尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

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少彦名神社
桜天神社から桜通本町交差点を北に向かい本町通を名古屋城方向へ。
名古屋城から南に続く本町通は、名古屋城築城にともない現在の丸の内、錦周辺にかけての城下町を東西南北に碁盤の目の様に区切り、武家屋敷や寺社、町屋が整然と建てられてきた場所。
区切られた一帯は基盤割と呼ばれ、本町通りはその中心にあたる通り。
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今回の少彦名神社へは、桜通りを越えて、本町通りを進み4ブロック先の北側で右に歩いていくと写真の社殿が現れます。
社頭前を東西に続く道は下街道で、ここまで参拝した神社と比較すれば周囲の景観は随分と違い、開放的な空間に社殿があります。
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社頭は南向きで、社地は東西に細長く、右手に「薬祖 少彦名神社」の社標が建てられています。
社標の寄進年は昭和36年とありました。
鳥居は社地の中ほどに木造の明神鳥居を構えます。
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名古屋市の散策路のひとつ基盤割コースのスポットになっているようで、写真の案内図も掲げられ、下には尾張名所図会の京町通の解説がありました。
「和泉町・茶屋町・京町・中市場町が属していた筋で、京町は清州から移された町名。
京都から御服物などを扱う商人が移り住んだことが由来。
安政2年(1855)の大火後、薬種問屋街として発展した。
茶屋町には尾州茶屋家や伊藤次郎左衛門家(のちの松坂屋)など名門・富豪が並んでいた」

因みに解説は以下のようなものでした。
「祭神である少彦名命と大国主命(おおくにぬしのみこと)は、全国を巡り、国土開発や病気治療、医薬の普及など多くの業績を残したとされています。
その古事により、二柱の神様が医薬の祖「薬祖神(やくそしん)」として祀られています。
「薬と健康の神様」を祀る神社として、「無病息災」、「病気快癒」を祈願するための数少ない神社であることから、健康と病気回復を願う人の参拝が多く、今でも付近には薬を扱う会社が集まっています。
大国主命が丸裸にされた白兎の体を蒲の穂で治療を施し快癒した「因幡の白兎伝説」にちなみ、幸運を招く「福兎」を社の象徴としています。
社殿建立は、大正4年(1915)」
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社殿全景。
鳥居の右に由緒と撫で兎?。
参道の先に本殿とそれを守護する狛犬の姿が見られます。
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鳥居前から境内を眺める。
街中だからか雑草もなく境内は綺麗に整備されています。
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少彦名神社由緒、内容は以下。
「少彦名神社
祭神 少彦名命、大国主命
社殿創建 大正4年11月21日
大祭日 10月16日(土日の場合は前日の平日)
御利益  無病息 病気快癒
由緒
当神社は、薬と健康の神様「少彦名命」と「大国主命」をお祀りしています。
少彦名命と大国主命は、日本書紀や古事記に記されているように全国を巡り、国土開発や病気治療、医薬の普及など多くの業績を残されました。
その故事にならい、諸人は元より、茶業、医療に携わる人々が、両神を「蒸祖神」として崇め、お祀りするのは、このような由来によるものであります。

福兎
大国主命が丸裸にされた白兎の体を蒲の穂で治療を施し快癒した因幡の白兎伝説にちなみ幸運を招く「福兎」を 当神社の象徴としています。
福像に触れると、無病息災・病気快癒の願いが叶うと言われています」
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鳥居額には「少彦名神社」とある。
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無病息災・病気快癒の福兎。
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本殿域全景。
流造の社殿と基壇の上に狛犬も祀られている。
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本殿側面から本殿域の眺め。
本殿を守護する白い眼をした狛犬、小さいが精悍な顔つきに見える。
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寄進年未確認の狛犬。
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神社の創建は境内、社頭の解説にあるように、創建は大正4年(1915)。
少彦名命 大国主命をお祀りする神社。
起こりは茨城県大洗海岸の大洗磯前神社と茨城県那珂湊市の酒列磯前神社より、少彦名命と大国主命を勧請し、旧住居表示の東区呉服町2丁目に鎮座したのが起こり。
空襲により社殿を焼失。
昭和23年(1948)、現在地に遷座。
昭和25年(1950)、大阪の少彦名神社からご分霊を合祀。
昭和34年(1959)、伊勢湾台風で被災、同年に再建。
平成27年(2015)、鳥居と社殿を新築。

