尾張のおじさんblog

こんにちは 地元名古屋を中心に身近な神社・仏閣、地元の歴史や街並みを紹介していきます

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静岡県浜松市中区元城町 『元城 東照宮』
静岡の東照宮と云うと久能山東照宮がすぐに思い浮かびますが、浜松市中心街に聳える浜松城を西に望む元城町の高台にも『元城 東照宮』が鎮座しています。
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 無料の浜松城公園から国道を越え、目の前に聳える高台に「元城 東照宮」が鎮座しています。
高台全体がこんもりとした杜に包まれているため、社殿は見えにくいかもしれません。
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 西側から高台に続く坂を登ると左側に石の鳥居とその先に拝殿が見えます。
東照宮と聞くと日光東照宮であったり久能山東照宮のような広大な境内をイメージしますが、全国各地に建立された中にはこうした規模のものは普通に存在するもの。
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 鳥居の扁額は「元城 東照宮」とある。
元城とあるように、この辺りはかっての曳馬城の跡地に建っているという。
駐車場から望むこの高台はそうした城の名残が感じられます。
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 今は社頭右の曳馬城址の石標が建つのみ、曳馬城の築城年や城主など不詳の様です。
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 鎌倉時代の浜松の町は「ひきま(ひくま)」と呼ばれていたそうですが武士にとって曳馬は縁起が宜しくないものです。
1570年(元亀元年)に徳川家康が引間(曳馬)城に入城、城域を西に広げ浜松城とし形作られていき、引間城は主役の座を明け渡しその後は米蔵として利用されていたそうです。 
東照宮が鎮座する場所は引間城本丸にあたるようです。

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 鳥居をくぐり境内に入って左に手水舎、手水鉢。
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ここに元城東照宮の由緒が掲げられています。
祭神は徳川家康、事代主命、大国主命
明治維新後浜松藩代井上延陵により1884年(明治17)に創建。
その管理を大日本報徳社に委ねていたが、1936年(昭和11)大石力氏がその所有権を井上家より、大日本報徳社からは管理権を引き継ぎ元城町の氏神として奉斎。
1945年(昭和20)戦災により焼失、1959年(昭和34)に社殿、手水舎、社務所等再建現在に至る。

井上延陵は家康が城主を務めた引間城のあるこの地に、神となった家康を祀る東照宮を建立したかったのだろう。東照宮創建の立役者井上延陵、彼の大きな碑が手水舎の右に建てられている。
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ネッシー?
1959年に再建されたとは思えない龍口は貫禄十分。
龍にばかり視線は行きますが、手水舎も見てやってください、気持ちよさげに転寝する猫などもいます。
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 右に社務所、訪れた時は無人でした。
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 一段高く積まれた境内に社殿が鎮座します。
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 権現造りのコンクリート造りという事もあり、絢爛豪華な東照宮のイメージとは少し違い、飾りは控えめ、木鼻の龍は力強い。
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 拝殿前狛犬。
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 社殿をひと回り。
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 本殿横から拝殿方向の眺め、高欄の赤が無ければ地味な社殿かもしれない。
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 本殿の千木は外削ぎ。
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5本の鰹木が施されています。
戦災で焼失後、昭和に入って再建された事もあり、火に強いコンクリート構造を選択したのもそうしたことがあるのかもしれない。
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 拝殿西側からの眺め。
訪れたのが、あと数日で新たな年を迎えようとする時期、境内の紅葉が東照宮に彩を添えていました。
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 脇扉には滝に打たれる獅子の姿が飾られています。
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 拝殿左に権現道の石標がある、上部の欠損は空襲の爪痕なのかな。
空襲により神社は焼失しましたが、入口の石鳥居が唯一被災を免れたものといわれています。
写真の石標が空襲を耐えたものであるとすると、ある意味「何かを持っている」。
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 拝殿右に引間城と所縁のある家康と秀吉の銅像が並んでいます。
農民だった秀吉はここから武家奉公の機会を掴み、若き家康は居城として共に天下人となりました。
引間城はそうした二人の天下人を誕生させた舞台となった事から、出世神社として運気を授かりに訪れるそうです。
2015年、拝殿右に彼らの銅像が建てられ、二人の天下人の間に立って写真を撮り、それをSNSに上げるとその人の運気があがるパワースポットとして整備したようです。
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 引間城址に建つ二人の像と社殿。
秀吉、家康の二人を天下人に導いた引間城、井上延陵の家康への思い。
一見普通の神社に見えてしまう元城の東照宮ですが、焼け残った鳥居など、ここには何か持っているものがあるのかも知れない。
2020/12/24

