尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

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名古屋市南区南野2丁目 稲荷社
県道36号線から南に一本入った三叉路の角地、住宅が広がる一画に小さな杜が残っています。
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周囲を玉垣が囲う社地の北側に南野2丁目稲荷社の社が見えています。
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三角形の社地は底辺を南に、頂点を北に向け、社頭は東側の道路沿いにある。
タイトな社地になっています。
南側には南野二丁目公民館があり隣接しています。
この公民館、趣に独特なものがある、まるでお堂のような造り。
南野2丁目公民館の札が掛けられていますが、恐らく以前(現在もかもしれない)は弘法堂で地域のコミュニティーの中核だったのかもしれない。
何れにしても公民館としては味のある外観だ。
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社頭は道路から太鼓橋が架かり、その先に明神鳥居が建てられています。
左には「南区史跡散策路」の案内板とその奥に石碑が建っている。
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碑には「福井八左衛門供養塔」とある。
現在のこの地はひと昔前は南野村で当時庄屋だったのが福井八左衛門。

以下は南区福井八左衛門(ふくいはちざえもん)の供養塔(くようとう)から引用。
「福井八左衛門供養塔
弘心寺の境内に、新田開発の遺徳をしのんで、1914年(大正3)に村人が建てました。
南野村の庄屋福井八左衛門は江戸時代、瀬戸内海の製塩業に圧倒され、当地の塩の生産に見切りをつけ、田畑、塩屋を売却して資金を作り、1757年(宝暦7)八左衛門新田開発に挑んだが、完成に至らず地頭竹腰山城守に、新田築方証文と共に返還しました。
山城守は自普請(周辺集落からの供出金)で築立てたがこれも費用がかさみ開発できず、1791年(寛政3)に御小納戸(徳川家直轄)の控となります(『尾張徇行記』)。
なお、八左弘法堂(現弘心寺)は1924年(大正13)に建てられています」
ほぼ素性が見えて来たような、因みに稲荷社の創建は1848~54年(嘉永年間)の創建だと云われているようです。
分からないのは現弘心寺、公民館は寺なのかい? 近くに寺は無かった気がする、それとも弘心寺の札を見落としているのかもしれない。今となってはもやっとしたものが残る。
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社地北側から境内社殿の全景。
一段高く積まれた神殿域に3社が祀られているのがよく分かる。
中央の大きな社は流造、左右の社は板宮造りのようです。
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以前はここに流れがあったのだろうか、太鼓橋を渡り1961年(昭和36)に再建された鳥居をくぐり境内へ。
左右の常夜灯は1928年(昭和3)寄進のもの。
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上は1891年頃の南野の地図。
マーカーの位置が南野 稲荷社の鎮座地になります。
周囲はまだ水田が広がっていて、そこに八左衛門新田に導く水路が伸びています。
社頭入口の太鼓橋は単なる飾りだけではなかったのかもしれません。
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境内左に手水鉢があるが、ここに龍はいないようだ。
今こうして見る鉢は脚の部分に拘りがあるようだ、寄進年度は確認していません。
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参道は右に続き本殿域へ。
石積みの本殿域に更に台座が作られ、その上に社が祀られ、中央社殿の左右に狛狐が守護している。
本殿域左右に常夜灯が二対と本殿域の石積みの左右に狛狐が祀られている。
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鳥居前の燈籠より古そうですが年代は不明。
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本殿域左右にひっそりと佇む狛狐。
こちらも年代不明、立派な尾を持つ狐ですが随分と風化しているのか細かな輪郭は失せている。
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南野 稲荷社参拝させてもらいます。
玉垣で囲まれた本殿域、中央の社を守護する狛狐は見慣れぬ参拝者を睨んでいるような。
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本殿域の三社に社名札は掛けられていません。
中央は稲荷社としても左右の社は………分からない。
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本殿域の狐の目は吊上がり、視線は鋭い。
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稲荷社、流造で大きくはないけれど脇障子も付き彫飾りも入れられている。
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本殿域の社殿全景。
右側にはもみじもあり、それが色付いて行くと境内も華やかになるのでは。
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境内左の片隅に建つ八左衛門新田稲荷社境内改修碑。
1938年(昭和13)の健之で改修に貢献された多くの方々の名が刻まれている。
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そろそろ帰ろうと境内全景を撮ろうとしていた時、地元の方が参拝に訪れた。
こうして参拝に訪れる方の姿があるのは、この稲荷社のご利益があらたかな証かも知れない。
境内も綺麗に掃き清められ、稲荷社を支える氏子の姿が見えてくるようだ。
2021/10/21