10月16日(土、日の場合、前日の平日)の大祭の神事では、古くから使われてきた薬研(やげん)と鉄鉢を使用した、古式手法で薬の原料を粉末にし、神前で調薬・お供えする神事が行われるという。
時代劇とかでは見た事はあるが、実際に見た事がないのでこの神事一度は見たいものです。

少彦名神社
創建 / 大正4年(1915)
祭神 / 少彦名命、大国主命
所在地 / 名古屋市中区丸の内3-2-24
参拝日 / 2023/09/01
公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線久屋大通駅から​徒歩10分
桜天神から徒歩 / 桜通本町交差点を北へ徒歩​15分前後
関連記事 / 
名古屋市中区錦 2「桜天神社」
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名古屋市中区錦 1「朝日神社」

既に掲載した朝日神社が鎮座する広小路通りを西に進み、広小路七間町交差点で右に折れ、桜通りを目指します。
桜通りを左に折れて2分程先の桜通り沿いに桜天神社は鎮座します。
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9月に入り、空は秋の訪れを告げはじめ、少しは暑さも和らいだだろうと出かけてみたものの、なにが〃
風が通らないビル群では日陰を探しながらの移動となる。
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桜天神社全景。
合格祈願で知られる名古屋三大天神(山田天満宮、上野天満宮)の一つで、誰しも一度は訪れた事はあるだろう神社だと思います。
社名の桜天神社は桜通りの名前の由来となるほどの歴史を持つ神社です。
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上は尾張名所図会(江戸時代末期から明治にかけて刊行)の挿絵に描かれている桜天神社。
描かれた当時は桜天満宮と呼ばれていたようです。
始まりは信長の父織田信秀に遡り、道真を深く信仰した信秀は京都の北野天満宮から道真の神像を勧進、那古野城中に祠を祀った事に始まり、天文7年(1538)に現在の地に遷座したもので、境内には桜の大木があったと伝わる、県内では最も由緒のある天神社とされます。
挿絵の社殿配置と現在の配置では随分と違っているようです。
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桜天満宮社頭全景。
社頭は北側の桜通りに面していますが、本殿は参道先で右に折れた先に東向きに鎮座しています。
社頭のある北側以外の東・西・南側は全てビルに囲まれているので、境内は風の通りは今一つで陽射しも遮られる環境にあります、ある意味日陰を求めて逃げ込むにはいい環境かも知れない。
社頭は左に時分鐘のレプリカ、中央に「桜天神社」の社標、参道の先に朱の明神鳥居、その先の神楽殿を望む。
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時分鐘解説。
「万治4年(1661)3月藩命によりここに鐘楼を造り昼・夜12時に鐘をついて時を知らせた。
鐘に鍋屋町水野太郎左衛門藤原則重の作であった。
しかし宝暦13年(1763)の火災で焼失。
翌、明和元年(1764)藤原孝政により鐘は新調され時を知らせた。
この鐘は特に音色がよく、名古屋城下に鳴り響いたが明治6年(1873)に廃止された」
先の挿絵にも優に社殿の高さを凌ぐ袴腰の大きな鐘楼が描かれ、城下に時を知らせていた様子が見てと取れます。
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鳥居から境内の眺め。
鳥居の先には一対の狛犬が守護しており、参道左に二つの手水舎、筆塚がある。
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鳥居扁額は「天満宮」。
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桜天神社由緒。
「桜天神社由緒
祭神菅原道真公
例大祭 3月25日、9月25日
織田信秀(信長の父)は菅原道真を深く信仰し、京都の北野天満宮より、公の神像を勧進して那古野城中に祠を祀った。
これを天文7年(1538)現在の地に移した。
愛知県下で最も由緒のある天神社で元治、宝暦年間、昭和20年3月の大空襲など三度の戦火にも御神体は氏子により守られ現在も祀られている。
祭神菅原道真公は代々文章博士を務める家に生まれ、10歳にして全ての学問を修め、特に書道では弘法大師、小野道風、菅原道真の三人は書道の三聖と云われた事から学問の神様として崇敬されてきた。
