尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

タグ:東京都

​​東京の方にはお馴染みの芝公園増上寺を訪れる。
それはCOVID-19が身近な存在として感じ始めた2月の事。
1
ビル街に忽然と増上寺の表門である大門が現れる。
この門は旧大門の老朽化に伴い、昭和12年にオリジナルを踏襲し、1.5倍の大きさにして再建されたコンクリート製の高麗門。
面白いのは過去に困窮していた増上寺はこの門の所有権を当時の東京府に寄付したそうです。
その後も所有権は東京都にあったようです、一時困窮していた増上寺も寺勢を取り戻し、門の返却を求めたそうですが、いつからか台帳から抜け落ち、門の所有権が誰のものか不明となっていたそうです。2016年漸く元の増上寺に返還されたもの。ありがちな話かもしれない。
2
3
 大門の先には赤い三解脱門と東京タワー。
新と旧のシンボルが一枚に収まるのも東京ならではの光景。
5
 三解脱門の右に大きな寺号標。

4
 「三解脱門」
増上寺の顔と云ってもいいだろう、3つの煩悩から解脱する門で、三つの煩悩とは「むさぼり、いかり、おろかさ」だとゆう。
重要文化財に指定されている三解脱門、建立は1622年(元和8)に建立されて再建されたものという。
重厚な瓦葺の二層の門で山号額は「三縁山」、楼上には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています
赤門だね。
6
 境内マップ。
創建は1393年(明徳4)と600年以上の歴史を持つ寺ですが、空襲をはじめ幾度となく伽藍は
焼失し、その都度再建され現在に至っています。
なので古い建造物は少ない。
8
 三解脱門をくぐった境内の左に手水舎。
もとは増上寺裏手の6代将軍家宣の父親、徳川綱重の霊廟にあったもの。
空襲の被害を免れ、焼失し再建される前の霊廟建築の名残を伝えるものです。
35
 三解脱門を入ってすぐに「グラント松」と呼ばれる大きな松が聳えています。
1879年(明治12)、アメリカ第18代大統領グラント将軍が国賓として招かれ、増上寺に参拝した記念にこの樹を植えたそうです。
松と呼ぶには一風かわった大樹である。スギといってもいいだろう。
正式名称はヒマラヤスギ、杉は松科だそうで、グラントさんが植えた松なんです。
9
 聖鋏観音菩薩像。
1981年(昭和56)に建立されたもの、美容師の使う鋏の供養塚があるようです。
10
 境内右に入母屋瓦葺の鐘楼。
東日本最大の大きさを誇るのだそうだ。11
 梵鐘は大きい。
1673年(延宝元)に鋳造されたもので、その大きさ故に7回の鋳造を経たそうです。
再鋳の話はないようなので供出は免れたのでしょう。
300年以上を経て、今も朝夕の二回時を知らせています。
36
 仏足石と聖観世音菩薩像。
仏足石は1881年(明治14)に建石されたもので、所謂仏様の足型が刻まれ、これを礼拝するもの。
7
 二月の空に聳える東京タワーと大殿。
12
 左手に増上寺会館と光摂殿。
光摂殿は2000年(平成12)に建立されたもので、天井には色彩も鮮やかな天井画が描かれています。
13
 大殿

戦災で焼失、1974年(昭和49)に再建されたもので、室町時代に作られた本尊の阿弥陀如来、脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の像が祀られています。
地下に宝物展示室(@700円)がある。
14
 増上寺は1393年(明徳4)、浄土宗第八祖酉誉聖聰上人によって開かれたとされます。
三河から江戸に領地替えを命じられ、この地を治める事となった家康は1590年(天正18)に増上寺を徳川家菩提寺に定め、移行幕府から厚遇を受けることになります。
家康は晩年に「遺体は久能山に葬り、葬儀を増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎてから日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」と言い残し、1616年(元和2)75歳で歿しました。
そのこともあり、往事の増上寺は日光東照宮を彷彿とさせる程に絢爛豪華な作りだったとされます。
15
 増上寺大殿扁額と火焔太鼓太陽(右)と火焔太鼓月(左)。
16
 大殿右の「安国殿」
空襲で焼失した大殿に代わり、仮本堂としていた建物。
1974年(昭和49)、現在の大殿完成際に現在の位置に移転されたもの。
2011年に(平成23)に再建されたもの、内部には黒本尊が安置され、年三回御開帳されるそうです。
17
 大殿から見た「安国殿」側面。
18
 安国殿右にある千躰子育地蔵菩薩と西向観音。

