古い話で恐縮です、昨年2020/2/20~21東京おのぼりさんツアーに行ったのですが。
その中で大概の参拝ヶ所はここに書いてきたつもりだったけれど、浅草の浅草寺と浅草神社を掲載していなかったのに気が付く。1年前の画像ですが今更ながら纏める事にしました。

この東京行きは、当時、得体の知れないcovid-19が確実に東京に広まり始めた頃だったのでとても悩んで行った事だけは覚えています。

かみさんの熱い希望を踏まえ、個人で出来る対策をしたうえで向かったのですが、マスク着用や密に対して今ほど敏感ではなく、大陸からの入国制限はなかった時期だと記憶しています。
滞在中は耳に入ってくる言語に妙にピリピリしていた事だけが印象に残っています。
あの時このタイミングで掲載していいものか、だでさえ遅い掲載に尚更拍車がかかったのは間違いない。
印象は1年も過ぎると忘れてしまいますが、今回は「浅草神社」と「被官稲荷神社」の記憶を呼び戻したい。
浅草と云えば浅草寺だろう?とい云われるかもしれない、浅草寺は大きな本堂や五重塔などインパクトのある寺なんですが、おやじには「浅草神社」と「被官稲荷神社」が妙に温かみがあり印象に残っている。
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写真データから浅草神社へは二日目の昼頃に訪れ、浅草でもつ煮を食べ、ホッピーを飲むのが主目的だったような気がします。その経由地として浅草寺と浅草神社に参拝した。
上は浅草寺の二天門、本堂の東側に建つ朱塗りの門で1649年(慶安2)に浅草寺の東門として建立されたもの。
江戸時代初期の貴重な建築物で国の重要文化財に指定されている。
2010年(平成22)に修復されたものが現在の姿。
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二天門額。
建立当初は随身門といわれ、随神に豊岩間戸命、櫛岩間戸命を左右に祀っていたそうですが、1884年(明治17)、神仏分離に随身像はこれから向かう浅草神社に遷座された。
その代わりに鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天と持国天の像が奉納され、これを機に名称が随身門から二天門に改められたという。
しかし鶴岡八幡宮からやってきた像は、1945年(昭和20)に修復先で戦災にあって焼失してしまったようです。
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二天門解説。
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現在の持国・増長の二天像は、1957年(昭和32)に上野寛永寺の厳有院から拝領されたもので江戸時代前期に作られたと云う。
向かって左が増長天の右利きで南を守護する、右が左利きで東を守護する持国天だそうだ。
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二天門から浅草寺境内の眺め、右手に浅草寺本堂と左に五重塔が聳える。
「浅草神社」と「被官稲荷神社」へは右手の石畳の参道の先になります。
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二天門をくぐってすぐ右側に浅草神社の石の神明鳥居と社標が建っています。
この石の鳥居は1886年(明治18)に建立されたものです。
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浅草神社境内で最初に目に入るのがこの朱塗りの神楽殿かもしれない。
浅草神社の境内伽藍はこの神楽殿と神輿庫、そして正面に拝殿と渡廊で繋がる幣殿、本殿の権現造り。
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1649年(慶安2)第三代将軍徳川家光により建立された社殿、幾度も火災や戦災、震災などに見舞われたが、被災を免れ現在も当時の姿を留めている。
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おでこが発達し毛並みの良さそうそうなた狛犬です。
確定申告? この狛犬の様にきっちり仕事をしていればこんな気はおこらないだろうが、昨今の出来事や対応、親方様のコメントを聞いていると年貢は納めたくなくなる。
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夫婦狛犬
境内右の石碑群の中、二天門の脇に建っています。
江戸時代初期に作られたものと云われますが、詳細はよく分からないようです。
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普段見かける狛犬は参道を挟み阿形と吽形の一対が向き合う様に建てられるものですが、この夫婦狛犬は見ての通り二体並んで建てられています。
絶妙な傾斜により、いかにも寄り添っている様に見え、その表情もにこやかに微笑んでいて、とても微笑ましい狛犬です。
その様子から「良縁」「夫婦和合」「恋愛成就」のご利益があるとされ、相合傘を模した御籤かけには多くの御籤が結ばれています。
元来狛犬は外からの厄災を退け、守護する勇猛な役割なんでしょうが、ここではこうして二天門の脇で相合傘の下に建てられています。どちらも幸せそうにニシャッと笑みを浮かべている。
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参道左に手水舎と手水鉢、この頃は柄杓も置かれていた。