市博物館に所蔵されている「名古屋名所図絵 尾張名所断扇絵」には桜天神社祭礼(3月・9月)の植木市のの賑わいの様子が描かれ、昭和初期までの繁栄ぶりが偲ばれる。
現在春秋の大祭には献書会が開かれ学業向上、入試合格祈願の参拝者が多い」
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鳥居の陰に隠れるように佇む小型の狛犬。
寄進年は明治31年(1898)、阿形の体に残る割れは先の大戦の空襲によるものだろうか。
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参道左の神社敬称の由来と社碑。
「織田信秀が天文7年(1538)京都北野より、菅原道真公の木像を迎えこの地に遷座しお祀りした。
この境内には桜の大樹あり「桜天満宮」といい多くの人に親しまれて来たが、明治維新神仏分離令の折り「菅原神社」と敬称し明治35年(1902)菅原公千年祭を記念して「菅原神社」の社碑を建立した。
「桜天神」と敬称し崇敬されている」
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参道左の手水舎。
左に「願の水の牛」の解説。
「京都北野天満宮参拝した人の言い伝えによると、この牛に自分の歳の数だけ柄杓で水をかける願いが叶うと云われました。
またこの水で字を書くと上手に書けるとも云われています。
戦後に柄杓の裏に願い事を書く様になり、それを見た参拝者の人達から柄杓を授与して欲しいと求める声が多くなり当社でも授与するようになりました。
歳の数え方
当社では水の掛け方にも決まりがあり、10歳まではその歳の数だけ、10歳以上は10年を1歳と数えこれを加えます。
(例)5歳は5杯、15歳は6杯」
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…とある、自分だと…〇杯かぁ、結構大変だぞ。
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右隣りは天神井戸。
これも同じ作法だろうか、今日は井戸もお休みのようだ。
注ぎ口は鷽(うそ)の形をしており、鷽は菅原道真が謂れのない罪で流罪となり、太宰府へ向かう海上で遭難した際に、鷽が船の舳先にとまり先導し命を救ったと云われ、天神さまと鷽は縁のある鳥で天神社では鷽替え神事も行われ、桜天神社では珍しい土製のうそが手に入る。
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伏せ牛の手前は筆塚。
紙にすらなかなか上手く書けないがこの碑に刻まれた文字の達筆な事。
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正面神楽殿と手前の撫で牛。
神楽殿は入母屋銅葺屋根の妻入りで大きな梅鉢の紋が印象的。
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神楽殿の額…読めない。
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神楽殿から参道は右に折れ、正面に拝殿と左に境内社があります。
拝殿は平入の入母屋造りで一間の向拝が付くもの。
この奥にあるであろう本殿は全く見ることが出来ない。
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鈴を鳴らすと妙に反響して聞こえるのは気のせいか?
賽銭投入、参拝。
拝殿額は「桜天神社」
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拝殿扉には木目の綺麗な梅鉢紋が彫られています。
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拝殿左の境内社は銅板葺の流造。
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祭神は蛭子社、大黒社、少彦名社、秋葉社、猿田彦社、金刀比羅社、白太夫社の7社相殿。
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桜天神社境内から桜通りの眺め。
往古のこの辺りは萬松寺の境内だったとされ、桜天神社はその鎮守として置かれたようですが、名古屋城築城(1610)に伴い萬松寺は大須に移され、桜天神社だけがここに残されたとされます。

いま門前にある時分鐘、レプリカとはいえ昔ながらに時を告げる魔改造を施して見てはどうだろう。
国内・海外を見ても古い町にはシンボリックな時を知らせるツールが見受けられます。
喧騒に溢れた殺風景な街中に辰鼓楼のような存在がひとつくらいあってもいい気がする。