19
20
 鎌倉時代、北条時頼が現在の東京タワーの建つ観音山に堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまを安置し、子育て・安産に霊験あらたかと伝えれています。
1975年(昭和50)に現在の安国殿前に遷座、1980年(昭和55)に観音堂落成。
21
 江戸三十三観音札所というものがあるようで、その21番札所。
22
 「千躰子育地蔵尊」。
子供の健康と成長を願って安置され、赤い帽子を被り、赤い前掛けをかけられ、その手には風車を持つ、愛くるしい表情のお地蔵さまがずらりと並んでいます。
子や孫の成長を祈る親の気持ちの数が現れています。
このお地蔵様に導かれる様に奥に進むと徳川家霊廟に続きます。
23
 安国殿後方にある徳川家霊廟。
二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の六人の歴代将軍とその側室、子供の墓所。
以前は墓所、本殿、拝殿を持ち東照宮で見られるように当時の技術の粋を結集した壮麗なもので国宝に指定されるほどだったそうです。それも空襲で被災、焼失を免れた一部も国宝指定を解除されたそうです。
25
 正面の門は鋳抜門と呼ばれ、旧国宝指定のもの。
六代家宣の霊廟の宝塔の前で中門として建っていたものを再建後こちらに移設したそうです。
26
 青銅製の扉には片側に5つの葵の紋が入り、両脇に昇り龍と下り龍が鋳抜かれており、往事を忍ぶ数少ない遺構。
緑青で見辛いものの、雲海にうねる龍が見て取れます。
24
 霊廟前に四体の菩薩像。
港区の文化財に指定されている。
右から普賢菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、文殊菩薩と並び、1258年(正嘉2)の作とされる。
27
 熊野神社
境内に入り、右外れに鎮座する。
28
 八咫烏の彫られた手水鉢。
天照大神の使いで、荒れすさぶる中で東征中に道に迷った神武天皇を導いたとされる。
29
 熊野神社境内から鳥居方向の眺め。
30
 御神体
熊野本宮大社 / 家津御子大神
熊野那智大社 / 大己貴命熊野那智大社
熊野速玉大社 / 伊弉諾尊。
31
1624年(元和10)、当寺の第十三世正誉廓山上人が増上寺鎮守として熊野権現を東北の鬼門に勧請したのが始まりとされる。
由来には
「増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う、縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。」とある。
32
 『熊野』はクマノ、ユヤと二通りの呼称があるそうで、こちらでは「ユヤ」権現と呼ばれ親しまれているそうです。なのでユヤ神社と呼ぶのが正しいのだろう。
33
ユヤ神社から見た三解脱門。
神仏分離の影響だろう、神社の玉垣と大きなクスノキで寺領と分けられてはいる。
34
 黒門
三解脱門の南隣りに建ち、1648~1652年(慶安年間)、三代将軍家光により寄進、建立されたとされます。もとは増上寺方丈の表門だったそうで、1980年(昭和55)に通用門として日比谷通り沿いに移築されたと云う。
以前は黒漆が塗られていた事から黒門と呼ばれるが、現在はこのような色合いです。
細部に彩色されていた痕跡が残ります、シックな黒地の門に施された鮮やかな彩色はきっと美しかったに違いない。
37
 黒門を出て徒歩で右に1~2分行くと幹右側に旧台徳院霊廟惣門がある。
江戸幕府第2代将軍秀忠の霊廟の惣門として1632年(寛永9)に建築されたもので、
秀忠の戒名、台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士に因み、台徳院霊廟といわれ、戦前は本殿、拝殿、宝塔など江戸当時の伽藍があったが空襲により伽藍を焼失、唯一被災を免れたのがこの惣門。
被災前の伽藍は当時の国宝に指定されていたが、焼失に伴い指定解除、現存するこの門が重要文化財に指定されている。
現在はホテルの敷地内ですが、往事はこの門の先に伽藍が広がっていた。それもつい最近の事です。
綿々と受け継がれてきた物を消し去る事は一瞬です。
2020/02/20