南野2丁目 稲荷社
創建 / 1848~54年(嘉永年間)
祭神 / 不明
境内社 / 本殿域に2社の不明社
所在地 / 名古屋市南区南野2丁目
関連記事 / 南区星崎1​「市杵島社」
公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本星崎」降車、​南西方向に徒歩20分程
参拝者駐車場はありません。

名古屋市南区星崎1「市杵島社」
先に掲載した若宮八幡社から旧東海道の国道1号線を北上する、星崎1丁目交差点を左折し、1本目を左りに入り、一本目の細い路地を左に入る。
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この写真の場所までは徒歩で15分程か。
「市杵島社」へは過去に二回ほど自分の車で目指した事がある、目印とする杜は見当たらずいつも素通りで見つけきれなかった。
縁がないものと諦めていたが、若宮八幡社参拝の帰りに再チャレンジしてみた。
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表通りに市杵島社の看板はない、行き止まりポイ左に入る脇道を入ってみた。
雨も降りだし直ぐに見つからなければ帰ろうと決め込んでいた。
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路は先で左に続き、今度こそ行き止まりポイ雰囲気が漂う。
四駆だと来たはいいが、切り返しも出来やしない、バックで戻った方が早い、そんな道です。
今回は歩きなので、細い道など気にしなくてもいい、進もう。
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左に見えていたのは星崎消防団の詰め所、ここまで来て前方に拝殿らしき姿が見えた。
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市杵島社、漸く訪れる事が出来た。
周囲は住宅に囲まれ、境内の杜も表通りからは見えないかもしれない、しかも、表通りや境内入口に社標や鳥居がある訳でもないので尚更、撮り忘れたのか手水舎も見当たらなかった。
市杵島社境内全景。
境内左に境内社が二社、正面に切妻瓦葺の拝殿と本殿の伽藍のようです。
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境内社は右が加具土神社、左が竃(かま)神社。
竃とは、その昔の星﨑は塩作りが盛んな土地だった、そうした事から竈の神様である伊奈突智老翁を祀っているのかもしれない。

こちらの市杵島社の創建についてはいろいろあるようです。
源頼朝の鎌倉幕府創設に伴い、山田重忠(平安時代末期~鎌倉時代初期の武将で1221年7月6日没)が尾張国山田荘(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手市一帯)の地頭に任じられ、市杵島社はその山田重忠の建立とされる。だとすると相当な古社という事になる。

江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張国の地誌尾張名所図会には下の様に描かれています。
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上は星崎の塩田風景で右が見下ろす様な高みに鎮座する星の宮。
塩造りは安土桃山時代(1573年~ 1603年)から盛んになり、江戸時代初期は星崎、前浜では前濱塩と呼ばれる良質な塩が生産され、生産された塩は、塩付街道から足助を経由して信州方面にも運ばれた。

市杵島社の鎮座する場所は恐らく左側の平坦地だろう、海は近く、高みもない天白川の扇状地が広がっていた。

山田重忠の没年は1221年とされるので、彼が建立したとされるこの神社、その時代にこの地が社殿を作れる状況であったかは定かではないけれど、この絵に描かれている状況より海は近かったのではないだろうか。
製塩はその後の新田開発により、塩から米に移り変わり塩造りは衰退しはじめて行った。

創建に関しては一方で1523年(大永3)創建の喚續神社から分霊されたという話も聞く、鳥居や狛犬もないので奉納年度から想像もできない、どうやら定かにはならないようだ。

こうした情報が途絶える前に、ぺラ1の由緒書きでも掲げられていると妙な想像を膨らませる事無く、素直に受け入れられるのだが、見落としているのだろう、境内にそれらしいものは見つけられなかった。
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社殿全景。
四方吹き抜けの拝殿とその奥に神明造の本殿が祀られています。
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正面からの眺め。
ポストのような賽銭箱が印象に残る、拝殿額はないようだ。
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拝殿から本殿の眺め。
神明造の本殿は内削の千木と、鰹木が五本施されている。
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祭神の市杵島姫命は水の神として崇められ、神仏習合時の本地垂迹では仏教の守護神弁財天と同一と考えられ、弁天様というと池がつきもの(勝手な思い込み)ですが、境内にはそうした名残はない。
この地が遠浅のあゆち潟に浮かんでいて、池はあゆち潟そのものだったりして(勝手な思い込み)。
ご利益は金運・財運を高めるとされるが、神仏分離により弁才天の名は消える。
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本殿域は一段高く石垣が積まれ周囲は玉垣が囲む。
玉垣にも目を通してみたが年号や文字などは見つけられなかった。