桜天神社
創建 / 天文7年(1538)那古野城下から遷座
祭神 / 管原道真
境内社 / 蛭子社、大黒社、少彦名社、秋葉社、猿田彦社、金刀比羅社、白太夫社の7社相殿
参拝日 / 2023/09/01
所在地 / 名古屋市中区錦2-4-6 
公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通り線丸の内駅下車 ​桜通りを東に2~3分程​​
朝日神社から桜天神社 / ​北へ徒歩10分程
関連記事 / ​名古屋市中区錦 1「朝日神社」

9月に入り久し振りに市内中心部の神社を巡って来ました。
名古屋市中区錦3「朝日神社」
広小路通りの北に社頭を構える神社で社頭左に交番がある。
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広小路の起こり
慶長20年(1615)家康により築城された名古屋城、その築城と併せ、城の南方の城下の経済発展のため基盤割を行い、400年以上を経た現在も残っています。
万治3年(1660年)の大火により、この碁盤割りの建屋をことごとく焼失し、武家屋敷にも類焼した、当時の道幅は3間(1間=約1.8㍍)と云われ、大火から学び防火帯として15間に拡幅されました、これが今の広小路通りである。
慶長15年(1610)那古野城内に鎮座していた那古野神社、東照宮は、名古屋城築城に併せて現在の地に遷座されることとなり、それに伴い氏子区域も伝馬町、宮町まで下がり、代わりに東は久屋町、武平町、南は南呉服町、南伊勢町、南大津町、南鍛冶屋町、南久屋町、南武平町、大阪町、七曲町が加えられて、栄町を中心に22ケ町の産土神となった。

朝日神社は伊勢神宮の神領地(御園)であった、清洲城下の朝日郷に鎮座していたとされ、名古屋城築城に伴い、慶長16年(1611)の夏、家康の請願により、正室、朝日姫の氏神である朝日神社を城下町碁盤割りの守護神として、本丸の南の現在地に移築遷座されたもので、城下町碁盤割り唯一の神社として、清洲越しの士民の崇敬をあつめた神社。
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上は尾張名所図会から広小路の賑わいを描いた挿絵。
江戸時代の広小路は、町家が連なる一帯に今と変わらぬ広い通りが作られ、今以上に多くの人波が描かれています。
通りの南側には紫川と呼ばれる川が流れており、広小路から南はこの芝川に架かる橋で結ばれていた様子が描かれています。挿絵の上が入江町(南方向)で川沿いに護岸が築かれ堀川に注いでいた。

広小路通りの夜の賑わいは、毎日がお祭のように露店が居並び灯火が明るく照らし、大変な人出があり、境内も拍手の音が絶えなかったという。
それまで神社仏閣の境内で行なわれてきた、小屋掛けの芝居や見せ物等の興行、露店も拡幅された広小路通りで行なうことを奨励したこともあり、広小路通りは人の集まる一大繁華街となり、朝日神社の門前町として賑わった。
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朝日神社社頭。
広小路の歩道沿いに常夜灯、右に朝日神社社号標が立ち、明治35年(1902)寄進の神明鳥居を構えます。
鳥居の左には蕃塀が横並びに建てられています。
普段見かける蕃塀のほとんどは、鳥居と拝殿を結んだ一直線上に建てられ、こうした横並びの姿はあまり記憶のないもの。
境内は周囲のビルと楠の巨木が落とす影に包まれ、一歩境内に入るだけでも体感温度は随分と変わります。
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上は尾張名所図会から当時の朝日神社を描いた挿絵。
当時の社殿配置と現在では大きな違いはないようですが、現在の朝日神社の周囲は当時とは大きく変貌し、広小路に面した一方のみ開けていますが、三方は四角いコンクリートの建物が壁の様に囲っています。
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社頭の朝日神社解説。
「慶長16年(1611)名古屋城築城にともない、清州城下から基盤割城下町の守護神として此の地に移築され、神明社・広小路神明宮などと呼ばれていた。
明治9年(1876)、現在の社名なる。
祭神は天照大神と天児屋根命。
社殿などの主要建物は、昭和20年(1945)3月の名古屋大空襲により焼失したが、天保12年(1841)建造と伝わる透垣(目隠しのための透かし塀)だけが被災を免れ、今日に伝わる。
子供の無病息災を祈る赤丸神事が毎年7月下旬に行われ、厄除けの御札が配られる」