『元城 東照宮』
創建 / 1884年(明治17)
祭神 / 徳川家康
住所 / ​静岡県浜松市中区元城町111-2
車でのアクセス / 東名浜松ICより約20分


静岡県伊豆市土肥
静岡方面の一之宮巡りの際、こちらの大江戸温泉物語に宿を取りました
随分計画が遅れてしまい、宿に着いたのはチェックインリミットぎりぎり
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当然食事も一番最後、土肥温泉に浸かり、湯上りのビールをひっかけ、かみさんと夕涼みに
黄昏時の海岸を眺めながらの夕散歩
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時間を潰してホテルに戻り晩御飯です
若い頃と違い食も細くなりメインは刺身と酒、これだけあればおやじは満足ゝ
肉ゝ星人のかみさんには海辺の旅館は物足りないかもしれない
温泉にも入って、おなかも満たされ部屋で二次会ゝ・・・・・速攻で爆睡

人は歳と共に目覚めが早くなるのは事実です
翌朝は当然ながら早朝に目が覚める、ホテル周辺を散策する事に
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その際に見かけた「稲宮神社」へ立ち寄ってみました
国道146号線から少し東に入った場所で、山を背に海に向かって鎮座します
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石鳥居に架けられた稲宮の扁額、その先に祠が二つ
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切妻の小さな祠
手前が本殿で右は天王社の様です、見た感じで天王社の祠は最近立て替えられたと思われます
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鳥居正面の本殿
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右の天王社本殿

主祭神は食物の神様と云われる豊受比賣命、右の天王社は牛頭天皇
稲宮神社は屋形地区の鎮守で、いつ頃創建されたものか良くわからないけれど
南北朝時代の「伊豆国神階帳」に「従四位上いなみやひめの明神」と記載が残り見た目以上に創建は古いようです

元はこの地の水口家の氏神から始まったと云われます
ただ、古い記録には1854年(嘉永7)の安政東海地震による大津波によって伽藍は流出してしまった様です
現在の伽藍はその後に再建されたもの

三方に山が迫り、西に海と接した扇状地の土肥、現在は国道と温泉宿、民家が立ち並ぶ街並みですが
社名の稲が示す様に、古くは神社と海岸の間は水田だったそうです
室町時代中期のこの地では既にぬるい温泉が自噴していたようです
水口正入道の頃、この温水を田に導き、それにより育てられた稲の生育は何処よりも早く、旧六月には収穫できたと云われます
収穫された米は御新米として徳川将軍家に献納され、1874年(明治7)に廃止されるまで上納の儀として献上されたようで、境内には新米献上の碑が残りそのことを伝えています
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境内右に石の祠がありますが詳しい事は分かりません
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境内の左側から山に続く石段、その途中に小さな社があります
津波の際はここが避難ルートになるのでしょう
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額はなく社号は分かりません、中のお札には天照皇大神宮と書かれている
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祠の左に小さな石の祠と赤い帽子と羽織を着せられた女性の石像が安置されています
こちらも解説板はなく詳細は不明
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この祠から土肥湊の眺め、手前右は境内に建つ屋形区公民館
こちらで尋ねると全てが分かるのかもしれません
稲宮神社
創建等詳細不明
住所 / ​静岡県伊豆市土肥2833
祭神 / 豊受比賣命


