尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

タグ:兵庫県


「但馬一宮 粟鹿神社」
出石そばや町角に佇む小さな神社など見所の多い出石町を後に、今回の岡山、鳥取、兵庫の一ノ宮巡りも「但馬國一宮粟鹿神社」の参拝で終わりを迎えます。

出石町から粟鹿川左岸に鎮座する「但馬一宮粟鹿神社」までの移動時間はほぼ1時間程。
1
粟鹿山山麗の鎮座地は、周囲に田畑の広がる長閑な山間地。
日々時間に追われる生活からかけ離れ、ゆっくりと時間は流れる、携帯なんて切っておけばいい。
粟鹿川に架かる趣のある橋を渡ると鳥居が見えてきます。
社頭右に広大な無料駐車場があり、右奥に進むと御神木が聳えています。
社叢の樹々は伸びやかに上に向かって聳え、濃い緑が社地全体を包み込み、社殿の姿を垣間見ることも出来ない。
2
社頭。
右に自然石に粟鹿神社と彫り込んだ社標が立つ。
榊が立てられた砂盛の先は石の明神鳥居、参道の先に勅使門と髄神門が見えている。
3
社頭前のマンホール。
蓋には鹿と菊と粟?が描かれている。
調べて見ると町花が菊だという、上の波の様なデザインは県旗、三角形は町章を表しているようだ、右側のデザインがよく分からなかった、町の木はモクセイです。
人によってこのデザインをモクセイとする方もある。
自分の目で見る限りどう見てもそれには見えない、粟と鹿で粟鹿郷か粟鹿神社を表しているようにしか見えないのだが。
4
鳥居扁額は「粟鹿神社」
石の鳥居は寄進年を見ていない、建てられたのは比較的新しいように見える。
5

鳥居をくぐった右に礎石が並べられている、鳥居が綺麗なところを見ると過去の鳥居の礎石なのかもしれない。

参道はすぐに広がりを見せ、右手に勅使門、左に随神門が見えてくる。
写真には入っていないが左に社務所がある。
6
勅使門
その名の通り勅使が神社に参向の際出入りする門。

「朝来市指定文化財 粟鹿神社 勅使門
勅使が神社参向の時出入りする門、粟鹿神社では4回の参向があった記録が残る。
創建年は不詳。
桁行3.95㍍、梁間3.3㍍、妻造りの四脚門で建材の大部分は欅。
屋根は現在銅板葺だが、以前は檜皮葺。
柱は上下に粽(上下の先端をすぼめたもの)を施し、基盤の上に建てられている。
柱上の組物は中揃えの三斗組、海老虹梁は唐様式の手法を示す。
本柱間の両開きの唐戸は透かし彫りの欄間が付き、羽目板に鳳凰が刻まれている。
頭貫に簡素な若草模様が施され、全体的には唐様だが、妻梁を支える本柱からの挿し肘木は天竺様の手法がうかがえる。
度々の災禍も免れたと伝わる数少ない遺構の一つ」
7
シックな佇まいの門は、特に扉を見ていると建立以来の長い年月の経過を感じさせてくれる。
今だに欄間など彩色の跡が残り当時は鮮やかな色合いの門だったようだ。
8
随神門
勅使門から随神門まで白壁が続き、壁は更に先に伸びている。
9
切妻瓦葺で正面左右に朝来市指定文化財の随神像と裏側に同指定文化財の木造狛犬が安置されている。
10
随神門正面

門左に解説が掲げられていて随神像の解説が充実している。

「木造著色倚像(一対二体)は随神門に安置される
木造著色倚像(阿形)は随神門南東部に安置、総高117.6㌢、像高(座高)82.2㌢の一木造(内刳りなし)、彩色、彫眼。
左右に緌を付けた冠をかぶり、口は少し開け顔をやや左に向ける。
朱色の袍を着て、表袴をはき5本の矢を挿した胡ぐいを背負い、右手に弓を左に太刀を持つ。

木造著色倚像(吽形)は随神門北東部に安置、総高122.1㌢、像高(座高)87.3㌢の一木造(内刳りあり)、彩色、彫眼。
左右に緌を付けた冠をかぶり、口を閉じて顔をやや右に向ける。
黒色の袍を着て、表袴をはき左腰に太刀を佩く、5本の矢を挿した胡ぐいを背負い、右手に弓を左手に矢を持つ。

随神像の制作年代は両像ともに銘文は記されていない。
随神像内に収められていた棟札から江戸時代前期、宝暦5年(1755)に修理された記録が残る。
さらに棟札の裏に天和3年(1683)に再興の記録が残る。
台座は候補で色彩は殆ど剥落、像内に修理時の補材が見られるが像立当初の姿を留めている」

