してくるのかな?
2023/04/04

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