神社から北に歩いた土肥金山
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北条氏や徳川幕府の財源を潤した金山、昭和40年まで実際に採掘されていたようですが
採算が取れず廃坑となり、現在は観光坑道と250kgの金塊が展示されているようです

早朝なので静かなものです
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ここで見かけた伊豆半島の成り立ちを纏めた解説板
急峻な山々に囲まれ、温泉の恵みと金・銀の鉱物資源、そして豊かな海の恵み
ダイナミックな大地の営みは今も動いている事が伝わってきます
住所 / ​静岡県伊豆市土肥2833

この近隣にもう一つ金山があります
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「龕附(がんつき)天正金鉱」がそれで、1557年(天正5)に伊豆最初の手掘りの金山として開発されたもの
伊豆市指定文化財になっています
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竹が生い茂る小高い山に掘られた横坑の全長は60㍍と云われ、坑道の最深部に祀られた幸福をもたらす山の神が「がん」と呼ばれ「龕附天正金鉱」はそこからきているようです
内部は・・・・・真っ暗
住所 /  ​静岡県伊豆市土肥2851

足湯黄金の湯
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土肥の中心を流れる山川の左岸にある足湯
土肥温泉の起源は、山川の対岸にある安楽寺境内の「まぶ湯」を発見年としているようです
その発見年は1611年(慶長15)であったり、1673年(延宝年間)など定かではありません
初めての土肥の湯は、硫黄臭等の臭気のない無色透明でさらっとした湯
かみさんを悩ませている50肩には効能があるようです

世界一の花時計と馬頭観世音菩薩堂
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山川の左岸の松原公園内北側にあり、平成3年に完成した直径31㍍の世界一の花時計
その大きさはギネスにも認定された様です
文字盤の周囲には四季を彩る花が植えられ、時刻が見やすい様に展望台も設けられています

馬頭観世音菩薩堂
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花時計の西側の松林の傍らの小さな堂
内部には複数の石造が祀られています
年代は不明で表面は風化が進み輪郭が分かりませんが、中央が馬頭観音の様に見えます

足湯黄金の湯・世界一の花時計・馬頭観音
住所 /  ​静岡県伊豆市土肥2657-6

静岡県伊豆市土肥、初めて宿泊しましたが古い寺社も多々あり、温泉や海の幸に恵まれたいい所です

静岡県富士宮市宮町に鎮座する駿河國一之宮『富士山本宮浅間大社』を訪れました

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一之鳥居と静岡県富士山世界遺産センター
2017年に開館したもので、世界遺産を「保護し、保存し、整備し及び将来の世代へ伝えることを確保する」事の要件を満たすために建築された拠点施設で学術調査機能併せ持っています
逆さ富士をイメージした手前の建物は5階構造、内部はらせん状のスロープになっていて5回まで登っていくもので、その間は富士の生い立ち、自然、富士山信仰等の歴史を見ていくものです
天気さえよければ、最上階から雄大で優美な姿の富士を望むことができます
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センターの前は富士の湧水を張った巨大な水盤があり、建物を写り込ませて逆さ富士を表現した設計
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センターの脇には富士からの恵み、清流「神田川」が流れています
この神田川沿いを上流へ5分程歩いて、お宮横丁を過ぎると『富士山本宮浅間大社』です
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眼前に朱に彩られた巨大な常夜灯と二ノ鳥居
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仰ぎ見る扁額、その先に霊峰富士・・・・・が望める予定だったが上手くは行かないね
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朱の鳥居から石畳の参道が真っ直ぐに伸びていきます、長い
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石造の三ノ鳥居、ここまで来ると輪橋を渡ったその先の楼門の外観も良く見えてきます
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鳥居前の狛犬(阿形)
少し横長の顔つきは貫禄と風格を感じさせるものです
たとえ背後から矢が放たれたようと、その瞬間を見計らい身を翻す余裕を漂わせています
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吽形
にやついた表情にも見える
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輪橋と鏡池
橋は1915年(大正4)に現在の石造りに改められたそうです

