尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

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山神社から県道50号線をJR大高駅方向にへ5分程進む。
右手にあった鷲津山の山麗は途切れ平坦な土地になり、そこに二層の山門を構える寺が八十七番札所長寿寺。
万願寺の圓通寺で納経を終え、かみさん2年がかりの知多四国八十八箇所霊場巡礼も八十七番札所で終わりを迎える。徒歩ルートの都合から前後した。
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特徴のある山門東側に朱の鳥居が見えます。
かみさんは足早に長寿寺境内に向かい、自分は朱の鳥居を目指す事にしました。
とても広い駐車場だ、それもそのはず、ここでは毎月「4」と「9」のつく日にこの場所で地元の生鮮食品を中心に菓子や衣料品などの青空市が開かれるという。
訪れたのが2021/12/2なので市開催日ではなかったようだ。
ある意味それで正解だったか、駐車場には車一台見当たらなかった。

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山門前から見る鳥居、見えていた鳥居のその先に幾つも奉納鳥居が連なっている。
どうやら稲荷のようだ。
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鳥居の額には「高蔵坊稲荷」とあり、参道から赤い幟が連なり鷲津山に向け続いている。
鳥居右側には看板があるようだ。
山の頂まで続いているようだと例の如くかみさんを待たせそうだ。
山登りなら途中から引き返そう、まずは向かってみよう。

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鳥居右の看板は「大高歴史の会」による解説、その内容は以下。
「高蔵坊(こうぞんぼう)稲荷
鷲津山の麓にある長寿寺の伝説です。
昔むかし、寺が傷んできて修理ができず住職の高蔵坊は困っていました。
その頃、この山に一匹の狐が住んでおり、住職はこの狐をとても可愛がっていました。
いつしか住職の嘆きを知った狐は、ある日突然姿を住職に変え、村々を巡ってこの寺の御利益を説いて廻りました。
その結果、各地からお参りの人々がつぎつぎ訪れる様になり寺は立派に修理できたという事です。
村人は、その狐を高蔵坊(こうぞんぼう)狐と呼び、ますます可愛がりました。
その後村人はお堂を建て、この狐を祀りました。
いまも毎年三月第一日曜日、高蔵坊稲荷大祭が行われ、多くの参拝者で賑わいます」

創建等の内容ではなく、長寿寺に纏わる昔話。
知多半島はごんぎつねの里や、つい最近でも半島に生息する狐の行動範囲について新聞にも掲載されていた。それによれば驚くほど行動範囲は広いようだ。
知多を始め、昔は知多の一部で緑豊かだった大高で狐は身近な存在なのかもしれない。
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参道を登り始める、先は右に曲がり見通しが効かない、なんとなく参道は長そうな予感。
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登り始めて直ぐ、左に方型のお堂が見えて来た、幟は更に右手奥に続いています。
これは稲荷ではなさそうだ、堂の左に手水鉢があるようなので堂に立ち寄ってみた。
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堂前の手水鉢。
残念ながら建物の正体や奉納年度に繋がるものは彫られていなかった。

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堂には額はなく、堂内を窺うもこの建物が何かは分からなかった。

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参道に戻り右に少し進むと左側に稲荷鳥居と高蔵坊稲荷の赤い幟が奥へと続いている。
下の堂から少し上方斜面に位置し、鳥居の先に社殿も見える、山登りはないようだ。
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高蔵坊稲荷。
切妻瓦葺の妻入り拝殿で軒下に鈴緒が下げられた鈴が吊られている。
一時期は鈴緒が上げられているのが当たり前だったが、少しずつこうした光景が戻ってきた。
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拝殿は木造でさほど年月を重ねて来たとは思えない綺麗な外観。
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拝殿内には高蔵坊稲荷と高蔵坊大明神の提灯が掛けられていた。
奥は見通せたが本殿までは見受けられなかった。
高蔵坊稲荷の創建時期は不明。
「高蔵坊の昔話」にある住職の高蔵坊や荒廃していた時期がいつを指すものなのか分からない。
長寿寺は幾度か伽藍を焼失し再興され、現在の伽藍は先の大戦で焼失後に再建され、1979年(昭和54)に改修を受けたもの。
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尾張名所図会に長寿寺の伽藍が描かれていますが、そこには高蔵坊稲荷らしき姿は見受けられなかった。
山門の位置(赤丸)が当時と変わっていないと仮定すると、高蔵坊稲荷神社は破線の丸あたりになり、鐘楼は描かれていても周辺にらしきものは描かれていない。
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地図から鳥居の印を探して見ると1968年以降に鳥居が見られても、それ以前の地図からは鳥居は見当たらない。明治以降から昭和初期にかけて建立されたものなのかも知れない。
長寿寺で大蔵坊の事を伺えばすっきりするかもしれない。

