尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

タグ:薩摩国一ノ宮

鹿児島県薩摩川内市『新田神社』
うねりながら平野に流れ出た川内川、その平野の右岸に亀の形をした里山があります。
平野の中にあって、その存在は恰も島のようにも見えなくもない。
「新亀山」と云われる小高い里山の頂に薩摩国一ノ宮 新田神社は鎮座していました。
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土地勘もなく、不慣れなレンタカーでの運転、運転する者よりも高性能なナビゲーションを隣でそれを操作するかみさんの方が悪戦苦闘。その導きで辿り着いたのが県道44号線沿いのこの地。
御親切に駐車場のある一ノ鳥居まで導いてくれるではないか。(それがニノ鳥居だと知ったのは帰り際でした。)
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ニノ鳥居と新亀山、こうして見ると亀の甲羅の様に見えなくもない。
控え柱の付けられた朱塗りの明神鳥居、その先の石造りの太鼓橋を経て参道は石段となり杜に消えていきます。
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石段の左右には門守社もあるようです。
鹿児島に来て門守社はよく見かけるものです。
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緩やかに弧を描く石造りの太鼓橋は「降来橋」と呼ばれるもので、この橋と擬宝珠は市の指定文化財に指定されていてるようです。
現在こうして見る降来橋は1892年(明治25)に架け替えられたもの。
全長は8㍍、幅5㍍と云うけれど、目の当たりに見る太鼓橋はひと回り大きく見える。
こうして見ると一つの橋に見えますが、その先にもう一つの小さな石橋が架けられています。
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橋の袂に掲げられていた降来橋の解説。
由来は古く「三國名勝図絵」には、1290年(正応3)新田八幡宮の降来橋で雅楽が催された記録が残るという。
擬宝珠は1602年(慶長7)に島津義弘により神殿を修復した際、橋の欄干に刻銘入りの宝珠8個が付けられた。(実物は宝物殿に保管)
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右は新田神社の末社で豊磐間戸命(トヨイワマドノミコト)を祀る東門守神社。
左が西門守神社、祭神は櫛磐間戸命(クシイワマドノミコト)を祀る。
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門守神社から城壁の様な石垣となり、その間に石段が続きます。
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石段の左に赤い社が三社並んで鎮座しています。
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石段を登りきると社殿が現れるかと思いきや、境内は広がりますが、その先から再び石段が続きます。
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左に見えていた三社は新田神社の末社。
石段を踏みしめ参拝に訪れた者をここから見守るように佇んでいます。
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門守神社をコピペでもしたように造も大きさもほぼ同じ、社名札が無ければ参拝していても分からないかもしれない。
右から高良神社 祭神は天鈿女命。
中央が中央神社で祭神は大山祇命。
左が早風神社で級長津彦命、級長津姫神の二柱を祀る。