大本山 増上寺
創建 / 1393年(明徳4)
山号 / 三縁山
宗派 / 浄土宗
本尊 / 阿弥陀如来・南無阿弥陀仏
住所 / 東京都港区芝公園4-7-35
公共交通機関アクセス / 都営地下鉄芝公園駅から徒歩で3分 他
関連記事 / ​久能山東照宮​、​家康お膝元徘徊
増上寺
    

上野恩賜公園の上野山の西にあたり、上野東照宮の南というか、上野大佛の南といえばいいのかな、上野山の西垂れの斜面に五條天神社と花園稲荷神社が鎮座します。
1
 五條天神社と花園稲荷神社の南参道は其々の神社の鳥居が左右隣り合わせで建っています。
2.
 社頭の「賢薬祖神五條天神社」由緒書き
祭神は大己貴命、少彦名命、相殿 菅原道真命
花園稲荷神社の祭神は倉稲魂命を祀る。
日本武尊が東夷征伐のおりに武蔵忍岡を通りがかり大己貴命と少彦名命の二柱を祀った事から始まるといい、それは1890年前に遡る。
相殿に祀られた菅原道真は、1641年(寛永18)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮とも云われたようです。
社地は創祀以来、天神山(今の摺鉢山)瀬川屋敷(アメヤ横丁入口)他、幾度か変遷を重ね、1928年(昭和3)に創祀の地に最も近い現在の花園稲荷神社隣りに遷座した。

なので、伽藍の規模を見比べると五條天神社の規模が大きく、花園稲荷神社は五條天神社の境内社の印象があるけれど、先に鎮座していたのは花園稲荷神社のようです。
no title
 五條天神社鳥居からの眺め。
石の神明鳥居、よく見ると笠木(鳥居上)と柱の石の色が違うと思います、これは東日本大震災の爪痕です。震災で柱に亀裂が入り、その部分を交換したためにこのように違っています。

鳥居右の彼、桜をバックに写真を撮ってほしいと頼まれましたが、マレーシアから一人訪れたと話してくれた。その後もずっと桜を見入る彼、綺麗なものに感動するのに国境はないという事です。
3
 南参道の鳥居の先の狛犬。
骨太のがっしりした体形で、星梅鉢の紋が入った高い台座から鳥居の遥か先を見据えている様に見える。大きくはないけれど頼もしそうだ。
4
 七福社
五條天神社の境内社で江戸時代には上野の繁栄を願い、上野山の入口各所に祠が祀られたそうです。
七福社もその一つとされています、その名の通り七福神が祀られています。
5
 境内右に方型屋根の手水舎。
その頂きには鳳凰が飾られ、屋根を支える柱は八角の柱を八脚に配置し、その中心に蓮の形の手水鉢が置かれています。
6
 神楽殿
境内東側にあり、後方は不忍池。
手入れされた境内庭園、訪れた2月下旬は丁度梅が見頃を迎えていました。
入母屋銅葺屋根の神楽殿、額には舞殿と記されています。
普段は板扉で囲われていますが、例祭の際は解放され神楽が奉納されるようです。
7
 拝殿全景。
入母屋造で銅葺屋根の拝殿、本殿の容姿を捉える事はなかなかできませんでした。
左右の銅製の狛犬が神楽殿を守護しています。
頭の小さく頭身バランスのいいスリムでスタイリッシュな狛犬、そのフォルムは凛々しいものがあります。
賽銭箱には粟穂紋、狛犬などには星梅鉢の紋が見られる。

五條天神社
創建 / 西暦110年頃
祭神 / 大己貴命、少彦名命、相殿 菅原道真命
住所 / 東京都台東区上野公園4-17
000
花園稲荷神社、南参道
五條天神社と花園稲荷神社は鳥居こそ分かれていますが、不忍池に向かい傾斜する斜面と並行するように斜面の上が花園稲荷神社境内、その下が五條天神社の境内。
其々の境内は玉垣で区切られているわけではなく石段で二社の境内は繋がっています。

鳥居をくぐると、右手の旧社殿跡に小さな赤い鳥居のある穴稲荷があります。
ここは幕末の上野戦争の舞台となり、1873年(明治6)に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、現在の社殿が整備されたようです。
この参道の先を進むと現社殿へ繋がります。
00
 花園稲荷神社参道の穴稲荷の先、額に「神徳惟馨」とあるが、扉が閉じられ詳細は良く分からない。
これは社務所でいいのか?。手水鉢には「盥漱清心魂」とも刻まれています。
特別な御神徳を授かる事ができる、そんな雰囲気を感じさせます。

