尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

カテゴリ: 史跡

今回も春日井市

JR春日井駅から直行すると10分ほど、春日井市上条町3の不明社経由で西に歩く事15分程で上条城跡に着くのではないでしょうか。
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 目標となるのは1本の木が聳えるこの石碑、というか右側の駐車場かもしれません。
東西に長い駐車場の西角に建つ石碑が上条城跡。
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どこかに遺構はないのか?
右は整地された駐車場で痕跡らしきものは見当たりません。
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 城址を示す石標があるのかと思えば、自分が見た限りそれらしい石標は見当たらない。
石碑正面にそれらしい事が彫られているのでは?と近づいて見るも、この碑には「林金兵衛君碑」とあり、その下に細かい文字が碑の全面に彫られている。

林金兵衛(1825年(文政8)~1881年( 明治14))を調べて見ると、初代東春日井郡長で今井兼平から数えて林家の28代目にあたり、上条城(じょうじょうじょう)主の小坂氏の子孫に当たる方だそうです。
上条城は小坂光善が1218年(建保6)に築城し、後に近江国へ移り住んでいたが、林重之の代に上条城に戻り、名字を「小坂」から「林」へ改姓したそうです。
上条城は1586年(天正14)に秀吉により廃城となるも、小牧・長久手の戦いで秀吉は自ら兵を率いて竜泉寺の帰路、林重登の屋敷で少しの期間滞在したという。
秀吉はこの時の礼として重登を春日井郡57ヶ村の総代庄屋に指名、重登から林金兵衛の代まで大庄屋として明治に至るまで勤めた。
城であり林家の屋敷でもあったようです。
この碑にはこうした事が刻まれていると思われます。
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 遺構としては駐車場が嘗ての本丸で「人呼びの丘」と呼ばれる天守跡(左のこんもり部分)やその東側に石垣や西側には土塁の痕跡が残る。
こうして見ると遺構というより造成工事中の趣です。
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 駐車場から北側を見ると今もこうして石垣が残っています。
北側には回り込んでいないのでよく分かりませんが、本丸跡の駐車場は時代の流れとはいえ、石碑や遺構をここまで留めているのだから、当時を忍ばせる想像図や解説が掲げられていると訪れる方は多くなると思う。
文化財に指定されていない事もあり予算が付かないのだろう、これが現実なのかも知れない。
訪れる方もなく静まり返った上条城跡、折角の遺産がもったいない気がします。
2020/6/13

上条城址
築城 / 1218年(建保6)
築城主 / 小坂光善
主な城主 / 小坂光善、林重之、林盛重、小坂雄吉
廃城 / 1586年(天正14)
関連記事 / ​春日井市上条町3の不明社
公共交通機関アクセス / JR中央線「春日井」駅下車、​南口から南へ徒歩約10分
上条町3の不明社からアクセス / ​社から南西に徒歩10分


高御堂古墳
貴船神社境内から出土した神領銅鐸、その銅鐸を貴船神社に変わり保管するという瑞雲寺から北に徒歩2~3分のところに高御堂公園があります。
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公園北側にこんもり盛り上がって木々が生い茂る一画があります。
緑を残し自然と親しめるいい公園だね、と思っていた。
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公園北側の歩道沿いのフェンスの先に「高御堂古墳」の石標を見付けた。
このこんもりは古墳のようです。
銅鐸ついでにひと回りしてみました。
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公園西側まで来ると春日井市教育委員会の「高御堂古墳」の解説板があった。
それによれば春日井市唯一の前方後円墳だそうな。
その年代は古墳時代(300~700年)に作られ、詳細な年代までは特定できていないようです。
発掘調査から古墳の長さは63㍍で後方の幅が38㍍、高さが約7㍍、前方が幅29㍍高さ約5㍍だったようで、現在の姿は復元されたものらしい。
後方部は3段、前方部は2段の平坦部分があり、そこ壺型の埴輪が置かれていたとされます。
埋葬者や埋葬品は調査されていないので分からないようです。
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このこんもりは川砂と粘土で盛り上げられ、墳丘斜面に川原石(当然ながら庄内川だろう)を使い葺石として敷き詰めたようで、古墳周囲は溝に囲われていたようです。
解説板あたりから見渡すと奥に向け高くなり、前方後円墳の形状がイメージできます。
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石槨内部は発掘調査がされていないけれど、鏡や玉が埋葬されていると考察されるそうです。
過去を紐解く事業は景気に影響しない、大盤振る舞いの予算もこうした方向にはつかないのだろう。
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後方(東側)に回り込むと周溝の面影を強く留めています。
町名の堀ノ内由来もこうしたところから来ているかもしれません。