当社は、九州五所八幡宮(大分宮・千栗八幡宮・藤崎八幡宮・新田神社・鹿児島神宮)のうちのひとつとされ、江戸時代までは応神天皇、神功皇后、武内宿禰の八幡三神を祀っていたという。
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石段の左で見かけた「がらっぱ大明神」。
いざなぎ河童といざなみ河童とあるけれど、読んでいてもよく分からない。
川内川にはがらっぱ(河童)が普通に生息しているらしい、しかも彼らは共和国まで築いているらしい。
建国式の当日、お祭り広場に2体の「がらっぱ像」が見世物として飾られていたそうです。
ガラッパ像はコンクリート造、制作者も担当者も知らぬ間に、用意されていた高台に入魂の儀まで終え鎮座していたのだとか。
河童の不思議なパワーなんだろうかねェ。
「がらっぱ様」の不思議なパワーは、参拝する者に開運、願望援受、魔除け、商売繁盛、災難逃れなどに御利益を授かる事ができる。ここは賽銭を奮発しておくべきところ。
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最初の石段を上り詰めた先に広がる境内、そこから先に再び石段が続きその先に社殿が小さく見えてきます。
1173年(承安3)、新田神社は火災に見舞われ、新亀山中腹にあった社殿を焼失してしまったそうです。
この広い空間は焼失以前、ここに社殿があった名残ということでしょう。
それも朝廷や幕府の支援を受け1176年(安元2)、この石段の先の山頂に再興されたのが現在の『新田神社』。
以後も薩摩国歴代藩主から厚く崇敬され、四百年前の慶長年間に島津義久公により現社殿の原形が造られました。
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新たに建てられた社殿に向かう石段の登り口で守護を受け持つ狛犬。
奉納年は見ていないけれど、鼻のあたりに愛嬌を感じるその容姿に隙はない。
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阿形、見開いた眼は無表情に見えなくもない、鋭い犬歯が印象的な狛犬。
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社殿に続く最後の石段、途中で足を止め一息入れる姿も見える、この石段甘く見てはいけない。
ゴールは見えているけれど長く感じる。
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見あげる先に社殿と右手に注連縄が巻かれた大きな楠の樹が見えてきました、あと少し。
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見あげる様に聳え立つ「新田神社の大楠」
根回りは13.3㍍、幹回りが9.9㍍と巨大なもので樹高は20㍍を越え、枝張りは約20㍍に及ぶ。
樹齢は2000年を超えると伝わるそうですが、年輪から推定すると650~800年とされる。
大楠の根元は空洞化し、更に「地上2mのところに大穴牟遅神の木造が彫刻されている」とありますが今一つよく分かりませんでした。
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大楠の右に社の屋根が見えたので寄り道、そこは駐車場で見えていたのは車祓所の社でした。
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新田神社「勅使殿」
唐破風向拝が設けられ。細部に彫飾りと彩色が施された華麗な建物。
棟札から1784年(天明4)の造替とされるもの。
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石段を上り詰めた両脇に独特の佇まいの狛犬がある。最初遠目に見た時はガマガエルの様に見えた。
「子だき狛犬(安産狛犬)」と呼ぶそうだ。
古くから安産に大変霊験のある狛犬で、安産を祈願する方はこの狛犬の頭を撫でるとよいというそうです。
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この子抱狛犬、案内にある様に子を抱いているけれど、頭部が妙に押し潰されたような形が印象に残る。
こうして見る顔の表情は、かわいいようでどこか哀愁が漂ってくる。
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新田神社「勅使殿」
「新田」という名の由来はその昔、瓊瓊杵尊はがらっぱの住むという川内川から水をひき、新たに水田を作ったことからその名が付いたといわれる。
創建は725年(神亀2)と云われますが定かではありません。
始まりは新亀山に瓊々杵尊のお墓を祀られたことに始まるようで、この山のほぼ全体が瓊々杵尊の陵墓とされ、可愛山陵(エノミササギ)と呼ばれるようです、新田神社はその陵墓に鎮座するものです。
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唐破風向拝の透かし彫りの鳳凰?から始まり、蟇股に木鼻の獅子や象など細かな手間と彩色が施され、ここだけでも見応え十分。
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祭神は瓊々杵尊(ニニギノミコト)、天照大神(アマテラスオオカミ)、天忍穂耳命(アメノオシホミミ)
家内安全、事業繁栄、交通安全、商業繁栄、入試合格、漁業繁栄、心身健康などの御利益を授かる事が出来る。
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参拝すると良く見えるのですが、この勅使殿は外部の華やかさ同様、内部の装飾も見事なものがあります。梁の彫飾りに彩色、天井に至っては格子天井の一枚〃に草花の絵が描かれ、参拝後しばらく足が止まります。程よく色褪し嫌みのない上品な華やかさ。
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勅使殿から社務所方向の境内の眺め。
コロナ再燃の兆しのなか鹿児島に出向いたけれど、そうした事も影響があるのか参拝者の姿は皆無。
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主務所側から勅使殿方向の境内の眺め。
社殿に対し境内は意外に狭い印象を受け、もう少し引いて本殿を含めた全体を見たいところですが、手持ちのカメラでは無理があるようです。