真夏の広小路はビルの日陰がなければ陽光とアスファルトの放射熱、それに加え車が放つ熱も加わり暑くて歩くのを避けたい気分になるが、この一画だけは大きな樹々が聳え、まるで都会のオアシスだ。
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透塀(蕃塀)
天保12年(1841)に建てられ、不浄除けを目的として建てられたものと云う。
その昔、尾張藩の牢屋敷が神社の斜向かいに在り、引立てられる罪人を神さまに見せたくないとして、目隠し用として建てられたものとされます。
石製の控柱を持つ木造の蕃塀は銅板葺の三間の各間連子窓は腰板壁のもの、2022/02/17登録有形文化財に指定されている。
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境内右の手水舎は享保7年(1722)寄進。
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貫禄十分の龍口は絶えることなく清水を注ぐ。
最近こうして金網で囲われた龍の姿を見かける、際限のない自己欲求のためなんでもやる、そんな国民性に成り果ててしまったようだ。
龍が金網から解放される日は戻るのだろうか、もはや世も末なのか。
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朝日神社社殿全景。
右が社務所で昭和61年(1986)に本殿、祭文殿、拝殿を後方に移築嵩上し、境内左に神與庫を新設したのが現在の姿。
古くは神明社、広小路の神明宮、広小路の朝日神明宮と称されていたが、清洲越しを後世に伝えるために「朝日神社」に改称された。
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神與庫。
おらがドラゴンズの「なごや昇龍みこし」を保管するもので、名古屋市制百周年を記念して作られたそうだ。
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境内左の境内社。
明治元年(1868)、明治政府による神仏分離令に伴い、周辺の寺で村社として祀られていた子守神社、児宮神社を摂社として遷座されたもの。
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左側から唯一鳥居を構える公孫樹龍神社。
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その右が秋葉社・金刀比羅社の相殿。
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天神社。
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戸隠社(左)・春日社の相殿、八幡社(右)。
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朝日稲荷の鳥居から境内社を眺める。
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拝殿左の朝日稲荷鳥居。
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参道から本殿域の眺め。
朝日神社社殿と周囲の建物の影響から一段と暗く感じる。
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拝所の先には二つの社が祀られています。
左が稲荷社で右が子守社・児宮社になり、拝所内に其々の扁額が掛けられています。
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この左右から本殿域を守護する狛狐。
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稲荷社(左)と右が子守社・児宮社の相殿。
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稲荷社。
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子守社・児宮社。
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稲荷社から右の朝日神社本殿。
全景は捉えきれないが、内削ぎの千木だけは見ることが出来た。
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同一場所から見る拝殿。
屋根を覆う樹々からはここが街中の神社である事を感じさせない。
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拝殿。
朝日神社は先の戦災により蕃塀を除く社殿や御神体と一部の宝物を除き焼失。
現在の社殿は昭和28年(1948)7月に再建されたもので、昭和33年(1958)には市道拡張に伴い、石の大鳥居、石垣、石灯籠、透塀の移築が行なわれそうです。
挿絵の配置と多少違うのはそうした事が要因のようです。
更に昭和61年(1986)には社殿を後方に移築し現在の姿になったようです。
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神門は五三の桐紋。
祭神は天照皇大神、天児屋根命をお祀りします。
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拝殿から正面の番塀と広小路の眺め。
牢屋敷は既にないが、通りを行き交う多くの車の姿を良く遮ってくれている。
市内中心部は道幅も広く車を利用するには便利なんだが、一人しか乗らない大きな車の移動にここまで車道を整備する事に疑問を感じる。
自家用車の乗り入れ規制や曜日を定めて歩行者や自転車道に開放するとかして、暑い街中から発する熱を減らす恒久的な仕組みがあってもいい。
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コンクリートジャングルのなかの貴重な杜だ、灼熱の歩道に出る前に次の目的地まで日陰の多い道を考えよう。