残念ながら随神門の解説はない。
11

木造著色随身倚像(吽形)
右手に太刀、左手に矢

木造著色随身倚像(阿形)
右手に弓、左手は太刀

表情が読み取れないほど退色と剥落は進み修復が待ち望まれる。
12
境内から見た随神門。
「粟鹿神社木造著色狛犬像(一対二体)は随神門に安置される

狛犬(阿形)は正式には獅子で像高89.4㌢、像長88.3㌢の木造、彩色、彫眼。
右足を少し前にして座り、やや左を向き開口する。
たてがみは巻髪。

狛犬(吽形)は像高97.6㌢、像長85.9㌢の木造、彩色、彫眼。
左足を少し前にして座り、口を閉じやや右を向く。
頭上に1本の角を出し、たてがみは直毛で房状に表している。
狛犬の制作年代は両像とも銘文はない。
迫力のある表情や力強さのある作風は鎌倉時代風であるが、背筋の後半が湾曲しているのは制作年代が新しい事を示す。
江戸時代前期の制作と推定される。
台座は候補で、彩色はほぼ剥落、足先に矢や傷みが見られるものの、力強く迫力がある姿を良く伝えているのは貴重」
13

狛獅子(吽形)
角は欠落したのか原形を失っているように見える。

狛獅子(阿形)
どちらも退色は進み、もとの彩色すら想像できない。
表面の緑色は周囲の苔かカビをもらったのかもしれない、門含めた修復が望まれる。
もっと多くの参拝客が訪れてもいい神社なのに、参拝者が皆無なのは寂しい限り。

14
手水舎
手水鉢には絶える事無く清水が注がれていた。
右は井戸の名残だろうか。
15
天満宮
手水舎の向かい建つ切妻瓦葺の覆殿。
鈴は上げられたままだった。
「こんな時期もあったね」と語れる日はいつ訪れるのだろう。
16

天満宮から見る社殿。
手前に土俵と社殿左右に境内社、本殿後方に大きな盛り上がりがある。

拝殿右の覆屋には猿田彦神社が祀られている。
17
社殿全景。
苔むした狛犬が守護する。
粟鹿神社は緑豊かな社叢だけではなく、境内全体に苔が多く自生し緑に溢れている。
緑に包まれた静寂な空間に漂う空気は、森林を歩いて感じるものと似て、とても澄んだもののように感じる。
18
狛犬
台座に元号が見られ、「和」は読み取れるが上の一文字は分からない。
昭和と仮定し、僅か100年程でこの貫禄が備わるのかぁ。
19
拝殿
入母屋銅板葺で大きな向拝を持つ。
勅使門などの解説にある様に、伽藍は現在に至るまで幾度も災禍にあい再興されている。
こうして見る社殿はいつ頃修復されたものか、当社HPや兵庫県神社庁の​当社解説​など目を通すが定かにはならなかった。wikiによれば本殿は1880年(明治13)に造営されているようだ。
神社庁の解説と社頭由緒よれば以下の内容。
「和銅元年(708)に祭神や歴代祭主などを詳細に記した粟鹿大明神元記の写本が残る(宮内庁所蔵)
当社は但馬国最古の社として国土開発の神と称す。
国内はもちろん、付近の数国にわたって住民の崇敬が集まる大社であり、神徳高く延喜の制では名神大社に列せられた。
人皇第10代崇神天皇の時、第9代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定し大いに皇威を振るい、天皇の綸旨にこたえた。
粟鹿山麓粟鹿郷は、王薨去終焉の地で、粟鹿神社裏二重湟堀、現存する本殿後方の円墳は王埋処の史跡である」

一体始まりはどこまで遡るのだろう。
そもそもの始まりは粟鹿の名に由来する。
その昔、粟鹿山の洞穴に一頭の鹿が住んでいたという、ある時粟三束を咥えた鹿が粟鹿郷に現われ、村人に農耕の技術を教えたという、その鹿が祀られたのが当社の始まりと云う。
この地の農耕の起源まで遡るようだ。
神社に近い粟鹿川の右岸に粟鹿遺跡があります。
そこからは縄文時代や弥生時代の出土品が見つかっているそうだ。
狩猟生活から定住し農耕に移り変わっていくのが弥生時代、鹿が教えた農耕が始まりとすると・・・弥生時代まで行く事になる。
いつまでもここに留まっていると進まない、先に進みます。
20

1880年(明治13)に建て替えられた流造の本殿。
後方の大きな盛り上がりは古墳、丹波一円を征定した日子坐王を埋葬したとも云われるようです。
過去に発掘調査はされていないようで、静かに眠らせてあげたい。

本殿から拝殿の眺め。
21
拝殿左から見る社殿と古墳。
恰も古墳を御神体として社殿が建てられているように見える。
22.0
拝殿から左の境内。
杉の巨木の先に複数の境内社と山に続く参道があり入口に赤い鳥居がある。
23
杉の巨木の前に神池とその先の境内社は「厳島神社」
24
夫婦杉
二本の杉の巨樹は一本の注連縄で結びつき、寄り添うように聳えるその姿からその名が来ているのだろう。
不思議な樹で上を見上げると根元は其々一本でありながら途中から複数に幹が別れている。
根の周りは一面苔むし鮮やかな緑に覆われている。
25
拝殿左の境内には二社が祀られている。
26

手前の社は大巳貴神を祀る床浦神社。

奥まった場所に鎮座する社は草野姫命を祀る茗荷神社。
27
稲荷神社
茗荷神社の左に朱の鳥居、参道は山を登るように奥に続いています。
帰りの時間はとっくに過ぎている、登っていいもんだろうか。
「ササッと参拝してくるから」と先の見えない稲荷神社へ登り始める。
28
見通せないのは不安だが、登り始めると直ぐに視界が開けた、山の斜面にできた僅かな平坦地に稲荷神社が祀られていた。