富士山本宮浅間大社は源頼朝、北条義時、武田信玄・勝頼、徳川家康など名だたる武将達から庇護されてきました
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楼門につながる東回廊は右方向の社務所までつながっていきます
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浅間大社社務所
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境内に掲げられた配置図
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楼門とその左に手水舎、石段の途中の鉾立石
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鉾立石
楼門前の石段上にある自然石
明治始めまで行われた山宮御神幸の際に、神鉾を立てるために使われていたそうです
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正面から見た楼門
左の西回廊は祈祷殿へと続きます

楼門
檜皮葺の入母屋造り、二層構造で左右にも扉が付けられています
外・内共に朱で彩られた建物は、とかく派手な印象を受けますが、蟇股や垂木等に彫刻や極彩色が施されていない事もあり、檜皮の色合いがマッチして全体の印象はそれ程派手なものではありません、
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楼門扁額
1819年(文政2)に制作されたもので、盈仁入道親王の御筆と云われます
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楼門の左右の随身
1614年(慶長19)の銘があるそうです
細部は分かりませんが、4世紀を経たものとは思えない綺麗な状態
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楼門から拝殿
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社殿全景
1604年家康により造営されたと云われ、当時は本殿、拝殿、舞殿、楼門等の伽藍を持った壮観なものだったようですが、寛永安政等の大地震で被災し、現存するのは本殿、幣殿、拝殿、楼門だけ
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富士本宮浅間大社の起源は社記によると以下
「第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。」とあります
富士山を鎮める浅間大神を祀ったのは富士本宮浅間大社が最初とされ、各地の浅間神社の総本宮となっています
主祭神 / 木花之佐久夜毘売命(浅間大神)
相殿神 / 瓊々杵尊、大山祇神
御神体 / 富士山 
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参拝
賽銭箱の棕櫚(しゅろ)の紋
浅間大社の大宮司は代々、富士氏が大宮司を継承していたと云われます
明治に入り神仏分離が進み、大宮司は国が派遣することになり富士氏の継承は終わります
この紋は富士家の家紋で賽銭箱に名残りとして記されています
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拝殿から幣殿、本殿の全景
檜皮葺で朱塗り、極彩色の彩は一部の蟇股や虹梁の彫りに留まります
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拝殿、幣殿、本殿の側面全景
浅間造りの本殿は二層構造、流造の上層が本殿にあたります
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流造の本殿
鰹木は5本、千木の切り口は縦、なので外研ぎ
本殿は木鼻、蟇股等全体に彩色や彫が施され艶やかなもの
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本殿の左右に三之宮と七之宮が祀られています
写真は本殿左の三之宮
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本殿右の七之宮(右奥)と拝殿右の湧玉池に導く案内板
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南極の石(右)
第七次南極観測船「ふじ」の乗員が奉納した石で、南極の氷河から地表に流出したもので永年の地吹雪により表面の角が取れこのようになったもの
火山弾(左)
宝永の大噴火で飛んできたとされ、銀杏状の赤黒い石は100㎏
富士山は1707年の宝永の大噴火以降吹いてはいませんが、若い火山である事に間違いありません
そもそも小学校の頃に「死火山、休火山、活火山」と擦り込まれたけれど、もはやそれは死語
こんなものが飛ばない時間を生きたいと願うばかり
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境内の東門から一歩外に出るとそこは湧玉池
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東門の左に奥に伸びる石畳があります、その先に天神社が祀られています
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今は静かな富士山、そこから地下を流れてきた地下水はここで湧きだしてきます
どこまでも澄んだ湧水は年間を通じ水温は13℃程で安定し、毎秒/2tの湧水量があるそうです
富士は冷水を好む魚には良い環境を与えています
バイカモの揺れる流れの中をニジマスを見かけるのもそうした富士の恵み
神田川を遡るとここに辿り着きます
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水取場、絶える事のない湧水で手を清め、湧玉池を拝みます
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水屋神社
古来より浅間大神の御神徳そのものとされ、霊水として信仰されてきました
湧玉池の畔に湧水を司る神として祀られたのが水屋神社
こちらを参拝する事で水取場の水を持ち帰れるようです
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湧玉池から更に右方向に足を延ばすと稲荷神社を経て厳島神社、参集所に続きますが
今回はここまでとして、楼門をから参道を戻る事にします
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多くの参拝客で賑わった参道の人並みも途切れた様です
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駿河国一之宮『富士山本宮浅間大社』御朱印
住所 / 静岡県富士宮市宮町1-1
アクセス / ​新東名「新富士」ICより西富士バイパス経由で神田川観光駐車場まで約15分