朝日神社
創建 / 慶長16年(1611)
祭神 / 天照皇大神、天児屋根命
境内社 / 子守社・児宮社、稲荷社、公孫樹龍神社、戸隠社・春日社、八幡社、天神社、秋葉社・金刀比羅社
所在地 / ​名古屋市中区錦3-33-21
参拝日 / 2023/09/01
公共交通機関アクセス / 地下鉄「栄」駅から広小路通りを西に徒歩​5分から6分程

名古屋の玄関口、名駅から東方向に鎮座し、徒歩圏内で行ける神社を巡って来ました。
堀川を渡り、中区大須1の洲嵜秋葉神社を参拝し一区切りとします。
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中村区から新洲崎橋を渡ると中区となり、若宮大通の南側を東に進みます。
写真は洲崎神社。
嘗ては海岸線がこの辺りまで迫っていました、洲崎神社や旧町名の洲崎町の名の由来はよく分からない。須嵜の名からすると、海辺から続く洲の先っぽに位置した事からきていると勝手に想像する。
昔の地名はその地を良く表していたものです。
今では洲の面影は消え、嘗ての波打ち際にはビルが立ち並び、渡るのに一苦労する広い幅員の若宮大通が東西を貫いている。
この若宮大通りは焼け野原となった名古屋の戦災復興計画の一環として、延焼を食い止め、尚且つ避難可能なスペースとした防災目的の意味も込められて作られたもの。
その道路の上には名古屋高速の高架が聳え立つています。
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上は明治とほゞ現在の地図の比較、緑で示したのが前回訪れた「白龍神社」です。
左には当然若宮大通の姿はなく、赤く示したところが今回の目的地「洲嵜秋葉神社」。
明治の地図には鳥居の印もなく洲嵜秋葉神社の創建や由緒は分かりません。
少し東に進めば名古屋市科学館のある白川公園も近い。
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防災目的の若宮大通(100㍍道路)と名古屋高速。
洲嵜秋葉神社はこの通り沿いに鎮座しています。
この光景、火災はともかく、ここで地震に遭遇した時はいい心地はしないな。
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通り沿いに社頭を構える「洲嵜秋葉神社」
社地は洲嵜どんぐり広場の一画にあり、広場には桜の樹が植えられ、春には殺風景な街並みに彩りを添えてくれる。
この歩道を5分程行くと、同じように通り沿いに鎮座する日出神社も近い。
若宮大通の建設にともない、周辺の住居や社寺は移転を余儀なくされた事だろう。
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社頭全景。
北側に鳥居を構え右側に「洲嵜秋葉神社」の社標(1921年寄進)が立つ。
この社標側面には「皇太子殿下御外遊記念」と刻まれています。
門の扉には葉団扇の紋が施されている。
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歩道から本殿の眺め。
北向きの社頭ですが本殿は東を向いて祀られています、社頭の扉は閉ざされており隣のどんぐり広場へ。
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どんぐり広場から本殿の眺め。
本殿両脇に大きな石碑があり中央に神明造の本殿。
本殿前に一対の常夜灯があり、社地を取り囲むフェンスには扉が設けられています。
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鰹木は6本?で内削ぎの千木が施されたもので、境内に狛犬は見当たりません。
祭神は軻遇突智命。
限られたスペースの社地ながら氏子の方々の手入れは行き届いています。
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右の石碑は修築遷座碑とあり、その下に昭和廿十一年(1946)と刻まれているのか?
終戦の翌年に修築遷座されたようです。
左は石碑の碑文は読み取れなかった。
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狛犬を探していたところ、境内左に石碑を見付ける。
「戦災復興都市計画事業による百米道路建設に伴い此の地に鎮座 昭和37年7月」と刻まれていました。
二つの碑文からすると神社は短期間で二回遷座しているのだろうか。
どこから移って来たかとなると、やはり100㍍道路が起因しているのだろう。
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詳細は分からない洲嵜秋葉神社ですが、戦災や都市開発の荒波に揉まれながら漸く見つけたのがこの地。安住の地が与えられ、この地の禍除けの神として氏子達に護られている。
バスや車の車窓から目にしながら訪れる機会がなかったが漸く訪れることが出来た神社。
賽銭箱が見当たらず、参拝だけさせてもらいましたが、賽銭の有無で差別するような神さまではないだろう。