稲荷神社参道から下を眺めると茗荷神社がこの様に見える高低差。
29

社務所
随神門の正面にあり、本来は有人なのだろうが当日は無人。
御朱印は社務所後方の道路際に建つ宮司宅で頂くことになります。

社務所から境内は奥に伸びている、先に進んでみると、写真の脇参道の鳥居に出た。
手前の通りは宮司宅の前に続く通り。

既に御朱印を手にしたかみさんの姿が見える、さっさと車に戻って帰途に着くことにしよう。
何事もなく無事に家に戻って旅は終わり、まだまだ先は長い。
30
但馬一宮 粟鹿神社
創建 / 不明

主祭神 / 天美佐利命、日子坐王命、日子穂穂手見尊
配祀神 / 阿波奈岐尊、伊弉奈岐尊、天照大御神、籠神、鵜草葺不合尊、月讀尊、素盞嗚尊、豊玉姫尊
境内社 / 床浦神社(大己貴神)、稲荷神社(保食神)、厳島神社(市杵島姫命)、茗荷神社(草野姫命)、厳島神社(市杵島姫命)、猿田彦神社(猿田彦神) 
所在地 / 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
出石町から車アクセス / 県道10号線➡県道104号線➡国道9号線➡国道427号線➡ 県道275号線で​約1時間  
​​​関連記事 / ​兵庫県 出石町『諸杉神社』 、​「一ノ宮巡り」二泊三日で岡山・鳥取・兵庫 #3

天満宮から谷山川の下流に向け2分程歩くと、正面に出石町駐車場が現れ、路は左に向きを変えます。
正面に谷山川に架かる橋があり、橋の対岸に鳥居が見えます、橋の手前右側には「諸杉神社」の社号標が建っています。
1
社号標も鳥居も苔むし、古くから続く神社のようです。
鳥居の先に社殿らしき姿も見え、雨は少し強くなってきましたが、あそこまでなら参拝する時間はあるだろうと橋を渡り向かう事に。
2
石の明神鳥居の先は左に赤い社務所?、右に手水舎、正面が社殿か?
参道は中ほどで右にも伸び、手水舎の後方に控え柱らしき姿も見える。

3
鳥居をくぐった左の建物はやはり社務所、「諸杉神社社務所」とあるが無人のようだ。

4
橋から見えていた建物は本殿ではなさそうだ、建物は社名札が見当たらず詳細は不明ですが
どちらも注連縄が吊るされ、右側の建物は鈴緒が吊るされGマップにある川下神社かもしれない。
5
境内右手方向は、内町通りからだと樹々の陰になり見通せなかったが、橋を渡り終えると手水舎の横に建つ両部鳥居と諸杉神社の社殿が広がっていた。
周囲は杜に包まれ、境内を苔や下草の緑が一面覆い、静かで印象に残る光景が広がっていた。

ニノ鳥居となる木造の両部鳥居の右に手水舎、その先が拝殿。
雨の中参拝し見て廻るには多少時間が必要、これ以上雨脚が強くならなければいいが。
6
鳥居の額には「諸杉大明神」とある。
カメラを上に向けると雨が降り込みひっきりなしにレンズを拭くことになってきた。

7.5
この辺りに掲げられた諸杉神社由緒。
・鎮座地 兵庫県豊岡市出石町内町
・御祭神 多遲摩母呂須玖神(但馬諸助神)
・多遲摩母呂須玖神は新羅国王子天日槍命の嫡子で、母は多遲摩之俣尾の女 前津見である。
 古事記・日本書紀に記される清彦、田道間守の祖で、神功皇后の母、葛城高額比売命の祖である。
・創立年月は不詳。
 延喜式内の古社で、始め出石川側の出石町水上に鎮座していたが、当國の守護 山名氏の居城を
 出石町宮内の比隈山より出石 有子山に移すに及び、当社を城下の現在地に移転された。
 累代の出石城主の崇敬厚く、江戸時代小出大和守は長刀を奉献、松平忠徳は社殿を改造し宝駕を具え
 華表を建て、治下瑞泉寺主釋大梅に諸杉大明神記を選ばしめた。
・寛保二年(1742)仙石政辰は社殿を改築、神供五石八斗を寄進。
・宝暦二年神霊を勧進し且つ同僚諸侯及び有名な宗匠に俳句を求め、扁額として拝殿に奉納された。
・仙石氏が出石城主の時、在城の年は年首必ず自ら参拝、参勤交代の時は帰城の年早々必ず自ら参拝し
 た。
・明治六年(1873)十月郷社に列せられる。
・明治九年(1876)三月二十六日夜、民家より失火し、社殿は悉く類焼。
・明治十五年(1882)新に工事を起し、明治十七年(1884)十月十四日現在の本殿、拝殿が竣工。
・大正十三年(1924)四月二十一日縣社に列せられる。

本殿建物
・正面三間 背面二間、側面二間、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付、鋼板葺
祭礼
・例祭(秋祭) 10月中旬
境内神社
・川下神社、天神社、厳島神社、社日神社、新田神社、三柱神社、八幡神社、稲荷神社、大國神社、
 稲荷神社