通りすがりの参拝者に社地が分かりにくかったように、創建などの詳しいことがさっぱり分からなかった市杵島社。
民家に囲まれひっそりと鎮座する姿は、あたかも氏子で囲っているようでもある。
2021/09/11

市杵島社
創建 / 不明
祭神 / 市杵島姫命
境内社 / 加具土神社、竃神社
関連記事 / ​若宮八幡社​、喚續神社​、
公共交通機関アクセス /  名鉄名古屋本線「本星﨑」駅降車、徒歩約12分
名古屋市南区星崎1-51
若宮八幡社から徒歩ルート / ​国道1号線北上、星崎1丁目交差点左折、1本目を左に入る​。
所要時間15分程

「鹿島稲荷神社」から国道1号線を天白川方向へ、大慶橋北交差点で右に進むと左側に杜が見えてきます。ここまで約10分程で元鳴尾の「若宮八幡社」到着です。
所在地で言えば南区元鳴尾町になります。
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社地西側の通りには市バス「大慶橋」のバス停があり、降車すると目の前が境内。
社頭は写真のバス停で降り、右に進み左に続く細い路地を入って行くと鳥居が見えてきます。

若宮八幡社には参拝駐車場はなく、鳥居までは幅員の狭い路地の先となり、車が邪魔になるかもしれません。
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路地を少し進むと左手に玉垣が現れ境内が広がり、手水舎の先に社殿が見えてきます。
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右手に若宮八幡社の社標、右手に細い路地が参道に真っすぐに続いています。
参道は社殿に対し右にずれている?
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いや〃社標の右に更に路地が奥へ伸び、その先に鳥居が見えてきます、そちらから境内に。
鳥居前の路地も写真のように狭いので、社頭までは車では辿り着けません。
先程から見えている重厚な壁は、真宗大谷派の寺院「西来寺」のもので、ぐるっと周囲を囲っています。
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鳥居から続く参道の正面が社殿。
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切妻の妻入り拝殿と狛犬。
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マニキュアまで施され、随分とお洒落で可愛い小ぶりな狛犬。
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社殿全景。
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社殿右の境内には正面に二社、右手に一社祀られている。
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境内の右が社務所の様ですが扉は閉ざされていました。
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拝殿から本殿方向の眺め、「若宮八幡社」の額が掲げられている。
本殿は高縁付きで脇障子が付く、立派な本殿です。
こちらの神社、由緒書は享保年間(1716年~36)創建や宝暦年間(1751年~64)と定かではありません。
いずれにせよ、江戸中期から続く由緒ある神社である事は確かだ。
祭神は若宮八幡社とあるように、八幡神の応神天皇の皇子の仁徳天皇(大鷦鷯尊)を祀る。
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現在元鳴尾と呼ばれるこの地域、明治の頃は鳴尾村で元鳴尾はそこから来ているのかもしれないが、さらに遡れば牛毛荒井村で、それ以前は牛毛、荒井と別々の村で若宮八幡社は荒井村に鎮座する。
先に掲載した同じ元鳴尾の牛毛神社は正に牛毛村の鎮守でどちらも塩田から新田開発により発展した。

若宮八幡社の鎮座する星崎周辺は創建時期から更に遡った慶長(1596年~1615年)の頃、牛毛、荒井、南野、本地、笠寺、戸部、山崎を星崎七か村として記され、当時から星崎の名は定着していたようです。
その星崎の星は・・・話がどんどん脱線していく、戻ろう。
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本殿を右側面から眺める、綺麗な曲線を描く流造で、手前に二社が並ぶ。
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本殿寄りが多度社。
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その右が秋葉神社。
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招魂社。
一社のみ社殿方向を向いて祀られている。
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本殿左の一社は鳴尾社。
招魂社を除き、これら三社は1877年(明治10)に近隣から境内に移されてきたという。
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境内から鳥居方向の眺め、狛犬の視線の先は西来寺。