洲嵜秋葉神社
創建 / 不明
祭神 / 軻遇突智命
所在地 / 名古屋市中区大須1-5
白龍神社から洲嵜秋葉神社 / ​新洲崎橋経由徒歩15分程
参拝日 / 2023/04/27
関連記事 / 
・「白龍神社」名古屋市中村区名駅南1
・​名古屋栄の歴史ある『洲崎神社』
・​堀川沿いに訪れる人もなく佇む『津島社』
・​清州越しから現在まで古墳を守り続ける「日出神社」

名古屋市中区錦1「泥江(ひじえ)縣神社」、個人的にとても思い出深い神社。
 若い頃、先輩や同僚と「料亭でたらふく飲み食いしてみよう」なる暴挙を催した。
相場も知らない若造がバブルに浮かれ常軌を逸していた時期ならでは事。
案の定、帰りの電車賃も使い果たし、ひたすら歩いて家路を目指した事がある。
今思えば笑い話でしかないけれど、家に着いた頃の朝陽が綺麗だったことを覚えている。
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その時こちら泥江(ひじえ)縣神社の社頭で若造4人が座り込み、休憩させて頂いたのは間違いない。
当時と何か変わったのかと自分に問うと・・・よく覚えていない、ただ堀川を越え東を向いて歩いた道路左の神社だった。
以後、馬車馬のように働き(働かされ)、二度と訪れる余裕はなかったが、そんな時代も卒業し、こうして訪れる機会が得られたことは当時が懐かしくもあり、再訪できたことがありがたくも思える。

本題に戻らないといけない。
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由緒
祭神 三女神、応神天皇、神功皇后
当社は尾張本国帳に従三位泥江(ひじえ)縣天神とあり。
清和天皇 貞観元年(859)豊前の國(大分県)の宇佐八幡宮から勧請された。
当時の境内は八丁(1丁=約109㍍)四方あり、応永26年(1419)修繕、遷宮。
社殿は古社寺保護建築物に指定されている。
徳川時代には藩主を初め一般民衆の崇敬厚く、広井の八幡と称し親しまれ、大祭には豪華な神輿をはじめ、氏子、各町の笠鉾車が出て白山神社への神輿渡御武者行列などあり、名古屋の名物だった。
昭和20年3月19日の戦災で焼失するも復興されるも、昭和41年不審火により再度焼失した。
二度の火災でも御神体は焼失を免れ、社殿は再興され現在に至る。

また、市教育委員会解説に境内縮小の経緯について触れられていた。
「慶長の検地・町割、戦後の道路整備等で減少。例祭日は神輿が傘鉾を従え、丸の内一丁目の白山社へ渡御し、山車も出たという、七代藩主・宗春の頃には、境内に芝居小屋も作られた」とあった。
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上は尾張名所図会巻之二に廣井八幡宮として現在の泥江縣神社の挿絵が記されていた。
由緒にある様に当時の伽藍の大きさと本殿左の相殿を始はじめ、多くの境内社が祀られていた事が挿絵からも見て取れ、記述にも「末社、神明社、熊野社、熱田社、洲原社、三狐神社、浅間社、兒御前社、恵比須社、その他に小祠が多し」とある。
以前掲載した白山神社(中区丸の内1)は応永・永禄の頃(1394~1569)は、泥江縣神社の境内続きの末社であった。
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また、由緒に記されていた神輿渡御武者行列の様子も描かれ、ここにはその山車も享保9年(1724)焼失した事も記されていた。