いかにも出石、祭神は天日槍命の子「多遅摩母呂須玖神」を祀る、一説によると社名の「諸杉(もろすぎ)」は「母呂須玖」が訛ったものだと云う。

7

手水鉢と龍口。
鉢は昭和に入り寄進されたようだ、龍から注がれた清水は鉢を満たす事はない。
8
拝殿全景。
拝殿に続く参道を2対の狛犬が守護している。

由緒によれば、当初は出石町水上(むながい)に鎮座とある、先に掲載した出石神社から徒歩で南に15分程に鎮座していたようですが、創建は更に遡る事になる。
この地に遷座するきっかけとなった、山名祐豊による出石城の築城が1574年(天正2)とされ、この地で5世紀近く継がれて来た神社。

9
手前の狛犬。
寄進年度は不明ですが、阿形は苔むし、裏から見ると緑の顎鬚のようで年季を感じさせる趣のある姿。
双方とも紅潮し胸は桃色に色付いている。
10
拝殿前の狛犬。
こちらも阿形は苔に包まれようとしている。
明治の大火によるものなのか、経年劣化なのか一ノ鳥居や狛犬の黒ずみは何かを語っているようだ。
寄進年度が分からないので何とも言えないところ。
11
拝殿左に境内社が祀られていたが社名が分からない。
こちらの燈籠も赤みを帯びている、石材から由来するものなのか、妙にこの色は気になる。

12
拝殿左に神池があり小さな太鼓橋が架けられている、境内社に厳島神社とあったがその先に社の姿を見かけなかった。
参道は本殿脇に続き奥には複数の社が祀られています。
本殿を囲む玉垣は赤く塗られていたのか、名残を留めている。

後方に見える朱の鳥居は有子山稲荷に続く参道。
13
本殿左の境内社。
一社ゝ参拝させて頂くも何れも社名札はなくどれがなにやら…
出石の町を散策を始めると賽銭用の小銭入れが軽くなるのが早い。
軽い賽銭に対し相変わらず願いだけは重いものがある。

14
1884年(明治17)に再建された本殿。
焼失前の姿を再現したものなのかは不明ですが実にいい姿をしている。
光物は目に付かないが造りは手が込んでいる。
入母屋造りに千鳥破風と唐破風向拝が施され、向拝や虹梁、木鼻などの彫物は見応えがある。
15
破風の毛通しにはくちばしを赤く彩色した鳳凰や向拝には劔を抜き鳥に立ち向かう神の姿、その上で向拝を支える力士の姿が彫られている。
これらの彫飾りは丹波柏原藩、現在の兵庫県丹波市の宮大工中井道源(~1698年没)を初代とする中井権次一統の八代目中井権次橘正胤(1854~1928年)の作、再建時期を考えると脂が乗り始めた頃の作品だろう。
派手な彩色をせず、目や口にポイントを絞って赤が塗られているあたりとても好感が持てるもの。
各部を拡大し撮ってみたが、レンズに雨があたり一枚も掲載できるものがないのが残念。

本殿自体は高欄や向拝柱等に朱で塗られていた面影が残り、本来は赤く存在感のあるものなんだろう。
あるべき姿を見たいような気もするが、個人的にこの色調がいい。
16
本殿右の境内社。
手前に三社、少し奥の一段高い境内に一社祀られていますが何れもどれが何やらでした。
狐の姿すら見当たらなかった。
とはいえ、僅かな賽銭大きな願い、しっかりお願いして来た。
17
諸杉神社本殿後方から見る社殿。
写真を撮るには難があるけれど、雨に霞む山々を背景にそぼ降る雨に打たれ佇む姿は快晴の時には感じえない別の表情を見せてくれる。
18
境内社の脇から有子山稲荷に続く参道に出ることが出来る、参道から諸杉神社の眺め。
正面の朱色の鳥居は「稲荷神社」、有子山稲荷は山の上に向かって奉納鳥居が続く石段を上った先。
19
山の上に向かって伸びる石段と鳥居。
有子山稲荷、行ってみたかったがこの雨の中では進む気になれなかった。
車に戻る事に戻ろう。
出石町駐車場から谷山川に架かる有子橋、この朱色の橋が諸杉神社への近道だろう。

20
出石町駐車場付近から眺める出石城、右手に登城橋と登城門。
出石城は当初から天守を持たず、有子山の傾斜地を利用し、堀で囲った三ノ丸を築き、下ノ丸、二ノ丸、本丸、稲荷丸と階段状に曲輪を築いたもので、そこに4つの櫓と藩庁や居館が建てられていたとされます。
現在は本丸西隅櫓と東隅櫓が復元されています。

2021/10/26
諸杉(もろすぎ)神社
創建 / 不明
祭神 / 多遲摩母呂須玖神(たじまもろすくのかみ)
境内社 / 川下神社、天神社、厳島神社、社日神社、新田神社、三柱神社、八幡神社、稲荷神社、大國神社、稲荷神社
祭礼 / 例祭(秋祭) 10月中旬
所在地 / ​​兵庫県豊岡市出石町内町28
出石町天満宮から徒歩ルート / ​内町通りを出石町駐車場方向へ2分程
関連記事 / ​兵庫県 出石町「天満宮」​ ​