番外で次の神社のあるお宮横丁に戻ります
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富士山本宮選麺大社・・・・・?
富士宮やきそば学会直営アンテナショップの前に祀られています、焼きそばの神と言う事か?
かみさんのリクエスト富士宮やきそばを食べる事に
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富士宮のソウルフード「焼きそば」
もちっとした麵と甘さを控えたソース、鰯の削り粉の効いた素朴な焼きそば
青魚を苦手とするかみさんですが、抵抗なく食べれたのにはやや驚き
焼きそばの神のおかげでしょうかね

富士宮やきそば学会直営アンテナショップ
住所 / 富士宮市宮町4-23

静岡県三島市大宮町
伊豆國一之宮の『三嶋大社』を訪れました
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大鳥居の正面の通りは下街道
三嶋大社の大鳥居から始まる下田街道はここから南の韮山、大仁、湯ヶ島を経て、数々の舞台ともなった天城峠を越え、更に小鍋峠を経て下田に至る北伊豆と南伊豆を結ぶ街道
ここから南伊豆への道筋が続きます
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三嶋大社鳥居からの全景、右手に「三嶋大社」社号標
鳥居前を横切る県道22号線は旧東海道、ここで下田街道と交わっています
この道を右に進むと「箱根の山は天下の険」で知られる箱根関所へと続きます
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鳥居脇の常夜灯には「各切三」の御神紋
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境内に入り右に旧社号標「三嶋神社」
1871年(明治4)の近代の社格制度で官幣大社に列せられています
現在の三嶋大社に変わったのは大戦後と言う事です
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祟り石
約2900年前の富士山の噴火活動により運ばれたと石とされ、東海道と下田街道の合流する目印にもなつていた石
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鳥居正面に神池を背にして立つ牧水句碑
大正末期の歌人で東京からこの地に移り住み、三嶋をこよなく愛しその印象を言葉にして残したようです
「のずえなる 三島のまちのあげ花火 月夜のそらに 散りて消ゆなり」と刻まれています
夏の三嶋に上がっては消える花火を見て詠まれたものと云われています
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神池
鳥居から参道に入ると左右に広がる池で、古くは頼朝が放生会(ほうじょうえ)を行ったと伝わります
会と付くと宴会?、酒が飲めるの?なんて想像するのは自分だけでしょうが
殺生を禁じる仏教の思想に基づき、魚や鳥などを野に放ち、善行を施す神聖な儀式
なので、この神池には多くの鯉が泳いでいます
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参道左、神池に浮かぶ赤い社は厳島神社
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北条政子が勧請したと云われ安産、裁縫上達の信仰がされ、辨天様とも称され芸事上達の信仰もある
祀神は市杵嶋姫命
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総門の手前の狛犬
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神池の先の総門
大きな注連縄は重さ400㌔、太さ2㍍、長さは6.4㍍の大きなものです
この総門は930年(昭和5)の北伊豆地震で被災し、翌年に再建されたもの
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総門をくぐった左の像
矢田部盛治の像で1854年(嘉永7)の東海大地震で倒壊した社殿を、10年の歳月と巨費(16,677両とも)を投じて復興した方で、この像は1954年(昭和29)建立されたもの
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境内右の建物は「芸能殿」
1930年(昭和8)の北伊豆地震で倒壊した旧総門です
芸能殿として現在の場所に移築され、現在は例祭や様々な奉納芸能を行う場所として使われています
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神門右手の「神馬舎」
1868年(慶応4)に建てられ、三嶋大社の神馬は「毎朝神様を乗せて箱根山に登る」伝説が伝わる様で、子供の成長と健脚を祈る風習があるそうです
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神門左に手水舎
ここで清めて神門をくぐります
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神門に続く透塀
その奥に社殿が見えます
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神門
1867年(慶応3)に建てられたもので三島市指定文化財になっています
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門の至る所に手の込んだ彫刻が施されていて、御殿や舞殿と共に伊豆の名工と呼ばれた小沢半兵衛・希道父子一派により手がけられたもの
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神門の正面の「舞殿」
1867年(慶応3)に神門と同時期に建てられたもので三島市指定文化財
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拝殿から本殿の全景
1866年(慶応2)に建てられ、国指定重要文化財
 本殿、幣殿、拝殿の三つの建物が連なる権現造りの複合社殿で総欅造り
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拝殿正面全景
千鳥破風があしらわれ、向拝には軒唐破風が付く
金色の飾り金具が施され、シックな装いの中に派手さ感じる
ここにも精密な彫が施されています
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拝殿正面
賽銭箱には五七の桐紋
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やや斜めから見た拝殿、唐破風のあしらわれた向拝の屋根の連なりが美しい