気になったのが周辺の「まむしにちゅうい」の看板です。
これを見てしまうと迂闊に近づく気にはなれなくなる、無口な🐍も同じ気持ちだろう。
公園内にこの看板、自然が残っているという事ですが、鉄砲玉の子供達から目を離せないかもしれない。

高御堂古墳
築造時期 / 古墳時代(300~700年)
古墳形式 / 前方後円墳
住所 / ​春日井市堀ノ内町5-11-1(高御堂公園内)
関連記事 / ​瑞雲寺​、​神明神社​、​貴船神社​、三明神社

本地城址​から車で​東へ2~3分​、徒歩でも5分程あれば「本地大塚古墳」です。
北を流れる赤津川の左岸に当たり、肥沃な土壌に恵まれた田畑が広がります。
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 田畑の間を走る細い通りに写真のような案内板があり、こちらを目印にするか、保育園を目標にすれば古墳への入り口に辿り着けるはずです。
古墳と聞くと「こんもり」とイメージしがちですが、それを思い描いて歩いていると見つけにくいかも。
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さっぱり見かけなくなったレンゲの花もこの辺りでは見ることができます。
畑を肥沃にするレンゲも化学肥料に取って代わられ、一面レンゲ畑の光景を見ることも少なくなりました。
ピークを過ぎ、あのピンク色も色あせて白っぽくなっています。
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 北側の保育園と南側の資材置き場の間に本地大塚古墳の入口があります。
保育園のフェンスにも小さな案内板があります。
古墳はどこだ?
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小路の先を塞ぐように「本地大塚古墳」の解説板が現れるのだが、「こんもり」はどこよ?
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「本地大塚古墳」解説
「瀬戸市内に残された最も古く、最大の前方後円墳である。 この土地では「誉牟治別命」の墓という伝説があるが、昭和40年の発掘調査では、その実証となる資料は得られなかった。
同51年、瀬戸市の文化財(史跡)に指定された。
出土遺品
1.須恵質円筒埴輪 高さ40㌢余り 2.須恵質形象埴輪  水鳥・馬・人・家など 3.須恵器 蓋坏・高坏など
成立年代
この古墳の成立は、出土品から推測すると5世紀末から6世紀初め頃と考えられる。 その後市内に盛行する群集墳に先行するものである。
前方後円墳の規模
1.中心軸の長さ 33㍍  2.円部の直径 22.5㍍   3.方部の幅 11.7㍍」

解説にある埋葬者の「誉牟治(ほむじ)」が本地村の由来となったともいわれるようです。
群集墳とある様に、ここから少し南の高台に建つ宝生寺の境内地にも「駒前1号古墳」と呼ばれる古墳(残存していない)もあり、一帯には古墳が結構築かれたようです。
こうした古墳からの出土品は「​瀬戸蔵ミュージアム」で見ることができるようです。
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 本地大塚古墳、後円部(後)から前方方向の眺め。
仁徳天皇陵(今はこう呼ばないらしい)のイメージがあるけれど、こんもり部分は過去の開墾で削られてしまい、前に当たる台形の部分も短く、​仁徳天皇陵​の形をイメージして訪れるとギャップがあります。
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 古墳の前から後方の後円部の眺め、右後方の高台が宝生寺になります。
城址があり、古墳も残り、寺社がある、ここから北の庄内川付近に行けば水晶も見付けられる、面白い地域です。
本地大塚古墳、古墳の主は分からないけれど、こんもり部分の一本の桜が手向けるように見頃を迎えていました。
2020/04/05

「本地大塚古墳」
公共交通機関アクセス / 名鉄バス基幹バス「尾張瀬戸駅」行、「本地」下車、南東へ徒歩5分程 
住所 / 瀬戸市西本地町1-109

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