伽藍は勅使殿、舞殿、拝殿、幣殿、本殿が一直線に並び、本殿の両脇には摂社があり、それらは廻廊でつながっているという。

薩摩国一ノ宮は先に掲載した枚聞神社と新田神社の二社がある。
何れも島津家の厚い庇護を受けてきた歴史のある神社。
社格を争うとこうなるのか、大人の事情なのか理由はよく分からないけれど、一ノ宮マップを塗り潰す事に燃えているかみさんには違和感はない様ですが、お供のおやじは「一つの國に二つの一ノ宮」や「社格」、もやもや感は今もすっきりしない。
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勅使殿から先の本殿方向は拝めないものか、漸く廻廊とその先の社殿の姿を捉えるがそれが何なのかは良く分かりません。因みに現在の本殿は1850年(嘉永3)に造営されたようです。
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二つ目の薩摩国一ノ宮『新田神社』の参拝を終え次の目的に向かう、長い下りの石段を下り、最初の石段までくると「降来橋」の先にニノ鳥居とその先には桜並木の真っすぐに伸びる参道が一望。
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一ノ鳥居からニノ鳥居に続く長い参道は「八丁馬場」と称し、参道の両脇に植えられた桜は花見の名所。
嘗てこの長い参道には多くの寺院があり「新田神社一二坊」と称されたそうです。
霞んで分かりにくいけれど遥か先に一ノ鳥居が見えています、その先が川内川の堤という事です。
これが桜の時期であれば嘸かし見事なんだろう。
あまりに長い参道、今更「あそこまで行ってくるわ」とは言えない。
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薩摩国一ノ宮 新田神社
創建 / 725年(神亀2)
祭神 / 瓊々杵尊、天照大神、天忍穂耳命
境内社 / 東門守神社、西門守神社、高良神社、中央神社、早風神社等
住所 / ​鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2
関連記事 / 薩摩国一ノ宮 ​枚聞神社

さて二日目の工程は少しタイト
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最初の目的地は宿から25分程走ったJR日本最南端の駅「西大山駅」。
単独峰の開聞岳を望む長閑な田園地帯、そこに伸びる指宿枕崎線の線路と無人駅で知られる。
ここはおやじが以前から行きたかった場所です。

幸せの黄色いポストは現役のようで、ここから投函すると願いが叶うと云う、近くには縁結び、子宝、家族の健康など多くの願いが込められた絵馬がかけられています。
「ワクチンを作り皆を健康にするぞ!」と書かれた絵馬に目が止まる、がんばれ!

日本最南端の駅案内碑
住所 / ​鹿児島県指宿市山川大山


「西大山駅」から車で10分程走り、開聞岳北側山麗の枚聞神社を目指す。
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 開聞岳の北北東に鎮座する枚聞神社、社殿後方には開聞岳が優美な姿で聳えています。
薩摩国一之宮は、昨日次に参拝する新田神社と、ここ枚聞神社の二社があります。
新田神社は格式で言うところの式内社ではなく、ここ枚聞神社は式内社として格付けされています。
祭神は、天照大御神を祀り、配神に五男三女神を配祀します。
「地方開拓の祖神として厄除け、海運、交通安全、航海安全、漁業守護神として、琉球国を初め地方民から厚く信仰され、古来薩摩国一之宮、南薩地方の総氏神として朝廷や薩摩島津家から代々に渡り厚く崇敬されてきた。」
創建は定かではなく神代の時と云われますが、社記によれば708年(和銅元年)の創建とあるようです。
開聞岳を御神体とする山岳信仰から始まっているようで、開聞岳頂上には末社の御嶽神社が鎮座するという、御神体が開聞岳がありながら御嶽神社?-・・・・良く分からない。

