尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

タグ:名古屋市緑区

名古屋市緑区大高町字中川
寝覚の里から徒歩で常滑街道を東進し国道23号線沿いに北上する事15分。
道は巨大なコンクリート堤防により行き止まりとなり、堤防の先は天白川が流れる。
1
いかにも夏を感じさせる空。
堤防から天白川河口方向を眺めてみた。
先に見える橋は天白犀川橋は下を国道23号線、上は名古屋高速大高線。
小さな流れの天白川、ここまで来ると流れを集め川幅はとても広く、水位は平時でも干満の影響を受け上下します。
2
堤防から上流の眺め。
左が天白川、手前が扇川、ここから堤防を上流に向かうと大高川が合流する。
見あげる高さの堤防も、上から眺めると意外に水面が近い、標高はこそ-ではないものの、この巨大な堤防に守られ平穏な日常がある。
タイトルなし
1890年代(左上)からほぼ現在(右下)のこの地の変貌。
往古は等高線が密になる辺り以外は波打ち際、新田開発で沖へ〃と海岸線は遠ざかって行き、伊勢湾台風で大きな被害を経験するなどした周辺も現在は住宅地に移り変わってきた。
3
堤防から南東方向の眺め。
今回の目的地「龍宮社」はこの堤防沿いに鎮座しています。
4
堤防を降りても社殿らしき姿はない。
5
堤防から少し離れると、先ほどから手前に見えていた生垣に鳥居が建っていた。
会社の緑地帯の様に見えていたがここが「龍宮社」で間違いないようだ。
6
鳥居はとてもタイトな位置に建っていて、鳥居の直前に企業のフェンスが迫り、鳥居から境内全景が伝えずらい。
南東方向を向いて鎮座する「龍宮社」、三方は生垣に囲まれ境内は通りから見付けにくいかもしれない、この生垣が目印といっていいかな。
社地はブロックで囲われ、そこに土が盛られ外周に生垣が植えられ神域を形作っています。
7
夏空を背景に仰ぐ高さに本殿が祀られていて、4本の鰹木と縦に削がれた千木が付く。
8
龍宮社
「名古屋市緑区大高町字中川
祭神 底筒男神、中筒男神、表筒男神
正式名称は住吉社と云い、大阪の住吉大社からきている。
筒男三神は航海安全の神として各地の海辺に祀られる。
大高川と扇川との出会う南側に鎮座されていたが、昭和34年(1959)伊勢湾台風で被害を受け、河川改修の為、昭和40年(1965)にこの地に移された。
龍宮社提灯祭り 毎年旧暦6月15日」
9
筒男三神は正式には住吉大神と呼ばれるようで、伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊を行ったときに、瀬の深いところから底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神、水表で上筒之男神が誕生したとされる水の神。
解説によれば伊勢湾台風で被災以前はここから約400㍍程上流に鎮座していたという。
帰りに寄り道してみたが痕跡は見つけられなかった。
2021/7/18

龍宮社(住吉社)
創建 / 不明
祭神 / 底筒男神、中筒男神、表筒男神
所在地 / ​名古屋市緑区大高町字中川
寝覚の里から徒歩ルート /  ​常滑街道を東進し国道23号線沿いに北上する事15分
関連記事 /  ​寝覚の里​ ​住吉大社

名古屋市緑区大高町中ノ島
あれ、ここのあたりは東海市だと思い込んでいたが名古屋市なんですね。
前回記載した名和町寝覚「神明社」から東に歩いても2~3分程、寝覚めではないのか。
1
神明社の鳥居から常滑街道を東に進み「大高町砂畑」交差点を右に進みます。
正面の小高い山は火上山、今回の目的地「寝覚の里」はこの通り沿いにあります。
2
通りからだと木々の生い茂る未造成の区画にしか見えないかもしれない。
左手の解説板が目印か。
3
寝覚の里入口。
4
右側に「史蹟 寝覚の里」
5
寝覚の里
「ここは、日本武命と宮簀媛命が新婚のひと時を過ごした館があったとされる所。
当時海辺であったこの地、毎朝寄せてくる潮騒に寝覚めを得ていた。
そのことから里人はこの地を「寝覚の里」と呼んできた。
初めはここよりやや東の田の中に塚が設けられていたが、伊勢湾台風で散逸。
現在の碑は昭和35年この場所に再建されたもの。」