花園稲荷神社参道は五條天神社の境内より少し上になる事から、この参道からだと五條天神社の本殿が顔を見せます。
外削ぎの千木と鰹木までは見て取れますが鰹木の数、本殿の造までは残念ですが分かりません。
8
 花園稲荷神社扁額と拝殿内の眺め、黒っぽい狛狐が守護しています。
御創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷が正しい名称という事です。
石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われ、1654年(承応3)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としたそうです。

花園稲荷神社
創建 / 不詳
祭神 / 倉稲魂命
住所 / 東京都台東区上野公園4-17
9
拝殿から右に進むと小さな石鳥居の先に稲荷鳥居が連なる参道が続きます。
その先は石段となり、それを上ると花園稲荷神社の東鳥居に続きます。
西に向かってこれだけ高低差があり、五條天神社は更に下になります。
10
 上野恩賜公園側の花園稲荷神社東参道。
参道口を守護する狛犬は年季が入っているようで、阿形は一部欠損し、容姿も個性的です。
11
 花園稲荷神社東鳥居。
社殿は鳥居をくぐり、石段の下になるので上野恩賜公園側から見ると鳥居だけが視界に入ります。

見かけは鳥居だけですが、その先に鎮座する二社は上野の山の守護神ともいえるものです。
2020/02/20

公共交通機関アクセス / JR山手線​​上野」下車西に徒歩5分程​ 
関連記事 /  ​​ ​​上野東照宮​ ​上野大佛

上野東照宮の参拝を済ませ次の目的地に向かう道すがら、上野恩賜公園の小高い丘に「上野大佛」の案内板が目が止まる。
「大佛」さまと聞くとあの大佛さまを思い描くが、こちらの大佛はそのイメージとはかけ離れたもの。
1
公園歩道脇の「上野大佛」の案内板とその先の小高い丘は大仏山と呼ぶそうで、その上に仏塔が建っています。
2
小高い丘に続く階段を登ると絵馬掛けと祠があり、大仏さまが見えてくる・・・・・そう思い描いていた。見渡してみても仏塔はあれど、それらしきものは見当たらない。
3
階段左の祠に視線を向けると、そこには仏様の大きな顔のモニュメントが安置されています。
左に上野大佛とある、これが大佛さまのようだ。
絵馬掛けには「合格大仏」と書かれ、合格を祈願する絵馬が掛けられています。
これだけ多くの願いを叶えなきゃいけない、大仏さまは静かに目を閉じ、優しい表情はしているがさぞかし大変な事だろう。願いが叶った暁はお礼参りもお忘れなく。

それにしても大佛は誇張し過ぎではないかい?
傍らに解説があり、それを読むと何故合格大仏と呼ばれているのか、大佛が誇張ではないことを知ることができる。
4
それによれば、発端は1631年(寛永8)に当時の越後の国の村上城主だった堀直寄により、敵味方なく戦乱で亡くなった者の冥福を祈る目的でこの地に粘土を漆喰で固めた釈迦如来像を建てたことから始まる。