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拝殿妻側
さりげない派手さが漂います
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本殿
流造の本殿
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舞殿左の見目神社
現在の社殿は1868年(慶応4)に再建再建されたと云われ、波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命の6柱を祀り
総称して「見目神社」と云われるそうです
手前は西五社
船寄社、飯神社、酒神社、第二社(三嶋神御子神)、小楠社の五社を祀りますが祀神は不明
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拝殿左の若宮神社
祀神は物忌奈乃命、誉田別命、応神天皇、神功皇后、妃大神を祀る
元々は三嶋大社の西の二ノ宮町に鎮座していたと云われ、後に三嶋大社の境内に遷座したと伝わり、現在の社殿は1868年(慶応4)の再建に再建されたと伝わります
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舞殿の右が東五社
大楠社、天神社、聖神社、第三社(三嶋神御子神)、幸神社、この五社の祀神について詳細は不明
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境内の東にある伊豆魂神社に続く参道
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芭蕉句碑
「どむみりと 棟や 雨の 花曇り」
1694年(元禄7)、三嶋神社を訪れた芭蕉は新池の辺りに咲く花の群れを見て、江戸に残してきた病床の妻「すて」の身を案じて詠んだ句といわれます
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参道は直ぐに左に折れ、白い社殿が現れます
伊豆の出身で、西南の役以後に出征し戦没された方々が祀られているそうです
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白い流れ造りの社殿
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鎮魂歌碑
「身はたとえ 荒野の果てに 朽ちぬとも み霊よ帰れ 伊豆魂の宮」
「身はたとえ 千尋の海に沈むとも 御霊よかえれ 伊豆魂の宮」・・・・・
このよう思いの歌を二度と子や孫に詠ませるようなことだけはあってはならない
とても重たい・・・・・けれど、語り継いでいかなければならない
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三嶋大社の東隣は駐車場になっていて、そこからは社殿が一望できます
本殿を含めた社殿全景を捉えるスポットはあると思います
まだこれから下田街道を南下しなければなりません、携帯の呼び出しに急かされこれ以上先にはいけませんでした
春日大社から譲り受けた鹿がいる神鹿園、祓所神社等見切っていませんが三嶋大社を後にします
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三嶋大社御朱印
なぜだろう、伊豆の国一之宮と書いて頂けなかった・・・・・少し寂しい、とっても残念なものがある
2019/06/21

『三嶋大社』
創建 / 不明
祭神 / 大山祇命(恵比寿様)、 積羽八重事代主神
住所 / 静岡県三島市大宮町2丁目1番5号
アクセス / 東名高速道路「沼津IC」から車で約20分程、​名古屋ICから約3時間