社殿左方向から境内全景、境内は綺麗に管理され、楠の杜は鬱蒼としたものではなく明るい印象を受ける。
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2021/09/11
若宮八幡社(元鳴尾)
創建 / 不明
祭神 / 大鷦鷯尊 
所在地 /  名古屋市南区元鳴尾町432
境内社 / 鳴尾社、招魂社、秋葉神社、多度社
関連記事 / ​鹿島稲荷社​、 ​牛毛神社
鹿島稲荷社から徒歩ルート /   ​国道1号線を天白川方向の大慶橋北交差点で右へ、10分
公共交通機関アクセス /  名鉄名古屋本線​「本星﨑」駅から南へ徒歩約15分

名鉄本星崎駅から南へ徒歩十分ほど。
国道1号線鳴尾交番北を左に進む、鹿島(かのしま)稲荷社はその通りの左側に鎮座します。
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 国道から曲がると周辺は工場などが立ち並ぶ一帯となります。
正面は名鉄名古屋本線。
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そうした環境の中に鹿島(かのしま)稲荷社がポツンと鎮座する。
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 道路際に南区の史跡散策路の案内板と正面の鳥居から先に赤い稲荷鳥居が奥へと続いている。
社標は鳥居左側にあるが木々に隠れ気味。
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 鹿島(かのしま)稲荷社は別名「久太稲荷」と呼ばれ、創建は四百年ほど前、キツネの化身だった女性をかみさんとして娶った久太夫の子孫が社を建てたという。
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 参道左の手水舎。
手水鉢は古そうですが奉納年までは確認していません。
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 南区史跡案内に鹿島稲荷社について以下のように紹介されていました。
「天白川の砂州が発達して出来たというこの地は、かつて鹿の島と呼ばれていました。別名「久太稲荷」とも呼ばれ、「狐の化身だった久太夫の妻がその正体を子どもに見られ、姿を消す際に恩返しにと一晩で田植えをし、家を出ていった。その年久太夫の田だけ豊かに実った。」という民話が伝わっています」

上は尾張名所図会に描かれた星崎周辺の眺め。
この絵の中には海は間近に描かれ、当時は塩田が営まれていた。
やがて新田開発により海岸線は沖に延び、塩田は水田と移り変わっていったのだろう。
この昔話はそんな頃の話なのだろう、こうした物語は正体が知られると姿を消すのが定番。
「働き者の狐の嫁さんと久太夫はその後も幸せに暮らしたとさ」とはいかないものだろうか。
そんな民話が生まれた水田の広がる光景も、今は工場が立ち並び、長城のような河川堤防と国道を頻繁に車が行き交う。今の風景からは当時の面影は全く感じられない。
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 鹿島(かのしま)稲荷社本殿。
狐の化身だった久太夫の妻は一説によれば京都の伏見で倒れた女性という説があるといい、伏見稲荷から発祥した神社なのかもしれないという。
高く積まれた石垣の上を赤い覆屋が建ち、その中に檜皮葺の本殿が祀られています。
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 鹿島稲荷社本殿全景。
屋根は多少傷みがあるものの、境内含め綺麗に維持管理され、今も熱心な信者により支えられている事が分かります。
以前は稲荷講があり管理されていたようですが、それも20年ほど前に解散、以降は信者方々により維持されているという。
事実、訪れた時も自転車が停められ境内の清掃活動をされている光景を見た。
管理はそれまでの組織から鹿島稲荷を崇敬する個人に移り変わってきたようです。
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 本殿は流造の檜皮葺で破損を進めないようにネットで養生されている。
社名札は「鹿ノ島稲荷」の表記されている。
屋根以外はしっかりしながら、屋根の痛み具合だけが残念だ、しかし見ての通り立派な覆屋が上を覆っているので吹きっ晒しに比べれば遥かにいい。
トタンで包んでしまうと安価で早いだろう。
反面。味気ないものになるだけに補修の手が入るといいが。
補修技術がある訳でもないので僅かな賽銭を足しにしてもらうしかできる事がない。
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 本殿前には二対の狛狐が守護しています、どちらも栄養状態は良さそうで、時に見かける痩せこけて体の細い悲壮感漂うものではない。
後方には複数の境内社があるようです。
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 本殿右の覆屋。
中には二社祀られ、右は秋葉大神、左ら八幡大神が祀られています。
有難いことに境内社は社名札が掲げられているものが多く考える事がない。
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 更に奥は稲荷鳥居が続き、岩を組み上げた一画に祀られた二社を赤の玉垣が囲う、参道はこの二社の外周を周回するように伸びている。
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 見えていた二社以外に隠れる様にもう一社祀られていた。
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 小さな板宮造りの社でありながら、狐の数はこちらは本殿以上に多い。
前掛けが付けられた四対の狛狐が確認できる。
余談ですが、最近こうして低い視線から眺めるのがきつくなってきた。
あわよくば三社を収めたかったがこれが限界、腰と膝が悲鳴を上げるようになってきた。
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この辺りだと本殿後方が良く見て取れる。
本殿の石垣の左右に大量の白い小さな狐がいる。
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 本殿左の二社全景。
この趣は御嶽神社をイメージしてしまう。