碑文は識別不能な文字もあるので勝手に要約すると
「大高の里の寝覚の地名は、1800年の昔、倭武天皇が火上の御座所にいたとき、毎日朝になると波の音に目覚めたところから付いた。この地名を末永く伝えるために碑を残す 明治43年10月 熱田神宮宮司」という感じだろうか。
6
石碑が建つ一画は一段高く盛られ、区画を囲むように樹木が植えられている。
碑はその奥に建つ。
7
石碑全体像。
8
碑文拡大。
この石の紋様、なかなかのもの。
9
景行天皇より東征を命じられた日本武尊、伊勢神宮で倭姫命より草薙神剣を授かり、当時尾張国を治めていた乎止与命の館のあった氷上山に立ち寄りそこで宮簀媛命を見初めたという。
日本武尊は東征を果たし、再びこの地に凱旋し、宮簀媛命と妃として迎え、氷上館にとどまり打ち寄せる波の音を聞きながらひとときの平和な日々を過ごしていた。
その場所がこの地「寝覚の里」とされ地名の由来となっている。

当時は波打ち際か迫っていたこの地も、新田開発や干拓により海岸線は遠く離れ、川はコンクリート堰堤により河口も沖へと伸びていき、今では潮騒は聞こえない。
ロマンス漂うこの地も碑が建てられた頃とは様変わりして民家が立ち並び、道路は整備され車の往来の多い土地柄となりロマンスを感じるどころではないかもしれない。
また浦島太郎とは無縁の様だ。
2021/07/19

寝覚の里
所在地 /  名古屋市緑区大高町中ノ島19
名和町寝覚 「神明社」から徒歩ルート /  ​東に進み大高砂畑交差点を右に数分
関連記事 /   ​火上山の麓、800年の歴史を持つ「神明社」​ 、 『氷上姉子神社』 名古屋市緑区大高町

名古屋市緑区大高町字寅新田
寅新田とはこれまたすごい地名だこと
寅新田の開発が始まった1614年・1626年が寅年だった事から寅新田となったようです

北に巨大な堤防で天白川・扇川の氾濫から守られている海抜〇メートルの地域
現在では堤防のおかげでその事すら忘れてしまう環境です
県道59号線(名古屋中環状線)の二番割交差点を南に入ってすぐ東側に松の木が植えられ玉垣に囲われた一画が寅新田の秋葉社・津島社・御嶽社です
10
神社の南方向から県道59号線と天白川の流れる北方向の眺め
細い路地脇に玉垣で区切られた境内、鳥居や狛犬はありません
右の建物は込高公会堂
11
石垣が積まれ、その上に瓦葺きの土塀で囲われた立派な門を二つ持つ
神域に社の屋根が三つ見える
12
県道側から見た神社、狭い道路際の傾いた玉垣が気になるところ
13
境内東側からの全景
境内には立派な松が聳え、右隅には小さな堂もあるようです
14
秋葉社・津島社・御嶽社の正面全景
二つの門が特徴的で、「​辻の秋葉社​」と似た外観です
15
秋葉社、津島社の全景
屋根の左右に飾られた亀の瓦に視線がいく
門には左が秋葉社、右が津島社と表札がある
16
本殿全景
17
右の門が御嶽社
18
社の両脇に霊神碑が祀られている
江戸時代後期に出来た木曽御嶽山に対する山岳信仰

左が普寛霊神碑
1791年(寛政3)木曾の御岳山の王滝口登山道を修験道の道場として開いたとされる行者
右が覚明霊神碑
1785年(天明5)尾張の行者で黒沢口を開山し、御嶽信仰の開祖となった行者
岩作の御嶽山​等ではこうした霊神碑が立ち並ぶ光景を目にすることが出来ます
19
門柱の木鼻の彫や、止め蓋瓦の亀の装飾といい、小さな神社ですが手間をかけ建てられたように見えます
20
『青峰山観音堂』
境内の東外れにあり、表情までは識別できないが一体の観音様が祀られています
堂の前の香炉には青峰山と彫られています