静岡県静岡市駿河区根古屋に鎮座する「久能山東照宮」を訪れる
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御利益通り商店街、東照宮と共に時を栄えてきた通りです
その先に久能山東照宮の一ノ鳥居が見えます
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一ノ鳥居の先は表参道石段が続き、正面の久能山の頂まで上っていきます
ロープウェイで今や楽ちんに参拝はできますが、「イチイチゴクロウサン」です
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鳥居右側の久能山東照宮周辺案内板
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 長い表参道の石段が始まります
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上り始めたすぐ左にこれから目指す久能山東照宮の伽藍の案内板
久能山の歴史は7世紀頃に遡り、秦氏の久能忠仁が初めて開山し、観音菩薩像を安置した補陀落山久能寺を建てた事から始まります
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徳音院
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 家康はじめ三代にわたり将軍に仕えた南光坊天界により開かれた寺
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 本尊は薬師如来でその他に不動明王、財福聖天を祀ります
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家康を神として祀るため、天海の主唱する山王一実神道で東照大権現の神号を得て日光に改葬されます
江戸時代は社殿、寺院を持つ寺盛を誇りますが明治に入り寺勢は衰え、徳音院のみ現在に残りました
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徳音院の堂の左に大聖歓喜天の小堂があります
堂の前には木彫りの狸が参拝に訪れる者を見つめています
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石段の先に稲荷鳥居が見えて来ます
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駿河稲荷社
祭神 / 稲荷大神
元久能山代官の杉江家が伏見稲荷から勧請し屋敷内に祀っていたものを1982年(昭和57)にこの地に祀ったもの
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駿河稲荷社を過ぎると傾斜は強くなり、17曲がり。1159段の石段が延々と続きます
「イチイチゴクロウサン」
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 石段は高さが低いので意外に上りやすいものです
曲がりが多いだけ急激に高度を稼いでいく事になります
目指すは標高216mです
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石段もさることながら、この石垣、この斜面によくぞ積み上げたものです
積まれた石に隙間もなく先人の知恵と労力には驚くばかり
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長い石段の先にやがて門が見えて来ます
趣はまるで城、要塞の佇まいです
1568年(永禄11)、この立地に着目した信玄は、久能寺を現在の静岡市清水区に移し(現在は鉄舟寺)
久能城として整備していきます
やがて竹田家滅亡により久能城は家康の手に渡ります
難攻不落の要塞感が漂うのは当然のことかもしれません
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 この一ノ門と呼ばれる山門はオリジナルの姿ではないようです
自然災害によりオリジナルは倒壊、その後再建された際に現在の平屋に変わった様です
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一ノ門から眼下の眺め
くねくね折り返し上ってきた参道と眼下の街並み、その先に駿河湾が広がる絶景を望めます
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 ロープウェイでは味わえないものです
条件がいいと東に伊豆半島、遥か西には御前崎まで見えるそうです
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一ノ門の先に建つのは門衛所
24時間体制で入門者のチェックを行う為のものです
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門衛所から一ノ門の眺め
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門衛所から右の石段を進みます
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石段を上りきると右側が開け見えてくるのが旧宝物館、その左に勘介井戸があります
当日は重機が入り施設工事のため近寄れませんでした
この標高で井戸があれば完璧ですね
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社務所前から楼門の眺め
社務所前を左に行くと日本平ロープウエイ久能山駅方面
参拝客の少なかった参道はここから一気に参拝客が増えます
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各所に装飾が施された朱塗りの楼門、豪華絢爛
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 軒下の「東照大権現」の扁額は、後水尾天皇により宸筆され、勅額御門とも呼ばれます
極彩色に彩られ、蟇股を初め細部に施された彫刻に足は止まります、派手な扁額が派手に見えない
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楼門正面の左右の格子戸内に随身
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 楼門をくぐり、境内から見た楼門裏側全景の眺め
金剛柵内の左の角がある方は狛犬、右の角が無い方は狛獅子、いずれも艶やかな彩色です
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狛犬
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 狛獅子
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 楼門から社殿の眺め