朱塗りの社殿は正面に勅使殿、拝殿、本殿と並びますが、拝殿までは辛うじて見えますが、本殿の全容は外削ぎの千木と鰹木以外は見て取れません。勅使殿天井に描かれた絵が視線を引き付けます。
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 薩摩國 一之宮 枚聞神社
祭神 /   天照大御神
配神 /   五男三女神
創建 /   不明、社記708年(和銅元年)
 住所 / ​鹿児島県指宿市開聞十町1366
さて次の目的地もう一つの薩摩國 一之宮 新田神社までは小一時間程のドライブ。
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もう一つの薩摩國一ノ宮である新田神社は神亀山という亀の形をした小高い山の上に鎮座します。
新田神社の一ノ鳥居からニノ鳥居までの参道は真っすぐ伸び、参道両脇には桜並木が続き、桜の時期にはさぞかし見ごたえがあるだろう。それにしても参道は長い、一ノ鳥居が霞んでしまうほど。
ナビに任せてニノ鳥居に案内してくれたのはいいけれど、ここから歩いて一ノ鳥居までは少し遠い、諦めだ。

かつて八幡五所別宮のひとつとして八幡神を祀っていたので、「新田八幡宮」、「八幡新田宮」などと呼ばれていたそうです。
神社の「新田」という名称は、天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコネホノニニギノミコト)が川内の地の川内川から水を引いて新しく田圃を作ったとされ、そうした意味が込めら付けられたとされる。

祭神は天津日高彦火邇邇杵尊、天照皇大御神、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(マサカツアカツカチハヤビ・アメノオシホミミノミコト)を祀り、創建は725年(神亀2)とされるようです。

勅使殿の唐破風向拝に施された飾りと拝殿天井に施された草花の天井絵は見応えがあるものです。
勅使殿前の狛犬「子だき狛犬」は、安産を祈願し撫でることで願いが叶うとされます。

社殿は元は現在の位置から一段下がった場所に鎮座していたようですが、火災(1173年)により焼失、僅か3年後に現在の山頂に再建されたようです。

社殿の背後の可愛山陵は天津日高彦火邇邇杵尊の陵墓とされる。
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薩摩國 一之宮 新田神社
創建 / 不明(創建は725年(神亀2)とされる)
祭神 / 天津日高彦火邇邇杵尊、天照皇大御神、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
住所 / ​鹿児島県薩摩川内市宮内町19352

そろそろ遅い昼食をとるため新田神社から30分程南下した串木野市にある海の駅食堂へ
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島平漁協直営の食堂という事で、鮮度のいい刺身が食べられる。
地元にとどまらず観光客からも支持され、タイミングが悪いと待ちがでるお店。
待ちがあっても大丈夫、目の前の照島には神社もあり参拝もできる。

たまたまだろう、順番待ちもなく即入店、数々あるメニューの中から一番人気の「海鮮丼しおさい」を揃ってオーダー。
これで1200円なら妥当な価格か、複数の魚種の切り身がてんこ盛り、そこにワサビを醤油に溶かして丼全体に垂らして頂くものらしい。臭みもなくこれは旨かった、が唯一白い切り身だけが食べ慣れていないせいか少し癖があった。

照島海の駅食堂 
営業時間 11:00~14:30
定休日  火曜日、年始
鹿児島県いちき串木野市西島平町409

さて食事も済ませ目の前の照島に鎮座する照島神社に参拝します。
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 「照島」という小さな島ですが、朱色の反り橋を渡ると波打ち際の石鳥居から神社のある島の頂に向かって石段が続きます。
昔から海の守り神として崇拝されている、祭神は大己貴命、少彦名命、大山津見命を祀ります。
創建年代は不明ですが、古来言い伝えには常陸国鎮座の大洗磯神社(御祭神・大己貴命・少彦名命)と、伊予国鎮座の大山津見神社(御祭神・大山津見命)を勧請し創建したとされています。
反り橋を渡った左に「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」があり、ここに上陸した陶工たちがこの地で焼き物を作り始めた事から発祥の地でもあるようだ。
小さな島全体が神域のようで、多くの伝説も伝わる不思議の島。
照島神社
創建 / 不明
祭神 / 大己貴命、少彦名命、大山津見命
住所 / ​鹿児島県いちき串木野市西島平町410