創建は貞観元年(859)宇佐八幡宮から勧請されたのが起り。
祭神は三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)、応神天皇、神功皇后。
応永26年(1419)修繕、遷宮。
検地、町割、戦後の道路整備等で境内規模を縮小。
昭和20年戦災で焼失再建。
昭和41年不審火で焼失再建。
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まず社頭は桜通りと錦通りの間にある袋町通り。
ビルの谷間に挟まれ、南を向いて鎮座している。
石鳥居と右に社標が立ち、参道の直ぐ先に赤い拝殿が見えています。
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鳥居をくぐった境内の眺め。
ビルの森の中にイチョウの樹をはじめ緑豊かなリアルな杜が残されています。
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参道右の手水舎。
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長い髭を持つ龍口。
水を自在に操る事から手水鉢に龍はつきもの。
想像上のもので角は鹿、耳は牛、頭はラクダ、目はうさぎ、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、腹は蛟、項は蛇
をモチーフにデザインされるそうで、天井に描かれる龍もそうした意匠で描かれているという。
それぞれ個性があり、滑稽なものや、この龍の様に凛々しいものもあり面白い。

ただ、最近こうした物を1gramの価値として捉え、持ち去る輩がいると聞く。
神社で龍を眺めていると疑われるやもしれない。
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参道左の石、謂れはよく分からなかった。
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拝殿正面全景。
連子窓の緑に朱と白、境内のイチョウの黄色と鮮やか。
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拝殿前の狛犬は昭和24年(1949)、戦災で焼失後に寄進されたもの。
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神紋は橘。
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拝殿額は八幡宮。
八のモチーフは八幡神の使いとされる鳩がモチーフになっているのは良く知られています。
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拝殿から本殿方向の眺め。
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拝殿左から流造の本殿の眺め。
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本殿左の錦稲荷社。
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こちらは稲荷神の使い、巻物と球を咥えた狐。
錦稲荷社の詳細は分からなかった。
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錦稲荷社の左に御神木の大きな公孫樹が聳え、その前に小さな祠が祀られています。
座布団の上に、恰も大きな口を開けた鰐のような岩が祀られています。
持ち上げていいものか、撫でるものなのか詳細は分からないが、水や御神酒はかけてはいけない作法のようで、賽銭を供えいつものお願いをして拝んでみた。
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拝殿右の境内社。
間口の狭い社頭から見ると社殿域は狭い印象を持ちますが、拝殿右に広がりを持ち、二つの鳥居と二つの相殿と中央に蛭子社が鎮座します。
ビルの谷間の緑のオアシスのようだ。
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参道右の手水鉢、年代は不明。
左後方には昇竜見返り之楠と呼ばれる大楠が聳えている。
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境内社。
右の相殿は左から五條天神社、金刀比羅社、八神社、楠社。
中央の流造の社が蛭子社。
左の相殿には菅原天神社、秋葉社、住吉社が祀られています。
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鳥居から先の蛭子社。
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蛭子社の前にあるつんぼ蛭子の話。
参拝者はこの社に詣でる前に社殿後方に廻り、社殿の腰板を小石か拳を持ってトン〃と叩いて音を立ててから正面に廻り願い事を述べる。
こちらの神さまはつんぼでなので参拝者の願い事がよく聞き取れない事から、こちらから神さまに気付いてもらい拝む風習が生まれたと云う。
戦後教育の中で何事も理詰めの思想を尊重する傾向にあるが、空想性に結びついた情と云うものが、人に潤いを与える上に重要な心的要素と捉えると、この話は貴いもの。

現在は吊るされている小槌で版木をトン〃と叩いた後に願言葉を唱えると願い事が成就する。
このご利益にあやかるため県内、県外からも参拝に訪れる。

黒い魚梆を見れば塗装も剥がれ多くの願いを叶えて来たことが伺われます。
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蛭子社の黒ずんだ小さな狛犬は大正10年(1921)に寄進されたもの。
戦災以降二度の火災を見てきたはずだ。

泥江(ひじえ)縣神社
創建 / 貞観元年(859)
祭神 / 三女神、応神天皇、神功皇后
境内社 / 錦稲荷社、五條天神社、金刀比羅社、八神社、楠社、蛭子社、菅原天神社、秋葉社、住吉社。
所在地 / 名古屋市中区錦1-7-29
参拝日 / 2022/12/08
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​公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通線​6番出口から徒歩10分程

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