漆喰造りの像は1655~60年(明暦~万治)に江戸住民の浄財を基に木食浄雲僧により青銅製の釈迦如来坐像へと改められたそうです。合格大仏の所以の始まりです。
解説によればその高さは6㍍にもなる銅仏で1698年(元禄11)には大仏殿も作られていたという。
その後1841年(天保12)の火災で大仏さま、大仏殿も被災、1843年(天保14)に堀直央が大仏を修復、大仏殿は時の幕府により再建され、その後も天災や火災を繰り返したそうだ。
1873年(明治6)に上野公園造営に伴い大仏殿は解体され大仏は露わになります、そしてあの関東大震災が起きその際に大仏の顔の部分が剥落してしまったようです。
被災した大仏さまは寛永寺で保存され修復の時を待つも時は第二次大戦。
冥福を祈るシンボルは大仏さまの顔以外は全て軍に供出されます、二宮金次郎やお寺から梵鐘が消えた時代です。それら本来の姿から兵器に姿を変えました。
大仏さまの顔は1972年(昭和47)にこの丘に現在の形で安置されるようになった。
幾多の災難、戦禍に巻き込まれながら姿を変え、顔だけになった大仏さま。
「これ以上落ちるところはない」として合格祈願として親しまれるようになったらしい。
5
感染病で自国第一主義の傾向が少なからずも垣間見られた昨今。
国会のTV中継も減り、痛みを伴わない集団の誰が何を語り、説明もそこそこに、物事進められていく。今の若い衆やその次の世代が迎える世の中を考えると妙に危うさしか感じえない。
大仏さまがこれ以上地に落ちる事無く、穏やかな顔でいつまでもここにいてほしいものだ。
6
穏やかな表情の合格大仏、その右に存在感のある仏塔が建っています。
パゴダと呼ばれる仏塔だそうだ、内部に薬師如来、脇侍の左側の月光菩薩、右側の日光菩薩像は旧上野東照宮にあった薬師堂のご本尊とある。
明治政府の発布した神仏分離令により上野東照宮から寛永寺に移管されていたものをパゴダ建立に伴いこちらに安置したものだそうだ。
7
この塔は1923年(大正12)の関東大震災で被災した大仏の跡地を利用し、1967年(昭和42)に上野公園の名所として高さは15㍍のパゴダを建立したもの。
8
この内部に旧上野東照宮にあった薬師堂のご本尊薬師如来、月光菩薩、日光菩薩像が祀られています。
薄暗い内部、正面に薬師如来と脇侍の月光菩薩、日光菩薩像を拝むことができます。
この絵、いろいろ加工してみるも姿は現れませんでした。建物は新しいけれど、一見の価値ありです。

2020/2/20

上野大佛
 建立 / 1631年(寛永8)
大佛パゴダ
 建立 / 1967年(昭和42)
本尊 / 薬師瑠璃光如来、
脇侍 / 月光菩薩、日光菩薩像
住所 / 東京都台東区上野公園8
公共交通機関アクセス / JR山手線​​「上野」下車西に徒歩10分程
関連記事 / ​上野東照宮

COVID-19の影が見え始めた2020年2月20.21日、悩んだ末に東京遠征に出かけた。
あれから随分時間も経過し訳も分からなかった頃に比べ付き合い方も分かってきたような。

ずっと控えてきたけれど、今更感満載ですが東京の写真を纏める事にします。
1
JR上野駅、出張の時には良く降りた駅、そうした時はつい〃人込みが嫌いなこともあり、出不精になり何処に行っても全く周辺散策せずさっさと名古屋に戻ってきていた。
今回は観光という事でまさにお上りさん、かみさんにお任せだ。
2
 目指すはキンキンキラキラの上野東照宮(赤丸)へ拝みに行きます。
3
 上野駅の西が上野東照宮が鎮座する上野恩賜公園。
チラホラ咲き始めた桜、本来の上野公園はきっと春を待ちわびた人が集う場所。
今年は異様な光景、歩道沿いは規制線が貼られ例年とは違う様相を見せていた。
4
 公園に入るとすぐ左手に「おばけ燈籠」が見えてくる。
佐久間勝之が1631年(寛永8)に創建後間もない東照宮に寄進したもの。
その大きさは高さ約6㍍、燈籠の上にある笠石は周囲3.6㍍とまさにお化け灯籠と呼ぶに相応しいもの。
勝之が寄進した南禅寺、熱田神宮の大灯篭と共に「日本三大燈籠」に数えられるそうだ。
ここで忖度しておけば悪い方には転がらないか、この先数えきれないほどの燈籠が現れます。
5
 「石大鳥居」
西尾市出身の酒井忠世が1633年(寛永10)に奉納したもので、備前の御影石が使用され、関東大震災でも傾く事のない程の精度で施工された。
鳥居の先に見えるのは「水舎門」。
6
 「水舎門」
四脚の切妻の門はどことなく手水舎の上屋に見えますが、元は1651年(慶安4)、東照宮の造営奉行の阿部重次が奉納した手水舎そのもので、現在社殿の右にある手水舎の上屋だけを1964年(昭和34)に門として移築したようです。
7
8
 「水舎門」
軒下や内部の斗組は手水舎の上屋には見えないほど手が掛けられています。
天井の垂木には無数の千社札が貼られています、過去のものなのか定かではないけれど、貼っていいものなのか?
9
水舎門から先の参道には燈籠が立ち並ぶ。年号を見ていたら進めなくなります。 
燈籠の数は200基以上あるとも云われるようですが、大半は今の社殿が建築された1651年(慶安4年)頃の全国の大名から奉納されたものだという。
参道右手に重要文化財の旧寛永寺五重塔が聳える。
建立は1631年(寛永8)で焼失により1639年(寛永16)に再建されたもの、相輪までの高さは約36㍍という木造建築。
10
 正面に金ぴかの唐門と社殿が見える。
唐門と社殿は恰も一体になって見える。
11
この時期(2月)境内にはソメイヨシノに先立ちピンク色も艶やかな河津桜が彩りを与えてくれる。
12
 参道右の「神楽殿」
入母屋造りの三面吹き抜けで1874年(明治7)に建立されたものと云われ、お花見の頃には神楽が奉納される。
13
 手水舎は参道右と左に二つ、上は左の手水舎。
14
 右の手水舎。
この上屋が水舎門として移築されという、手水鉢に清水は張られていなかったけれど、上から吊るされた巨大な鈴に視線が行く。この先の立派な狛犬を作った酒井八右衛門が寄贈したものというけれど、なぜ鈴だったのか謂れはよく分かりません。
15
1914年(大正3)に建立された酒井八右衛門作の狛犬。
胸板は厚く、頭は小さめで胸を突き出した容姿は個人的には好きな。
16
 上
振り返ると狛犬の先に東京スカイツリーが望める。