荒廃する寺を救った高蔵坊狐、今も鷲津山に住み寺を見守っているのかも知れない。
狐に守られた長寿寺は鉄筋コンクリートの立派な寺として現在も続いている。

​高蔵坊稲荷神社
創建 / 不明
祭神 / 高蔵坊大明神
所在地 / 名古屋市緑区大高町字鷲津山13番地
山神社から徒歩ルート / 県道50号線をJR大高駅方向に​約10分
​関連記事 / 名古屋市緑区 「山神社」、​知多四国八十八箇所霊場「地蔵寺・長寿寺・圓通寺」

圓通寺から県道23号線沿いを北に向かい20分程歩く。
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目の前に名古屋高速が見えるこの辺りまで来れば、それまでの大府市から名古屋市に入る。
ここから更に知多四国八十七番札所長寿寺に向け真っ直ぐ歩いていきます。
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やがて道は県道50号線に出会うので左に進み、県道沿いにJR大高駅方向へ。
丸根砦跡付近の道路左側に真新しい「山神社」の社標が見えてきます。
県道から少し中に入れば鳥居を構えた小さな山神社の社地が見えてきます。

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社頭全景。
左側は東海道線の高架が延々と伸び、鳥居は誰も来ることのできない高架に向かって建っています。
鳥居から奥は社を覆う様に小さな杜に包まれ、二本柱で控え柱のない簡素な手水舎があるだけのこぢんまりとした小さな神社です。
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鳥居からみた境内。
正面の覆屋に本殿が祀られ、本殿域はブロックで囲まれています。
手水舎左に由緒書きもあるようです。
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手水鉢は1960年(昭和35)と刻まれている。
通り沿いの社標も新しかった、意外に新しく造営されたものか。
その考えは傍らにある由緒書きを見て改める事になる。
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「山神社
一般には「山の神さん」と親しみを込めて呼ばれています。
祭神は大山祇命。

この地方では冬は山にいて、春になると里へ降りて田畑を支配する神、ひいては生活全般の神とも云われています。

緑区の山神社では唯一独立した社叢を有し、更に祠は鞘堂に覆われた珍しいものです。
当社の創建は不明ですが、江戸時代初めの1660年代の記録に記載があるので、それ以前から存在していたと思われます。
祭事は12月に例祭、その前夜には提灯祭りが行われています。

なお、東海道線が高架になる前にはこの社の前の道は「山神踏切り」を通って大高のまちに通じていました。大高歴史の会」

小さな神社でありながら、地元の方により立派な由緒が残され語り繋がれている。
分からないものはどこまでいっても分からない、知り得た事を記すだけでも語り部となって行く。
山や森が消え、田畑は消えて家が建ち並ぶ、便利で綺麗な街になって行く。
そんな世界に鬱蒼とした小さな藪や朽ちかけた社があれば、それは奇異な視線を浴び、肝試しの舞台になりやがては消えていく。
小さな神社が消えていく背景に、先人の思いを語り継ぐ語り部を失ってしまうのがひとつの要因かもしれない。
意味もなく祀られたものはないだけに、手書きでもなんでも伝承していく事が、その地に住む者へのメッセージになる事もある。
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石垣で高く盛られた神域、覆屋の中に萱葺屋根の社が祀られていました。
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鰹木は6本、千木は内削ぎの神明造のようです。
祭神の大山祇命は男神とされます、鰹木の数や削ぎの向きから男神か女神を識別するのはやはり無理があるようです。
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社頭の前に万里の長城の様に伸びる高架が立ちはだかり、昔は参道が続いていたのだろう。
今は神社までの道筋は寸断され、忘れ去られた様にポツンと鎮座しています。
何度か歩いていながら見逃してきた山の神様、やっと出会うことが出来たそんな気がした。
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こんな住宅街に山の神様があるの? いつかはそんな事になってしまうのかもしれない。