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浅草神社の三社様として親しまれ、三社祭で知られるところ。
社伝ではその起こりを以下のように伝えています。
626年(推古天皇36)、漁師の檜前浜成、檜前武成の兄弟が現在の隅田川で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かったという。
兄弟はこの地の物知りだった土師真中知に相談した所、これは「聖観音菩薩像」だと教えられ、それを知ってから二人は毎日観音像に祈念したと云う。
その後、土師真中知は僧となり、自宅を寺にしたのが浅草寺の始まりだとされる。
土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知、浜成、武成を神として祀ったのが起源とされる」三社様と呼ばれる由縁。
現在の社殿は1649年(慶安2)第三代将軍徳川家光により建立され、幾度も火災や戦災、震災などに見舞われるも都度被災を免れ当時の姿を今に留めている。
1868年に明治政府の神仏分離令にともない浅草寺と分離され三社明神社となり、1873年(明治6)に現在の浅草神社に改称した。
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拝殿前を守護する狛犬は胸板が厚く筋骨隆々とし、羨ましいプロポーションをしている。
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拝殿を斜めから眺める。
入母屋瓦葺の平入に向拝が付けられた拝殿は朱で彩られ、各所に鮮やかな彩色の霊獣が描かれています。
木鼻や蟇股などの彫飾りも手が掛けられ、東照宮を思わせる華麗な佇まいをしている。
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祭神は土師真中知命、檜前浜成命、檜前武成命。
ご利益は家庭円満、交通安全、商売繁盛、無病息災、合格祈願などなんでも願いを叶えもらえるようです。
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この鮮やかな彩、1996年に天井画を含め漆や彩色の修復が行われた賜物で、麒麟や鳳凰、飛龍が色鮮やかに描かれています。
拝殿内。
薄暗い拝殿内で金色の御幣が鈍く輝き、右大臣、左大臣の随身が守護しています。
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拝殿から右に続く参道を進むと左に石の明神鳥居があり、境内奥の浅草神社の末社、「被官稲荷神社」へ続いています。
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被官稲荷神社の起こりは浅草神社の解説によると以下。
1854年(安政元年)新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、京都の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快したと云う。
そして、同二年、町の人が伏見稲荷神社から勧請し小社を創建し、被官稲荷神社と名付けたという。
一つ上の写真の明神鳥居の左の柱には、辰五郎の名と安政2と刻まれています。
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被官稲荷神社解説。
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被官稲荷神社の狛狐達。
肉付きが良く色黒で太い尾がピンと上がっている。
狐が稲荷神社の使いとされる理由の一つに、御祭神の宇迦之御魂神の別名、御饌津神(みけつかみ)のその文字に、狐(ケツネ=キツネの古語)を使い、三狐神(みけつかみ)と記したためとか、秋の収穫の際、黄金に実った稲穂を稲荷神社にお供えすると、垂れ下がった稲穂が狐のしっぽに見えるなど諸説あるようです。
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この本殿は1855年(安政2)に創建されたもので、杉皮葺の流造で創建以来のものだと云う。
覆屋を構えて保護しています。
正面は切妻瓦葺の平入で奥に本殿を収める妻入りの覆屋が一体となったもので、建立時期は大正時代ではないかと云われています。
この社殿も震災や戦災にあいながらも被災を免れたものだと云う。
祭神の宇迦之御魂神は食料や稲の成育をつかさどる神様で、稲が成育することを意味していると言われ、農業や衣食住、諸産業の神様として崇敬されています。
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被官稲荷神社の側面からの眺め、大きなビルか背景に入ってくるのも東京ならではかもしれない。
人は少ないとはいえ浅草寺の表参道に比べると、訪れる参拝客は意外にすくないこともあり、警戒心から解放されるリラックス出来る空間かも知れない。
あの夫婦狛犬のような自然な笑みが出てくる場所です。
2020/2/21

「浅草神社」
創建 /   626年(推古天皇36)
祭神 / 土師真中知命、檜前浜成命、檜前武成命

「被官稲荷神社」
創建 /   1855年(安政2)
祭神 / 宇迦之御魂神

住所 /  ​東京都台東区浅草2-3-1
公共交通機関アクセス /  東京メトロ銀座線浅草駅から徒歩7分