唐門右に銅燈籠が連なる、その数は50基、各地方大名より奉納されたもので、竿には奉納者、官職名、奉納年、虎など彫られていて、同じ様に見えるけれど宝珠や火袋など其々特徴のあるものです。
見て行くだけでも面白い。重要文化財。
17
18
 唐門両側の銅燈籠は、内側より紀伊、水戸、尾張の徳川御三家より寄進されたものです。
手前の銅燈籠群に対し一段と手の込んだ作りが施されています。
19
 「唐門」
唐破風付きの四脚門、1651年(慶安4)の造営で重要文化財に指定される煌びやかな門。
柱内外の四額面には左甚五郎の手による昇り龍、降り龍の彫が施されています。
この龍は毎夜〃不忍池の水を飲みに蠢くという言い伝えが残ります、それ程の仕上がりという事です。
下を向いている方が昇り龍と呼ばれます。

間違いを認め謝罪の行動すらできないどこぞの人達、賢い人ほど頭を垂れるものです、原稿を読むだけに下を向くのとは訳が違う、少しは見習ったらどうだろう。
20
 破風の下には錦鶏、銀鶏鳥の手の込んだ透彫が施され、色彩も鮮やかで美しい。
装飾は木鼻、蟇股等に留まることなく細部まで施されています。
単に黄金色に輝く色合いだけではありません。
創建当時の匠の技を集大成したのが上野東照宮なのかも知れません。
21
 唐門の左の御神木。
樹齢600年以上と云われる枝振りが見事な楠木。
幹の太さは8m以上、高さは25㍍を超すとされ、上野公園にあって最大とされ、上野の祖木といわれる御神木です。
上野東照宮が建立される以前からこの地に根を降ろし、この地を見続けている大樹。
まだまだ衰える事無く聳えています。
22
 御神木から透塀沿いに石畳を奥に向かいます。
社殿を取り囲む様に「透塀」が施され、菱形の格子の先に社殿が見通せます。
塀の上側には緻密に描かれた植物や動物、下側に海や川の動物が刻まれ、その数は両面で200枚を上回目るともいわれます。 全てが色鮮やかに彩色されています。
それもそのはず平成21年~25年にかけ保存修復工事が行われ、金箔で覆った後でその上から岩絵の具で彩色が施されているそうです。
この透塀も1651年(慶安4)の建立のもので、国の重要文化財に指定されています。
23
 透塀の先に赤い鳥居、その先の社は「栄誉権現社」
親しみを込め御狸様とも呼ばれ、江戸時代に大奥などに安置され先々で災いをもたらしたとされ、 大正に入り上野東照宮に寄贈以降は災いがなくなったといわれます。
「悪行狸他を抜く」という縁起の良さから、強運開祖、受験、就職、必勝にご利益があるとされ、受験シーズンになると合格祈願に訪れる受験生で賑わうそうです。縁起のいい日は5の日だそうです。
24
 社全景、内部に照明で照らされ、上を見上げた姿の狸が祀られています。
25
 透塀沿いの扉が開けられ、石段から社殿域に入ります。
今年の干支「子」の彫飾りへ導く案内板、それに導かれる様に左に進むことにします。
26
とはいえ、目の前に遮るもののない黄金色の社殿が現れる、どうしてもそちらに視線は釘付けとなります。
権現造の金ぴかの社殿、左のこの部分が本殿で、右に幣殿、拝殿と連なります。
1651年(慶安4)造営のもので、国の重要文化財に指定されています、こうして見てくると上野東照宮は戦災や震災の難を免れて今があるようです。
戦時中の空襲で近くに爆弾が投下されたそうですが、不発に終わり難を逃れたとも。
何かを持っているのかもしれない。
27
28
 上野東照宮は1627年(寛永4)に上野公園に創建された神社で、徳川家康(東照大権現)を神様として祀った神社。
良く知られる日光や久能山東照宮以外にも全国各地に数多く東照宮があります。