城下街出石町を散策していると小さな神社や祠をそこかしこに目にすると思います。
以前掲載した出石町魚屋の國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)から出石町材木方向の天満宮を掲載します。
no title
出石町マップに前回掲載した祇園さんと國朝天女稲荷、今回の天満宮の位置関係を表してみました。
國朝天女稲荷から天満宮は南に約150㍍程、道の先に見える距離です。

1
その前に國朝天女稲荷の向いに建つ白いレトロな外観の建物に視線が行くと思います。
城下街の雰囲気漂う街中に文明開化の香り漂うこの建物は出石明治館。

2
エキゾチックな外観のこの建物は1887年(明治20)に郡役所として建造された木造建築の建物。
現在は地元出身で、出石藩の藩政改革や地租改正や気象測候所の創設などに尽力した桜井勉(1843〜1931)をはじめとする郷土の偉人を伝える出石明治館として公開されている。
出石の町に唯一残る明治年間の建築物で1983年(昭和58)に保存整備されたものという。
古い建築物を伝え残す、辰鼓楼で熱く語りかけてきた地元の方がそうであったように、出石に住む者の郷土の誇りが伝わってくる。

3
天満宮
路の先に石の明神鳥居を構え、右手に祠が祀られています。
4
社頭全景。
祠後方に境内唯一のもみじの樹。
年輪を重ね太く成長した幹は立派なもの。
社頭左に由緒書きが立てられています。

5
天満宮由緒
「当天満宮は学問の神さまとして有名な九州大宰府天満宮の分社。
御祭神は管原道真公。
明治の始め「神仏分離」により藩校弘道館正門跡の現在地に祀られたもの。
弘道館は維新期の東京大学初代総長加藤弘之博士など多数の人材を輩出した。
当地東隣には町人に儒学を教えた義倉役所もあった。
現在もこの付近に弘道館跡碑(聖堂跡)や藩儒桜井氏の屋敷跡など学問に所縁のある文雅な遺跡が散在する。
毎年7月24・25日、学業成就・家内安全祈願大祭を行っている」

神仏分離でこの地に遷座したようですが由緒から創建時期や元々の鎮座地について記されていなかった。
兵庫県神社庁など調べて見るも足取りは掴めませんが、出石町材木に鎮座し2世紀ほど、今も町民から崇敬される天満宮。
6
奥に長い社地、間口一杯に建てられた入母屋瓦葺の拝所。
後方を谷山川が流れ、その背後の山は出石城のあった有子山が迫っている。
7
拝所に掲げられた「天満宮」の額。
8
拝所内にはいくつかの奉納絵馬が掛けられている。
行人包の武将が振りかざす刃を軍配で受け止める武将、描かれているのは川中嶋合戦の謙信と信玄だろうか。奉納年度は記されているも既に消えかけ、推測すらできなかった。
拝所内の両脇に長椅子が置かれていたのが印象に残ります。
ここで井戸端会議に花を咲かせるのだろうか。

いつの間にやら、黒雲が湧きポツン〃と降り出してきた。
散策中に急な雨に降られても、天満宮が受け入れてくれそうだ。

9
社頭の祠は弘法堂の様です。

10
中を窺うとカラフルに色付けされた大師像と左にも一体の石像が安置されていました。
放射状の赤い線は光背を描いたのだろうか?、供えられた花の陰で姿をよく拝めなかった。
こちらの大師像は祇園さんで見かけた弘法大師以上に色使いに拘りを持っている。

11
天満宮全景。
本殿を祀る鞘堂は切妻瓦葺の平入で拝殿と一体になっている。
参拝時堂内を窺うも本殿の姿は分からなかった。
材木の街並みにポツンと鎮座していますが、手入れの行き届いた境内や社殿から人の温もりが伝わってくる天満宮です。

天満宮
創建 / 不明
祭神 / 管原道真
所在地 / ​兵庫県豊岡市出石町材木25
國朝天女稲荷から天満宮徒歩ルート /  ​南に約150㍍程​、徒歩数分

本降りになる前に社頭から右の登城橋方向に向かいます。
2021/10/26

関連記事 / ​兵庫県出石町「祇園さんと國朝天女稲荷」​、​「一ノ宮巡り」二泊三日で岡山・鳥取・兵庫 #3

但馬一ノ宮出石神社を後に、県道706号線を南下、県道2号経由で出石城西隣の出石市営西の丸駐車場までは10分程で到着。

兵庫県北東部に位置し、周囲を山々に囲まれた出石盆地で、円山川の支流出石川が町の中央を流れ、少し下流で豊岡盆地を流れる円山川と合流しています。
現在の豊岡市の中心は豊岡盆地ですが、明治以前の但馬の中心は出石盆地だった。
出石神社が鎮座する北には此隅山城、後の1604年(慶長9)に当時の藩主小出吉英により有子山(ありこやま)北の山裾に出石城が築かれ城下町として整備されたのが現在の出石町、古くから但馬の政治、経済の中心地だった。
町並みには視界を遮る高い建物はなく、落ち着いた佇まいの町並みが続く。
それだけに興味深い見所や名物皿蕎麦などあり、ゆっくりと回りたいがそうもいかない。
見所多い出石町のほんの一部だけですが掲載しておきます。