2021/12/02

山神社
創建 / 不明
祭神 / 大山祇命

名古屋市緑区大高町字中川
寝覚の里から徒歩で常滑街道を東進し国道23号線沿いに北上する事15分。
道は巨大なコンクリート堤防により行き止まりとなり、堤防の先は天白川が流れる。
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いかにも夏を感じさせる空。
堤防から天白川河口方向を眺めてみた。
先に見える橋は天白犀川橋は下を国道23号線、上は名古屋高速大高線。
小さな流れの天白川、ここまで来ると流れを集め川幅はとても広く、水位は平時でも干満の影響を受け上下します。
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堤防から上流の眺め。
左が天白川、手前が扇川、ここから堤防を上流に向かうと大高川が合流する。
見あげる高さの堤防も、上から眺めると意外に水面が近い、標高はこそ-ではないものの、この巨大な堤防に守られ平穏な日常がある。
タイトルなし
1890年代(左上)からほぼ現在(右下)のこの地の変貌。
往古は等高線が密になる辺り以外は波打ち際、新田開発で沖へ〃と海岸線は遠ざかって行き、伊勢湾台風で大きな被害を経験するなどした周辺も現在は住宅地に移り変わってきた。
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堤防から南東方向の眺め。
今回の目的地「龍宮社」はこの堤防沿いに鎮座しています。
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堤防を降りても社殿らしき姿はない。
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堤防から少し離れると、先ほどから手前に見えていた生垣に鳥居が建っていた。
会社の緑地帯の様に見えていたがここが「龍宮社」で間違いないようだ。
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鳥居はとてもタイトな位置に建っていて、鳥居の直前に企業のフェンスが迫り、鳥居から境内全景が伝えずらい。
南東方向を向いて鎮座する「龍宮社」、三方は生垣に囲まれ境内は通りから見付けにくいかもしれない、この生垣が目印といっていいかな。
社地はブロックで囲われ、そこに土が盛られ外周に生垣が植えられ神域を形作っています。
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夏空を背景に仰ぐ高さに本殿が祀られていて、4本の鰹木と縦に削がれた千木が付く。
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龍宮社
「名古屋市緑区大高町字中川
祭神 底筒男神、中筒男神、表筒男神
正式名称は住吉社と云い、大阪の住吉大社からきている。
筒男三神は航海安全の神として各地の海辺に祀られる。
大高川と扇川との出会う南側に鎮座されていたが、昭和34年(1959)伊勢湾台風で被害を受け、河川改修の為、昭和40年(1965)にこの地に移された。
龍宮社提灯祭り 毎年旧暦6月15日」
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筒男三神は正式には住吉大神と呼ばれるようで、伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊を行ったときに、瀬の深いところから底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神、水表で上筒之男神が誕生したとされる水の神。
解説によれば伊勢湾台風で被災以前はここから約400㍍程上流に鎮座していたという。
帰りに寄り道してみたが痕跡は見つけられなかった。
2021/7/18

龍宮社(住吉社)
創建 / 不明
祭神 / 底筒男神、中筒男神、表筒男神
所在地 / ​名古屋市緑区大高町字中川
寝覚の里から徒歩ルート /  ​常滑街道を東進し国道23号線沿いに北上する事15分
関連記事 /  ​寝覚の里​ ​住吉大社

名古屋市緑区大高町中ノ島
あれ、ここのあたりは東海市だと思い込んでいたが名古屋市なんですね。
前回記載した名和町寝覚「神明社」から東に歩いても2~3分程、寝覚めではないのか。
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神明社の鳥居から常滑街道を東に進み「大高町砂畑」交差点を右に進みます。
正面の小高い山は火上山、今回の目的地「寝覚の里」はこの通り沿いにあります。
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通りからだと木々の生い茂る未造成の区画にしか見えないかもしれない。
左手の解説板が目印か。
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寝覚の里入口。
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右側に「史蹟 寝覚の里」
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寝覚の里
「ここは、日本武命と宮簀媛命が新婚のひと時を過ごした館があったとされる所。
当時海辺であったこの地、毎朝寄せてくる潮騒に寝覚めを得ていた。
そのことから里人はこの地を「寝覚の里」と呼んできた。
初めはここよりやや東の田の中に塚が設けられていたが、伊勢湾台風で散逸。
現在の碑は昭和35年この場所に再建されたもの。」