左の社は文字神社とある。
聞いたことのない社名、拝み倒すと字が上達するとか?調べて見る価値がありそうです。
右は住吉神社。
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 本殿西側からの眺め。
日没も早くなり、境内は周辺の建物の影が伸びてきた。
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 本殿。
大きなものではないけれど、素木の流造で脇障子と高欄が付く本殿は堂々とした佇まい。
どうしてもネットに視線が行ってしまう。
創建や再建等は定かではないけれど、言い伝えからすれば随分と古くから鎮座しているようで、祭神は倉稲魂命。
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 両脇に子狐たちが寄り添う。
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 本殿から社頭の眺め。
稲荷鳥居は本殿に真っすぐに繋がる感じではなく、本殿後方へ導くように建てられている。
水田が広がっていた当時と様変わりし、現在は工場が林立し周辺の景色は見通せなくなっている。
そんな立地の鹿島(かのしま)稲荷社ではあるけれど、手入れされた境内や日々参拝に訪れる方がいるのを見るとまだまだ途絶えることはなさそうだ。
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 境内で見かけた猫。
途中で姿を見なくなったが、こんな場所でくつろいでいた。
触らしてはくれないが、怪しいおやじは気になるみたいだ。
後ろを走る電車には気を付けろ。

鹿島(かのしま)稲荷社
創建  / 不明
祭神 / 倉稲魂命
境内社 /  秋葉大神、八幡大神、文字神社、住吉神社
所在地 / 名古屋市南区星崎2丁目 
公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線​「本星崎」駅下車、南へ徒歩10分​。
関連記事 / ​石神社

先日掲載した「笠寺天満宮東光院」の続きと云ってもいいかもしれません。
今回は東光院山門から目と鼻の先にある秋葉神社です。
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笠寺観音として馴染みのある天林山笠覆寺(りゅうふくじ)、その仁王門前から南に延びる門前通り沿いに大門町の「秋葉神社」が鎮座します。
写真は北を向いて笠覆寺仁王門方向を見ています。
右手の幟が立つ一画が東光院で、手前左の石垣の上にブロック塀で囲われた一角が「秋葉神社」。
こうして眺めると、神社の存在を示すのは白い石灯篭と本殿の屋根だろうか。
瓦葺の御門は灯篭がなければ民家の玄関とも捉えられる。
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社地は東光院の南にある四つ角の南西角にあり、門や本殿は概ね東を向いている。
さて、ではいつ頃の創建なのかとなると、これがさっぱり分からない。
諸先輩たちが秋葉神社と云われるので、この記事ではそれを尊重させて頂きます。
現地で根拠となるものを探してみましたが見つかりませんでした。
ここから少し南の天満に鎮座する七所神社。
その社地東側にも秋葉神社が鎮座するので、各町内の火伏に祀られた秋葉さんと想像するのは無理な話ではない。
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東光院から見た社地の全景、この細い通りの先に大門の公民館がありますが、ひょっとするとこちらで詳しいことが分るやもしれない。
公民館や集会所と神社、結構セットの場所も見かける。
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御門から本殿域を眺める、板宮作りの社には社名札はなく、玉垣の御門にもシンボルマークは見当たらない。
良く分からんが取り敢えず参拝、賽銭〃っと、あれ?見当たらない、ここは無銭参拝とさせてもらいました。
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本殿全景。
いつ頃ここに祀られているのか、定かではないのですが、やはり気になる。
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上の左は1891年頃、右が現在の笠寺周辺。
旧東海道と秋葉神社から七所神社方向にかけて集落が点在している、明治初期頃の創建だろうか。
どちらの地図も神社は記されていないので創建時期には繋がらないけれど、笠寺大地とその周辺の変貌が分かるので載せる事にします。

南区笠寺町大門「秋葉神社」
創建・祭神 /  不明
所在地 / ​名古屋市南区笠寺町大門
公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線​「本笠寺」駅降車徒歩10分
関連記事 / 「​笠寺天満宮東光院

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