000
上は出石城下の解説板、今回歩いたルートは点線部分。
「出石町は但馬開発の祖神とされる新羅の王子天日槍が垂仁天皇3年(BC27年)に渡来、但馬を拓いたと伝えられ、町名の出石は天日槍の宝物『出石小刀』からきているとされる。
「古事記」「日本書紀」にも記される程の歴史のある町。
但馬文化発祥の地として、山名宗全一族の本拠地として二百年間の繁栄を誇り、 近世は小出、松平、仙石氏ら五万八千石の城下町として繁華を極めました。
二千年の歴史に薫る文化遺産の数かず、井然とした街路、美しい山河の佇まいなど、 出石が但馬の小京都と呼ばれる由縁」
no title
出石町のシンボル辰鼓楼(しんころう)、その姿はマンホールにも誇らしく描かれている。

00
出石町のシンボル「辰鼓楼」
出石城登橋門の大手前通り沿いに建ち、出石町の住民のシンボル的な建物。
1871年(明治4)旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年(明治14)大時計が寄贈され、以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。

1
八木通りを東から西方向に眺める。
出石川までの東西約1㌔程の道筋で、道沿いに名物の皿蕎麦のお店が多く点在する。
写真右手に鳥居が見えます。
2
社頭全景。
明神鳥居と瓦葺の鞘堂があり、右に小さな社と左に祠がある。
3
社頭正面。
鳥居の額には「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」とある。
左手の建物は「やさかぎおん会館」、地本の人には「くれはとり」や「やさか」神社より「祇園さん」の方が通じるようです。
4
社頭の解説板、祇園社由緒。
「祇園さんは八坂神社の旧称。
祭神は建速須佐之男命である。
朝野の信仰深く、祇園祭で著名な京都の祇園社より勧請した。
相殿に呉服(くれはとり)神社を奉斎し、祭神の袴幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)は織物の神。
1876年(明治9)の大火災で文献が焼失し勧請年月日は不詳。
火災後社殿一坪を建築し、1917年(大正6)7月現在の本殿に改築。
また1931年(昭和6)6月石鳥居並びに狛犬を建築して現在に至る」
とある。

出石町は幾度となく大火を経験しているようで、出石町の年表に大火は二回程おきている。
一つは1744年(延享元年)の出石大火と1876年(明治9)の出石大火。
明治の大火の発端はイワシを焼いた際の火の不始末が原因らしく、強風に煽られ延焼し、出石川から東の谷山、伊木、東条、入佐、魚屋、本町、宵田、鉄砲、川原、柳、田結庄の各町と水上村の一部を焼き尽くす大火となったという、焼失面積は全体の80%だという。
神社が鎮座するこのあたりは出石町魚屋、直球で分かりやすい町名ですが、この周辺も焼き尽くされています。多くの人命と1千戸近くを全焼し、寺社も被災し住民にとっては絶望的な光景だっただろう。

こうして見る街並みはその後復興されたもの、町で見かける解説にこの大火の事は必ず触れられている。
八木の道筋に軒を連ねる光景は大火以前から変わらない運命共同体として成り立っているようだ。
そうした事もあり出石町には11の組があり、毎年秋には豊作を祈願し喧嘩だんじりが行われ、魚屋一帯の八木組のだんじりはこの境内で組み上げられ出陣していくそうだ。
5
鳥居右側の赤い社、社名も詳細も分からない。
幾度となく大火を経験している出石町、赤い社と云えば…何だろうが、お札も見ていないので不明社です。
6
鞘堂前の狛犬。
解説にある様に石鳥居や狛犬は1931年に寄進されたもの。
小さな狛犬ですが、風貌はそれより古くからここを守護している貫禄が漂う。
7
境内から見る「祇園さん」の眺め。
切妻瓦葺で平入の鞘堂は前方の軒が長く張り出し向拝の役目もしているようです。
創建等は不明。
祭神は建速須佐之男命。
相殿神は袴幡千々姫命。
再建は1917年(大正6)
但馬ちりめんや古代製鉄技術「たたら製鉄」の郷、海の向こうの新羅とのつながりは深そうです。
8
境内左の祠。
祠の前に1937年(昭和12)の石標が立っている。
9
中には色が塗られた4体の石像が安置されています。
何れも長い年月を経ているようで彫られた姿は見にくい、彩色されている事で鮮明になっている。
「八木町上南側 延享五辰十一月」とある、延享の大火に見舞われた4年後のものです。
この年なにがあったのか定かではないけれど、思うところあって彫られたもの。
観光客がそぞろ歩く観光の通り八木通り、そんな道筋もここに住む者には日常の路。
そうした路のそこかしこに、小さな神社や祠が大切に祀られている、そんな光景を目にすると形容の出来ない温かいものが伝わってくるいい町だ。

「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」(祇園さん)
創建 / 不明
再建 / 1917年(大正6)
祭神 / 建速須佐之男命
相殿神 / 袴幡千々姫命
例祭 / 7月9日

10
祇園さんを後に八木通りを少し東に進み、ひと区画東の角へ、正面にレトロな出石明治館が見える。
その西向いの角に赤い鳥居と赤い社が鎮座しています。
11
民家の敷地の一部を社地として与えられているようだ。
鳥居のすぐ先にコンクリートの台座上に赤い板宮造りの本殿が祀られている。
12
狐の姿は微塵もないが稲荷社か?
台座に由緒が掲げられている。
13
國朝天女稲荷(くにともてんにょおいなり)
「明治9年、出石に大火がありました。
約千軒が焼失しています。
それは南風の強い三月二十六日のこと(出石町史より)
現在この場所にお祭りされている國朝天女稲荷様、大火以前からこの近くに鎮座されていたが、大火以降に移転され、火の神様として崇敬されている。
この御稲荷様の御使いは女狐と云われています。
祭礼は毎年十一月一五日」