青峰山は三重県鳥羽市にある海上守護の霊峰
此処に鎮座する正福寺は一度は訪れたいとは考えていますが・・・・・いつになるやら
21
境内西側に伊勢湾台風の被害を語り継ぐ案内板と災害時の水位が刻まれた浸水標識が建っている
2.5メートル、この水位では神社は水没した事になる、なにより多くの方々が亡くなっている
今は強固な堤防で守られていて微塵も感じないけれど、人の英知を超えた自然の力を見せつけられることが多くなってきた
後世に語り継いで行くべき重要な情報です


秋葉社・津島社・御嶽社
創建 /   不明
祭神 /    素戔嗚尊、加具土命
住所 /   名古屋市緑区大高町字寅新田157
アクセス /  ​名鉄常滑線「名和」駅下車 東へ徒歩20分ほど​    


名古屋市緑区大高町字城山
大高と云えば​

「辻の秋葉社」

​の鎮座する三差路を中心として栄えたところ
現在は細く入り組んだ小路と酒蔵や歴史を感じる趣きのある建物が残る静かな街並み
1
今の静かな街並みからは想像もできないが、このあたりに江明市場が立ち、馬市や諸商いが春秋に2回30日間ずつ行われた時代もあった
1732年(享保17)頃には、月に6回の日を定め市を開く六斎市が許された
人が集まれば火事も多くなる、村の中心で最も賑わうこの辻に秋葉社を祀ったのも頷ける
大高の祭事の際はここに集合して出発、ここで解散する起点でもあったようです
今回の目的地、城山八幡社は「辻の秋葉社」から南に数分歩いた大高城址に鎮座しています
2
秋葉社から南に歩いた左手に小高い丘へ続く小路が続きます
道は直ぐ先から登りとなり大高城址登城口です
3
城山八幡社の鎮座する大高城跡は、標高20m、東西に106m、南北32mの台形の丘
四方に二重の濠を備えていたそうだが、今は外土居や内濠も当時を残す遺構は残っておらず、本丸に向けて歩いて行く途中の地形に名残りを留める程度
4
中ほどに「史跡大高城址」の石標と解説板
左手方向には信長が築いた鷲津砦のあった小高い丘も見る事も出来る
5
解説板から道は右に曲がっていき、そこから本丸は目と鼻の先
6
大高城本丸跡
現在は何も残ってはいないけれど、ここからは​丸根砦​は目と鼻の先、相手の動きは手に取るように分ったはず、お互いが睨み合っていたのでしょう
この距離感の近さに時代を感じる
7
本丸は南方向に広がりをみせ、右側に一段高くなった一画に城山八幡社は鎮座します
8
本丸右側の祠
扉が閉ざされて中を見る事は出来ませんでした
9
本丸の右に先程の小高い場所へ続く石段が付けられ、その先に古びた木製鳥居が見えます
10
城山八幡社境内全景
正面に社、右手に手水鉢、更に右に大高城址碑
11
境内右の手水鉢は1837年(天保8)に大高村の有力者山口源兵衛が寄進されたもの
今は蓋がされ使われていないようです
大高城主の花井備中守により、ここ城山と町屋川の二箇所に祀られたのが1500年頃と言われ
(町屋川の八幡社由緒と年号が食い違っている)
ここ城山の​八幡社は武士の社として村人の参拝は許される事はなく、村人は町屋川の八幡社に参拝する位置付けでした
12
正面は石塀が積まれ、右方向の石組は崩れているが周囲を囲っていた様子
社は東方向きに鎮座し、右側には由緒書きが建てられています
13
当時今川方の松平元康(家康)は、信長が築いた砦に阻まれた大高城に兵糧入れした事で知られます
14
桶狭間の合戦で今川義元が信長に討たれるや、家康は守備していた大高城を去り岡崎に戻ることとなる
信長の手に落ちた大高城はやがて廃城の道を辿り、1616年(元和2)尾張藩家老の志水家がここに館を構え移り住んでいたが、それも明治に入り売却されると城山の八幡社は荒廃していきました
かつては武士が詣でた社に武士はなく、町屋川の八幡社は今も氏子により守られ立派な伽藍を持つ
対照的な道筋を歩むことになります
現在の城山八幡社は本町地区町内会により維持管理され、毎年9月と年越しには住民の幸福を願い祭事が執り行われるそうです
15
社前の一対の朽ちた石灯籠、ここに屋敷を構えていた志水忠時が1670年(寛文10)に寄進したもの
16
社の右にある大高城址碑
大高城
築城年代は不明、土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が、1504年~1520年(永正年間)頃には花井備中守が、1532年~1558年(天文~弘治)の頃には水野忠氏とその息子が居城し、織田信秀の支配下にあった
信秀の死後、息子の信長から離反した鳴海城主山口教継の調略で、大高城は今川の手に渡る事となった
17
社から鳥居の先には大高城址公園として整備された緑溢れる本丸跡が広がります
参拝した3/18には終わりを迎えた椿の赤が彩を添えていました
4月も目前の今頃は桜が彩を添え、静かな本丸にも人が集まっている事でしょう