天下統一を成し遂げ長きにわたる江戸幕府の生みの親家康にちなみ、出世、勝利、健康長寿に御利益があるとされ信仰されているという。
訪れた者の目を奪う金ピカの社殿は豪華そのもの、江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されるのも当然の事でしょう。
始まりは1616年(元和2)、危篤の徳川家康の枕元に天海僧正と藤堂高虎が呼ばれ、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と家康から遺言を伝えられたとされ、天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった現在の上野公園の敷地に東叡山寛永寺を開山した事から始まります。
境内の多くの伽藍や子院に加え、1627年(寛永4)に創建した神社「東照社」が上野東照宮の起源とされます。
現在の社殿は1651年(慶安4)に三代将軍の徳川家光が造営替えをしたもので、当時容易に日光までお参りに行くことができない江戸の人々に日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したものと言われています。
参道に立ち並ぶ燈籠はこの造営替えの時に各大名が競って寄贈したもの。
御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
29
 透塀に戻り今年の干支を探しに行く、ここまで親切に表示されると探す手間もありません。
透かし彫りのアケビ?の実を背景に、今年の干支の子はすぐに見つけられます。
保存修復工事のおかげで鮮やかな色彩の生き生きした子の姿を見ることができます。
30
 社殿域の透塀。
下段にもびっしりと彫が施されています。
31
参道からは唐門と一体となって見えていた拝殿全景。
金色殿とも呼ばれるように黄金色に輝いています。
32
社殿外壁はこれでもかと云わんばかりに豪華な彫刻と彩色が施されている。
家康の遺言に「遺体は駿河の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に「小堂」を建て勧請せよ、関八州の鎮守になろう」とあるけれど、日光東照宮はじめキンピカ派手派手の東照宮のイメージはきっと家康の趣味ではないのか知れない。
33
拝殿の彫飾り、鷹も、鳩も、鶴もいる、想像の生きもの鳳凰もいる。
葵の紋もキンピカですね。
34
35
社殿域から唐門の眺め、こうして見ると四脚なのがよく分かる。
内側の透彫に太鼓の周りに尾長鶏のような姿が彫られていますが、諫鼓鳥と呼ぶらしい。
中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたという。
それも善政のため打たれることは無かったことから、「太鼓に鶏が住みつくほど」と言う話に倣い、 天下泰平の願いを込めて彫られたとも云われているそうです。

マスクの方の官邸前に太鼓が置かれたとしたら、鳴り止む事はないのかも?
36
豪華絢爛な社殿、その出口に朽ちた1本の木がある、「きささげの木」、社殿の雷除けとして植えられたものらしいが、樹齢は350年以上。
その樹皮は梓白皮と呼ばれ生薬としても使われるそうです。
災いから守られてきたその立役者は意外にこの樹のおかげなのかも。
37
上野東照宮
創建 / 1627年(寛永4)
御祭神 / 徳川家康、徳川吉宗、徳川慶喜
境内社 / 栄誉権現社
住所 / 東京都台東区上野公園9-88
公共交通機関アクセス / JR山手線​「上野」下車西に徒歩10分程​ 
関連記事 /  久能山東照宮​ 

↑このページのトップヘ