明治の出石大火はここにも語り継がれていました。
この稲荷もその影響を受け、この場所に移らざるを得ない状況に追い込まれたようです。
稲荷と言えば商売繁盛や五穀豊穣の神の印象が強い、大火を幾度となく経験する出石の町では火の神様。
出石町を歩いているとこうした稲荷を見かけるが、不思議に秋葉社に出逢うことが無かった。
祇園さんの北側でも見かけたが、何れも狐の姿はなく國朝天女稲荷のような形態で祀られていました。
女狐にお逢いしたかった。
城下街の風情漂う出石町、その町を守護するのがこの國朝天女稲荷。
二度と大火は起こさない。
但馬の中心が出石から豊岡に移っていた背景に、焼け野原となり絶望感しかない町から離れるきっかけにもなった。

現在の町はその絶望感の中から懸命に復興させた住民の不屈の思いが形になった町だ。
辰鼓楼の付近で出会った地元ボランティアの熱弁はそうした郷土愛からくるものだろう。
そこまで熱く語れる町、実に羨ましいものがある。

國朝天女稲荷(くにともてんにょおいなり)
創建 / 不明
再建 / 不明
祭神 / 不明
例祭 / 11月15日
所在地 / ​兵庫県豊岡市出石町魚屋53

2021/10/26

出石神社から出石市営西の丸駐車場 / 兵庫県豊岡市 出石町小人129-19

駐車場から祇園さん➡國朝天女稲荷 / ​徒歩10分程


関連記事 / ​兵庫県 「但馬國一宮 出石神社」​、 ​「一ノ宮巡り」二泊三日で岡山・鳥取・兵庫 #3

2021/10/26
一ノ宮巡りでこちら方面を訪れ、兵庫県の城崎温泉に宿を取り、翌日の早朝に訪れた「玄武洞」
今回はそちらを取り上げます。
1
山々に雲が垂れこみ水墨画の様な光景は早起きのご褒美。
雲海に浮かぶ竹田城も足を延ばせる場所だけに、予定変更して目指したくなるがドラマは短い、諦めよう。
城崎温泉で迎えた当日の最大の目玉(おやじ的に)「玄武洞」に揺らぎはない。
城崎温泉から玄武洞までは円山川対岸を車で10分もあれば到着できる距離です。
2
前日の雨は上がり切らず、霧雨の様な天候。
玄武洞公園の前に車を停め、円山川右岸の河畔に建つ石の博物館「玄武洞ミュージアム」を眺める。
この時間は会館前、中には世界中から集めた珍しい石や鉱物、化石など約2500点収蔵されていて、右側の別棟には土産やレストラン・カフェなどの施設もある。
玄武洞のある玄武洞公園はこの施設の向かいの山側にあります。
3
駐車場から続く階段を上った先が玄武洞公園で、円山川右岸の山肌から露出した柱状節理や洞窟があり、国の天然記念物に指定され、山陰海岸国立公園に含まれる絶景が広がります。

主となる玄武洞のほかに、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞の洞窟が連なり玄武洞公園として整備されています。
公園と云っても施設は休憩所とトイレがあるくらいで、観光客目当ての店は並んでいない。

「玄武洞」は国の天然記念物に指定され、周辺地域一帯は、1963年(昭和38)に山陰海岸国立公園となり、現在に至っています。

柱状節理自体は地元名古屋に近い所で行けば福井県の東尋坊や三重県の香落渓谷でも見ることが出来ます。
こちらのものは大自然が造り上げたうねりの造形美、人の及びもつかない自然の圧倒的な力を感じることが出来ます。

「玄武岩」の名は良く耳にすると思います、これは玄武洞からこの名が来ているようです。
1884年(明治17)岩石の日本名を制定する際に玄武洞の名に因んで「玄武岩」と命名されたようで、言ってみれば玄武岩の発祥の地と云っても良いのかもしれない。
ここの玄武岩の持つ磁気は、現在の地磁気と反対の向きを指していることが発見され、この地の玄武岩が出来た当時の地球の磁場は反転していたとされ、その説は後に260万年前から78万年前まで逆転していたことが広く認められるようになったという。
なんともSF映画を彷彿とするような発見がこの地からもたらせられた。

160万年前の火山活動で流れ出したマグマが、冷えて固まる時に作り出した規則正しいきれいな割れ目は柱状節理と呼ばれ玄武洞の始まりで、約6000年前に地上に隆起し、波に洗われ姿を現したのが現在の玄武洞、と云われていますがそんな火山があったのは事実だろう、その火山とはまで明確に言及されないのは何か消化不良気味な感じがしてならない。
「そんな火山があったのね」でサラッと流せばいいんだろうが、城崎温泉の源泉の熱量は紛れもなく地下に秘めている事を思うと・・・なんだろう?
ついつい考えたりもする。