碑文は識別不能な文字もあるので勝手に要約すると
「大高の里の寝覚の地名は、1800年の昔、倭武天皇が火上の御座所にいたとき、毎日朝になると波の音に目覚めたところから付いた。この地名を末永く伝えるために碑を残す 明治43年10月 熱田神宮宮司」という感じだろうか。
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石碑が建つ一画は一段高く盛られ、区画を囲むように樹木が植えられている。
碑はその奥に建つ。
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石碑全体像。
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碑文拡大。
この石の紋様、なかなかのもの。
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景行天皇より東征を命じられた日本武尊、伊勢神宮で倭姫命より草薙神剣を授かり、当時尾張国を治めていた乎止与命の館のあった氷上山に立ち寄りそこで宮簀媛命を見初めたという。
日本武尊は東征を果たし、再びこの地に凱旋し、宮簀媛命と妃として迎え、氷上館にとどまり打ち寄せる波の音を聞きながらひとときの平和な日々を過ごしていた。
その場所がこの地「寝覚の里」とされ地名の由来となっている。

当時は波打ち際か迫っていたこの地も、新田開発や干拓により海岸線は遠く離れ、川はコンクリート堰堤により河口も沖へと伸びていき、今では潮騒は聞こえない。
ロマンス漂うこの地も碑が建てられた頃とは様変わりして民家が立ち並び、道路は整備され車の往来の多い土地柄となりロマンスを感じるどころではないかもしれない。
また浦島太郎とは無縁の様だ。
2021/07/19

寝覚の里
所在地 /  名古屋市緑区大高町中ノ島19
名和町寝覚 「神明社」から徒歩ルート /  ​東に進み大高砂畑交差点を右に数分
関連記事 /   ​火上山の麓、800年の歴史を持つ「神明社」​ 、 『氷上姉子神社』 名古屋市緑区大高町

名古屋市緑区大高町字寅新田
寅新田とはこれまたすごい地名だこと
寅新田の開発が始まった1614年・1626年が寅年だった事から寅新田となったようです

北に巨大な堤防で天白川・扇川の氾濫から守られている海抜〇メートルの地域
現在では堤防のおかげでその事すら忘れてしまう環境です
県道59号線(名古屋中環状線)の二番割交差点を南に入ってすぐ東側に松の木が植えられ玉垣に囲われた一画が寅新田の秋葉社・津島社・御嶽社です
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神社の南方向から県道59号線と天白川の流れる北方向の眺め
細い路地脇に玉垣で区切られた境内、鳥居や狛犬はありません
右の建物は込高公会堂
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石垣が積まれ、その上に瓦葺きの土塀で囲われた立派な門を二つ持つ
神域に社の屋根が三つ見える
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県道側から見た神社、狭い道路際の傾いた玉垣が気になるところ
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境内東側からの全景
境内には立派な松が聳え、右隅には小さな堂もあるようです
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秋葉社・津島社・御嶽社の正面全景
二つの門が特徴的で、「​辻の秋葉社​」と似た外観です
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秋葉社、津島社の全景
屋根の左右に飾られた亀の瓦に視線がいく
門には左が秋葉社、右が津島社と表札がある
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本殿全景
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右の門が御嶽社
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社の両脇に霊神碑が祀られている
江戸時代後期に出来た木曽御嶽山に対する山岳信仰

左が普寛霊神碑
1791年(寛政3)木曾の御岳山の王滝口登山道を修験道の道場として開いたとされる行者
右が覚明霊神碑
1785年(天明5)尾張の行者で黒沢口を開山し、御嶽信仰の開祖となった行者
岩作の御嶽山​等ではこうした霊神碑が立ち並ぶ光景を目にすることが出来ます
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門柱の木鼻の彫や、止め蓋瓦の亀の装飾といい、小さな神社ですが手間をかけ建てられたように見えます
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『青峰山観音堂』
境内の東外れにあり、表情までは識別できないが一体の観音様が祀られています
堂の前の香炉には青峰山と彫られています

青峰山は三重県鳥羽市にある海上守護の霊峰
此処に鎮座する正福寺は一度は訪れたいとは考えていますが・・・・・いつになるやら
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境内西側に伊勢湾台風の被害を語り継ぐ案内板と災害時の水位が刻まれた浸水標識が建っている
2.5メートル、この水位では神社は水没した事になる、なにより多くの方々が亡くなっている
今は強固な堤防で守られていて微塵も感じないけれど、人の英知を超えた自然の力を見せつけられることが多くなってきた
後世に語り継いで行くべき重要な情報です


秋葉社・津島社・御嶽社
創建 /   不明
祭神 /    素戔嗚尊、加具土命
住所 /   名古屋市緑区大高町字寅新田157
アクセス /  ​名鉄常滑線「名和」駅下車 東へ徒歩20分ほど​    

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