次の目的地仙厳園へは車で1時間20分程東へ向かいます。
ここでの目的は桜島を築山に見立て、錦江湾を池に見立てた雄大な光景が見られる島津家の庭園と反射炉跡を一目見たかった。
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仙厳園正門前では体調や検温、アルコール滅菌等感染予防の対策は十分とられていた。
園内中ほどの錫門、朱塗りの江戸時代の正門。屋根は薩摩の特産品の錫で葺かれています。
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 世界遺産の構成資産ひとつ反射炉跡は、正門を入って左手に城壁の様に建っています。
28代島津斉彬が鉄製大砲の鋳造のため築いたもので、煙突が聳え立つ韮山の反射炉とは違い、炉の基礎となる炉体の跡が今も保存されています。

桜島の噴火活動は訪れる前日までは活発だったようですが、滞在期間中は穏やかな表情を見せていました。錦江湾に浮かぶ桜島、今も噴煙を上げる桜島はこの地のシンボルでもあり、火山と共に生活がある。
余談ですが、その日は気付かなかったけれど、翌日の朝、車の窓ガラスに薄く白い砂が積もっていたのには驚きました。これが桜島なんだと実感。
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 尚古集成館 
仙厳園の左に隣接し、幕末の薩摩藩主島津斉彬が西欧諸国のアジア進出に危機感を持ち、軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践、それら事業の中核を担ったのが集成館一帯。
ここから大砲などの西洋技術が各地に広がっていったといっても過言ではない。
1865年(慶応元)に竣工した機械工場は重要文化財で現在は島津家の歴史、文化と集成館事業を展示する博物館になっています。

仙厳園・尚古集成館
住所 /   ​鹿児島県鹿児島市吉野町9698-1

滞在二日目最後の目的地照国神社に向かいます。
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その前に今夜の宿、城山ホテル鹿児島にチェックインし荷物を置くことに、部屋の窓からは夕陽に染まりつつある桜島が一望できる。
照国神社の授与所は夕方5時まで、あと30分、悠長に景色を見入っている場合ではないか。
ホテルから近道の狭い階段を下り神社を目指す。
かみさんは島津家の家紋が入った御朱印帖を手に入れたかったようで絶対外せない場所、ギリギリ間に合い念願の御朱印帖を手に入れ大満足。
13.5
 照國神社
島津齊彬は1851年(嘉永4)、43歳で薩摩藩・藩主を襲封し、1858年(安政5)に亡くなるまでの僅か7年間の治世ですが、その間の事績は藩内にのみならず日本にとっても数々のものを残し、生前の遺徳を慕い崇敬の念から1863年(文久3)照國大明神の神号を授けられ照國神社が創建された。
祭神は照國大明神、島津家28代当主11代藩主 島津齊彬

照國神社
住所 /   ​鹿児島県鹿児島市照国町19-35
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参拝を終え、城山を背に建つ西郷さんにもご挨拶したし、市内を走る路面電車を見がてら晩御飯へ。
ホテルは夕食の予約が埋まる程の宿泊客、GoTo効果は大きいようだ。
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 市内で一杯ひっかけながら晩御飯を済ませ、ホテルに戻りやっと一息。
展望露天風呂で疲れを癒し、夜景を見ながら再び飲む。
イルミネーションが施されクリスマスが近いことを告げているが、今年は家族揃って乾杯は見送りだろうね。
鹿児島滞在も明日が最終日、いよいよ桜島に渡ります。
そしてお決まりの早起き、窓から朝陽に輝く錦江湾と桜島の綺麗な事。

城山ホテル鹿児島
​住所 /  鹿児島県鹿児島市新照院町41-1


二日目工程​ 

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