城山八幡社
創建 / 不明 鎌倉時代初期と思われる
祭神 / 応神天皇、神功皇后、玉依姫
住所 / 名古屋市緑区大高町字城山23
アクセス / JR東海道本線「大高」下車西に徒歩15分前後​ 


名古屋市緑区大高町田中

大高城址から東を眺めると直下に「海岸寺」という寺号の寺があります
寺号から受ける印象は「なんと場違いな」と感じる事でしょう
現在の周囲の状況から見ても、初めてこの地を訪れる方の正直な印象だと思います
以前はこの先に海が入り込んでいた時代もあり、知多半島の北端でした
海岸は強ち不自然でもない場所です
1
ここ大高城址の東端から海岸寺を一望できます
2
ここ大高城址の東端から海岸寺を一望できます
3
大高城跡史跡指定地内に鎮座する天台宗「海岸寺」の伽藍全景

白祐山海岸寺の山門、山門右に地蔵堂
山門をくぐり石段を登った先が境内、左に海岸寺本堂、善光寺、客殿、寺務所、庫裏の伽藍
5
山門右の片隅に地蔵堂が祀られ、馬頭観音や不動明王に出逢う事ができます
4
山門正面全景
両脇には鮮やかな色彩の仁王像が守護しています
6
那羅延金剛力士
7
密迹金剛力士
どちらも鮮やかな色彩が施されています、作者は不明
仁王門は1943年(昭和18)に本堂と共に新築されているようなので近代の作品
8
山門扉の転法輪、心が清浄になるように唱えて右に3回回す事で願いが叶う様です
因みに緑区に多数ある寺のなかで仁王門を備えるのは海岸寺だけだそうです
9
天井に龍が描かれた山門をくぐり正面の石段を登ります
10
11
白祐山海岸寺の創建は天正2年(1574年)、時の織田信長の命によるものです
本尊は定朝(宇治平等院の国宝木造阿弥陀如来座像等手がける)作の聖観世音菩薩を安置します
12
善光寺全景
海岸寺の開山は1574年、当初大高川の河口海岸付近に「源光院」として始まったらしい
1694年(元禄7)の由緒書で現在の海岸寺に改称されたという

1757年(宝暦7)に現在の地に移転、広い寺域と伽藍を有していた様です
寛政(1848~1853)頃の記録では海岸寺、源光院、三光坊のみで他は荒廃していったようです
当時の伽藍が記していないものか調べて見るも辿り着けませんでした

嘉永年間(1848~1853)に火災に遭いましたが、1943年(昭和18)に本堂や仁王門を新築、境内整備が行われ現在の寺観になった様です
13
境内側から山門の軒下を見上げる
そこには般若の面が掲げられ、こちらを睨んでいます
14
山門天井に淡い色合いで描かれた龍
山門が新築されたのは昭和に入ってから、なので近代に描かれたものです
訪れる者を威圧する迫力は、海岸寺の印象を強烈に焼き付ける見応えのある作品です
緑区の紹介では本堂や客殿の襖絵にも龍が描かれていて、画家の中村哲也氏の作とあり、何れもすばらしいものだといいます、機会があれば見たいものです

新しい作りの外観ですが、この地が海岸だった頃から続く歴史を重ねた寺です

海岸寺
宗派 / 天台宗
山号 / 白祐山
創建 / 1574年(天正2年)
本尊 / 聖観世音菩薩・一光三尊阿弥陀如来
寺宝及び文化財 / 聖観世音菩薩像、金比羅天像、大黒天像、一光三尊阿弥陀如来像
住所 / 名古屋市緑区大高町田中14
アクセス / ​JR東海道本線「大高」下車西へ徒歩15分程

↑このページのトップヘ