家康は自身の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の​大樹寺​に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」と言い残したそうです
2代将軍秀忠の命で久能山東照宮は建立され、家康の遺言は果たされていきます
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元和3年(1618年)と刻まれた手水鉢
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 神厩
家康の愛馬を飼育していましたが、現在は左甚五郎作と伝えられる木像の神馬が納められています
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赤い鳥居の末社稲荷神社、末社厳島神社との合殿
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 唐門と透塀も間近になって来ました
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左の石が積まれた基礎は、三代将軍家光の命により1636年(寛永13)に建立された高さ約30メートルの五重塔がありました、神仏分離の際に取り払われ、現在は塔跡のみが残ります
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鼓楼
明治の神仏分離までは鐘楼だったそうです
鐘は取り払われ、江戸城にあった太鼓を奉納し鼓楼として生まれ変わりました
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唐門
屋根は銅瓦本葺黒漆塗で四方唐破風造の門
色彩のみならず透塀に施された彫や飾り金具の装飾に視線は引き付けられます
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神楽殿
その昔は絵馬殿として絵馬が飾られていたといわれます
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竈神社
1646年(正保3)創建
火産霊命/奥津彦命/奥津姫命の三柱を祀ります
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神庫
博物館が出来るまでは神社に伝わる宝物が保管されていました
奈良正倉院と同じ校倉造りで建物全体に朱が塗られ、趣は正倉院とは別物の印象を受けます
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日枝神社
大山咋命を祭神とし、 創建当時は本地堂として薬師如来像を安置していたが、神仏分離の際に仏像を移し、山王社の御神体を納めて日枝神社と改め今に至る
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社殿内
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金色の三つ葉葵の紋が光り輝く
日枝神社から望む社殿
朱の透塀、三つ葉葵の紋が入った金箔瓦、透かし彫り・・・・・豪華
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 拝殿前から日枝神社全景の眺め
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拝殿から本殿の全景
本殿と拝殿は「石の間」でつながれた権現造の社殿
1617年(元和3)の建立、中井大和守正清の代表的な遺構とされ、江戸時代に権現造りの社殿を広める契機となった最古の東照宮建築
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部材全てに金色の装飾金具や彫が施され、極彩色の装い
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黒漆で塗られた拝殿内も同様ですね・・・・・豪華すぎて落ち着かない
家康公、秀吉公、信長公に参拝させて頂きます
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拝殿から唐門
ゴンドラが到着する度に参拝客の波が訪れます
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拝殿左の門から本殿横へ
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軸部や軒廻りの黒漆塗と縁廻りの赤漆塗、金色の飾り金具が見る者に荘厳な印象を与えます
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廟門
家康を埋葬した云われる廟に続く廟参道の入口です
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廟参道から見た社殿
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 廟参道の鳥居くぐり右に進んでいきます
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最後の石段の正面に神廟が現れます
1616年(元和2)の創建当初は木造桧皮葺の造りでしたが、1640年(寛永17)に徳川家光により現在の石造宝塔に造替されました
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「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」
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 家康埋葬地は諸説あるようですが、ここに立つと家康はここに眠っていると感じます
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廟の傍らにひっそりと家康の愛馬が埋葬された、家康公愛馬ノ霊所が残ります
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天然の要害久能山、その頂に鎮座する久能山東照宮
「イチイチゴクロウサン」するだけの価値はあります
2019/06/20

久能山東照宮
創建 / 1617年(元和3)
祭神 / 徳川家康   相殿 / 豊富秀吉、織田信長
住所 / 静岡県静岡市駿河区根古屋390
アクセス / ​東名高速「静岡IC」から国道150号線経由車で40分程
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御朱印

大きな寺社は写真も多くなり載せきれません
YouTubeにURL限定で載せてありますので良ければ​こちら​もご覧ください

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