なんだろう?から流れ出た溶岩は柱状節理として露出し、人が採取し洞窟となって行き、現在の姿になったようです。
採掘された岩は人の営みに利用され、石垣や身近なところでは漬物石などにも利用され、江戸時代の1807年(文化4)に幕府の儒官、柴野栗山により「玄武洞」の名が付いたとされます。
4
玄武洞。
公園に入り最初に異様な光景を魅せてくれるのがこの玄武洞。
右には社が祀られているようなので向かってみました。
5
成田山不動明王と彫られた石標、これも柱状節理の岩を利用したものかもしれない。
規則正しく綺麗に面が整ったこの岩は、様々な使い方に対応できそうだ。
6
「成田不動尊」社殿全景と解説。
玄武洞を訪れた全ての人々に玄武洞不動明王のご利益を授かれるという。

これは参拝しておくしかないだろう。
創建等詳細は調べきれませんでしたが、本尊は不動明王。
7
玄武洞と「成田不動尊」。
8.5
玄武洞と火山活動についての解説。
「火山の形は残っていません」とある、それはそれでいいのだが…
8
玄武岩溶岩の厚い層が形成され、むき出しとなった玄武洞。
マグマが冷却され体積が収縮して出来る割れ目(節理)は切り出しやすかったのだろう。
これを人々が採掘し、その採掘跡が洞窟として残った人口の洞窟。
ここから切り出された玄武岩は城崎温泉街の護岸や豊岡の石積みなどに利用されたという。
綺麗に整った5~8角の石柱は写真右手にも断面として現れています。
9
断面が見えるかと思えば側面が現れ、溶岩の複雑なうねりが見られる。
想像もつかない自然の造形が目の前に現れている。
10
11
玄武洞の名の由来と人とのつながりを伝える解説板。
現在見る玄武洞は1925年(大正14)の北但馬地震による震度6の揺れで崩落した後のもので、案内板には崩落前は巨大な洞窟が幾つもあった事を伝えています。
12
青龍洞。
成田不動尊から右に進んだ先に露出する岩壁。
横方向の流れが多かった玄武洞に対し、こちらは縦方向にうねりながら流れたのが見て取れる。
岩壁の前には小さな池(願掛け池)があり、水面に写る柱状節理の姿は池の主「龍」をイメージさせるものがある。思わず賽銭を投げ込みたくなる、不思議な空間。
鏡の様な願掛け池の水面に青龍洞や四季折々の景観が写り込む姿も美しい事だろう。
13
縦の流れに、右からも上方向に流れ込んでいる。
なんという地形、そして岩盤の上に堆積した僅かな地表に根をおろす樹々の生命力。
圧倒的な自然の造形美と生命の逞しさに唯々佇むのみ。
14
青龍洞解説。
玄武洞、青龍洞と見て、次は玄武洞の左方向の白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞に向かいます。
15
園内は写真上の様に歩道が整備され、石段や石垣などにも柱状節理が利用され、この地にとっては欠かせない重要な資源だったのが分かる。

白虎洞全景と解説板。
16
白虎洞。
こちらは正面は横に流れ、左方向はこちらを向いて流れたようで、石垣でも積んだかのように綺麗な多角形の断面が整列している。
17
こうした岩は採掘が容易なのかも知れないが、常に危険が付きまとう命がけの作業だっただろう。
現在も経年劣化や地震等で部分的な崩落は起き、青龍洞などでは崩落した柱状節理が池に堆積している光景が見られ、今も山全体が蠢いているようだ。
18
白虎洞解説。
19
白虎洞から左に進むと南朱雀洞。
20
こちらはこれまで見た綺麗な多角形の節理の姿はあまり目に付かない。
解説によると溶岩の先端にあたる部分で、固まった先端部分からトコロテンの様に次々に溶岩が吹き出た事からこの様な形状になったのだと云う。
この正体は誰よ。
21
南朱雀洞解説。
22
南朱雀洞から少し下がった左方向に北朱雀洞があります。
23
正面に石垣の様に断面が現れ、奥には柱状節理がはっきりと表れていて、南朱雀洞と似てはいますがここはまた表情が違います。
玄武洞、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞と見て廻ると1時間程。

訪れたのが10/26、紅葉には早かった。
周囲が紅葉で染まると更に美しく神秘的な光景を魅せてくれるでしょう。
24
展望台から見る円山川に山陰本線を走る列車が写り込む、右方向は城崎温泉方向になります。
25
玄武洞公園から円山川河畔に下りて見ました。
先ほどまでは手前に水鳥が群れ、対岸の列車と手前の渡し船を一枚に収めようと待っていたが、列車が来た頃には群れはいない、残念な写真だ。
渡し船は対岸の山陰本線玄武洞駅から玄武洞を渡すもので、風波の影響が欠航しななければ、この船で円山川を渡れるようです。

圧倒的な自然の造形美が日常の雑念を解き放ってくれる。


玄武洞(げんぶどう)公園・成田不動尊
所在地 / ​兵庫県豊岡市赤石1362
玄武洞ミュージアム営業時間・入場料金 / 9:00~17:00・大人800円
駐車場 / 玄武洞ミュージアム、公園、玄武洞観光センターなど3カ所あり
公共交通機関アクセス / JR城崎温泉駅から車で10分程、山陰本線玄武洞駅から渡船がありますが欠航が多いようです。

↑このページのトップヘ